二十三話 波乱の蒼海
「きゃううう……!?」
ずしゃあっっ!
水の詰まった袋をおもいっきり叩いたような、鈍い音が響き渡る。
アスギルがばっと素早く振り返るが、一瞬でその顔から血の気が引いた。
「なっ、んでちかああああ!?」
海面にそびえるもの。それは巨大な触手だった。
逆光でシルエットしか見えないが、太さは船の全長をしのぐほどもある。
それを切り裂いたのは、魔剣エクセラの一撃だ。
ハルトの愛剣であり、幾多もの刃が繋がった蛇腹剣。
その刃が勢いよく放たれて触手にまとわりつき、のこぎりの容量で敵を半ばまで断ち切った。
だがしかし、致命傷には至らなかったらしい。
次の瞬間、この世のものとは思えないほどの絶叫が轟く。
|GYOAAAAAAAAAAA!!
「っ、アスギル! つかまって!」
「魔王ちゃまあああああ!」
海が震え、大きな津波が船を襲う。
イヴがいち早く動き、アスギルを抱えて船の上から飛び降りた。その刹那、船は海に飲まれて海底深くに沈んでしまう。
あとは静かなものだった。
触手もどこかに消えて、平穏な海が残る。
ハルトはそれを、上空に浮かぶ絨毯から見下ろしていた。毛足が長い上等な一枚だ。
「ふう、大丈夫か?」
「…………」
横抱きにした人魚の少女が、青白い顔でこくこくとうなずく。
そこにイヴが降りてくる。
背中にはカラスのような漆黒の翼が生えており、力強くはためけば羽が一枚ひらりと落ちる。
「へー。おまえ空も飛べるのか。便利だなあ」
「いや、それはあたしのセリフなんだけど……ひょっとしてこの絨毯も神遺物?」
「そうそう。《あまねく大翼》っていうんだけど」
「知ってる……大魔神様が使っていたっていう、世界中どこでも一瞬で行ける神遺物……」
「そうそう。一応空も飛べちゃう優れものなんだけど……どうせ世界中に行けるなら、ピンクの扉型だったらよかったのになあ」
「どこでもドアじゃないっつーの!」
「まーた前世の言葉でお話しているでち……」
イヴにしがみついていたアスギルが、絨毯の上によろよろと腰を落とす。
完全に腰が抜けてしまったらしい。
静まり返った海を見回して、イヴが目をすがめる。
「それにしても……今の触手はなんだったのかしら」
「さあ。この辺にあんな魔物いたかなあ……」
ハルトも肩をすくめるしかない。
以前ひとりで釣りに来た際には、魔物の一匹にも出くわさなかった。
「ひょっとして、きみは何か知ってるのか?」
「…………」
人魚の少女に問いかけてみるものの、硬い表情で顔を伏せるだけ。
おかげでハルトは首をかしげるしかない。
「うーん……さっきから全然話してくれないな……」
「公用語が喋れないんじゃない?」
「でちね。海の中に住む種族は、大気中での会話が難しいって聞いたことがありまちゅ」
そんな話を三人で繰り広げていると――。
「あ……!」
突然、人魚の少女が海を指さす。
その方向を見てみれば、海面にはいくつもの影が浮かんでいた。
「姫ーーーー! ご無事でございますかーーーー!」
「お?」
それから小一時間後。
「うわー。すげえとことだな」
「ふ、ふん。うちの城には劣るけど、まあまあね」
ハルトたちは、とある場所に招かれていた。
一言で表すならば、豪華絢爛な王宮だ。
床も壁も顔が写りそうなほどにぴかぴかに磨き上げられていて、見上げんばかりに高い天井には、宝石でできたシャンデリアがいくつも揺れている。
しかも外壁のすべてが大理石……ではなく、珊瑚でできているというから驚きだった。
その壁に沿ってずらっと並ぶのは屈強な戦士たちである。
機動性を重視してか鎧は最低限だが、誰もが百戦錬磨の覇気をまとう。そして、みながみな人魚族だった。
厳格な空気が漂う中、アスギルは王宮の窓をのぞいてはしゃぐ。
分厚いガラスの向こうに広がるのは、どこまでも続く海底の景色だ。
「魔王ちゃま、見てくだちゃい! お魚がとってもきれいなのでち! 海の底に、こんな大きなお城があるなんて驚きでち!」
「わはは。よろこんでいただけて光栄だ、魔族のお嬢さん」
王宮の中央。玉座にかけた男性が、ほがらかに笑う。
恰幅のよい男だ。髪もひげも白く染まっていて、三つ叉槍をたずさえるその様は、体格も相まって海を守護する神を思わせる。
もちろん彼も人魚族だ。その尾びれは鯨ほどの太さがあった。
男はあらためて、目の前のハルトとイヴに向き直る。
「よくぞ我が人魚族の城においでくださった。我が名はネレウス。ここの長をしている者だ。そしてこれは我が愛娘、サリアと申す」
「…………」
ネレウスの足下には、あの人魚の少女がちょこんと腰掛けていた。
少女――サリアはぺこりと小さく頭を下げる。
「本来ならば、他種族は何人たりとも招き入れぬ掟なのだが……今回ばかりは特別だ」
ネレウスはにっこりと笑って――ハルトに深々と頭を下げる。
「我が娘の命を救っていただき感謝する、ハルトどの」
「いや、マジでたいしたことはしてないっていうか……」
ハルトは目を泳がせて、苦笑いをするしかない。
すると横からイヴがにやにやと耳打ちをしてくる。
「愛娘を釣り上げちゃった、なんて知ったら……ネレウスさん、いったいどう思うのかしらね」
「絶対に言うなよ!? 話がややこしくなるからな!?」
「えー、どうしようかしら」
悪い顔で笑うイヴだった。さすがは魔王といったところだろうか。
ふたりこそこそ話し合っていると、ネレウスが愉快げに笑う。
「わはは。しかし娘の命の恩人が、まさか熾天王様のお連れとは。世の中は思った以上に狭いようだ」
「あら? あたしのことを知ってるわけ?」
「当然であろう。数十年前、貴殿の戴冠式でその末席を汚させてもらったゆえ」
「っ……本当ですか!?」
そこでイヴの顔色が蒼白となる。
「えっ、待って。ここってうちから南東の方角よね……そこにある人魚族の集落の長って……まさか、神雷のネレウス様!?」
「いかにも。そう呼ばれることもあるな」
「ひいい! そ、そうとは知らず失礼な口を利きました……! すみません!」
「いやはや、覚えておらずとも無理はない。貴殿のお目にかかったたのは、あれが最初で最後だからな」
ぺこぺこ頭を下げるイヴに、ネレウスは鷹揚に笑ってみせる。
「我が領海は熾天領やハイニック皇国に隣接しておるが……知っての通り、付き合いは最低に止めている。この百年では、貴殿の戴冠式以外にやり取りはなかったのではないかな」
「へー、さすがは他種族嫌いで有名な人魚族っすね」
「こ、こら! あなたも口の利き方に気をつけなさい!」
イヴが泣きそうな顔でハルトの胸ぐらを掴んで叫ぶ。
「神雷ネレウスといえば、世界中の海に顔が利って言われている大物よ! あたしは先代様から『決して怒らせるな』って、散々言われてきたんだから!」
「いや、そんな大物の顔も覚えてなかったのかよ、おまえ。そっちの方がどうかしてるんじゃね?」
「ぐううううう……! せ、正論で殴ってくるんじゃないわよ!!」
「ははは! 人間のくせにたいした器だ」
ネレウスは膝を叩いて笑う。気分を害した様子もなく、むしろ上機嫌がとどまるところを知らないようだ。
「貴殿は面白い男だな。もし貴殿がよければ、我が娘の伴侶に迎えても悪くは……む?」
そこで、サリアがちょんちょんと父の膝をつつく。
そのままぼそぼそと耳打ちすれば、ネレウスは困ったように眉をひそめてみせた。
「すまぬ。娘が『エラ呼吸のできない殿方はちょっと……』と難色を示しておる。この話はなかったことにしてほしい」
「あっ、はい。そっすか」
おもわず真顔で返してしまうハルトだった。
美少女から袖にされるのはショックなことだが、理由が理由なのでどう受けていいものか困ってしまう。
ネレウスは苦笑して、サリアの頭をわしわしと撫でる。
「このとおり、娘は内気な性格でな。わし以外の者には声さえ聞かせようとはしないのだ」
「ふーん。話せないんじゃなくて、ただシャイなだけなのか」
「っ…………」
ハルトが目を向けただけで、さっと玉座の陰に隠れてしまう。こっそりこちらを窺う瞳は揺れていて、まるで生まれたての子鹿のようだ。
「でも、どうしてあんな場所にいたんだ? あそこはハイニック皇国の領海だぞ。ひょっとして迷子になったとか?」
「…………」
サリアの顔がすこし曇る。
それに、ネレウスがため息交じりに答えた。
「……我が娘のこと。きっと我が身ひとつで、怪物を鎮めようとしたのだろう」
「怪物ってまさか……あの触手か?」
「うむ……思い違いでなければ、貴殿らが遭遇したのもアレだろう」
アレ、という一単語。
たったそれだけで、居並ぶ兵士たちが一斉に顔をこわばらせた。
あちこちから聞こえてくるのは「またあいつか……」「とうとうハイニック皇国側にも出たというのか」「やはり早急に手を打つ必要が――」といった不穏な会話だ。
おかげで、呑気に外を眺めていたアスギルも不思議そうな顔をする。
「なんでちか、急にシリアスムードでちね。そんなに手を焼いているのでちか?」
「さよう。アレは近頃、我らが領海を荒らしている化け物でな。魚を大量に食い荒らし、サンゴ礁を破壊するなど……やりたい放題で」
そうしてネレウスは、陰に隠れたサリアを見やる。
その目にうかぶのは長としての厳格さなどではなく、ただひたすらに娘の身を案じる憂慮の色だ。
「しかも……それがどういうわけか、我が娘に執心しているようなのだ」
「あ、あの触手が、お嬢さんを……?」
続きは7/2更新予定。




