十八話 大海原にて
どこまでも続く青い空。
その下に広がる大海原。
太陽は初夏の顔を見せはじめ、さんさんと照りつけて世界の明度をぐっと上げる。
そんな青ばかりの世界に、一隻の小さな帆船が浮かんでいた。
そこにぱしゃっと水音が響く。
空へと高く舞い上がるのは、餌に食いついた一匹の魚だ。
それが船へと落ちてくる、その直前――。
「永星一刀!」
しゅっ、と軽い音とともに光が走り、魚をひと撫で。
魚はまっすぐ船に置かれた大皿へと落ちてきて、はらっと三枚におろされてしまう。
おまけにその身は均等な一口サイズに切り分けられ、つやつやと銀に輝く断面を見せる。
どの身にも傷みはなく、胸が躍るような弾力が見てとれる。
おまけに――魚は口をぱくぱくさせて、まだ生きていることが明らかだった。
その出来映えを見て、ハルトは高らかに笑う。
「わははははは! どうだ! 俺の必殺技その二! 敵の生命を奪わない、究極の剣技だ!」
「う、うわあ……えげつない技術なのでち」
「あたしこれ知ってるわ。活け造りってやつよね」
船に同乗しているギャラリーからは、ドン引きの感想が聞こえてくる。
とはいえふたりの反応はちょっと違う。
アスギルは凄惨な殺人事件でも見たかのように顔色が真っ青だが、イヴの方は『そこまでするか』というあきれが強い。
興味深そうに、魚の口をちょんちょんとつついてみせる。
「テレビでは見たことあったけど……これってかなり難しい技なんでしょ。あなた、前世は板前さんだったわけ?」
「いんや、こっちの世界で覚えた」
軽く剣を拭いて、鞘に収める。
魔剣エクセラも今回のできに満足しているのか、束からは微かなぬくもりが伝わってきた。
この剣技を会得したのはずいぶん前だが、実際に活用できたのは今日が初めてだからだろう。
ハルトは穏やかな海を前にして目を細める。
「いつか醤油を作ったら……自分の手で捌いた魚を刺身で食うんだって、ずっと思ってたからな。その一心で覚えたんだ」
「なんで普通に三枚おろしをマスターするところで終わらなかったのよ……」
「いや、せっかくなら活け作りってやつを食ってみたいなーって。で、そういう技がないか知り合いに聞いたら、あっさり教えてもらえてさ」
「ふうん。あなたに技を伝授するなんて、とんだ物好きがいたものね。どこの誰よ、その変人っていうのは」
「ああ、名前くらいは知ってるんじゃないかな。愚天王っていうんだけど」
「ぐっ…………!?」
ハルトがその名を出した途端、イヴの顔から血の気がざあっと引いた。
アスギルも真っ青な顔で恐る恐る口を開く。
「それってまちゃか、あの世界最恐の魔王と名高い……」
「アスギル。これは聞かなかったことにしましょう」
「了解でち。あたちも命が惜ちいでちからね」
「えー、けっこういい奴なんだけどなー」
愚天王も、世界中に散らばる魔王のひとりである。
絶大な実力とあまたの神遺物を所有しており、彼女に睨まれたが最後――どんな大国でも一晩で地図から消える。
治める愚天領は一度足を踏み入れたが最後、二度と生きては戻れない魔境としても有名だ。
おかげで世界中から恐れられており、子どもなど愚天王の名を聞いただけでぴたりと泣き止んでしまう。
同じ魔族のイヴたちにとってもその名は恐怖の象徴らしい。
ハルトにとっては、いろいろあった末に仲良くなった腐れ縁といった仲なのだが。
「ま、今はあいつのことなんかいいんだよ。それより早く魚を食うぞ! このために神遺物を引っ張り出してきたんだからな!」
この船はただの船ではない。
二級神遺物――《大いなる望郷》と呼ばれるものだ。
なりは小さいが自動で目的地まで運んでくれるし、航海中の水や食料も自動で補充される。
おかげでゆっくり釣りと食事に集中できる。
木箱を机代わりにして、活け作りの皿をそっと置く。
ついでに並べるのは小皿三枚と箸二膳、フォーク一本。
「さあ、活け作りには……もちろんこれだ!」
最後にでんっと取り出すのは、醤油の瓶。
先日、ついに積年の願いが叶って生産に成功した和食万能調味料である。
最近ではすっかり作り方に慣れて、《智者の窓》をいちいち参照しなくてもひとりで作れるようになっていた。
小皿に醤油を注いでいると、イヴがごくりと喉を鳴らす。
「う、うわ……ほんとにお造りとお醤油だわ……まさかまたこの組み合わせが見られるなんて……」
「ふっ、感激だろ?」
「……なあに、その変なドヤ顔は」
ハルトは鼻を鳴らす。
わざわざ海に出た目的は、釣った魚を醤油で食べること。
それともうひとつ――。
「今日ここに連れてきたのは他でもない。おまえに完全な負けを認めさせるためだ! イヴ!」
「は……? 負けって何の話よ」
「決まってんだろうが! この前の卵かけご飯のとき!」
醤油ができた記念に開催された、卵かけご飯パーティ。
あれでイヴに参ったと言わせ、仲間に引き込む作戦……のはずだった。
「おまえときたら、あのとき散々食べたくせに『美味かった』の一言もなかったどころか、まだ俺と手を組まないとかほざきやがる……! だから強硬手段に……とびきりのご馳走を食わせて、ぎゃふんと言わせてやろうと思ったまでだ!」
「……まったく、浅はかな考えね」
イヴはふんっと鼻を鳴らす。
「あたしを籠絡しようと思うなら、国のひとつやふたつ手土産にしてごらんなさいな。卵かけご飯ごときで堕とせると思う方がおかしいのよ」
「よく言うよ!? おまえあのとき何杯食べたか覚えてねーのか!」
「えっ、たったの二杯くらいでしょ。味はまあまあだったから、ちょっとお箸が進んだだけで――」
「嘘つけ! 合計八杯食ってるんだよ! いつの間にか茶碗じゃなくて丼で食ってたし! 一升の米と三ダース分の卵が消えたんだぞ!? それで『味はまあまあ』とか……どの口が言ってんだ!」
「じ、自分の食べた量と勘違いしてるんでしょ! 美容と健康に気を遣うあたしが、そんな暴飲暴食するはずないし!」
続きは6/27更新予定。




