十六話 転生勇者は和食を食べる
イヴがじろりとハルトをねめつける。
絞り出すのは低い声だ。その瞬間に、台に置いた椀にピシッと亀裂が走った。
力の大部分を封じられているというのに、先日対峙したときよりも威圧感が増している。
唸っていたアスギルがぴたりと凍り付くほどだ。
「お醤油ができたのは、ひとまずおめでとうって言ってあげる。でも、なんで最初に食べるメニューが卵かけご飯なわけ? あのときあたしが望んだから? 媚びを売るつもりなら……心底不愉快なんだけど」
「まあ、たしかにいろいろ候補は考えたんだけどさ」
焼き魚やステーキ、あとお刺身。
醤油だけで手軽に楽しめる日本食といえば、いろいろと思いつく。
だが、ハルトが選んだのは卵かけご飯だった。
むしろそれ以外に選択の余地はなかった。
肌を貫くようなプレッシャーに苛まれながらも、淡々と思ったことを素直に告白する。
「俺としては漠然と和食が食べたいってだけだったから、特に何が食べたいってのはなかったんだよ。だったらおまえの強い希望を叶えた方がいいかなーって。そもそも俺はたったの十七年、おまえは百年以上、この日を待ったんだし。そっちを優先するのは順当な流れじゃね?」
「ふん。やっぱり媚びを売ってるんじゃないの」
「違う違う。同士としての気遣いってやつ? それにさ……」
ハルトはにやりと笑ってみせる。
「餌付けって、もっとも簡単な懐柔手段だろ? これを食ったら、おまえも俺の和食道に協力したくなるはずだと思ってな」
「このあたしを飼い慣らそうってわけ。ずいぶんと舐められたものね」
イヴもまた口の端を持ち上げて、三日月の形で笑う。
「あたしは熾天王、気高い魔王のひとりよ。卵かけご飯なんかで籠絡されるはずわけないでしょ」
「うん。だったら試してみようぜ」
「……いいわ。その勝負、受けてやろうじゃない」
ふんっ、と鼻を鳴らしてイヴは卵に手を伸ばす。
落ち着き払った態度ではあるものの、その指先がかすかに震えていることをハルトは気付いていた。
だが、それを指摘するような愚行は犯さない。
イヴは皿に移さず、ご飯の上に直接卵を割り入れる。
なじみの作法が、ハルトとはちょっと異なるらしい。
「なによこの卵。黄身がつやつやしてるだけじゃなくて、卵白までぷっくりしてるんだけど」
「今朝、この近くの牧場で採れたばかりのものだからな。有名なブランド鳥の卵でさ、ひと箱分買ってきたからまだあるぞ」
「お米もつやつやしてるし……」
「もちろんこっちも日本米に近いものを選んだ。炊き方にもこだわって、水も山奥からわざわざ汲んできたんだぞ」
「ふーん……だからって美味しいとは限らないし?」
「まあ、俺もこうやって食べるのは初めてだからお試しだ。ところでおまえ、箸の持ち方めちゃくちゃ綺麗だな? 百年ぶりだろうに」
「そんなの当然でしょ、忘れないようにいつも……いいえ! 指先の訓練として、たまに練習していただけなんだから!」
「なるほどなー」
ツッコミたくなるのを、ぐっと堪える。
イヴは慣れた手つきで卵を割って、醤油を垂らしてかき混ぜる。
ちょっと匂いを嗅いで眉根の間にしわを作ったり、ごくりと生唾を飲み込んでみたり、卵かけご飯を食べるしては妙な緊張感だ。
そんな彼女にならって、ハルトも準備を進める。
ほかほかと湯気の立つ白米。
その中心を箸ですこしへこませて、そっと溶き卵を流し込む。
米と米の間にしみこむ卵液。
ご飯の湯気に卵の香りがふんわりと混じり、鼻腔をひどく刺激した。
そこにずぶっと箸を入れ、空気をふくませるように大胆に混ぜる。混ぜる。混ぜる!
ご飯の熱で卵のとろみが少しだけ増して、箸が重くなる瞬間もポイントが高い。
これにて準備は完了だ。
「よし、それじゃ……いただきます!」
「っ……い、いただきます!」
互いに目配せしあって、元気よく宣言。
ちなみに、こちらの世界の食文化はおもにヨーロッパのそれと近い。
マナーも似たようなもので、皿を持ち上げることも、音を立てることも厳禁だ。
だが、ここにそんなルールは適用されない。
ふたりはどちらともなく茶碗を持ち上げ――箸で思いっきり一口目をかきこんだ。
ずるるるる!
地下室いっぱいに、独特の水音が響く。
(こ、これは……!)
口に入れた瞬間、ハルトの目の前にありもしない景色が広がる。
それは、古き良き田舎の日本家屋だ。
畳敷きの和室に、長方形のちゃぶ台。
開け放した縁側からは、一面に黄金色の実をつけた水田が見渡せる。
前世のハルトは天涯孤独で、こんな田舎に滞在した覚えはない。しかしそれでも確固たるイメージが湧き上がった。
お米の一粒一粒に卵が絡み合い、舌の上でほろほろとばらけていく。
濃厚な黄身の味わいに醤油のしょっぱさが絶妙にマッチして、噛めば噛むほど米の甘みと混ざり合う。
箸が止まらず、瞬く間もなく茶碗の中身が減っていった。
卵も米も、もちろん美味しい。
だがそれ以上に、醤油の芳しい香りと風味が、ハルトの魂を震わせた。
「むええ……むむむむう……」
アスギルが『ええ……自分で自分を拷問してるでち……』と何やらドン引きの目を送ってくるが、気にしてはいられない。
続きは06/25更新予定。一章がこれで終ります。




