十五話 ついに醤油ができました
とある昼下がり。
ハルトの住まう邸宅は、言い知れぬ緊迫感に満ちていた。
小鳥たちも囀ることをやめ、遠巻きに屋敷を見つめている。
その気配の発生源は地下の研究所だ。
和食を作る、ただそれだけの目的で増築された地下室は、樽も鍋もすべてがフル稼働中。
あたりに漂うのは、火傷しそうなほどの蒸気と、なにかを煮る不思議な匂い。
「くっくっく……ついに俺の手は、和食という高みに届いた!」
そんな中、ハルトは肩を震わせくつくつと笑う。
顔を覆う指の隙間からは、ぎらつく双眸とつり上がった口の端がのぞく。
どう見ても悪役じみた笑い方ではあるものの、それを指摘する者はいない。
彼は胸元から小瓶を取り出し、でんっと作業台に置いてみせる。
小瓶には光の加減で黒にも、赤茶色にも見える液体が入っていて――ハルトは高々と宣言する。
「できたぞ、イヴ! これが……この世界の醤油一号だ!」
「うわあ……ついにやっちゃったわけね」
対面の椅子にかけたイヴは、それに半笑いを浮かべるだけだった。
小瓶をじーっと見つめてから、ため息交じりに目線を地下室の隅へと向ける。
「まあ、うちのアスギルがいれば可能かしら」
「ううううう……い、意味が分からないのち……」
そこにはアスギルが小さくなって座り込んでいた。
樽のひとつに縛り付けられており、顔に浮かぶのは色濃い憔悴の色。
それもそのはず、例の襲撃が起きてから今日で十日目。
ハルトによって身柄を拘束された彼女はその間ずっと、とある作業を強いられていた。
「毒性を持たなくて、日光の当たらない場所で胞子を吐き出して、なおかつ百種類以上の酵素を吐き出すカビ菌を作れだなんて……意味がわからないのでち! こんなのヘンタイの所業なのでちぃ……!」
「だから何度も言ったろー、特別な調味料を作るのに必要なんだって」
「カビで作る調味料ってなんなのでち!? さすがのあたちもドン引きなのでちよぉ!」
「ええ……でもほら、発酵食品ってこの世界にもあるだろ。ワインとかチーズとかさ」
「ああいうのは主に乳酸菌発酵。カビ菌の仲間を使って発酵させる食品って、この世界だと青カビチーズとか、一部のお酒くらいのものだって。ちなみに《智者の窓》参照ね」
「あー……それだとたしかに異様に写るかな?」
もはや慣れた手つきで《智者の窓》を操作するイヴだった。
ハルトがアスギルに課した仕事というのは簡単なものである。
麹菌――本来ならば日本にしかいないはずの菌を作り出すことだ。
手順一、アスギルに麹菌の試作品を作ってもらう。
手順二、その試作品で醤油の作り方を試してみる。
手順三、醤油ができなければ最初に戻る。
そんな繰り返しを続けた結果、ようやく完成にこぎ着けたのだ。
「いやあ、さすがの俺もカビの栽培なんてやったことなかったからさ。専門家の助力は頼もしかったよ」
「あれは助力っていうより、非人道的な強制労働っていうのよ」
「ううう……魔王ちゃまが助け船を出してくれなかったら、あたちは不眠不休の食事抜きで、ヘンタイカビ作りに追われていたのでち……!」
「うるせえ。そもそもおまえが変な野心を持たなきゃ、こうはならなかったんだよ」
「うわーーーん! お城の牢屋に連行された方が、まだ人道的な扱いを受けたはずでちー!」
現在のアスギルの立場は、ハイニック皇国に身柄を拘束された捕虜である。
つまりはイヴとまったく同じ。
だが、明確に敵対行動を取った分、こちらの方がより重い監視が付けられる……はずだった。
『今度、俺の武勇伝を嫌というほど聴かせてやるからさ。そいつの身柄、俺に預けてくれない?』
『かまいませんわ!』
『陛下……』
そのほか被害を受けた町の修繕などと引き換えに、アスギルの身柄を譲ってもらったのだ。
かくしてハルトは合法的に捕虜の拷問……否、尋問の権利を与えられた。
つまり、なにをしようとこの国の法が守ってくれる。安心して強制労働に就かせることにできたのだ。
イヴからは『サイコパスだわ』と真顔で言われたし、尋問兼、麹菌作りを監視しに来たヴァレリーからは『掘った穴を埋めさせる拷問の亜種か……なるほど、こういうやり方もあるのだな』と、なぜかいたく感心された。
「うう……でも、あたちは今回のことで学んだのでち。魔王ちゃまは裏切ったあたちにも、あんなに優しくしてくれまちた……」
「まあ、さすがにちょっと可哀想だったしね……」
渋い顔で言うイヴである。
酷使されるアスギルを見かねてか、食べ物や毛布をこっそり差し入れていた。
それが功を奏したのか、アスギルの瞳にはもはや反骨精神などみじんも宿っていなかった。
むしろキラキラとまばゆい眼差しをイヴへと向ける。
「あたちが間違っていたのでち! もう二度と謀反なんか起こちまちぇん! これからはずっとずーっと、魔王ちゃま一筋でお仕えちまちゅ!」
「ほら、心を入れ替えただろ。俺の計算通りだな」
「あなたは醤油のことしか考えてなかったでしょ」
冷たい目を送るイヴだった。
たしかに彼女の言うとおり、更生させるつもりなどまったくなかった。
結果オーライというやつである。
「ま、そんなことはどうでもいいんだ。今日の本題は……これだ」
「っ……そ、それは!」
ハルトが調合台の上に新たに載せたものを見て、イヴが言葉を失った。
それは何の変哲もない二つのお椀だ。中に入っているのは――。
「そう。生卵と、炊きたての白米だ」
「……いったい何が始まったのでち?」
アスギルだけが、意図を読めなくてぽかんとする。
固まるイヴを前に、ハルトは手際よく準備を始めていく。
まずは生卵を手に取る。
手のひらになじむ滑らかな感触を楽しんでから、思い切って、なおかつ優しく、天板に叩きつける。
地下室に響くのは、かしゃっという小気味よい音。
そっと殻を割ってみせれば、椀の中に中身がころりと落ちてくる。
灯りを反射してきらきら輝く卵白の中心には、橙色の黄身が崩れることなく鎮座していた。
ぷっくり膨れたその姿は、命そのものの力強さにあふれている。
箸――もちろんこの世界には存在しないので、木を削って作ったお手製だ――を構えて
「そして、ここに醤油を落として……一気に混ぜる!」
「えっ!? それってあたちが作らされた腐り豆汁でちよね!? いったいなんの儀式なのでち!? グロいのでち! 怖いのでち!」
アスギルがとうとう悲鳴を上げる。
しかし突然ハッと目をみはってから、なぜかハルトをにらみつけてきて――。
「まさか……それを使って、魔王ちゃまを拷問する気でちね!? なんと卑劣な! やめるでち! やるならせめてあたちを……っっむ、ぐうーーーーー!!」
「はいはい。おまえは黙っててくれよなー」
ぱちんと指を鳴らせば、彼女を縛り付ける縄の端が伸びてきて、猿ぐつわを施した。
三級神遺物《茨の戒律》。平たく言えば魔法のロープだ。
むーやら、ぐーやらうるさいが、無視できる程度の雑音である。
「醤油はもちろん味見済み。そして、この卵は神遺物で完全殺菌処理済みだ。生食が可能だし、万が一当たったところで大丈夫。《時忘れの雫》で時間を巻き戻して、食べる前の状態に戻せばいい」
「いや……そこはふつうに解毒魔法でよくない?」
ツッコミを入れつつも、イヴの目はハルトの手元に釘付けだ。
本来たんぽぽ色になるはずの卵液は、数滴の醤油が混ざったことで、すこしくすんだ色になる。
鮮やかさが失われた反面、使い込まれた毛布のような親しみやすさが香り立つ。
そう感じられるのは、前世の記憶が刺激されるからだろうか。
「くっくっく……さあ、問題だ。これをこの熱々ご飯にかけたらどうなると思う?」
「どうなるって、そりゃ……卵かけご飯になる……けど」
「そのとおり! 百点満点の回答だ! なので……!」
作業台の下から新たに取り出すのは、もうワンセットの卵かけご飯セットだ。
それをイヴの目の前にずいっと差し出す。
「おまえにもご馳走してやる。ありがたく食すがいい!」
「…………どういうつもり?」
続きは6/24更新予定。




