九話 皇女様の事情
両国の関係がこじれてからは、国境での睨み合いと封書のやり取りが主だったという。
ゆえに、武力による衝突はこれが初めてだ。
イヴは苛立ちを隠そうともせず、ぎりぎりと唇を噛みしめる。
「いったい何を考えているのかしら、アスギルのやつ……! あたしはちゃーんと『なる早で魔剣士をぶっ倒して脱出するから、おとなしく待ってて』って手紙をよこしたのに!」
「力を封じられているというわりに反骨精神旺盛だな。ともかく……」
そこでヴァレリーは眼鏡を直す。太陽の光がレンズに反射して、その表情が覆い隠された。彼ははやり淡々と――。
「ハルト・ランバード。貴殿に頼みたいことというのは、やつの排除だ。剣聖と名高い貴殿なら、さぞかし易き仕事だと思うが……む?」
しかし、その台詞が半ばで途切れた。
ヴァレリーがぽかんと見つめるのはハルトである。
その場に腰を下ろし、木の枝でがりがりと文字を書いていた。神妙な面持ちでブツブツとつぶやくことには――。
「うーん、とりあえずカビを探すところからか……サンプルは多い方がいいだろうし、世界中を回ってそれらしいものを探して培養して、さらにそっから無害な株をより分けて醤油を作ってみる……マジで何年かかるんだ?」
「なにをやっているんだ!」
ヴァレリーが駆け寄って、ハルトの胸ぐらを掴んで無理矢理立ち上がらせる。至近距離でねめつける眼力は、蛇でもショック死しそうなほど鋭いものだった。
「私の話を聞いていなかったのか!? あれは貴殿の仕事だ! 真面目にやれ!」
「悪いんだけど、それよりもっと考えるべきことがあるんだよな」
「あたしが言うのもなんだけど、あなたここの人間でしょ。もーちょっと危機感持ちなさいよね」
「さすがに事態がヤバくなったら手を貸すぞ? でも、俺が出なきゃいけない理由がわかんねーっていうかさ」
ヴァレリーに締め上げられたまま、ハルトは肩をすくめてみせる。
敵は、おそらく相当な実力者だ。
従えている魔物たちも、雑魚の代表格であるスライム型とはいえ特殊な個体らしく、一体一体が覇気と呼ぶべきオーラをまとっている。
並の兵士たちでは、手に余る相手だろう。
だが……。
「あんたが出れば一瞬で片付くだろ、あんなの」
「へ」
「……ちっ」
舌打ちするだけで、ヴァレリーはなにも答えようとはしなかった。
イヴは目を丸くして、おそるおそる彼を指さしてみせる。
「えっ、こいつって強いの? ふつうのインドア系役人にしか見えないんだけど」
「おまえ今は封印状態だもんなあ。うまく隠してるけどけっこうヤバいぞ、この人」
「あいにくだが……貴殿にそう評していただくほどではない」
ぶっきらぼうにそう言って、ヴァレリーはハルトを突き放す。
その渋面に浮かぶ眉間のしわはクレバスのように深かった。
「貴殿に言われるまでもなく、この案件は私が片付ける予定だった。だが、寸前でストップがかかったんだ」
「あんたを止められるような人って、まさか……」
「そのとおりでございます!」
背後から元気な声が響き渡る。
見れば三人のすぐ後ろに、侍女を従えた少女が立っていた。
この国の最高権力者、フレドリカ皇女である。
外出用の出で立ちなのか、城で会ったときより身にまとう衣服は控えめで、純白のワンピース姿だ。
彼女は品のいい笑みをハルトに向ける。
「先ほどぶりですわね、ハルトさま。《智者の窓》はお役に立ちそうですか?」
「ああ、おかげさまで……つーか、なんでこんな場所に皇女様が?」
「皇女!? 皇女って、まさかあなたがこの国の……!?」
「はい。フレドリカと申します」
フレドリカはスカートの端を持ち上げて、深々と頭を下げてみせる。
そんな彼女に、イヴは目をつり上げて詰め寄るのだが……。
「あなたがこんなバカを雇ったせいで、あたしは散々よ! この恨み、絶対何倍にもして返して――」
「お会いできて光栄ですわ! 熾天王様!」
「えっ」
そんなイヴの手をがしっと掴むフレドリカ皇女。
相手がぽかんと固まった隙を逃すことなく、キラキラまぶしい笑顔で畳みかける。
「噂通り……いえ、噂以上のお美しさです。さすがは大陸に名を轟かせる熾天王イヴ様。お目通りかなう日を、どれだけ待ち焦がれたことか」
「えっ、えっ……え?」
美辞麗句を並べ立ててから、フレドリカはほんの少し眉をひそめて声のトーンを落とす。
「この度は大変申し訳ございませんでした。いささか乱暴なやり方で我が国においでいただいたわけですし、さぞかしお怒りのことと思います……」
「と、当然でしょ! 無理矢理連れてこられたんだもの!」
「ですがそれもこれも、イヴ様を恐れる余りのこと」
「へっ」
イヴの手を握ったまま、彼女は目を潤ませて。
「我が国のような小国では、イヴ様の熾天領に太刀打ちできるはずもありません。ゆえにハルト様という最終手段に出てしまったのです。どうか、どうか寛大なお心でお慈悲をいただけますと幸いです」
「ふ、ふうん……あなたは礼儀ってものを理解しているようね。だったら許してあげなくもないけど」
「恐悦至極でございます! それではしばし我が国にご滞在いただき、和平交渉を続けていただければ幸いです! ぜひとも姉妹のように仲良くしてくださいね! わたくし、イヴ様のような強くて綺麗なお姉様がずっとほしかったんです!」
「仕方ないわね! 面倒見てやろうじゃないの!」
イヴはすっかり機嫌をよくして胸を張る。
それをハルトはやや遠巻きに眺めてぼやくのだ。
「あれはイヴがチョロいのか、皇女様が上手なのか……どっちなんだ?」
「両方だろう。陛下は人心掌握術にも長けておられるからな」
ヴァレリーが肩をすくめてみせる。台詞は得意げだが、その顔には色濃い疲弊がにじんでいる。
「えっと、つまり皇女様が俺を呼んだってことでいいのか? でも、いったい何のために……そこのヴァレリーさんの手に余る案件でもないだろうに」
「あら、そんなの決まっていますわ」
フレドリカはイヴの手をそっと放して柔和に笑う。
懐から取り出すのは……一台の小型写真機だ。
「ハルト様のご勇姿を、間近で拝見するためですわ……!」
「清々しいまでの私利私欲じゃねーか」
次は06/20更新予定。




