プロローグ
生き物が生きるうえで欠かせないもの。
その最たる例が食事だろう。
獣ですら腐った肉より、血の滴る新鮮な肉を好む。
知性を持った生命ならば、新鮮さばかりか栄養のバランスを求める。
栄養が十分に満たされたのなら、次は味にもこだわりを持つことだろう。
そして、食事は文化に根ざしたものだ。
ほとんどの者が生まれ故郷の味を好み、親しみを持つ。
よそ者がどんなに顔をしかめるゲテモノ料理だろうと、その国の者にとっては郷愁を誘うごちそうとなる。
海外旅行でどれだけ贅を尽くした料理を味わっても、結局家に帰って食う茶漬けが一番うまい……という、よくあるあれだ。
……まあ、俺は海外なんか一度も行けずに死んじまったわけだが。
ともかく『食』は大事なものだ。
たったそれだけのために人生をかける者さえいる。
かく言う俺もそのひとり。とはいえ俺は料理人でも、美食家でもない。
単なる平々凡々な……世界最強の魔剣士だ。
舞台は燃え盛る魔王城。
太い柱のほとんどは砕け、大理石の床もひどいありさまだ。
天井は完全に吹き飛んで、満天の夜空が見下ろしている。
そしてその夜空には、巨大な太陽が浮かんでいた。
紅蓮の焔を帯びた巨岩である。逆巻く熱風をまとったそれをめがけ、今ひとつの人影が跳躍し……。
「《輝ける熾天の――」
細い体を弓のようにしならせて、熾烈極まりない拳を放つ!
「――鉄槌》!」
ドゴォッッッ!!
轟音とともに太陽が砕け散り、無数の礫となってあたり一帯に襲いかかる。まさに終末じみた光景だ。轟音がいくつも重なりあって、景色を容赦なく蹂躙していく。
まともな生き物なら、なすすべもなく礫に打たれてミンチと化すか、床に開いた穴へと真っ逆さまに落ちることだろう。
しかし、そんな中――。
「魔剣エクセラ、解放」
一条の光が天を刺した。
次の瞬間、光が大きく歪曲して、一帯を縦横無尽に走り抜ける。
光が射貫き、さらっていくのは焔をまとった礫たちだ。
光にたぐり寄せられるようにして、礫たちはあっという間に元通り、巨大な太陽の形をなす。
「返すぞ」
「なっ、あ……!?」
それがまっすぐ、太陽を割った人影へと叩きつけられた。
とっさに魔力を展開して防壁を張るが、拮抗したのはほんの一瞬。
キィンッと澄んだ音を立てて壁が砕け、人影が巨岩におし潰される。その轟音と衝撃は巨大な城全体を揺るがすほどのもので、隣のハイニック皇国にまで届いたという。
「ふう。ようやく勝負あったな」
その様を見て、勝者は軽いため息をこぼしてみせる。
黒髪黒目。年は十代後半。着ているものは黒を基調とした無難な戦闘服と、やや印象の薄い青年だ。
しいて目立つ箇所をあげるとするなら、多少整った顔立ちと、そこそこ鍛えていることのわかる体つきくらいのものだろう。
手にしているのは細身の剣だ。
刀身に細かな彫りがほどこされており、まるで月の光を織り込んだようにきらめいている。
その剣先からは光の筋が伸びていて、床にめり込む巨岩に巻き付いていた。
そこで遠方――遠くの崖の方から、驚愕の声がいくつも響く。
「そんな! まさか魔王様がやられるなんて……!」
「やっぱり俺たちが勝てるわけねえ……! に、逃げろ!!」
「ひいいいい! 命ばかりはお助けを……!」
そんな叫び声を残し、有象無象の魔物たちがどこへともなく逃げていった。あとには人影ひとつ見当たらない。
「おーおー、なんとも泣かせる忠義心だな、っと」
彼らを見送ってから、軽く剣を振るう。
光の帯がかき消えると同時に巨岩が砕け、あとに残されるのは岩に潰されたはずの例の人影だ。
かろうじて五体満足だが、満身創痍なのが見てとれる。
起き上がろうともがくその相手に、彼は剣の切っ先を突きつけた。
「さて、チェックメイトだ。魔王イヴ」
「くっ……!」
魔王イヴは唇を噛みしめて彼をにらむ。
彼とそう年の変わらないような少女だ。
腰まで伸びた金の髪は絹糸のようにしなやかで、紅色の瞳は燃え上がる焔を思わせる。
目鼻立ちは流麗で、体のラインも出るところは出て、引っ込むところはちゃんと引っ込む抜群のプロポーション。
体を飾る華美なドレスと数々の宝石もかすむほど、彼女自身がまばゆいばかりの美しさをまとっていた。
だがしかし、その頭には禍々しい二本の角が生えていた。奇妙にねじれたその灰色の角は、一部の魔族にしか顕れないという王の証しだ。
彼女こそが、ここ十年で頭角を現した魔王のひとり。
《熾天王》イヴァンジェリスタ=ザクト=ニーア=ヒューゲンヴォルグ。
現在、ハイニック皇国と一触即発の関係にある、熾天領の王だ。
魔王イヴは口角を持ち上げて皮肉げに笑う。
「ふっ……まさかここまでやるなんて。噂以上だわ」
「おお、俺のことをご存じとは。光栄だな」
「こんな辺境でも、あなたはちょっとした有名人よ。希代の天才魔剣士、ハルト・ランバードさん?」
「天才かー。よく言われるよ」
青年――ハルトはただ肩をすくめるだけだ。謙遜も否定もしない。
そんな彼をにらみながら、イヴはさらに語る。
「いくつもの神遺物を所有していて、魔法の腕も剣の腕も超一流。人間でありながら、あの《愚天王》に認められたともいうし……でも、それがまさかこんなに若い男だなんて」
「ああ、それもよく言われるよ。だいたいみんな、偏屈な爺さんを想像するみたいでさ」
「……そんな変人が首を突っ込んでくるとは思わなかったわ。いったいどういう風の吹き回しなの?」
「なに、ちょっと事情があってな」
ハルトは頰をかき、小さくため息をこぼす。
「この揉め事を収めれば、ハイニック皇国から特別な報酬がもらえることになっている。俺はどうしても、それを手に入れなきゃいけないんだ」
「天才魔剣士が欲しがるなんて……よっぽど貴重な代物なのね。でも、あの国にそんな大それた神遺物があったかしら」
「等級で言えば三級さ。それでも、俺にとっては喉から手が出るほどほしいものなんだよ」
「ふうん。そう」
イヴはどうでもよさそうに相づちを打つ。
やはり立ち上がる余力も残っていないようだった。不意打ちを仕掛けてくるような気配もない。
ぼんやりと夜空を見上げる彼女に、ハルトはにかっと笑う。
「まあまあ、心配すんなって。俺の仕事は、この事態に収拾をつけることだ。なにもおまえの命まで取ろうってわけじゃ――」
「いいえ。殺しなさい」
「は?」
ぽかんとするハルトに、イヴは薄く笑う。
そうして、彼の背後に視線を投げた。
その先にあるのは、豪奢な彫刻が施された玉座だ。ほとんど崩れ落ちた広間のただ中で、それだけはかろうじて形を残している。
「あたしは誇り高き魔王のひとりよ。生き恥を晒すくらいなら、ここで潔く終わりにするわ」
「えっ、いやいや勝手に決めんなって。俺は殺す気なんてないんだけど?」
「そんな都合知らないわよ。その剣があれば、あたしを殺すくらいわけないでしょ」
「たしかに瞬殺だろうけどさあ」
ハルトは眉をひそめ、右手の剣をかるく掲げる。
この剣はとてつもない力を秘めた一振りだ。
いかに最強の魔王のひとりと名高い《熾天王》といえど、至近距離でこの一撃をくらえば無事では済まないだろう。
だがしかし、ハルトはその剣をあっさりと下ろす
「俺は食べるため以外で殺生はしないって決めてるんでね。ほら、考え直せって。なにかやり残したこととかあるだろ」
「あいにくなにも……ああ、ひとつだけあるかしら」
そこでイヴはかすかに苦笑する。
故郷を懐かしむような寂しい目をして、彼女はぽつりと――。
「もう一度、卵かけご飯が食べたかったなあ」
「は……?」
「ふふっ、その反応も当然よね。こっちの世界じゃ、卵を生のまま食べる習慣なんてないし」
イヴはくすくすと笑う。
ハルトが言葉を失い固まるのにもおかまいなしだ。
彼女はうっとりと頬を染めて、『卵かけご飯』なるものの魅力を語る。
「でも、あたしが昔住んでた場所じゃ、けっこうメジャーな食べ方だったんだから。あつあつのご飯に、とろとろの生卵をかけるの。そのときに欠かせない調味料っていうのがあって、それが――」
「醤油」
「そう! その醤油……え?」
今度はイヴが目を丸くして固まる番だった。
なにしろ卵かけご飯も醤油も、この世界には存在しないはずのものだからだ。それなのにハルトは剣を鞘におさめ、両手を使って小さめの器を表現する。
「これくらいの茶碗に、ちょっと控えめに白米をよそってさ……その中心をほんの少し凹ませるのがコツなんだよな」
「っ……! そ、その凹みに、溶き卵を流し込むのよね! そうするとお茶碗からこぼれないの!」
「そう! それで卵の味付けは醤油でもいいけど、俺はめんつゆをほんの少し垂らすのが好きでさ……!」
「あ、あたしは韓国のりで巻いて食べたりもしたわ!」
「あっ、それは美味そうだな!? 俺なんかたまに納豆を入れてたぞ!」
「ああっ! でもそれも王道だわ! 納豆に生卵で、さらにネギを山盛りに入れたりして……!」
「ネギ! 納豆には最高の相棒だな!」
「あとはお味噌汁があるとなおいいわね!」
「塩鮭も捨てがたいぞ!」
「あとお漬物!」
「味付け海苔!」
「だし巻き卵!」
ふたりは思いつく限りの料理名を叫び合う。
どれもこれも、この世界にはけっして存在しないものばかりだった。
それなのにふたりの声はとどまるところを知らなかった。
やがてどちらともなく口をつぐむ。互いの顔をじっと見つめ、同時にごくりと喉を鳴らした。
あたりに吹いていたはずの強風はいつの間にやらぴたりと止まっていて、戦闘中よりもずっと張り詰めた空気が流れ始める
「おまえ……まさか俺と同じ――」
「あなた……ひょっとして、あたしと同じ――」
ふたりは震える人差し指を相手に向けて、同時に異口同音に絶叫した。
「「日本出身の転生者!?」
次回は6月12日(水)更新予定です。