プロローグ 読み始め
「なんて書いてあるんだよ」
隣に座る小学校からの悪友が、目を見開いている。
言いたいことはわかる。自分だって、渡されたA4用紙に何が書いてあるのかわからないのだ。いや、数文字はわかる。しかし、文章としてはわからない。
「わかる?」
目を細めて用紙を近づけたり遠ざけたりしている悪友の向こう側、自分たちと同じように用紙を凝視しているストレートロングの美人女性に話しかける。
美人は一息ついて首を振る。
「全部はわからないわ。あなたは?」
「ぼくもさっぱり」
諦めて教室の前方に顔を向けることにした。
高校の時の教室とはちがって、まるで会議室のような教室だ。前方の壁には黒板ではなくホワイトボード。椅子はパイプ椅子で、それが三つ納まる長方形のパイプ机。パイプ机を二台×三台でこれまた長方形になるように教室に配置されている。
そして、ホワイトボード前の二台の机それぞれにデブ一号と二号が鎮座していた。
最初はホワイトボードに相対する形で、自分と悪友が一台、美人が一台でそれぞれ座っていたのだが、デブ一号の遠いの一言でホワイトボード近くに三人で座りなおすことになった。おかげで前を見るのに少し横を向かないといけないので、めんどくさい。
「んじゃもう一つ配るから、回して。六枚あるから二枚ずつな」
「隣から辞書取ってきまーす」
デブ一号が美人に紙を渡し、デブ二号は教室から軽やかに出ていく。
それを見ている合間に悪友から紙が回ってくる。見てみるとよくある原稿用紙だった。
「それでは改めて。大学院に在籍しているー」
デブ一号がホワイトボードに大きく自分の名前を書いていく。
「――といいます。この勉強会『文殊の知恵』を一応主宰しているから、これからよろしく」
デブ一号がごく簡単なあいさつを終えると、ちょうどいいタイミングでデブ二号が戻ってきた。両手で大きくて重そうな本を二冊抱えている。
「くずし字が一冊しかなかったです。どうします?」
「俺のをこの子らに貸すから、いけるやろ。わからんのでたら見せて」
「了解です。じゃあ、これね」
デブ二号が本の一冊を女性に渡し、自分の席に戻っていく。デブ一号が、持っていた同じ本を女性の近くまで机の上を滑らせる。
女性はデブ二号の本を悪友に回して、デブ一号のを手に取る。自分と悪友で一冊、美人が一冊の状態だ。もう辞書は電子辞書しか使っていなかったから、紙の辞書は久しぶりだった。紙箱に入っていてタイトルは『くずし字辞典 普及版』とある。少なくとも参考書のコーナーにはなさそうなタイトルだった。
何とはなしにひっくり返してみると、定価六千円と書いてある。悪友と顔を見合わせ、美人にも定価のところを指で示す。美人も辞書をひっくり返して値段を見ると目を少し見開いている。
「辞書ってこんなにも高いの?」
「英和とかに比べたら高いやろうなぁ。でももっと高いのが普通にあるからな。同じようなのでもうちょっと安いのもあるし」
デブ一号が笑っている。
「貸し出しなので、破ったり書き込みはしないようにね。あ、僕は大学院の――っていいます。よろしく」
デブ二号もホワイトボードに名前を書きながら笑っている。二人の様子から見て、よくある反応なのだろう。
「それじゃあ、簡単にでいいから順番に自己紹介してくれる?」
デブ一号が手で美人に合図する。美人が立ち上がろうとするが、座ったままでいいよと制している。美人から順番ということは最後か、と少し緊張する。
「歴史学科一回生の――です」
美人は名乗ると、その後は何を言えばいいのだろうと戸惑っている様子だった。
「――さんの生徒だったんでしょ?」
デブ二号がにやにやとデブ一号を見ている。デブ一号が頭が痛いとばかりに額に手をやっている。
「そうです。塾の個別指導で現代文と古文を教えてもらってました」
「なんでこの大学来るかなぁ。自分の実力ならもっと上の大学行けたやろうに……」
「先生、私が英語苦手って知っているでしょう?」
どうやらデブ一号と美人は大学入学前は先生と生徒の関係だったようだ。入学したばかりなのに知り合いのようだったので、不思議だったのだ。親しげにやり取りをしている。
「サークル見学をしているときに、先生を見かけて、それでここのことを聞きました。何か入りたかったけど、やりたいのがなかったので来ました」
「もう一回言っておくけど、クラブやサークルではないよ。教室の使用は、教授とかから許可もらってるけど、あくまで週1くらいでやる学生の勉強会やからね」
「はい、わかってます。何かサークルで入りたいのがあったら入りますし」
デブ一号がそれならいいとばかりに手を挙げ、次に悪友に合図する。
「おれは、――です。歴史学科一回です」
ガラにもなく悪友は緊張しているようだ。何を言おうか考えながらしゃべっているようだ。
「大学は距離で選びました。家からの。だから史学科だけど、特に歴史に興味があるわけではないんですけど……」
「へー、まあ別にいいんじゃない。歴史に興味なくても、織田信長とか有名な人のを調べるとテンション上がって楽しいと思うよ」
「そうなんですかね」
デブ一号に首をかしげて見せる悪友。
「まあ、この会は会費とかないから来たくなくなったらそれでもいいし。サークルとかには入るんやろ?」
「入りたいとは思ってます」
「じゃあ、色々考えてみたらいいよ。せっかくの大学生活は楽しまないと」
デブ一号のアドバイスにまだ悪友は首をかしげてるが、デブ一号は構わず今度は自分に合図してきた。
「ぼくは歴史学科一回生の――です。この大学には第一志望が落ちたので来ました」
「何やろう、今年は第一志望ダメやった子が多いんかな。かく言う俺も第一志望ミスったけどさ」
「それで、えっと、日本史好きです。特に織田信長とか豊臣秀吉とか武将が」
デブ一号が何やら言っているが、反応に困るので、自己紹介を続ける。日本史が好きなのは本当だ。昔からマンガ、小説を読んだり、戦国時代のゲームもやっている。教科書に戦国時代の内容が全然ないことに文句を言ってやりたいくらいだ。
「歴史を勉強したくて大学来たってことかな」
「そうです」
デブ一号二号がおーっと声を上げる。どことなくうれしそうだ。
「そうかそうか、これは期待の新人が来たって感じやな。でもまあ、さっきも言ったけど、別に緩い勉強会なので、合わないと思ったら一声くれたら別に大丈夫やから」
これには素直にうなずいておく。もともとここにはたまたま知り合った美人に来てみないか誘われたので来てみたのだ。サークルみたいに勧誘しているわけではないのだろう。
「よし、それでは挨拶も終わったし、説明をしていこう。ちなみに、本当なら四回生にも面子がいてるけど、今日は都合が悪いらしい」
デブ一号が話しながら椅子をガタガタ鳴らして立ち上がる。
「歴史学科には史学コースと文化財コースがあるけど、三人とも史学コースでいいんかな」
一応の確認なのだろう。僕たち三人はうなずく。
「文化財は主に物を扱う。発掘品であったり、絵画だったり、実際の物品を分析なりして研究する。それに対して史学はー」
僕たちに最初に配った、読めない字が書かれた紙を示す。
「主に文字を扱うと思ってくれたらいい。まあ、そういうのは歴史学の講義で詳しく聞くやろうし、今は置いといて。ああちなみに、史学だって物を扱う時もあるし、文化財も文字を読んだりするけどね。んで、三人とも高校ではこれを使ってたよね」
そう言って掲げて見せたのは高校で使っていた日本史Bの教科書だった。
「せっかくなので……信長の楽市令はっと」
パラパラとページをめくっていき、目当てのページを開くとぼく達に見えるように机を乗り出して見せてくる。悪友が少し立ち上がって見ようとしているので、より遠いぼくはデブ一号のように机に乗り出した。
「ここに書いてあるのは当然活字だからすごく読みやすい。でもこの平仮名は、実物には書いてないって知ってたかな」
「知らなかったです」
悪友が首を振りながら答える。
「わたしはテレビで見たことあります」
「ぼくもテレビでちらっと」
急いで教科書を取ってきて見比べようとしたのを覚えている。短い時間だったために全然できなかったのだが。
「オッケ。知ってる子もじっくり見たことはないってことかな。高校で習った中国の漢文とも共通点はあるけど、あれとも違う。日本独特の表現がある変体漢文ってので書かれている。和製漢文とも呼ぶかな」
ホワイトボードの自分の名前の隣に変体と書き加える。思わず笑ってしまいそうになったが、美人が口元を覆うのを見て自分もなんとか笑うのをこらえる。デブ一号はそれに気づくことなく、さらに古文書と書き加えた。そして、悪友を顔を向ける。
「これはなんと読むでしょうか?」
「えっと、こぶんしょ?」
「そう読んじゃうよね。でも違う。これは古文書と読む」
古文書の漢字の隣にフリガナのように『こもんじょ』と書き添える。
「古文書とは何か。簡単には手紙をイメージするといい。特定の対象に対して自己の意思を表示させたもので、それが書かれた紙・木・布・金属などをさす」
「あくまで狭い意味で、とも覚えといてね。帳簿とか朱印状とかの特許状も古文書に含めるから、目的があって書かれた古い文章と考えたらいいかな」
デブ一号二号が解説してくれているが、いまいちよくわからない。悪友は真面目な顔をしているが、それが理解をしていない顔だと知っている。仲間がいることに安心しつつ、とりあえず昔に書かれた文章を古文書と思っておく。
「そして、古文書はくずし字で書かれている。これは勉強してないと読めないし、勉強していても読めない」
デブ一号がお手上げとばかりに両手をあげる。
「はっきり言うと、俺も読めない。勉強会の名前が『文殊の知恵』なのは、一人では読めないけど複数人集まれば、古文書を読めるだろうってことね」
デブ二号がうんうんとうなずいているので、どうやら読めないというのは本当のことなんだろう。本当に大丈夫なんだろうか、この勉強会ってやつは。
「それでは前置きはこれくらいにして、配ったやつを読んでみようか。まず大事なのが、何文字あるかを見極めること。字数を数えて、原稿用紙に文字をおこしていって。読めないところは飛ばして。そのためにマスを利用するように。渡した辞書はいったん気にしないでいいから」
デブ一号がホワイトボードの上、掛け時計に目をやる。
「時間かけても仕方ないし、五分くらいで出来るところまでやってみて」
僕たちは慌てて筆箱をカバンからだしてシャーペンを取り出した。
まだ表紙だけではありますが、ぜひ皆様も原稿用紙なりを使って読解してみてください。