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聖なるかな

桜色の唇が、笑みの形を作る。

「これで、わたくしは …… アタシは自由よ!」

灼熱の熱さから一呼吸遅れて激痛がくる。熱い、熱い、痛い。手足から力が抜けて、崩れそうになった体を引っ張り上げられた。


「カイ!」

「カイ様!」

「殿下!」

暗くなった視界に、血相を変えて動こうとする皆が見えた。


「動かないで!短剣には毒が塗ってあるわ。あたしの言う通りにすれば、解毒してあげる」

耳鳴りの隙間から、ラクシアの声が聞こえる。呼吸が苦しい。悪寒が全身を走って手足が震え始めた。


「おっと、死なれちゃ困るわ」

「うぐっ」

短剣を抜かれて、魔法で止血だけされる。魔族の再生能力で傷の治癒が始まった。少し楽になる。


「よくやった!ラクシア。お前たち、魔族を仕留めろ」

最初に指示を飛ばしていた男が、喜色満面で残った神官兵へ命じた。剣を構えて進もうとして壁に阻まれた。

いつの間にか光の壁が、僕らの周りを囲んでいる。


「なっ、どういうことだ?!」

顔を歪めて困惑する男に、ラクシアが微笑んだ。


「あんたたちは、アタシを自由にしてくれないでしょう?魔族のこいつらには、少しの間護衛してもらうわ。飛竜、あんたの大事な王様を殺されたくなかったら、飛びなさい。他の奴らも付いてきて」


ラクシアは力が抜けた僕を飛竜の背に凭れさせ、後ろから手綱を握った。

飛竜のロイドが翼を広げて飛び立つ。同じように皆が続いた。割れたガラスから外へ飛び出す。

冷たい風が毒に侵された僕の体温を容赦なく奪って、ガタガタと震えた。


「もう少ししたら解毒してあげるから、我慢なさい」

彼女の囁きは、空を飛ぶ風の音で僕にしか届いていない。浅い呼吸を繰り返して小さく頷き、少しでも体温を保とうと震える体を抱き締めた。


大聖堂を飛び越し、先端の尖った塔の横をすり抜け、さらに聖都の外側、結界の外へ出る。


みるみる聖都は遠ざかり、眼下には雪に覆われた森や街道に沿った町が広がる。


「やった!外よ!」

ラクシアが声を弾ませて、後ろを振り返った。銀髪が翻って、彼女から僕の姿を隠す。

今だ!

僕はラクシアの後ろ頭を左手で引き、右手で手首を掴んで捻り上げた。無理矢理に体を入れ換えて後ろから飛竜の背に押さえつけた。


「そんな!人間ならとっくに死んでるくらいの毒なのに?!」

「おあい、にく様、魔族の回復力を …… 舐めないで」


笑ってみせたけど、やっぱり息が苦しいし、お腹はずくずくと痛む。体は熱いんだか寒いんだか判らない。おまけにラクシアが、僕の拘束を解こうと暴れるから必死だった。


「カイ様!」

バドス伯父さんが僕を呼ぶけど、翼が接触してしまうから、空を飛んでいる間は近寄れない。


「お願いだから、暴れないで下さい。貴女を傷付けたくありません」

「はあ?何言ってんの?自分を刺した女を傷付けたくないって、馬鹿じゃないの?」

ラクシアは飛竜に押し付けられたまま、肩越しに僕を睨む。


「それでも、僕たちには貴女が必要なんです。お願いです」

自分でも何を言ってるんだろうって思う。明らかに敵対している人に、こんな風に恥も外聞もなくお願いだなんて、伯父さんの怖い顔が浮かぶ。でも。


彼女を魔国に連れて行くだけじゃ駄目だ。闇化病を治して貰わなきゃならないんだから。


どうやったら、彼女の心を動かせる?

上手いやり方なんて分からないよ。


「お願いします。全てが終わって自由が望みなら …… いいえ。聖女じゃない、貴女の居場所が望みなら、なんとしてもそこへ送り届けますから」


必死に頼み込んだ。それしか出来ないことが情けない。こんなとき父さんだったら、伯父さんだったら、バルドールだったら。きっと上手くやれた。


「アタシの居場所なんて、もうないわ」

ラクシアの声がゾッとするほど暗く沈んだ。


「アタシは、孤児だけど幸せだったの。なのにお養父さんが死んで、シグルズは出ていって、フィンはお偉い貴族様に引き取られちゃって。それでもアタシは孤児院を守りたかった」


長い豊かな銀髪が俯く彼女の顔を隠し、風に煽られて躍り狂う。


「なのに、ある日突然聖女だって言われて!嫌だって言ったのに孤児院から連れ出されて!聖女様!私たちを救ってくださいって!知らないわよ、そんなこと。救えって言うなら、アタシこそ救ってよ!!」


「…… っ」

彼女の言葉に僕は息を詰まらせた。


「聖女になんてなりたくなかった。だけど頭の中に知らない声が、知らない誰かが、アタシの知らない光景が浮かぶのよ。このままだと世界が滅ぶか、聖戦で選別されるって」

なりたくなくても、運命から逃げられない。その不条理は痛いほど解る。それは、僕も同じで。


「神殿の奴らにその事を言ってやったら、相手にしないのよ?自分たちがアタシを聖女様って祭り上げたくせに!じゃあアタシは一体何なのよ」


言葉で殴られたみたいだった。血を吐くようなラクシアの叫びに、僕は殴られている。


僕は、何も分かってなかったんだ。聖女と呼ばれる彼女がどんな人生を送ってきたかなんて、その事でどんな思いをしたかなんて。


「嫌い。嫌い。死んじゃったお義父さんも、出ていったシグルズも、フィンを連れていった奴らも、アタシを聖女様って崇める奴らも。何も出来ないアタシも!」


『寂しい。どうして置いて行ったの?アタシは孤児院で皆と暮らして居たかっただけなのに』


口から出た言葉じゃない、彼女の心からの叫びが、僕を打つ。悲しくて、悲しくて。


「嫌い。嫌い。嫌い。大っ嫌い!世界なんて滅んでしまええっ!」

『綺麗な服も要らない。豪華な食事も要らない!私を帰して』


体の底から声と想いを絞りだし尽くしてしまったラクシアは、肩を震わせて嗚咽を始めた。


「…… ごめんなさい」

彼女の悲しみを少しでも和らげたくて、空いている左手をそっと彼女の背中に当てた。


「…… 何であんたが謝るの?」


「っ、ごめんなさいっ。貴女はそんなに辛いのに。悲しいのに。僕は貴女に何もしてあげられない。でも、どうしても浄化の力が必要なんです。大切な人たちを助けたいんです。弟を助けたいんです。また一緒に笑いたいんです」


何も与えられないのに、与えてほしいと懇願する。その浅ましさに顔を俯かせる。

本当に僕は子供そのもので。


当てた左手から悲しみが流れ込んでくる。出来ることなら全部僕の中へ来ればいい。


「お願いしか出来なくてごめんなさい。どうか力を貸して下さい」


ラクシアが、小さく体を捻って顔を僕に向けた。幾筋か流れた涙を冷たい風が乾かす。

透明な冬空の瞳が、僕をじっと見透かした。


僕たちの周りを飛んでいる伯父さんたちも、固唾を飲んで見守る。


やがて彼女は目を閉じて、鼻を盛大にすすり上げ、またぱっと開いた。

「手を離して。解毒、してあげるから」


ラクシアは拗ねたように、ふいっと顔を前に戻して言った。


「闇化病の浄化。やってやるわよ。その代わり三食昼寝つきよ」

「っ、ありがとうございますっ」


押さえ込んでいた手を離すと、緊張がきれてふらついた。上体が傾いた僕を、ラクシアが支えてくれた。ふわっと暖かくなって、呼吸が楽になって悪寒も消えた。

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