ブルー・グラッツ誕生
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ブルーは、気合十分で雲竜の討伐依頼書にサインをした――しかし、そのサインは、実に中途半端なものとなってしまう。
それもそうだった。ブルーには、姓が無いのだ。
ハンターが依頼を受けるには、討伐の依頼書に自らのサインを施し、魔力を込めた刻印を押さねばならない。
刻印に込められた魔力により、魔力を込めた本人が生きている限り、依頼書――契約書を兼ねる――のサインを浮き彫りにする。それはつまり依頼書に施すサインが、特殊なインクで書かれる事をも意味していた。
さらに、依頼内容が魔獣の討伐の場合、その魔獣の一部を契約書に添える事で達成の証とする。添えられた魔獣の一部は、契約書に込められた魔力に反応して、そこに書かれたハンターの名を輝かせるのだ。これを持って依頼の達成と為す。
また、依頼に期限が設けられている場合、その期間が過ぎると依頼書からサインが消えて、サインを書いたハンターは未達成の烙印を押される事となる。
その場合、下位のハンターであれば同じ条件で再契約を結ぶ事も可能であろうが、上位者――Bランク以上の者であれば、その内容が特殊なものである事も多く、契約不履行は、ハンターランクの即時降格を意味していた。
もっとも、Bランク以上のハンターが降格する事は稀である。何故なら殆どの任務が、達成か死か、という二者択一。そもそも、期限内に標的の下へ辿り着けないような無能者は、Bランクまで上がる事さえ出来ないのだから。
それはともかく、にこやかにサインをしてイーラジに依頼書を返したブルーは、早速席を立ち、依頼の地へ赴こうとして、ハンナに止められた。
「魔力は、うん、込めたわね。ブルー……あと、姓も書きなさい」
ここでハンナは、普段であればブルーの首根っこを捉えて引き摺る所だが、今はイーラジの手前、声だけで制している。
ブルーが馬鹿だと、イーラジに悟らせてはならないのだ。
”青い稲妻”が馬鹿だったなどと言われては、それこそ最強のドラゴンスレイヤーたるハンナ・グラッツの名声に傷が付く。
キョトンとして振り返ったブルーは、再びハンナの横に座った。
ブルーとしては、当然不思議である。
姓ってなんだ?
ブルーとしては、もう、そこからだった。
驚いた事に、ブルーには真名が無い。なので、便宜上呼ばれていた”ブルードラゴン”から、ブルーだけを取って、自身の名にしていただけである。
竜には、生まれ方が二種類あるのだ。
一つは、第二位階以下の竜の生まれ方。これは、親竜が卵を産み、そこから孵化する生物としての竜。
もう一つは、自然発生的に、地、水、風、炎、それぞれの中に卵が現われ、そこから孵化する”神”としての竜である。
ブルーは、後者だった。
前者であれば、親竜の位階によっては、親が子に名を授ける場合がある。
例えば、雪竜アイゼルは、親竜が氷竜と海竜であり、共に水が属第二位階の竜であった。故に、生まれながらに名を授かった、最も尊き竜の血族だったのだ。
だが、無から――いや、水から生まれたブルーには、だからこそ、名が無い。姓を付けろと言われれば、しいていうなら「水」だろう。
けれど、ブルーにはその発想が無かった。それに、その発想があったとして、「ブルー・ウォーター」などと名乗ったら、ハンナに半殺しにされるだけのこと。
ブルーの足りない頭脳は、猛烈に回転していた。
生きる為に、賢くあらねばならないブルー。その姿は美少年なのに、何故か哀愁を帯びている。
「名前の後ろにあるでしょ? もう一つの名前が。ね? ほら!」
そんなもの、ある訳がない。
ブルーの心臓は高鳴る。早鐘の如く脈打ったブルーの心臓は、既に爆発寸前だった。
しかし、横を見れば、目元をひくつかせているハンナが、ブルーを射殺さんばかりの眼光で睨んでいる。
ブルーの、今までの経験が告げていた。
(俺、ここで間違った事をしたら、酷い目に遭う……と、とにかく、ブルーの後に、何か名前を書かないと)
だからブルーは、再び依頼書を手に取ると、この様に書き込んだのである。
――ブルー・グラッツ――
ブルーにとって、これは最大級の媚びである。
もしも彼が太っちょの商人であったなら、擦り切れんばかりのもみ手をしたことだろう。
そもそも、ドラゴンが人間の姓を名乗るなど、天地開闢以来の出来事だった。
もしも、時の大賢者がこの事を知ったなら、「神もご照覧あれ!」とでも言ったであろう。まさに、人と竜の融和であり、世界に平和が齎される吉兆に違いない。
しかしこの場に、この重大事に気付く者はいなかった。
ただ、別の驚きにハンナの目は倍に広がり、イーラジが鼻水を垂らしただけである。
イーラジは思った。
ハンナ・グラッツは、そもそも孤児だったはずだ。となれば、ブルーは弟ではない。親族か? いや、元老院議員の親族という時点で、いるならば、とっくに名乗り出ているハズだ。
だいたい孤児院で育ったが故に、ハンナ・グラッツは魔法を身に付け、狩りを覚えて、その才能を見出されたのではなかったのか? 一人だったが故のことだろう?
ならば養子か? だが、従者が養子だとは聞いた事がない。――ならば、考えられる事は一つだが――まさか。
ハンナ・グラッツは考えた。
私の立場上、ブルーがこの名を名乗れるとしたら、養子にするか、夫にするか――しかない。どうしよう?
そして、喪女は最低の計算をした。
ブルーは、頭はともかく、人化さえしていれば、完璧なイケメン。夫にしておけば、とりあえず私の立場が低下する事は無い。むしろ、もてない女という陰口も減るかもしれないな。ハ、ハハハ……。
「イ、イーラジどの。私も、そ、そろそろ夫に独立してもらいたくてね……ハ、ハハ、ハハハ――」
ハンナ・グラッツの乾いた笑いは、やはりイーラジの乾いた笑いを誘う。
「ハ、ハハ、ハハハ。それはそれは、おめでとう存ずる。いや、いや、まさかハンナさまがご結婚されていたとは。あ、しかし、式はまだお済みではないのでしょうかな? いや、これは失礼なことを。確かに、今のままではブルー……殿のお立場がありませんからなぁ」
「じゃあ、ハンナ! 俺、雲竜退治に行って来るよ!」
そこで唯一状況を飲み込めないブルーは、姓とやらを書き込めた事に満足していた。反応を見るに、二人は納得している様に見える。
もちろん、”夫”という単語など分かるわけも無いブルー。まあ、従者のことだろう、程度に考えて席を立つ。
「ま、まってブルー。こ、今回は、私も手伝うわ。な、何しろ、初めての依頼だし、お、夫に失敗させる訳にはいかないからねっ」
「お、おお。ハンナさま。それがよろしゅう御座いましょう。旦那さまに何かあってはなりませぬからなぁ。
それにしても、ブルー殿とハンナさまが揃ってご帰還なされた暁には、いよいよ結婚式でございますなぁ。あ、いや、目出度い、目出度い! 皆を集めておきましょう!」
イーラジは、懐から取り出した布で、ひたすらに額の汗を拭いながら言葉を紡ぐ。
一方でハンナ・グラッツの瞳は、これでもかという位に泳ぎ続けていた。
(わ、私がブルーと結婚式だと? どうしてこうなった?)
見栄を張りたかっただけのハンナは、狼狽していた。
結婚式までは、想定外だったのだ。そこまでしたら、完全に自治領公認になってしまう。逃げ場を失うのだ。
それに結婚式などしては、ブルーを独立させて自由にしてやるつもりが、さらに縛り付ける結果になるのではないか? いや、むしろ自分はどうなる? 恋も知らず、何故、馬鹿な竜を伴侶としなければいけないのだ? そう思うと、ハンナは奈落の底に落ちた気すらしていた。
でも、結婚式か……やっぱり純白のドレスを着たい。先に結婚した友達も呼ぼう。ブルー――顔だけは良いから、みんな、羨ましがるだろうな。ウフフ――
しかし、途中から妙な妄想が膨らんで、ハンナの口元が歪む。
どうやらハンナの頭も、どこかおかしい。彼女が今までモテなかったのは、単に多忙という理由だけではなかったのかもしれない。
それから、ハンナに友達はいない。彼女が友達だと思っている人物も、基本的に彼女が怖いので、愛想笑いを浮かべているだけである。
最強とは、かくも人を孤独にするものなのだ。
「あ、ハンナ! 手伝ってくれるのか! ありがとう!」
ハンナの内心など、まるで解らないブルー。
彼は呼び止められると、屈託の無い笑みを浮かべて、重厚な扉の前で止まる。そしてハンナに手を差し出し、完璧なまでに従者の作法を守っていた。
扉の前で悠然と佇む青髪の美少年に、イーラジはとてつもない好印象を持った。
それと同時に、ハンナの胸が”キュン”と鳴る。――これは、現代日本に置き換えれば、壁ドンに匹敵するだろう。あるいは、ハンナをキュン死にさせるのは、そもそもが喪女であるだけに、案外簡単かも知れない。
イーラジは、ハンナが今更キュンキュンしていることなど知らない。むしろ、身寄りの無いハンナの、何故か父親気分を味わいはじめている。これは、中々にお節介な男のようだ。
(うむ。確かにこの少年、溢れる程の魔力をもっているな。その上、絶世の美貌。加えて、格闘の技量もかなりのモノと聞く。何より、この少年には悪しき野心が無いようだ)
そうであれば、ブルーがハンナ・グラッツを政治的に利用する事はないだろう。と、イーラジは考えた。
ハンナ・グラッツの夫となれば、自治領において、圧倒的な権益を得るに違いない。もちろん、イーラジ自身、その座に座る事も考えた。しかし彼は、あらゆる観点から見て、それが不可能だと判断したのだ。
だからこそ、野心家だけには、ハンナ・グラッツの夫になって欲しくなかった。
となればハンナ・グラッツにとって、ブルー以上に相応しい夫はいないのではないか? そう、今の瞬間、思ったイーラジである。
(よろしい、認めよう!)
別に、イーラジの承認はいらない。
イーラジも、それは解っていたようで、決して認めた事を声に出そうとはしていなかった。
「ブ、ブルー。今日から、貴方は私の従者じゃないのよ。だから、一歩下がる必要もないの。堂々と、私と肩を並べて歩きなさい」
「わかった!」
こうして、”ドラゴンスレイヤー”ハンナ・グラッツと、自分でも知らぬ間に、その夫になってしまった水竜王ブルー・グラッツは、休む間もなく雲竜退治へと向かったのである。