引き篭もりたい最強の女
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くくく、ついに上手くいった! 苦節五年、ハンターになれば、ようやく人間としての身分が手に入る!
などと、ブルーはこっそり考えていた。
とっくに人としての身分を手に入れていたのだが、そんなことに、まるで気が付かないブルーは、浮かれ顔で目を覚ます。
ブルーが本当に欲しいものは、”お金”である。
お金さえあれば、街で自由に飲み食いが出来る! と考えていたのだ。
本当はブルーも”お金”を持っているのだが、全部ハンナが管理している為に、無一文だと思い続けていた。これは、お母さんが、お小遣いを貯金してくれているのに気付かない子供と一緒だ。
ちなみにブルーの野望は、子牛を一頭買って、そのまま食べること。焼いてあれほど美味いのだから、生ならどれ程美味いのだろう? と、想像しただけでブルーは涎を垂らす程である。だが、もちろん焼いて調理した方が美味しいのは、言うまでも無い事だ。ブルーときたら、想像力まで欠いていた。
ハンナの朝は、常人より遅い。
酒というものを飲むようになってから、日に日にハンナの起きる時間は遅くなっている、そんな気がしているブルーだった。
しかし実際のところは、夜の十一時に寝ても、午前二時には目を覚ましているブルーがいけないのだ。
睡眠を必要としない竜の体と、睡眠が必須な人の体を安易に比べては、ハンナが可哀想というものだった。
ブルーは、未だ夜明け前である事を確認すると、ハンナのベッドに潜り込む。
かつて、ブルーが逃げ出さないようにと、夜、睡眠時には必ずハンナに鎖で繋がれていた頃の名残だった。
朝、ハンナが目を覚ました時、ブルーが外に出ていると、即座に大剣を携えたハンナが現われて、極大魔法をかまされた事が幾度となくあったのだ。であれば、ハンナが目覚めた瞬間に、自分の何処かがハンナに触れていないと殺される! と、ブルーは切実に思っていた。
なので、ハンナが寝る前は別のベッドを使い、眠った後にハンナのベッドに移り、何処かしら触れておく、というのがブルーの日課になっていたのだ。
身に沁みた恐怖は、いつまでたっても拭い去れないものである。
ブルーは、ハンナの身体を後ろから抱いて、再びまどろみに落ちる。
ドラゴンとは、基本的に睡眠が不要だが、眠ろうと思えば幾らでも眠れる種族なのであった。
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ミシリ……グシャッ!
雨戸の隙間から、木漏れ日の様に降り注ぐ朝日に目を細めていると、ハンナの身体は、ベッドから床に叩きつけられた。
ベッドが中央から折れて、「く」の字になっている。
ハンナの肩越しには、輝くような蒼い鱗を持つドラゴンが「すーぴー、ずず、すーぴー」と、幸せそうに眠っていた。
当たり前だが、ブルーである。
水竜王ブルーは、油断をしすぎて人化魔法が解けていた。
すでに、氷竜アイゼルにかけられた呪いは、その効力を失っている。故に普段のブルーは、自らの意志で自身を人の姿に保っていた。
無論、ハンナによる脅迫が無ければ、人化などしたくはないのだが。
二メートル程度のドラゴンといえども、その体重は五百キロを超える。となれば、人が寝るベッドなど、容易く潰れて当たり前だった。
ハンナは大剣を鞘から抜き放ち、刀身をブルーのおでこに”ぴた”と付けた。
ドラゴンスレイヤーの大剣は、ドラゴンを滅する力を秘めている。触れるだけでも、下位のドラゴンならば、滅されるだろう。
「あっちいいいいい!」
”じゅう”と音を立てて、香ばしい香りを立ち上らせると、ブルーは慌てて飛び起きた。
直立して羽を背中に畳みつつ、首を出来るだけ下げて、額に短い両手を当てるブルードラゴンは、余りにも珍妙である。
「人に戻れ、馬鹿」
ハンナは、そんなブルーに目もくれず、着替えを済ませ、武装まで整えていた。
◆◆◆
羊肉亭を出る時に、申し訳無さそうにハンナがベッドの修理代を渡したら、宿の主人が妙な笑顔を浮かべて、ハンナとブルーを見比べていた。
「お若いとは、羨ましいことですなぁ。それにしても、やはり高名なドラゴンスレイヤーであられるハンナさまのお相手となると、ブルーどのも大変ですなぁ。うは、うは、うははは」
俯き加減で顔を赤くしているハンナは、肩を震わせている。
「うんー。いつも、生きた心地がしないよー」
「黙れ、ブルー」
「うはははは!」
羊肉亭の主人は、見事な誤解を抱えたまま、黒髪の美女と蒼髪の少年を送り出した。
彼等は、数年来の知己である。だから、こんな誤解も致命的な事態には至らない。
しかし、ハンナが誤解を解こうとすればするほど、羊肉亭の主人は、ハンナを肉食女子と認定するだけであった。
しかし、それも当然の事である。人化している時のブルーは、類稀な美少年なのだ。いっそ、可憐ですらある。そんなブルーのせいでベッドが壊れるとは、誰も思ったりしないのだ。
まして、ブルーは魔法闘士と思われているから徒手空拳である。そして、その容姿から、どちらかと言えば魔法使い寄りの闘士、と思われている。
となれば肉体派であるハンナが夜な夜なブルーを食い物にしていると思うのが、一般的な人の見方というものであった。
「ブルーのせいで! ブルーのせいでっ!」
街の門を潜り街道に出ても、しばらくの間、ハンナは顔を真っ赤に染めたまま、不満を言い続けていた。
これはしかし、大剣を背負ったドラゴンスレイヤーの、稀有な一面と言えるだろう。ハンナ・グラッツは、何処までも純粋だった。何しろ、生まれてから今まで、恋人の一人も出来た事が無いのだ。
しかし、それもそうだろう。考えてみれば、ハンナは、十五歳でハンターになった。十六歳になると最初のドラゴンを屠り、ドラゴンスレイヤーの称号を得て、周囲から特別視される様になった。そして十七歳でブルーを拾ったのだから、恋などしている暇があろう筈も無い。
可哀想に、世界屈指のドラゴンスレイヤーは、そうであるが故に私生活では喪女だった。
それでも昼になり、街道の脇で腰をおろし、羊肉亭で貰った弁当を食べ始めると、ハンナの機嫌は直った。
晴れ渡る空の下、何処までも広がった草原を眺めながら食べる羊肉亭特製の干し肉とチーズが、とても豊潤で美味だったからである。
ついでに、葡萄酒を飲んだハンナは、いっそ上機嫌になっていた。
「ブルー。そういえばドラゴン形態なら、アンタ、空を飛べるんじゃない? 私、もう歩くの面倒だから、王都まで乗せてって」
ブルーの表情は、酷く曇った。
竜王たる自分が、どうして人間ごときを背に乗せなければならないのか。
どちらかと言えば、髪を梳かす事のほうが屈辱だという事に気がつかないブルーは、諦め半分で竜の姿に戻った。
この大きさになってから空を飛んだことは無いが、飛べないはずが無い。それは、確信している。
がっくりと肩を落としながら、ブルーはハンナを咥えて背中に乗せる。
乗せるというよりは、背負った、という感じになったのだが、ハンナは上機嫌でブルーの首に腕を絡ませていた。
「飛べー」
羊肉の干物を咥えたまま、ハンナが叫ぶ。
辺りには旅人の姿も無く、したがって、ブルーの姿を見るものは居ない。
そもそも南方とはいえ、今は冬季である。こんな時機に好んで旅をする者はいないのだ。実際、大気は冷たく、肌を刺すようだった。それでも、ハンナやブルーが平然としているのは、自身の周囲に魔力を張り巡らせて、体感温度を上げている為である。
それはともかくブルーにしても、ドラゴン形態になれる時間は貴重であった。だから、人を乗せる程度で文句を言っても仕方がないだろう、と諦め、今は宙を舞ったのである。
◆◆◆◆
竜種とは、如何なる種族よりも早く飛ぶことが出来る。無論、竜種の中では優劣があるが、それでもブルーは水が属の第一位階である。故に、音速を優に超える速度で飛行することが出来た。
その速度では、山々も谷も川も、あらゆるモノが高速で流れ、空を切り裂く音さえ後から聞こえる有様である。
ハンナ・グラッツは、その状況に耐える為、全身に防御魔法を施さねばならない程だった。
そして徒歩では一週間かかる道のりを、一時間と掛からずに到達したのだから、ハンナ・グラッツは、前方に王都の門を見据えて、開いた口元に手を当て、驚いていた。
「はやっ!」
「ん?」
王都へ通じる門の手前で地上に降りると、街道を僅かに外れた位置で、再び人化したブルーの身なりをチェックするハンナは、驚きの声を上げていた。
「本気で飛べば、もっと速いぞ!」
両手を腰に当てて、胸を張るブルーは、誇らしげな顔をハンナに向ける。
日はまだ高い。とすれば、今からギルドに報告へ行く事も可能だろう。
竜種最速は、当然ながら風が属第一位階の竜である。とはいえ、ブルーがそれに大きく劣るかといえば、そうではなかった。
もちろん未だ成長途中であるだけに、その総合力においては、彼に勝る水が属の竜もいる。しかし、速度だけならば、彼は水が属の中において最速だった。という訳で、なぜか本人も気付かぬところで、ブルーは竜王の面目を保っていたのである。
「まあいいわ。早く王都に入りましょう」
「よくないよ! もっと俺の話を聞けよ!」
しかし、ハンナはブルーのそんな能力に興味は無かった。
早く着いた以上、なるべく早くギルド本部に出向き、賞金を貰って家に帰りたい。
ハンナ・グラッツは仕事が無ければ、基本的に引きこもりなのである。
ハンナとブルーは、よく整備された街道を暫く歩くと、王都を囲む長大な城壁の門に到着した。
門衛は、当たり前の事ながらハンナ・グラッツの顔をよく知っている。だから、彼女が懐からSランクハンターの証であるメダルを取り出すまでもなく、すんなりと門を通してくれた。
もちろん、これは厳密な法に照らせば違法にあたる。しかし、門衛の気持ちも分かってあげたい。
何しろハンナ・グラッツは、人類最強といわれる女である。そして、少なくとも王国最強なのだ。門衛如きが何人束になって掛かろうと、彼女が本気で戦ったら勝てる訳が無い。だから門衛は、トラブルを未然に無視するのだ。
臭いものには蓋を。怖いものはなるべく見ない。君子、危うきに近寄らず、である。
しかしながら、このダキア王国の王都マルムスティンを守るべき軍人からしてこの風潮なのだから、この国の腐敗具合は、推して知るべし、というものだった。
ダキア王国の歴史は長い。
建国は、六百年前まで遡る。当時は巨大な帝国が大陸全土を統べており、遥か東方の帝国と絶え間なく戦争を続けていた。
しかし、僅かの平和は訪れた。
互いの帝国は婚姻を結び合い、その血を交し合ったのだ。
仮初の平和は、その後、三十年にわたって続いた。だが、外に敵がいなくなった帝国は、内に敵を抱える事となる。
この時、かつて帝国に併合された国家であるダキアを始め、ガリア、ブリタニアが独立を宣言。帝国は瓦解した。
時を同じくして東方の帝国も皇帝が崩御し、六人の皇子達が互いに覇を競った。これ以後、世界は二十と四の国々に分裂し、纏まる事がなかったのである。
ダキア王国の国土は広く、人口は千二百万を数える。そして、その十分の一である百二十万の人々が王都マルムスティンで暮らしていた。
いかに国家が腐敗しようとも、人々は暮らし、生きてゆかねばならないのである。
ただ、喜びよりも悲しみが、歓楽よりも苦痛が、より多くの人に増えて行くだけで、社会として許容出来る範囲であれば、国家の崩壊には至らないのだった。
「肉だ! 肉! ハンナ! 肉!」
もちろん、王都に入ったブルーは、そもそも人間ですらない。だから、人々の苦悩を感じ取る事もなければ、悲しみを理解する事も無い。
ブルーは今、目抜き通りを歩き、露店から立ち上る、肉の焼ける香ばしい匂いに目を輝かせて、涎をたらすのみだった。
ただ、ブルーを見るうら若い乙女達の視線は、肉に目を輝かせるブルーよりも輝いていた。それ程に、ブルーは今や”蒼い稲妻”として、高い人気を誇る従者なのである。
当然ながら”ドラゴンスレイヤー”ハンナ・グラッツの勇名があるから、面と向かってブルーに近づく女は居ない。それでも、影からブルーの姿を一目見ようと集まる女子は、王都において、増える一方であったのだ。
そんな中でも、周囲を何一つ気にしないブルーは、ハンナの袖をひっぱり、肉を買ってもらおうとするのだから、ブルーに目を奪われている乙女達は、ハンナに対する反感を増大させる一方である。
「ブルー、後で買ってあげるから、今は、先にギルドにいくわよ」
「わ、わかった! 約束だぞ! ハンナ!」
羨望と嫉視の眼差しに晒されるハンナ・グラッツは、こんな理由もあってか、王都に居る時は、どうしても引きこもりがちになってしまうのであった。