少年竜王、ハンターを目指す
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「ハンナ! 俺、ハンターになりたい!」
食事中、唐突なブルーの発言だった。
ハンナ・グラッツとブルー少年が出会ってから、既に五年が経過している。
その間にブルーの見た目は、十歳位から十五歳位になった。成長も、頭脳以外はしただろう。容姿など、神懸かり的なまでに美しくなっている。蒼い瞳は澄みきった秋空の様に爽やかで、鼻筋が通っていながら、柔和な印象を与える。白く透き通る様な肌は、何処までも繊細だった。
もしも同世代の女子が百人いれば、九十九人は必ず振り返る。振り返らない一人は、恐らく美的感覚が常人とは大きくずれている為だろう。
ハンナ・グラッツの方は、十七歳から二十二歳になり、心身共に成長した。
特に肉体は、小柄ながらも均整がとれて、人類最強といえる程に強靭である。容姿も、少女の幼さが無くなり、絶世とまでは言えないが、それでも十分に美しい。彼女の切れ長の目で見つめられれば、大半の男は、その黒曜石の様な瞳に吸い込まれてゆくだろう。さらに艶やかな黒髪が、妖艶ささえ漂わせる女になっていた。
彼等の関係性は、誘拐犯と被害者、というと、実はもっとも分かりやすい。なぜなら、ハンナ・グラッツがドラゴンスレイヤーで、ブルー少年がドラゴンであるからだ。
しかし、本来は被害者であるところのブルー少年は、屈託無く、ハンナに夢を語る。何故なら、最近は、あまりに人化している時間が長すぎて、自分がドラゴンである事を忘れ気味になっているからだった。
そう、ブルー少年は、とても馬鹿なのだ。
しかしハンナとしても、最近ではドラゴンの凶暴性に疑念を抱きつつある。無論、それは普段、ブルーの行動を見ているからだった。
何しろ、水竜王たるブルーでさえ、特に問題なく人の社会に溶け込めるのだから、実は竜とは、良い種族なのではないか? と思い始めているのだ。
そして二人は今、岩石竜退治から、王都へ戻る途中に寄った街の宿で、腹ごしらえの最中だった。
テーブルを挟み、向かい合って座るハンナとブルーは、互いの健闘を称えあっても良さそうなものだが、最初から岩石竜如きには負けないと考えていた為、話題にもならない。
ここ”羊肉亭”の看板メニューは、当然ながら羊肉の煮込み料理だ。そのスープには、ジャガイモや玉葱などの野菜も豊富に入っており、じっくり煮込んでいる事もあってか、とても濃厚な味わいである。
稀代のドラゴンスレイヤーであるハンナ・グラッツは、一匙スープを掬い、飲むと、優しげな口調で、ブルー少年に聞いた。
「どうして、ハンターになりたいの?」
ブルーの瞳は、真摯にハンナ・グラッツを見つめている。けれど、ハンターになりたいなどと言い出したのは、ここ一月の事だった。
恐らく、岩石竜退治の依頼を王都のギルドで受けた時、ハンター募集の張り紙を見た事が原因だろう。
「ハンターになりたいから、なりたいんだ!」
「ブルー……」
理由になっていないブルーの言葉に溜息を吐きつつ、ハンナは再びスープを口に運ぶ。同時に、柔らかく煮込まれた羊肉も口に含むと、溜息は何処へやら、満面に笑みが浮かんだ。
ハンナは、羊肉亭の、この煮込み料理が好物だった。だから、王国の南方へ仕事がある時には、必ずここに泊まり、朝と晩、この料理を食べる事にしていた。
今は晩なので、左手にジョッキを持ち、ハンナは麦酒を煽る。後は眠るだけと思えば、アルコールの摂取も、ここ数年のハンナには欠かせない事だった。
ジョッキの中の麦酒は、ハンナの一口で半分程が消えうせた。そう、ハンナこの五年で、いつの間にやら、酒豪にも成長していたのである。
蒼い瞳に青い髪を持つ少年は、ハンナ・グラッツに、出会った頃からブルーと呼ばれている。
きっかけはブルーが、自身をブルーと名乗った事によるのだが、未だにブルーの真名を、ハンナが知らないから、という理由もあった。
ドラゴンにとって真名とは、深い意味を持つ。
真名を自らドラゴンが名乗った場合、特定範囲にいる下位の生命体は全て、服属する事になる。高い知性のある者は、それを拒む事も可能だが、代償として恐怖が伴うのだ。恐怖は、その個体の潜在能力を低下させる。
故に、理性あるドラゴンは、真名を安易に名乗らないのだ。
もっとも、ハンナはブルーに真名があるのかどうかも知らない。しかし、第一位階のドラゴンに真名が無いなんて、そんな馬鹿な事は無いだろう、と考えていたのだ。
五年前に倒した雪竜アイゼルは、水が属、第二位階のドラゴンで、真名を高らかに名乗ったが故に、人里に多大な被害を齎したのであった。
それを思えば、幾らブルーが馬鹿とは言え、ハンナも迂闊に真名を聞く気にはなれなかったのである。
「なあ、ハンナ! いいだろ?」
フォークを右手に、ナイフを左手に握り締めて、目の前の肉まで口を運ぶブルーである。やはりブルーは、衣服こそハンナが買い与えた藍色の絹服で立派なものだが、いつまでたっても食事の作法さえ覚えられない、駄目なドラゴンだった。
当然ながら、ブルーの利き手は右である。だから、フォークとナイフを持つ手が逆なのだ。それだけでもハンナの溜息は、いつもの二倍になろうというものなのに。
しかし彼は、ハンナの憂鬱などお構いなしに、口の周りにソースをべったりとつけて、星屑の如き輝きを誇る蒼の両眼で、真摯にハンナ・グラッツを見つめている。
「ハンターになりたい」これは、水竜王ブルードラゴンたっての願いであった。
そして、願い出る相手は、王国きってのドラゴンスレイヤー、ハンナ・グラッツなのだから、ある意味では世も末である。
ちなみに、ハンナ・グラッツは、「本来は、お前がハントされる側だろう……」という言葉を幾度飲み込んだことか、数える気にもならなかった。
◆◆
ハンナとブルーは、食事が済むと”羊肉亭”の二階にある部屋へと移動した。”羊肉亭”は、宿屋謙食堂なのだ。
とはいえ、最高級の宿ではない。となれば、王国屈指のドラゴンスレイヤーが常宿とするには、如何にも質素な作りだった。
古い壁や柱の木目は所々に黒ずんで、この宿が辿った長い年月を思わせる。部屋にはベッドが二つあるが、どちらも、真っ白とは言えないシーツが敷かれていた。しかし、しっかりとノリが効いていて、手入れが行き届いていることが良くわかる。これも、ハンナがこの宿を好む理由の一つであった。
部屋に入ると、ハンナは視界の隅に魔力を帯びた鎧と愛用の大剣を入れて、問題が無い事を確認した。それから、朱色の上着を脱ぐと、そそくさと白い部屋着に着替え、後頭部で束ねた黒髪を解く。
別に今更、裸をブルーに見られたところで、ハンナはどうとも思わない。そもそも、ブルーはドラゴンなのだから、恥ずかしがる事など無いのだ。
しかし、ここ一、二年で急速に成長したブルーの外見を見ると、つい背を向けて着替えてしまう、最近のハンナだった。
着替えが終わると、ハンナは椅子に腰掛け、テーブルに置かれた鏡を見る。
ブルーは鞄から櫛を取り出して、ハンナの後ろに立った。何しろここ数年、ハンナの髪を整えるのは、ブルーの役目なのだから、当然である。
所謂、奴隷化だった。しかし、当初こそ目に涙を浮かべて嫌がったブルーも、今ではハンナの髪を朝晩梳かす事が、生きがいと化していた。やはり、駄目なドラゴンである。
「なあ、ハンナ。俺、ハンターになれる実力はあると思うんだ」
いつにもまして甲斐甲斐しく髪をとかすと思えば、それ程までにハンターになりたいというのか。
ブルーの身長は、人化している時でも、既にハンナを越えていた。ドラゴン形態では、未だ二メートル弱と小さいが、それでも、人にとっては十分に驚異的な大きさである。
ハンナは決して言いたくなかったが、ブルーは既に、並みのドラゴンスレイヤーでは手に負えない強さだった。ハンターとなれば、既にしてAクラス以上は確定だ。
つまりブルーは、自身の実力を随分と下に見ている、という事である。
ハンナは腕組みをしつつ、考えた。
ふと、壁に立てかけた大剣が視界に入り、やはり斬ってしまおうか? と危ない事もハンナは考えた。今ならば、ハンナがブルーに敗れる事は無い。しかし、あと十年後、自分はブルーに勝てるだろうか? そう考えた時、背筋が冷えたのだ。
ふと、両腕を抱えて、ハンナは身震いした。
「ハンナ? 寒いのか?」
その姿を見たブルーが、小首を傾げてハンナに問う。
流石に五年も行動を共にしていれば、情も湧く。ハンナは首を横に振り「違うわ」とだけ答えた。
ハンナは瞼を閉じると、ブルーの願いを聞き届ける事を、そっと決めた。
(実際、ブルーはこの五年、人を襲ってもいないし、死肉すら食べていない。羊肉や鶏肉で満足しているのだから、野に放ったとしても、問題無いでしょう……万が一の時は、私が命を賭して止めればいい)
再び瞼を開くと、ハンナは肩越しにブルーを見つめ、聞いた。
「ねえ、ブルー。ハンターの仕事が何か、分かっているの?」
「もちろんだ! 気に入らないヤツを殺すんだろ?」
根本が、違った。
ハンナは振り向き、ブルーの顔面に拳を叩き込んだ。
「ま、間違えた! 悪いヤツを倒すんだろ!」
「そ、そうね。依頼を受けて、だけど」
今度は、あながち間違いとも言えない。この辺で手を打とう、とハンナは思った。
「一つ聞かせて。ブルーにとって悪いヤツって、どんなヤツのこと?」
「国王や大臣だろ」
鏡に映るブルーの顔は、笑顔で輝いていた。
殴られても傷一つ負わない防御力は、もはや脅威である。だから、ハンナは椅子を横に倒すと、ブルーを蹴飛ばした。
真っ直ぐに伸ばしたハンナの足先が、ブルーの即頭部に命中する。
遠心力を最大限に活かしたハンナの蹴りは、ブルーの首を刈り取るかのように弧を描き、盛大な音を響かせた。
ズドンッ!
「ぎゃあああ!」
ハンナは剣士だが、同時に、闘士としてはブルーの師匠である。さらに言えば、人類最強の呼び声も高い人物なので、彼女の本気には、未だ竜王とて敵わないのだ。
悲痛な声を響かせて、床に転がる竜王は、涙目のまま左即頭部を押さえている。流石に、ダメージがあったようだ。
「はぁ」
ハンナ・グラッツは、椅子を戻し再び座ると、テーブルに肘をついて、盛大な溜息をついた。
間違っていなくとも、やってはいけないことがある。言って分からない馬鹿には、鉄拳制裁しかないのだ。
国王や大臣は、確かに、この国においては悪かもしれない。しかし、あくまでも社会における必要悪なのだ。
だが、それを説明してもブルーには分からないだろう。それに、決してハンターが狙う獲物にはなり得ない。何故なら賞金が掛からないのだから、狩るだけ無駄だ。そもそも、ハンターが狩るモノは社会の悪ではなく、人類の敵である。
だが、ハンナの口元は、僅かに綻んでいた。
ブルーが悪と認識するものは、或いは純然たる悪かもしれない。あらゆる存在に対して、ブルーは善悪を認識しているようにも思える。
これが竜王の成長過程だと考えれば、自身の視野こそが狭い事になるのではないか。そう、ハンナは考えたのだ。
だが、そんな事よりも、今はブルーに説明する方が先だった。
ドラゴンスレイヤーという職種からしてハンターの亜種の様なものだ。だから、実際にハンナ・グラッツも冒険者ギルドのSランクハンターである。ドラゴンスレイヤーの称号は、ハンターとして仕事をする過程でドラゴンを屠っているから、そう呼ばれるだけの事なのだ。例えば巨人を打ち倒す者は、ジャイアントハンターの称号を得る。
さらに、ハンターとは、認められれば従者を持つ事さえ許可されるのだ。
Cランクで二名、Bランクで五名、Aランクで七名、Sランクともなると、十名もの従者を持てるのだ。
逆に言えば、Sランクの仕事ともなれば、本来、十人の従者を連れて行っても、生還率が五十パーセントを切る様な仕事ばかりだった。
ちなみにブルーは、ハンナ・グラッツの従者”魔法闘士”としてギルドに登録してある。
そして、今までの五年間、Sランクハンターと十人の従者でも倒せなかったドラゴンを幾体も屠っているのだから、実は既に、ブルーの名声は確立しているのだった。ハンナ・グラッツの従者”蒼い稲妻”として。
ハンナは、ブルーに説明を続ける。
「――従者としての経験が加味されるから、少なくともハンターに登録する試験は受けられるわ。試験はハンターの仕事を達成することで、今のブルーなら、Aランク相当の仕事も請けられると思うわ」
鏡に映るハンナの顔が暗い。
その一方で、髪を傅くブルーの表情は、非常に明るかった。
一連のハンナの説明を聞いて、ブルーの笑顔は輝いている。
もちろん、さっき折れた首の骨は、二分でくっついた。
「じゃあ、俺、すぐにもAランクハンターになれるんだ!」
「そうね、Aランクの仕事をこなせれば、ね」
もしもギルドに、ブルーがこんなにも馬鹿だという事がバレたら、ハンナは恥ずかしくて、二度と顔が出せなくなるだろう。
その一方で、五年も一緒にいたが、そろそろ野に帰すには良い時機かもしれない、とも思う。だから、その前に、本人が望んで人の社会に入るのならば、それは叶えてやりたいとも思うのだ。
これは、ハンナの親心でもあった。
「王都に戻ったらギルドへ行きましょう。どのみち、今回の仕事の報告もあるし」
ハンナは手を後ろに回し、ブルーの頬に触れた。触れれば、ブルーの体温が人よりも低い事がわかる。それでもハンナは、ブルーの力強い生命力を感じるのだった。
「柔らかいね、ブルーは」
「ん? お、俺は食べ物じゃないからなっ!」
ハンナは、ブルーが受ける仕事を手伝うつもりであった。そうすれば、どんな仕事であれ、成功するだろう。それで、ブルーはハンターになれるのだ。
ハンナは、これをブルーに対する最後のプレゼントにするつもりだった。
Aランク以上のハンター同士が行動を共にする事など、まず無いと言っていい。となれば、ブルーの受ける仕事こそが、ハンナがブルーと共に旅をする、最後の機会になる筈だから。
そんな事とは露ほども思わないブルーは、ハンナの右手を払いのけ、櫛を握り締めたまま、部屋の隅で震えていた。
ブルーは連想したのだ。
ハンナの好物は柔らかい羊肉。ならば、柔らかい俺って何? つまり肉? 肉だから、煮る? 俺、もしかして煮られる? そして、喰われる? となったのである。
ブルーは、何処までも残念な竜王であった。