竜と人間
◆
ルイードの街を出て南西へと歩むハンナ・グラッツとフレイヤ・ヘカティ。二人に遅れてルイード公ウィルが息切れしながら、なんとか付いて行く。田舎道は決して平坦ではなく、起伏の激しい道は、中年貴族の体力をじわじわと奪うのだった。
太陽はまだ中天に達さず、午前中の風は冷たく肌を刺す。だが街道を外れ、細く曲がりくねった田舎道を歩む一向には、汗こそ滲むが寒さは感じられなかった。
(も、もう限界だ。足がガクガクする)
ルイード公は冑の下の顔面を蒼白にして、震え声を押し殺した。
(なぜ、馬に乗ってこなかったのだ!)
己の迂闊さに反吐が出る思いのルイード公。迂闊であるのは仕様であり、それは仕方が無い。
「そ、そろそろ休息をとりませぬか、お嬢様方。朝から何も飲まず食わずで、かれこれ二時間近く歩いています。まあ、私は壮健な男子なればどれ程歩こうとも構いませぬが、お二方には多少辛い道のりでございましょう」
剣を杖代わりにして、行く手を阻むであろう渓谷を指差すウィルは、その言葉と裏腹に、今にも倒れそうである。
ウィル曰くのお嬢様方とは、最強のドラゴンスレイヤーと最強竜種の姫君である。
無論、振り返った二人には、疲労の色などあろう筈もなかった。
「ウィル、大丈夫か?」
きょとんとした表情を見せる、金髪巻毛の美少女ドラゴンは、首を傾げる仕草がとてつもなく愛らしかった。
「む、むろんでございます」
その笑顔を見れば、勇気百倍、元気千倍のルイード公。背中に一本筋が通ったように、直立不動の姿勢をとる。
だが所詮背中に筋が通った所で、イカの背骨程度のもの。軟体動物と化したウィルは、ゆらゆらと揺れている。
「ここはルイード公のお言葉に甘えて休みましょう。マール山の地図を確認しておきたいし、まず地母神デルメルの神殿に向かうのであれば、どのようなお方がそこにおられるのか、先に聞いておきたいわ」
歩いているうちに若干冷静になったハンナは、肝心な事も聞かずに街を出た事を少しばかり後悔していた。
そもそも、どれ程歩けば神殿に着くのかも分からない。
朝食を摂らずに出立したのは、まさに失敗だった。
フレイヤはドラゴンだから、別に一日や二日くらい食事を摂らなくても、何ら問題ないだろう。しかし、ハンナやルイード公は間違いなく人間だ。となれば一日絶食するだけでも、力があまり出なくなる。
ハンナは周囲を見渡して、丁度良い広場を見つけた。
もとより冬場の乾燥した大地である。
生い茂る草花も無く、荒涼とした赤茶色の土と、枯れ落ちた葉が、やはり同系統の色で溶け込んでいるだけの色彩の薄い田舎道。そこで人が座れる程度に大きい岩を探す事は、比較的容易であった。
「ここで休みましょう」
「うむ。この辺りならば、魔物の気配もないのう」
ハンナの提案に、頷くフレイヤは笑顔を浮かべる。
この時、ハンナは不意に瞳を曇らせた。
ハンナも当然、周囲に結界を張り魔物の有無を確かめることは出来る。だが、ここ数年、常にブルーが匂いで魔物の有無を調べていたから、ハンターとして基本であるにも関わらず、それを怠っていたのだ。
今もそうである。ハンナは辺りを警戒すること無く、休息場所の魔物の有無を調べなかった。
もっとも、今はブルーの代わりをフレイヤがやってくれたのだ。
それはありがたい事であったが、ハンナにとっては殊更に、ブルーの不在を印象付ける結果になったのである。
「ふぅ」
人一人が座れる程度の岩に腰を下ろすと、溜息を吐き出したハンナは、物憂げで美しい。
「よいしょ」
何故か大きな岩に登り、仁王立ちをするフレイヤは未だ元気いっぱいだ。
凹む理由も疲れる理由もないのだから当然だろう。その姿を羨ましそうに見つめるハンナは、またしても傷心モードだった。
だったら、休まなければいいのに。
一人、体力の限界を迎えたルイード公は、よろける足を引き摺って、背嚢を岩の上に置くと、自身は大地に大の字になり横たわった。
もはやその姿は、邪神と一戦交えた後でもあろうかと言うほどに疲弊している。
「大丈夫か? ウィル」
優しげな声が、岩の上から注がれた。
光を背にした金髪の少女が、まるで後光でも差しているように見えたルイード公。やはりここで元気を取り戻す。
「はっはっは。ちょっと昨夜は睡眠不足でしてな。なに、ちょっと横になれば回復します」
もちろん、空元気である。
体力が回復するわけも無い。
「回復」
その時、ハンナは冷え切った切れ長の瞳をルイード公に注ぐと、右手を高々と掲げて人差し指を天空へ向けた。
すると、ぼんやりとした淡い光がハンナの指先に宿り、ゆらゆらと揺れる。
その光を弾くようにルイード公に投げると、不思議な事にルイード公の体力が回復した。
「おお! ハンナどの! これは助かりました」
むくりと起き上がったルイード公は、握りこぶしに力を入れて、実に精悍な表情を作る。
格好だけは、どこまでもつけたがる中年だ。
「さて、それでは……」
ルイード公は、先ほど岩の上に放り投げた背嚢を開き、その中から一枚の羊皮紙を取り出した。それから、油紙に包まれたパンと干し肉を出し、美女と美少女の二人に均等に分ける。
もちろん、小食な彼の事。自分の分は干し肉だけで十分だった。
それから、水筒を取り出しハンナに渡す。
これは、彼のセコイ作戦があった。
(ふふ。私は水筒を一つしか準備していない。となれば、二人と私は間接接吻をっ!)
ちなみに、まずハンナに渡した理由は、ハンナからフレイヤに渡った水筒が、自分に返ってくれば良いと考えての事。未だにフレイヤを狙う中年公爵は、きっとそのうち風竜王にでも焼かれるであろう。
そんなルイード公の作戦を知ってか知らずか、フレイヤが近場の岩を砕き、腕の一部を竜化して石を研磨すると、なんとコップを作ってしまったのである。
「ハンナ、コップじゃ。使うが良い」
「ありがとう。すごいわね、フレイヤ。こんなものも作れるんだ」
「えっへん、じゃ!」
絶望に打ちひしがれたルイード公は、お気の毒様である。
◆◆
「歩くと、三日位かかるわね」
岩の上に乗せた地図を、腕を組んで気だるそうに眺めるハンナが言った。
「では、飛ぶがよい」
相変わらず一番大きな岩から降りようとしないフレイヤは、額に手を翳して、遠くを眺めながら答える。
差し当たり、この中で飛べるのはフレイヤだけなのだが、その辺りをこのドラゴンはどのように考えているのであろうか?
きっと、何も考えていないのであろう。
「じゃあフレイヤ、背中に乗せてくれる?」
「嫌じゃ。我は獣ではない。何故、馬やら驢馬やら河馬のように、人をその背に乗せねばならぬのじゃ!」
フレイヤは両手を腰に当てて、黄金色の眉を吊り上げてハンナを睨んだ。
とりあえず、人はあまり河馬の背には乗らないが、つまり、ドラゴンは人を背に乗せる事がいやなのだろう。
思わずハンナは右手を口元に寄せて、”はっ”とした。
(私、もしかしてブルーに酷い事をしていたのかしら?)
今更気付いたハンナである。
竜王なのに、家畜以上奴隷以下の生活を強いられれば、誰だって嫌になるだろう。
もっとも、ブルーの場合は普通の暮らしを知らないので、奴隷以下の扱いも、割と難なく耐えていたのだが。
(私、ブルーに謝らないといけないわ)
ようやく人間としての心を取り戻したハンナである。
遠い空を見上げ、ブルーの瞳を思い出すとき、ハンナの黒曜石の様な瞳に、初めて清らかな涙が浮かぶ。
(本当に酷い事をしていたのね。ブルーだって生き物なのに……)
独りよがりのメンヘラだったハンナが、初めてブルーの立場になってモノを考えた瞬間である。
でも、スタート地点が些かずれていると思うが、良いのだろうか?
「ねえ、フレイヤ。私、ブルーの背に乗ったことがあるの。それって、凄く悪い事をしたのかしら」
「うむむ……ブルーさまの背に……」
ハンナの質問に首を傾げ、顎に指を当てたフレイヤは唸っている。
素直なフレイヤは、基本的に誰かの質問に対して真摯に答える。
ちなみにドラゴンが真摯であるという事は、ドラゴン特有の超演算能力を閉ざしている事を意味するので、その分、その時の個体はおバカになるのだった。
もちろん、察しの良い皆様ならばお分かりだろう。ブルーに至っては、超演算能力の使い方を知らないのである。
「竜王の背に乗るなど、無礼極まることではあるが……夫婦ならば良いのではないか? じゃが、我ならば、決して人と番になったとしても……夫だとしても、背には乗せぬな、屈辱じゃ……うむ」
真摯であるとは、逆に言えば情を感じる力でもある。
上位のドラゴン達が時に血も涙も無い暴虐の徒と思われる理由も、実はそこにあった。
ドラゴンはあらゆる生命の血肉をその力に変えられるのだから、あくまで合理的に思考すれば、自分以外の生命体を絶滅させても構わないのである。
むしろそれこそが本能であり、その為にこそ彼らの超絶的な演算機能は働くのだ。
だが、そんなことよりも人と番になる、というフレイヤの言葉に反応するルイード公。彼は今回の冒険に色々とかけている。今ではいっそ、邪神討伐は事のついでだ。むしろ出来ればフレイヤに言い寄りたい。だから少しだけハアハアしてきた中年公爵はやはり変態だった。
加えて傷心のハンナも美味しく頂ければ、ミッションコンプリートなルイード公。姑息さにかけては六公爵随一である。
「大丈夫です。三日かかるとしても、食料は三日分持っておりますし、この辺りは湧き水も豊富。いざとなれば、私の水系魔法もありますので、ご安心を」
白金の鎧を輝かせるルイード公は、その瞳も輝いていた。
徒歩でマール山の中腹まで上るのは難儀だが、三日もこの美女たちと寝食を共に出来るのならば、様々なチャンスがあるだろう。
無限に広がる下心に、ルイード公の股間ははちきれんばかりだった。
――その時、目指すマール山の方向から轟音が鳴り響き、幾つもの火柱が立ち上った。
三人が目にしたものは神の鉄槌さえ思わせる圧倒的な火力であり、耳にしたのは地獄の底から響き渡るような雷鳴だった。その上、大地を飲み込むほどの大波がマール山を襲う。
海さえ無い場所で、これ程の水を扱える者といえば――
「わ、私ではありませんぞ? いかに私が水魔法の達人でも、さすがにあれほどでは!?」
だれもルイード公などとは言っていない。
両手を広げて大きく手を左右に振るルイード公など、女剣士とロリドラゴンの眼中には無かった。
「ブルーっ!」
「父上っ! ブルーさまっ!」
ハンナはマール山に目をやり、涙を浮かべながら叫んでいた。
フレイヤの方は、若干頬を引き攣らせながら、青ざめた表情を浮かべている。
(私に危ない真似をさせないようにって……一人で邪神と戦いに行くなんて)
(父上、また家出をして暴れておられるのか。我が止めねばならぬのは、嫌じゃ。しかもブルーさまと一緒とは、余計にタチが悪いのじゃ)
恋で沸騰しているハンナの脳内で処理された現状は、実にブルーに都合よく帰結していた。
一方、フレイヤの方は現状をよく理解しているようであった。
「はうあっ!」
そしてお騒がせ公爵の方は余りの惨事に、見事なまでの失禁っぷリである。
◆◆◆
その夜、大破壊を終えた後の竜王ニ柱は、しんみりと何も無い空間で語り合っていた。
共に破壊の限りを尽くした仲とて水竜王ブルーと風竜王ジュノーは、互いに唇の端を上げてニヤリと笑いあう。
もちろん竜が唇の端を上げると、妙なものである。
尖った牙が見えて、喉の奥で燻る炎が見え隠れするのだから、もしも側に人間がいたのなら危険極まりない状態だろう。
「いやあ、まさかジュノーがフレイヤのお父さんだったなんてなぁ!」
「うむ、いや、わしも水竜王とフレイヤに面識があったとは思わなかったぞ!」
「それにしても、ジュノーはなんで家出なんかしたんだ?」
「うむ、それじゃ、それ」
ニ柱の竜は大地に穴を空け、二つの池を作り、そこに溜めた水を時折飲んだ。
ドラゴンなのだから別に飲まず食わずでも良さそうなものだが、何故か人間にかぶれてしまっているニ柱の竜王は、互いに「乾杯」、などといって大地をくりぬき作った器を中空でぶつけた。
何が乾杯だ。
直径十メートルにもなろうかという池を、簡単に持ち上げないで欲しい。
しかも手を使わず魔力によって浮かせ、二つをぶつけるのだから、何処までも無駄なことである。
「嫁がな、娘が人間好きになったのは、わしのせいだと言うのじゃ。じゃが、わしは別に人間が好きなわけではないのじゃ。ただ、たまたま人間から面白い話などを聞いたりしておってな、それをそのまま娘に聞かせておっただけなのじゃ……それなのに、それなのにキシャルのヤツときたら……ウオオオオン」
「わかる、わかる」
ジュノーの嘆きに、長くなっている首を縦に二度、三度と振るブルーは、当然ながら何も分かっていない。
精々分かった事は、ジュノーが人間好き、という事だった。
「……挙句に、フレイヤが人間の街に出て帰ってこぬから探して来いと言われ、さんざん怒られてのう……わしとて竜王じゃ。我慢にも限度というものがあるのじゃ。そこで、フレイヤを探しに行くフリをして家出をしたという訳なのじゃ」
ここで胸を張る風竜王は、純白の鱗を星明かりに輝かせて、何処までも神々しい。
だが、言っている事は殆ど「ちび〇る子ちゃん」に出てくるお父さんと一緒である。なんなら、居酒屋があったら入りそうな勢いだ。
「わかる、わかる」
やはり鷹揚に頷くブルー。
彼は決して分かったフリをしているわけではない。自分なりに、分かっているつもりなのだ。とてもタチが悪い。
「俺も、妻が横暴で……逃げたんだ!」
どうやら、微妙な所を理解していたらしいブルー。
最近覚えた「妻」という言葉を使ってみたくなり、横暴だったという事実を組み合わせた結果、DV被害にあっていた主夫みたいになっている。
一体、どこのシェルターに避難するというのだろう、この竜王は。
「ほ、ほう? ブルー、お主、その若さで既に妻が……ま、まさかフレイヤではっ?」
どうやら、ジュノーの思考もおかしいようだ。
ブルーがフレイヤを知っている、だから彼女を手篭めにした、と判断したのだろう。
だが、仮にそうだとしても、結果DV被害にあっているのはブルーという事になる。
という訳で、ジュノーの瞳に宿る怒気は、斜め上を駆け抜けていった。
「グルル。娘に手出しをしておったなら、同じ竜王とて許せぬ……」
「いや、ハンナだ。ハンナ・グラッツって言う人間が俺の妻だ!」
「なんだ、フレイヤではないのか、ならば良いのじゃ」
ブルーの言葉を鵜呑みにした風竜王。竜王にあるまじき素直さである。
しかも、ブルーが言ったもっとも重要な部分を一度スルーした。挙句に、池の水を盛大に吐き出して驚いたのだから、かなりのバカである。そのポテンシャルは、もしかしたらブルーと互角かもしれないジュノー・ヘカティ。
むしろこんな有様で、よく第二位階の竜を妻に出来たものだ。いっそ、こんな竜王が夫であるキシャル夫人に同情を禁じえない。
「ぶーーーっ! ――え!? な、なんじゃと!? に、人間を妻にじゃと? それに、ハンナ・グラッツといえば、聞いた事があるのう?」
「まあ、ドラゴンスレイヤーだからなぁ。俺も危うく狩られる所だったよ。ははは」
ブルーの乾いた笑いがマール山に木霊する。
その時、ブルーとジュノーは同時に鼻をひくつかせた。
よく知った臭いが迫っていたのだ。
「お、フレイヤじゃ。こちらに向かっておるな?」
「あ、本当だ。げっ! ハンナも一緒だ!」
どうやらマール山の大災害を見たハンナ達は、夜になってフレイヤの説得に成功したようである。
漆黒の体を夜空に躍らせて、風を切って進む雷竜は、ブルーが逃げ出すよりも早く、彼らの下に到着したのだった。
漆黒のドラゴンに跨るドラゴンスレイヤーは、その背から下りると怯えきったブルーに歩み寄り、その背中をそっと撫でた。
「ごめんなさい、ブルー。それと、私の為に、ありがとう」
ブルーは二度ほど目を瞬かせると、小さく頷き微笑を浮かべる。
言っている意味は分からないが、ハンナが怒っていないことに胸を撫で下ろすブルー。
「あ、ああ」
すぐさま人化してハンナを抱きしめたブルー。その目は、もちろん激しく中空を泳ぎ、フレイヤと視線が合うと、激しい抗議を投げつけた。
しかし悲しいかなブルーはハンナを見ると、つい人化してしまう。これが所謂刷り込みというものであろうか。