風竜王の嘆き
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今日はハンナに邪神討伐へ向かってもらおうと考えていたルイード公にとって、朝から実に予想外の展開となった。
ハンナ・グラッツとブルー・グラッツが協力すれば邪神とてあるいは、と考えていたし、もしかしたらフレイヤも手伝ってくれるかな? などと淡い期待さえ持っていたルイード公だ。この展開には、激しく失望していた。
「ブルーどのは逃げるし、ハンナどのとフレイヤさまが戦い始めるなんて……」
早朝から途方に暮れるルイード公ウィルは、とてもお気の毒である。
だがしかし腐ったミカンなルイード公は、ダキア国民にその人ありと云われる六公爵が一人なのだ。これ以上腐乱する訳にもいかなかった。
地上で対峙する二人の美女を三階から見下ろすと、彼は一人自室に戻る。
決して状況を悲観して自決する為ではない。もちろん現実逃避をして、妄想にふける為でもなかった。
やむなく意を決したルイード公は、先祖伝来の武器を取りにきたのである。
白金に輝く鎧は神々しく、手にした剣と盾は、まさに邪神を討った女騎士のもの。これであと十五歳程若ければ、もはやハンナ如きビッチは即座に言いなりになったであろう。それ程に輝ける騎士となったルイード公である。
だがルイード公は、庭園に飛び出す勇気がもてなかった。
何しろ公爵は、こんな自問自答を繰り返していたのだ。
(最悪の場合私は、一人で邪神を討伐するのだろうか?)
(無理でしょ!)
(だからといって、あの二人の激突を止められるのか?)
(無理でしょ!)
だだっ広い広間を行ったりきたり、鎧の音を響かせて、顎に手を当て眉間に皺を寄せる公爵は、しかし彼を信奉する侍従たちに、素敵な勘違いをされていたのである。
「つ、ついに公爵さまがお立ちになられる! これで我がルイードは安泰だ!」
そう、この国において六公爵とは、竜にも引けを取らない異名なのだった。
そしてついにルイード公は重い足を進め、庭園の石畳を踏む。
彼はついに決断したのだ。
「一人で邪神は無理! だから、絶対にここは二人を仲裁するぞ!」と。
◆◆
上り始めた太陽に目を細めつつ、フレイヤ・ヘカティは眼下の女剣士を見た。
長大な剣を構えながら微笑を浮かべる漆黒の剣士は、絶対の自信に溢れている。
「夫に逃げられたのに……」
「うるさい!」
だが、そんなハンナの自信を打ち砕いたのは、フレイヤの強力無比な攻撃ではない。単なる呟きだった。
「真空烈斬っ!」
張り詰めた空気の中、ハンナが大剣を打ち上げる。
銀の輝きは弧を描き、ついで空間に亀裂が入った。
空に浮くフレイヤ・ヘカティに、ハンナはソニックブームを放ったのである。
「ふおぉぉ?」
こんな技を見るのは初めてのフレイヤだ。
両腕を交差させると、部分的に竜の鱗をあらわにして防御した。
バアアァァァン
腕ではじけた風の刃は、フレイヤの髪を巻き上げる。
その間に、ハンナは強靭な肉体を走らせ、跳び、フレイヤの背後を取った。
だが、フレイヤもさすがはドラゴンの中の最強種。
すぐさま危険を察知した彼女は、空中で上体を捻ると雷撃を放った。
ハンナの攻撃をかわし、反撃までしたドラゴンは、今まででも数える程である。
今までフレイヤの首があった場所に、ハンナの大剣が突き刺さる。それと同時に、ハンナの身体に稲妻が直撃した。
まして、ドラゴンから攻撃を受けた回数はさらに減るハンナ。
これは、ある意味では油断だった。
「くっ!」
落雷のあと、ハンナの呻きは小さい。
この油断はブルーが逃げた事によるものだが、絶対に認めたくないハンナである。
認めたくないのに、地上に着地したハンナは、足に力が入らなくなり、膝を地に付けた。
剣も手放し、ひくひくと肩を揺らすハンナは、どう考えても涙を零していた。
庭園の石畳に、ハンナの零した大粒の涙が淡い染みを作る。
「ひっく、えっぐ。ブルゥー。そんなに私の事が嫌いなのぉ……」
剣を投げ出し、小さく丸まって嗚咽を漏らし始めた最強のドラゴンスレイヤーは、もはや初めての失恋を経験した少女だった。
そこに、首を傾げながら下りてきたのはフレイヤ・ヘカティである。
せっかくのロリータドレスが一部裂けていたが、そんな事は気にならないフレイヤは、興ざめでもしたように、涙に濡れるハンナ・グラッツを見据えた。
「なんじゃ、嫌われておったのか?」
さらに首を傾げるフレイヤは、何が何だかわからない。
ブルーとハンナは、確かに番に見えたフレイヤだ。なのに逃げ出すブルーの気持ちは、しいていうならフレイヤにだって分からない。
「き、嫌われていないと思っていたけど」
弱気になったハンナは、藁にも縋る思いで、フレイヤの蒼い瞳を見た。
「だが、嫌われてもおらぬのに、どうしてブルーさまは逃げたのかのう?」
「わ、私が聞きたいわよ……。ねえ、貴女ドラゴンなんだから、鼻もいいでしょ? 匂いで、ブルーが何処に行ったかわからないかしら」
「わかる」
「じゃあ、教えて!」
「断る。なぜ、我が眷属の最上位階におられるブルーさまを、人間に売らねばならぬのじゃ。ブルーさまは、我に恩を感じ飛んでいかれたのじゃ。ゆえに、我がおぬしに教える事は何も無い」
それにしても、フレイヤは不思議だった。
どちらかと言えば、ハンナとブルーを見ていると、依存しているのはブルーの方だと思っていたのだ。それが、この状況を見ればハンナ・グラッツにとってこそ、ブルーが必要だった様に見える。
何しろ、フレイヤの言葉を聞いて、怒りに燃えるどころか虚ろな目を彷徨わせて、ふらふらと空を見上げるハンナ・グラッツなのである。
――これが、人類最強のドラゴンスレイヤーの姿か。まさに、拍子抜けじゃの――
踵を返し宮殿に戻ろうとしたフレイヤの目に、完全武装のルイード公が現れた。
「及ばずながら、ルイード公爵ウィル、この戦いの仲裁に参りました!」
◆◆◆
ルイード公の装備は、「白金鎧」「白金盾」「白金剣」に「白金冑」だった。
それはもう、朝の陽光に際限なく映えて輝いていたし、冑の上にあしらわれた真紅の房は、まさに指揮官の証で勇壮だった。
ただし、ガチガチと全身を震わせていなければ、だ。
跪くハンナと、反り返るフレイヤが同時に振り向くと、そんな姿のルイード公が立っていたのだから、失笑だ。
「仲裁なんていらないわ。私、戦う気力が失せたもの」
「うむ。我も興ざめじゃ」
ルイード公は、この展開にホッと胸を撫で下ろし、背後で見守る侍従たちに会心のガッツポーズ。
だが、この状況が彼の功績ではない事など日を見るより明らか。しかし侍従達の信頼は厚かった。
「これも、全てルイード公がおわすから」
そう考えた彼等の中で、既にウィルは生きる伝説と化した。
「ハンナどの。ブルーどのの事は真に気の毒だが、人の、いや、竜の心は秋空の様なもの。また、不意に戻ってくることもありましょう」
戦っていないとなれば強気なルイード公は、年若いドラゴンスレイヤーに人生の重みを諭す。
だが竜の気持ちなど一切わからないのに、大丈夫だろうか? このおっさんは。
「うむ。まあ、我もそう思う。正直、竜王さまが人間の夫になるなど不快と思うたが、考え様によっては素晴らしいのじゃ」
フレイヤの言葉に、俯いていた顔を上げたハンナは、その瞳に僅かばかり輝きを取り戻した。やはり、ドラゴンの気持ちはドラゴンが一番分かるに違いない。
だから、これはハンナにとって何よりの慰めだった。
この際、ルイード公の言葉は聞こえないフリをしたハンナである。
でも、実際ルイード公もいい事を言ったらしい。
「あ……フレイヤ……」
「なんじゃ?」
「さっきは、三下なんていってゴメン。貴女、強いわ」
「うむ、うむ、そうじゃろう。そなたも強いぞ。いずれ、心置きなく戦いたいのう」
「はは。私は別に戦う趣味はないのだけれど、貴女が望むなら受けましょう。今日のことは、だから借りておくわ」
小さな手をハンナに差し出したフレイヤ。そして、その手をしっかりと握り立ち上がったハンナは、この時確かに友となった。
刃を交えたら友となる。
強敵と書いて「とも」と読む。
いつからこの世界はそんな世界になったのだろうか。決して世紀末ではないはずだし、ハンナだって救世主ではないはずだ。
「ところでウィル。邪神はどうするのじゃ? ブルーさまがおられぬとなれば、ハンナだけでは心元なかろう? 我もハンナと共に行こうと思うが、どうじゃ?」
なんという発言をしたフレイヤだろうか。
もはやルイード公にとって、フレイヤは女神にしか見えない。
いや、金髪ロリの時点で神なのだから、もはや彼にとってフレイヤは無くてはならない存在と化した。
「お、お願いできるので? い、いやそれよりも、ハンナさまはそれでよろしいので?」
「いいわ。邪神の討伐を引き受けたのは私だし、一人でも行くつもりだったもの。心強いわ……それにしても、ブルー……」
涙の後を拭いつつ、小さく頷いたハンナは、その内心を再び怒りに変えていた。
まったく、怒ったり泣いたりと忙しい。ちょっとメンヘラを疑いたくなるビッチなハンナである。
――ブルー! 私が貴方の事でこんなに苦しんでるのに、どうして私を愛してくれないの!
ハンナの思いは、やはりメンヘラの基本のようだった。
「よろしい、では、私も邪神の討伐に参加させて頂きます。いくらなんでも、女性二人を送り出して、私だけのうのうと宮殿で寛いでいる訳にはまいりませんからな」
この時ハンナとフレイヤの頭上から、凛として威厳に満ちた変態公爵の声が響いた。
ハンナの肩と、フレイヤの肩に白金のガントレットに覆われた手が置かれる。
頼もしいフリをする公爵は、その内心で震えていた。
(い、言ってしまった。ここでこのパーティーに入ればハーレムだと思ったら、口が勝手に動いてしまった。これが、ご先祖様の言っていたチートハーレムなのかっ!?)
たしかにルイード公は異世界人の血を引いていた。
しかし、だからといって彼にチート能力は存在しない。
ただ単に、ハンナやフレイヤと行動を共にしたかっただけの下心である。
とはいえ、その鎧、その身ごなしを見て、まったく武術の心得が無いとは思わなかったハンナとフレイヤは、公爵の提案を受け入れた。
実際に、チートが無いとは言え、戦えばそれなりに強い公爵である。邪神と戦う以上、一人でも戦力はは多い方が良かった。
「ルイード公も助かるわ。たしか、マール山だったわね。早速行きましょう」
「うむ、そうじゃの」
「え、え? もう、ですか? 朝食の準備を整えておりますが」
下心からの発言だった為、心の準備不足が否めないルイード公は、あたふたと両手を振り回した。
カチャカチャと音を立てる鎧は、見事な魔力が漲っている。ちょっとやそっとの事では傷つかないだろう。
彼の侍従達は、今もおどけて場を和ませているであろう公爵の度量に、まさに感服していた。
「……ちょっと食欲が湧かなくて」
しおらしいハンナの言葉に、その思いを察するフレイヤが頷く。
人でもドラゴンでも、ここは女同士の絆であろう。
一人腹を空かせた風のルイード公は、やはりここでもかっこ良く見えそうな方向を選んだ。もちろん、下心ゆえに。
「皆、聞け! 此度の騒動、その元凶は邪神アザゼルである! ゆえに、我、ルイード公爵ウィルは、”ドラゴンスレイヤー”ハンナ・グラッツどのと共に、邪神の討伐に今よりまいるっ!」
「おお! さすが公爵さま!」
「ああ、公爵さま! きっとご無事でお戻りくださいまし!」
こうして震える足を隠しながら、大きく手を振り、ハンナ・グラッツ、フレイヤ・ヘカティと共に宮殿を後にしたルイード公だった。
◆◆◆◆
”びゅう”という風を切る音も心地よく、高度を上げて雲の中を自由気ままに飛ぶブルー。
人化しているときよりも、遥かに身体の自由度が高く、視界も広い。何より、ここなら火を吐き放題、水を出し放題である。
白い雲を雨雲に変えて、中から水分を抽出すると、楽しげに炎を吐きかけて蒸発させるブルーの行為に、これといった意味は無い。
ブルーは、何となく西に向かっていた。
西に向かえば、結局マール山があり、邪神が封印されているという地があるのだが、いっそ強い者に惹かれる習性を持ったドラゴンであるブルー。
「臭い、臭いな! でも、戦っちゃおうかな!」
なんて思いでフラフラと来てしまった。
最弱竜王のクセに、一人で邪神と戦おうと思う当たり、相変わらず無謀なブルーである。
そんな風に楽しくブルーが飛んでいると、前方から巨大な飛行物体が迫ってきた。
「風竜?」
一瞬、我が目を疑う水竜王だ。
前方に広がる大きな塊は、ブルーの優に十倍はあろう大きさ。となれば、色、形といい水竜王に思いつく、その物体の正体は一つだった。
「風竜王がどうしてこんなところに!」
純白の身体を輝かせて、巨体が切る風の音は凄まじかった。その真紅の瞳に溜まるのは、まるで巨大な真珠の様な涙である。
「泣いている?」
意味の分からない状況に、暫し戸惑う水竜王。
だが、考えていても埒が明かない。となれば、近づき、話しかけるのが一番である。
いきなり戦闘になる事はないだろうが、十分な警戒は必要だった。
ブルーは、全身に水で三重の防御結界を張った。その上で、風竜王の側に寄る。
「風竜王か?」
「うっぐ、えっぐ……そ、そなたは?」
「俺は水竜王ブルー。お前と同格だ!」
気弱そうに見えた風竜王に、強気に振る舞い「同格」という言葉を強調したブルーは、どこかせこい。
だがジュノー・ヘカティは、久しぶりに見る自らと同じ格をもった小さな竜を、懐かしそうに見つめた。
「おお、おお。同族よ……話を聞いてくれ。わしは風竜王ジュノー・ヘカティじゃ。わしは家出したのじゃ。もう、家には帰りたくないのじゃ……ぐすん」
絶対王者の威厳を漂わせるジュノー・ヘカティの言葉は、まるで夏休みに親とケンカした中学生。しかし、頭脳のレベルならばブルーだって負けていない。
「おお! ジュノー! 偶然だな! 俺も今さっき家出してきたんだ!」
ブルーの家は、ハンナである。
なんと、建物と人物の区別もつかないブルーだった。ご愁傷様だ。きっと、お腹が減ったらハンナの下に帰るつもりだろう。ブルーには、世間の荒波をサバイブする能力などないのだから。
「なんじゃと、ブルー? こ、これは運命じゃな……ゆっくり語り合おうぞ。今宵は宴じゃ!」
「おう!」
だが意気投合した竜王達は、凄まじい。
宴の意味を間違い無く勘違いしたニ柱の竜は風を裂き、大地を割って山を燃やす。
今宵は――などと言っておきながら、太陽は未だ直上にある。
「グウアアアアアアオオオオ!」
「キシャアアアア!」
ドラゴン達の咆哮は、あらゆる生物を震え上がらせる。
立ち向かうものは、悉く返り討ちにして、なお足りない竜王達は、次々に現われる魔物を屠っていった。
むしろ、途中からやたらと魔物が抵抗を示す事に、首を傾げるブルーである。
もう、邪神のことなどすっかり忘れていた。
それでも二柱は人に細心の注意を払い、絶対に傷つけない。
理由は簡単だ。
ブルーは、ハンナに怒られるのが恐かったからであり、ジュノーは、娘であるフレイヤに嫌われたくないから。
ともかく彼等の「宴」で、邪神に侍る十四将のうち、十将までもが訳も分からぬまま炎に焼かれ、洪水に飲み込まれて消え去ったのである。
ある意味、ハンナを見事に助けたブルー。ナイスアシストだった。
――夜。
禿山と化したマール山において、煌くような星空を眺めながら、静かにジュノー・ヘカティは語り出す。
「わしには、娘がいてな。フレイヤというのじゃが――」
「――えっ!?」
ブルーは、この時までこの事実に気が付いていなかった。