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はばたく水竜王

 ◆


 ルイード公爵の宮殿で目覚めたハンナは、いつになく清々しい気持ちで朝を迎えた。

 決して、昨夜、鞭という新たな武器の使い心地に酔いしれたからではない。ただ単に、前日に酒を飲んでいないから気だるさが無い、というだけの事である。

 感動に打ち震えるハンナは、大きな寝台で大の字になっているブルーに鞭を振るった。


 ――パシッ!


 鞭はしなり、乾いた音を立てて、ブルーの六つに割れた見事な腹筋を叩く。


 一瞬、ビクリと揺れたブルーのせいで、寝台が波打ち、キラキラとした埃が舞う。

 窓から入る陽光は寝台の上に光の檻を作り、その中を粉雪の様な埃が揺蕩たゆたっていた。


「おはよう、ハンナ」


「おはよう、ブルー」


 普段、ブルーを叱る際には必ず拳骨を顔面に叩き込んでいたハンナ・グラッツは、鞭の利便性にあっさりと気が付いた。

 鞭でブルーを叩けば、拳が痛まないのだ。

 ガントレットを装備しつつブルーを殴るのならばまったく問題ないが、常日頃からガントレットを付けている訳にもいかない。

 そうすると、ブルーのせいで拳にタコが出来てしまったハンナ・グラッツである。


「はぁ。乙女の拳にタコなんて、なんなのよ。だいたい、私は剣士なのに」


 だったらブルーをすぐに殴らなければ良いのだが、どうしてもそうは考えられない暴力女ハンナ

 そんな時に見つけたのが、長さ二メートル弱の鞭である。

 鞭は鯨の髭を芯にして、その周りを牛革で覆った簡素なつくりであり、普通に使う分には殺傷能力は低い。

 元来は家畜などを追う際に使うものであろうが、ハンナにとってブルーは夫兼家畜である。ならば、鞭の仕様は至極当然と考えたハンナ・グラッツだった。

 それに、ブルーは元来がドラゴンである。

 いかに人化しているとはいえ、鞭如きで傷付くほど柔な肌は持ち合わせていなかった。

 現に今も、鞭で打たれた腹を掻きながら、半身を起こしている状態だ。

 それにブルーにとって鞭で打たれることは、丁度良い刺激である。痒い所に鞭が当たったならば、「はうっ、そこっ!」と言ってしまう程なのだから、もはや彼にとってはご褒美でしかないだろう。

 

 ブルーとハンナがそれぞれ装備を整えると、ルイード公とフレイヤがやってきて、朝食に誘う。

 フレイヤの服は、水色のワンピースドレスに変わっており、靴は相変わらずの超厚底だ。

 そんなフレイヤの姿を見つめ、ごくりと唾を飲み込んだブルーは、もはやいっそ蹴られたい。

 だが、それを察したハンナの行動は早かった。

 ブルーの首に鞭を巻きつかせると、さっさと自分の側に手繰り寄せる。

 さすが世界最強のドラゴンスレイヤーだ。

 今まで扱った事のなかった武器である「鞭」さえも、僅か一日で達人の領域に達していた。


「お、おはようございます。き、昨日はさぞやお楽しみになられたのでありましょうな」

「そうでもないわ。日頃の疲れもあったのでしょう。私たち、すぐに眠ったのよ」

「ぐえっ……」


 器用に右手で鞭を操りつつ、妖艶な微笑を浮かべるハンナ・グラッツ。

 だが、ルイード公はハンナの言葉に騙されない。


「むう、この鞭さばき、ただ事ではないぞ! わ、私もいっそしばかれたいものよ……」


 うっかり公爵のMっ気が漲ってくるのは、致し方ないことだろう。


 一方のブルーは、みるみる顔を蒼白にしていった。

 いかなドラゴンとて呼吸をする。呼吸をする以上、首を絞められては死にそうになって当たり前である。

 第一、ブルーの好みは打撃であって締められる事ではない。

 不本意なブルーは、手をジタバタさせながら、フレイヤに助けを求めた。


「や、やめよ、ハンナどの! ブルーが苦しがっておる!」


 瞬間、ピンと張った鞭をつかみ、凛とした瞳をハンナに向けたフレイヤは、まさにブルーにとって救世主だった。

 が、それゆえにハンナの怒気が膨れ上がる。

 ましてや、ブルーをブルーと呼べるのは自分だけだと思っているハンナだ。フレイヤがブルーを呼び捨てにするなど、言語道断との思いがあった。


 ――ドガンッ!


 だから救世主の凛とした頭は、その一秒後に壁にめり込んだ。

 ハンナ・グラッツは、自らに反抗する者を決して容赦しない。それが、人間以外ならば尚更である。

 彼女は、悪戯に生物を殺さない。

 それは、あくまでも殺さないだけであって、ギリギリまではやるのである。

 だからこそハンナは、”最強のドラゴンスレイヤー”と表で言われながらも、陰で”暴虐の女王”などという異名があるのだった。


 今、ハンナがフレイヤに行った事は、ごく初歩的な技である。

 鞭を握られるや、腕力において劣るハンナはあっさりと鞭を手放し、扉の前に立つフレイヤの眼前に行った。

 そこで右足をフレイヤの左足に引っ掛けると、力の限りフレイヤの喉元を押したのである。

 いわゆる、喉輪落としとかチョークスラムとか言われる類の技であるが、持ち上げて落とすには距離が足りなかった為、背後の壁にフレイヤの頭がめり込んだ、という状態になったのである。


「ふぅー、助かった――って……えぇ!?」

「は? ひぇ? フ、フレイヤさま……?」


 喉を擦りながら目を開いたブルーは、フレイヤの変わり果てた姿に愕然とした。

 もちろん、「フレイヤ命」な変態公爵など、口から魂が抜けそうな有様である。

 

 フレイヤが壁から頭を引き抜くと、頭頂部からの流血が激しかった。

 まるで噴水の様にフレイヤの頭上から”ぴゅー”っと出る竜の血は、ある意味人類垂涎の的。左手を頭の上に乗せて血を抑えると、フレイヤは首をコキコキと鳴らす。

 なんと、これで流血は止まった。

 まるで頭に栓をしたような常態になったので、ブルーはうっかり笑いを誘われたが、尋常ではないフレイヤの魔力の高まりに、大人しくしていたのである。


 水竜王ブルーは、竜王きっての臆病者なのだ。

 退かないし、媚びないし、省みない。それは、自分が絶対に勝てると思った相手に対してのみ。

 それが、水が属の頂点に君臨するドラゴンのポリシーだった。

 まったく、最低の竜王もいたものである。


「我にこれ程の事をしたのじゃ。覚悟は出来ておろうな、人間」


 不快感を顕にしたフレイヤは、不意に頭の上から左手を離す。

 すると、未だ”ぴゅー”と飛び出す赤い液体。

 さすがのフレイヤといえども、回復はまだだったようだ。


「ふえぇ?」


 今度は慌てて右手を頭頂部に乗せるフレイヤ。

 せっかくのシリアスが台無しである。


 だが、構うことなく瞬時にフレイヤはハンナとの間合いを詰めた。


 ドンッ! ドガァン!


 フレイヤが動いた瞬間、廊下の左右に爆風が流れ、前方の壁がくり貫かれていた。

 それと同時に、ハンナの姿が見えなくなっていた。

 ただ、ハンナが立っていた場所には、横蹴りを繰り出したまま止まっているフレイヤの姿があるのみである。

 

 この時、実はブルーの目にも、ルイード公の目にも、フレイヤの動きはギリギリ見えていた。

 それにしても、音速さえ超えたフレイヤの動きは、やはり人間業ではない。

 

 まあ、それはいい。

 

 それよりも問題なのは、そんなサンダードラゴンの攻撃を、なぜ人間であるルイード公がその目で追えたのか、であろう。


 実はルイード公ウィルは、王国きっての騎士なのだ。

 三地母神、四竜王、五邪神、七英雄――これは世界各国に共通する伝説だが、実はダキア王国における伝説には、もう一つだけ追加されるモノがあった。


 六公爵――である。


 正直、これは買いかぶり過ぎだし、竜王やら邪神やらに及ぶべくもない存在なのは間違いない。

 だが、六公爵とは、まがりなりにも七英雄の血を継ぎ、さらに共に邪神を打ち倒した女性の血をも受け継いでいるのだから、世間一般の人々よりも確かにサラブレッド的な強さは持っていた。

 なのに何故、ダキア王家の人々はこれに連ならないのかといえば、それは実に単純な理由。

 時の王妃が、ただ美人だっただけだから、である。


 だったらルイード公は、サンダードラゴンとでも戦えたのでは? なんて思う方もいるかもしれないが、それは無理だ。

 何故なら彼は、精神的に弱かった。

 ドラゴンなど、見ただけで漏らしそうになったウィルである。いかに頑健な肉体を誇ろうとも、さすがに公爵として、漏らしながら戦う訳にもいかないだろう。ましてや四十を過ぎている。


「漏らしちゃった、てへ」


 などと言って誤魔化せるはずもない。

 ここは、「戦ったら負け」の精神で乗り切ったウィル。


 それにドラゴンといえども、金髪の可憐な少女に剣を向けるなどという変態にあるまじき行為が、彼に出来るはずもなかった。

 だが、だからこそドラゴンに占拠されつつも、宮殿の使用人もルイード市民も、ある程度の落ち着きを保つ事が出来ていたのだ。

 

 ――ここには、未だルイード公がおられるのだから、と。


 気弱なウィルにとっては、とんだ災難である。

 だが、そんなルイード公も、今ではサンダードラゴンの大ファンだ。


 ともかくフレイヤの強さを目の当たりにしたルイード公は、口から飛び出した魂を呼び戻す事に成功した。

 金髪碧眼の少女が頭を割られるなんて、彼にとっては悪夢でしかない。


「すまぬ、ウィル。ちょっと宮殿を壊してしまったのじゃ」


 額に流れる血を、まるで汗の様に拭うと、爽やかな微笑を浮かべたフレイヤである。


 ――宮殿など、いくらでも作り直せる。


 ウィルにとっては宮殿よりも、フレイヤの額の方が心配だ。

 そっとおでこを覗き込み、傷一つ無いフレイヤの頭を確認して、ホッと胸を撫で下ろす変態公爵だった。


「ハ、ハンナがやられた……? だと?」


 一方では、肩を震わせるブルー。これは、嘆いているのだろうか。いや、そんなはずは無い。口の両端が徐々に持ち上がってきたし、その声には驚喜の成分が含まれているからだ。


「し、死んではおらぬと思うぞ。ま、まあ、加減は出来なかったゆえ、ちょっと心配だがの。ブルー、助けに行くか?」

「ハーッハハハハハハ! これで俺は自由だ! フレイヤ、ありがとう! 感謝してもしたりないよ! じゃあな!」


 ブルーの様子に、少しやりすぎたかと反省し始めたフレイヤ。ドラゴンの中では、本当の意味で良識派の彼女は、ブルーとハンナの関係を本当に夫婦だと思ってた。

 しかし、ここで脱兎の如く逃げ出したブルー。

 

「ハンナの仇!」


 などといわれて向かってこられる事も覚悟していたのに、フレイヤとしては実に拍子抜けである。

 

 ブルーは、ハンナが突き破った壁に向かって走ると、一気に飛び出した。

 この部屋が三階だとしても、そんな事は気にならない。何故なら、彼はドラゴンなのだから。

 

「あっ、ブルー!」


 不意に手を伸ばしたフレイヤの目の前で、ブルーの身体は淡い光に包まれる。

 そして現れたのは、蒼く煌く高貴な鱗を持ったドラゴンだった。


「ブルードラゴン……? 水竜王じゃ……と? 我よりも高貴なドラゴンなど、父上しかおらぬと思っておったが……ま、まってたもれ! いや、お待ち下され! 水竜王さまとは知らず、数々のご無礼、お許しくだされブルーさまっ!」

「待たないぞ! 待てと言われて待つヤツは馬鹿だ!」


 縋るようなフレイヤの言葉に、まるで唾を吐きかけるようなブルーのセリフ。馬鹿はお前だ、ブルー。

 まるで泥棒の捨て台詞の様な事を言いつつ、遥か彼方に飛び去る、ちょっと小さな水竜王。

 追おうと思えば追えたフレイヤだが、そうしなかったのには理由がある。


「やってくれたわね、馬鹿ドラゴン……」


 三階にも関わらず、空いた穴から平然と戻ったハンナ・グラッツ。

 彼女は既に漆黒の鎧を纏っていた。

 蹴られた部分は腹部であり、その部分はさすがにひび割れている。

 だが、これも対竜用最強装備の一つ。それを、いとも容易く破壊するフレイヤに、わずかな戦慄を禁じえないハンナではあったが、それでもここで退く訳にはいかない。


「私は最強のドラゴンスレイヤー。退かない、媚びない、省みないっ!」


 これがドラゴンスレイヤーとしての、ハンナ・グラッツの矜持である。

 いっそ、ドラゴンと同じなのだが、それはこの際放って置こう。

 所詮、ドラゴンもドラゴンスレイヤーも同じ穴の狢である。


「ブルーっ! 邪神の前にこのドラゴンを倒すわよっ!」


 叫ぶハンナの声は、室内に虚しく木霊する。

 

 一人、我に返ったルイード公が壊された宮殿に悲しみの涙を落としながら、ブルーの去った蒼穹を指差した。

 考えてみれば、先祖伝来の宮殿など、そうおいそれと作れるものではないのだ。


「に、逃げましたぞ、ブルーどのは」

「何ですって!?」

「ぷくく、夫に捨てられたのう。じゃが、それもそのはずよ。人間の身でありながら、竜王を夫にしようとするなど、身の程を知れい」

「そんなの、お前の様な三下ドラゴンには関係ないわっ!」


 夫に逃げられた妻としては、どのように言い訳をすれば良いかわからないハンナ。

 動転しそうになる気を保って、フレイヤを睨みつける。

 決してフレイヤは、三下ではない。だが、もう、そう言うしかないハンナ・グラッツだった。


 ――ブルー、本当に逃げたのなら、絶対に許さない。私の身体を散々弄んで――


 危ない。

 ハンナの変なスイッチが入ってしまった。

 記憶の捏造である。ブルーは、ハンナの身体を散々弄んでなどいない。

 ハンナ・グラッツ――さすが暴虐の女王である。


 黒曜石の様な瞳に怒りの炎を滾らせて、ついにハンナは大剣を抜いた。

 だが、室内で剣を振り回すのでは、いささか不利になる。ゆえに、じりじりと後ろに下がり、外に出る機会を伺っていた。


「ふん。やる気かの? よかろう、我も最強を謳われるドラゴンスレイヤーとは闘ってみたかったのじゃ。

 じゃが……ここではウィルの大事な宮殿を、さらに壊す事になる。表へ出ようぞ」


 ハンナにとっては、願ってもいないフレイヤの提案である。

 頷くと、右足を軽く蹴って外に飛んだハンナ。その後に、ゆっくりと宙に浮くフレイヤが続いた。 

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