序章
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大きく翼を広げた褐色の竜が中空で羽ばたき、鋭い眼光を地上に這わせる。
地上は、竜が灰色の大地に変えていた。
草原は、砂利に。木々は、岩石に。川は土砂へと変えたのだ。故に、見渡す限り、灰色と褐色の世界。しかも、天地の区別を無くさせる程に、低く垂れ込めた暗い雲が、冷たい雨を落としていた。
雨に打たれる竜が視界に捉えているものは、銀色の鎧に身を包み、大剣を我が身に向けて構える無謀な女剣士と、蒼い髪と蒼い瞳を持ち、藍色の絹衣を纏って、拳一つで竜に立ち向かおうという、やはり無謀な従者だった。
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岩石竜と呼ばれるドラゴンには、名が無かった。
だから、山を下りると、草原を岩肌に変えて住処を作り、人里を襲った。
人が恐怖に慄けば、自ずと我に名が付く筈――そう考えたのだ。
真名は、竜たる自分に力を与える。
この岩石竜は、元は砂竜であった。これは、竜としては、第四位階に相当する。しかし、かつては単に翼竜と呼ばれ、位階を持たない存在であったのだ。
故に、彼は自身の位階を大きく上げた事になる。
――岩石竜は、夢を見ていた。
第一位階は不可能でも、第二位階の山竜ならば、真名を得る事さえ出来れば、なれるはずだと考えたのだ。何しろ彼は、既に第三位階の岩石竜なのだから。
岩石竜の力は、天変地異を齎すことは出来ずとも、一部の地形を変える程度は可能である。故に、人類にとって、敵に回してしまえば、恐るべき存在と化すのだ。
だが、その力は、より強大なモノに比べれば中途半端であった。故に、人々の恐れを得るのではなく、怒りを買ったのだ。
――だから――
畑を不毛な岩肌に変えられ、家畜を奪われ、家族を喰われた人々は、村から街へ、街から王都へと、ドラゴン襲来を知らせ、一つの依頼が、冒険者ギルド本部に齎されたのである。
――岩石竜襲来せり。討伐者には、賞金二〇万ディナール――
賞金は、村から街へ、街から王都へと情報が流れるに連れて、大きな額になってゆく。
それは、地方の冒険者が討伐を断念した、という事であり、同じく地方の騎士達が敗れ去った事も意味する。つまり、膨れ上がる賞金の意味は、誰も討伐出来ないが故に起こる各自治体からのキャリーオーバー、という事なのだ。
逆に言えば、王都の冒険者ギルド本部には、Bランク以上の依頼が多く集まる最後の砦ともいえた。ここに集まる冒険者が依頼を果たしえない時、もはや形骸化した王国騎士団は、なす術を失うであろう。となれば、国さえ滅びるのである。
王都の冒険者ギルド本部で、今回の依頼を受けた者は、王国最強のドラゴンスレイヤー、ハンナ・グラッツだった。
こうしてハンナ・グラッツは、従者のブルーを伴い、岩石竜討伐に乗り出したのである。
◆◆◆
「無謀な人間共よ! 我を岩石竜と知りながら、あえて立ちはだかるか?」
岩石竜の声が、灰色の大地に木霊した。
大きさは十メートル程度、竜の中では小柄な部類であろう。しかし、態度は頗る大きな竜である。
「逆に聞くわ、岩石竜。ドラゴンスレイヤーって、知ってる?」
足元を”じゃり”と鳴らして両足を広げ、大剣を竜に向けたハンナは、いつでも岩石竜に飛びかかれる姿勢をとる。しかし、口元に余裕の笑みを浮かべている様は、流石に最強のドラゴンスレイヤーだった。
「ガアアアアッ!」
竜からの答えは、無かった。
その代わり、大きく口を開いた竜は、炎と土砂をあたりに撒き散らす。
地に属す竜らしく、炎と共に、岩石も吐き出すのだ。それは、溶岩のようでもあり、熱と打撃を与える攻撃だった。
しかし、熱においては火竜に劣り、打撃おいては水竜の貫通力に劣る攻撃では、ハンナ・グラッツはおろか、従者であるブルーさえ傷つける事が出来ない。
実際、ブルーがハンナの前に進み出ると、ただ右手を翳しただけで、巨大な炎を岩石もろとも消し去っていた。
ブルーは、掌に己の魔力を集め、水の壁を作り上げ炎を止めた。さらに、細かく練りこんだ魔力を指先に集めて、超水圧で岩石を破壊したのだ。
ブルーは、水が属における第一位階、水竜王ブルードラゴンが人化した姿である。それと知らずに挑んだ岩石竜が、いっそ哀れですらあった。
「な、なんだ、と?」
愕然とする岩石竜に、音も無く迫った大剣は、一秒と掛からず彼を細切れにした。
ブルーが岩石竜の攻撃を止めている間に、ハンナは自身の神速を発揮し、跳んで、竜の背後に回っていたのだ。
さらに、細かく切った肉片に炎を纏わせる魔法を唱えると、ハンナ・グラッツは空中で一回転し、着地する。
岩石竜には再生も復活も許さない、というハンナ・グラッツの断固たる戦闘であった。
かつては細切れにした竜の肉片をよく食べたものだが、それは水竜王たっての願いにより、ここ五年程食べていない。もっとも、その水竜王に「人類を襲わない」と約束させたのだから、ハンナ・グラッツにとってこの程度の事は、安いものだった。
「馬鹿馬鹿しい。これでAランク? ブルーにさえ手も足も出ないじゃない」
ブルーは、同族があっさりと切り刻まれる姿を見て、やっぱりハンナは怒らせないようにしよう、と決意を新たにした。
しかし、ブルーの震える足元が、岩石竜の残した砂利を鳴らし、ハンナ・グラッツの首を傾げさせるのであった。