篠崎一真の憂鬱
――――――6――――――
明日葉学園内は静まり返っていた。
実技の魔法試験が終了して一日が経つが、其処彼処に魔法を行使した爪痕が残されている。その後片付けは生徒達が筆記試験を受けている間に教官を受け持っていない教師が行うことになっている。集中力を妨げない配慮なのか、そう言い伝えられているのか知る由はないが、あまり大きな音を発てないように作業しているため、学園内部には物音が全くない。どこかの教室でペンを落とした音が響き、特別事務室にいる二学年主席、立華愛衣紗の耳にも届いた。
彼女は明日葉学園の生徒でありながら、特殊な席に身を置いているため、試験は免除されている。
「……はぁ」
全校生徒の試験結果を記したレポートを一人ずつ目を通し、愛衣紗はため息を吐いた。試験後の恒例となっているが、流石に六千人分の生徒のレポートを読むのは骨が折れる。
「ねえ、これ。毎回思うのだけど、本当にわたしの仕事なのかしら」
愛衣紗の座る席の横に飛騨真弓という眼鏡をかけた少女がいる。彼女は明日葉学園指定の夏用制服を着くずすことなくビシッと着こなし、眼鏡のフレームを軽くクイッと上げ、「はい」と肯定する。
「立華様が『第二次性徴期は体の変化だけじゃなく魔力だって変化する可能性が無きにしも非ずですわよね』と言い出したからですよ」
「……まさかわたしに丸投げされるなんて思いもしませんでしたから……」
「口は災いの元、ですね」
ふふふ、と真弓は微笑んだ。
「……、もー飽きたよー」
まだ三分の一も終わっていないレポートの束を机の脇に寄せ、先ほどの淑女のような女性とは同一人物とは思えないだらけた表情を浮かばせ、机に突っ伏す。
「もー飽きたよー。お家帰って寝たいー」
そんな情けない姿の上司を横目で見て、真弓は盛大にため息を吐いた。
「しっかりして下さい。今週中に終わらせなきゃいけない仕事が沢山あるんですよ。はっきり申し上げますと、寝る時間だって無いくらいなんです」
その言葉に「うへぇー……」とだらしなさすぎる声を上げた。
「嫌だ嫌だ帰りたいー‼」
「ダメです。仕事をして下さい」
駄々をこねる愛衣紗の腕がレポートの束に当たり、床にばら撒かれた。
「まったく……。何をしているんですか」
「あ、ごめんね」
ばら撒かれたレポートを二人は拾い集め、愛衣紗は一枚のレポートの不備を見つけた。そのレポートに書かれている生徒の名前は、『篠崎一真』。
「この生徒だけ身体測定まだだよ?」
「一年生のFクラスの生徒ですね。確か計る直前にトラブルが発生しまして、その被害者ですよ」
確かに、探してみたら『加苅』という生徒もそうらしい。
「あれ?」
流し読みしていた『篠崎一真』のレポートを改めて読むと、愛衣紗の目が大きく見開かれ、同時に口も開いた。
「なにか不備がございましたか?」
真弓の質問に答えず、そのレポートを眺めている愛衣紗は急に立ち上がった。
「真弓さん。生徒の成績レポートを見るだけなら、あなただけでも足りるわよね?」
「は?」
「任せてもいいかしら? この子に会ってみたいの」
「え、これを私一人でですか?」
愛衣紗は満面な笑顔で、
「頑張れ! 真弓ちゃん‼」
何らかの魔法を使用し、特別事務室から姿を消した。まるで最初からいなかったかのように、フッ、と。
真弓を、見捨てた。
「え!? ちょっ……!」
愛衣紗が消え、もう一度レポートの山を見た。この山は愛衣紗のように消えたりはしない。
「あんの、クソガキャァァァあああああああああああああああ‼‼‼」
キレた真弓の怒号は全校に響き渡った。
――――――7――――――
一真の苦手な筆記試験最後の科目の終了を知らせるチャイムが鳴り、やったー‼ と席から立ち上がり叫ぶよりも早く、校内アナウンスによって一真は呼び出しをくらった。
「……ぬか喜びすらさせてもらえないとは」
帰りのHRを終え、一真はひとり指定された空き教室へととぼとぼと歩いていた。
薄情にも久美と響介の二人は激励の言葉の一つもなく、さっさと帰ってしまった。
それにしても、実技試験の追試にしてはいくらなんでも早すぎる。いつもなら一週間後ぐらいに追試や補習が始まるはずなのだが。それに実技試験はギリギリとは言え、追試を免れる程度には成績は悪くないはずだ。……筆記試験は壊滅的ではあるが、たった今終了したばかりだ。
しばらく考えていると、「あ」と思い出す。そういえば昨日、結局身体測定は行えなかった。確かに生徒の体に何らかの異常があったなら大変だ。呼び出しをくらったことにも頷ける。それなら比較的早く終わらせられるだろうと歩む足も少しは軽くなる。
「ここ……か」
何の変哲のない空き教室。そして一真は何も疑問を持たずに躊躇いなく中へ入っていった。例えば、何故身体測定をするなら、保健室ではないのか。例えば、それを言うなら加苅も同様ではないのか。そんな簡単なことにも、一真は気付かない。
「……、?」
扉には透明な膜が張られてあり、一真は多少疑問に感じながら中に入った。その時にこれは結界だったことに気付く。人払いや魔力を外に漏らさないような、一真にも把握しきれない程の様々な効果を含んだ結界がこの空き教室に張られてあった。
結界の中は、やはりただの空き教室ではなく、真っ白で景色と呼べるものはなかった。そして一瞬。つい目を瞑り、腕で顔を隠してしまうくらいの光源がその空間を包み込んだ。
暖かさなど、感じられなかった。
むしろ冷たかったように感じる。
目を開けると、そこはもう教室などではなかった。
そこは学校の校庭を彷彿とさせる場所だった。遊具などは一切ない。周囲を見回しても、校舎の類は存在しない。在るのは一真がこの空間に入ってきた入口だけだ。その唯一の入口も瞬く間に消えてしまう。
「……、えっ」
現状を把握できない。長い間置いてけぼりになっていた思考が追い付いてきても、現状の把握など出来るわけがない。
「ちょ……、なんだよこれ!?」
出来ることと言えば、狼狽えることだけだ。もう一度周囲を見回すが、見えるのは地平線。出口など見えない。こうして混乱する一真の背後から、突然声をかけられる。
「ごきげんよう」
頭を抱える一真は当然驚き、バッと勢いよく振り向いた。
一体、いつからここに居たのだ。一真は周囲を隈なく見たのだ。当然人の影も見つけることは出来なかった。
色白で背が低く、胸の辺りで結んだ青色のリボンで自分より一学年上の先輩だということがわかるが、顔立ちは実年齢よりも幼く見える。枝毛のひとつも無さそうな金色の髪は三つ編みに結んでおり、着ている夏用制服は指定されているものと同様のはずなのだが、久美とは着こなしのレベルが段違いで、結果的に別のものを着ているようにすら見える。何もかもが、美しかった。
「わたしの名前は立華愛衣紗。貴方とお話をしに参りました」
見とれていた一真はその名を聞き、驚愕した。
(立……華だって……?)
聞き覚えがあった。今こうして見れば、見覚えがあった。
頭の中で過去の映像がフラッシュバックのように流れる。
広大なスペース。
豪華なシャンデリア。
賑わう人だかり。
幼かった自分。
綺麗なドレスに身を包んだ小さな女の子。
自分は、その女の子に笑顔で手を差し伸べた記憶がある。
そこではっとなった。
未だに幼い頃焼き付いた光景がふと蘇る。
だがこれは、過去の話。今目の前にいる子とは、何も関係など、ない。
過去を振り切るように、頭を左右に振った。
「どうかしましたか?」
「いえ……なんでもありません」
敬語で返す。昔がどうあれ、今は先輩なのだ。
とりあえずこの空間から一秒でも早く脱したい。すぐに呼ばれた理由を聞き出し、終わらせる。もう一度きょろきょろと辺りを見回すが、教師どころか人の気配すらしない。
「……先生は」
「いらっしゃらないわよ? ちゃんと先生の許可は取れていますし、貴方をここに呼んだのはわたしですわ」
その事実に一真は項垂れた。
「……、何のためにですか」
「少し思うところがございまして」
「え?」
愛衣紗は後ろに隠していた左手を一真に見せつけるように突き出した。その手には一枚の紙が摘ままれていた。
一真の実技試験のレポートだった。
「それ……」
一真はあまり試験の結果や成績に対して関心はないが、気安く見せびらかされるのは快く思えない。
「何故、あなたは力を隠しているんですか?」
「……、」
まるで挑発のような愛衣紗の言葉に、ポーカーフェイスに自信のある一真は表情を崩さない。そっちがその気ならと、釣ってみることにした。
「隠してるって、なんですか。それに書いてあることが事実ですよ。俺が全然ダメダメだって」
その態度に愛衣紗はムッとなったのが一目でわかった。凛々しかった愛衣紗の面影は雲散霧消した。目の前にいるのは両頬をぷく~っと膨らませた小さな少女だった。
(よし、釣れたな)
一真は小さく拳を握った。
愛衣紗はとても実年齢とは捉えられない子供のようなふくれっ面を維持したままスタスタと近づき、一真の顔を覗いた。
「嘘吐かないの! ちゃんとわたしにはわかってるんだから‼」
まるで自分がお姉さんのような口調。そんな豹変した愛衣紗を目の辺りにしても、一真の表情はまったく崩れない。
「一真君‼」
愛衣紗は親しげに彼の名前を呼んだ。
一真は観念したように薄らと笑い、ポリポリと頬を掻いた。
「わかりましたよ。立華先輩」
一真も親しげに彼女の名前を呼んだ。それでも愛衣紗は不満気だった。
「昔みたいに呼べばいいのに」
「昔みたいにはいかないんですよ」
「その敬語も他人行儀でヤダ‼」
「しょうがないじゃないですか。一応先輩なんですから。一応」
「なんで一応を二回も言ったの!?」
(やっぱりこっちの方が話しやすいな……)
話しやすい。釣った理由のほとんどがそんな理由だ。
昔、二人は会っている。
(……けど)
だが今の一真は昔とは何もかもが違う。
一瞬虚しさに似た感情が胸を締め付け、愛衣紗の姿を視界に入らないように逸らす。
元来、愛衣紗とこんなにも親密に関わっていい身分ではない。
その為に結界をわざわざ張り、密会をしたのは頷けるが、そんなリスクを背負ってまで会おうとする理由が一真にはわからなかった。
軽くため息を吐く。
どんなことがあっても、二人は昔のようにはならない。
それは先刻承知のことだ。
だから、ここにはもう留まることは出来ない。
愛衣紗と一緒に居ることは、間違いだ。
「立華先輩は……俺の家系がどうなったか、わかりますよね」
いきなり話を振られ、戸惑いながら愛衣紗はこくりと頷いた。
「この力のせいなんですよ……」
愛衣紗は知っている。何が原因で『篠崎』が没落してしまったのかを。
「『魔章痕』なんて、存在しない方が絶対にいいんですよ」
存在を主張するように紋章が濃く右手の甲に染まっていく。
「か、一真君……」
「その力を封印したら、俺はもう一般生徒以下の実力しか持ち合わせていないんですよ。それがさっきの質問の答えです。……まだ何か、ありますか?」
これ以上ないというぐらい、突き放すように言い放った。甲の紋章の輝きが強まっていく。それを左手で覆った。
「あの……まだ」
「なんですか」
愛衣紗の言葉を覆い尽くす。かなり良心が痛むが、効果は覿面のようで、愛衣紗はびくっとし、引き下がった。
「……もう俺には、関わらないでください」
くるりと後ろを向き、一歩だけ足を進めた。
「あ……」
引き留めようとする愛衣紗の手は一真の服の裾を掴めそうな所で、引いた。引き留めても何もならないということを察したのだろう。
後ろを向いている一真には愛衣紗の表情を見ることは出来ない。だが簡単にどんな表情をしているかを予想できる。
早く愛衣紗の目の前から消えなくては。それが今一真にできる唯一の優しさだった。
その為には、この空間から脱出すること。
実は方法は直ぐに思いついた。
紋章から左手を除ける。その輝きは先程よりも醜く、禍々しい。
まるで目の前にいる小蠅を追い払うように水平に右手を振った。
一真の取った動作は、たったそれだけだ。
だがその瞬間に紋章は赤黒く煌めき、ビキキキッ‼ と愛衣紗の張った結界は瞬く間に罅割れが浸透し、やがて跡形もなく砕け散った。
「な……っ」
地平線が見えるほどの高原から、空き教室へと姿を変えた。愛衣紗は目を見開き、愕然としていた。
その顔をちらりと見、扉をスライドさせながら、一真は愛衣紗に言った。
「失礼しました」
ぴしゃり、と扉の閉まる乾いた音が愛衣紗の耳に何度も谺した。