◇3◇
あれはもう、3年も前のこと。
“あなたの顔…どこかで見たことがある気がするんだけど…”
“え、なに。あんた俺のこと知らねぇの?”
“え?あなた、有名人なの?”
あの時のアイツのポカンとした顔は、今でも忘れられない。
私はその頃からテレビはあまり見ない方で。
当然のように芸能人にも疎かった。
加えて、1年経ってもクラスメートを全員覚えられない程に人覚えが悪かったから、その売り出し中の俳優のことなんて全く知らなくて。
後にそれを言うと、アイツは“あの時はビックリした”って笑ってたけど。
────これが、私とアイツの初対面。
「…あ、あんた誰よっ!私の琴から離れてよ!!今すぐ琴を離さないと、強制猥褻罪で訴えるからね!!」
大音声の藍の声でようやく我に返った。
こんな状況でトリップしてたなんて自殺行為も同然。
危ない危ない、と藍に感謝する。
だけど藍サン、近所迷惑を自覚してます?
「訴えるかどうかは琴子が決めることだろ。それに、琴子はあんたのじゃなくて俺のだから。ゴメンね、CANDYの天才ボーカル、アイこと神藤藍サン?」
「な!なんで知って…」
藍が大きな目を更に見開いて驚いた。
まぁたしかに、藍が驚くのも無理はない。
普段、メディアには『アイ』ってカタカナで出してるから藍の名前をフルネームで知っている人なんてごく少数に限られてる。
コイツが知ってるだなんて夢にも思わないよね。
…って、勝手に熱くなるな、私の頬!
もう本当にお願いだから、こんな町中で『俺の』とか恥ずかしくなること言わないで欲しい。
敢えて考えないようにしてたのに、身体は勝手に熱くなってる。
今の私は絶対真っ赤だ。
いや、それよりもまず。
「ほんとに離してくれません?私は芸能ニュースに出たくないし、週刊誌にも載りたくないの」
肩越しに思いっきり睨みつけて言ってやったのに…
「ヤダ」
即答か!!
心の中で即座に突っ込む。
「お前、そんな真っ赤な顔で睨んでるつもりか?だったら逆効果だっていい加減思い知れ」
「知らないわよ、そんなの」
言うと同時にぷいっと顔を背けた。
そんな私を見て何故かクスッと笑ったコイツは、熱くなっている私の頬を撫でてくる。
それが赤くなっていることを教えられてるみたいで、悔しい。
「大体、撮られるようなヘマはしないし。俺が外では気を抜かないこと、お前知ってるだろ」
それを聞いた瞬間、私の中で何かが切れた。
キレる音って本当に聞こえるものなんだ、って頭の片隅のどこか冷静な部分でぼんやり思う。
だけど、口先はシッカリ冷静じゃなくなっていた。
「…ふぅん?だったらこの前の初のスキャンダルは一体どういうことなの?相手は人気のアイドルらしいじゃない。良かったね、若くて可愛い子と話題になれて。本命の子と居るときには気も緩んじゃうって訳?」
早口で言い切った後に、はぁ、と熱くなった息を吐く。
背後からの反応が無いことを確認して、もっと言ってやろうと口を開きかけた時。
不意に、私の頬にあった手が何かの水滴を拭った。
訳がわからなくてキョトンとした私の耳元で、何故か少し痛そうな声が呟く。
「…泣くなよ」
一瞬、意味がわからなくて固まった。
だけど、指摘されたことに気がついてしまったら、もうダメ。
「…っ、ふ…ぇ…っ!」
やだ、やめてよ。
止まって、止まって、止まってっ!
悔しい。
こんなヤツのせいで泣きたくなんてないのに。
どうして私は安心してるの?
なんで涙は止まってくれないの…っ!
「…琴子」
「いやっ!!」
私に伸びてきた手を思わず振り切って腕の中から抜け出し、距離を取った。
油断していたのか、アイツはアッサリと私を解放する。
振り向いて涙目で見上げたその人は帽子を被って眼鏡をかけて、今どきそれはないだろうというようなコーディネートの服を着ていた。
その、昔から変わらないスタイルに、何故だか少しホッとする。
それは、私と彼の友達しか知らない、彼がオフの時の外での格好だから。
藍が、コイツが誰なのかわからなくてもおかしくはない。
さっきとは反対に、静かに問いかける。
「…ねぇ。私が人のことを信じるのに、どれほど時間がかかるか、知ってるでしょう?」
「……ああ」
離れた私達を見て、藍と梨香が私を守るように両側から抱き締めた。
それを見て、目の前のヤツは苦い顔をする。
だけど抱き締められた瞬間、私にはわかってしまった。
わかりたくなんか、なかったけど。
「…だったら、疑わせるようなこと、しないでよ。私だって、信じていたいんだよ。でも…怖いの」
きっと、本当にあのアイドルとそういう関係になってる訳じゃない、ってわかってる。
でも、もしも。
もしも本当だったら?
私なんてもういらないって言われちゃったら?
もしも今ここにいるのが、別れ話をするためだったら?
そう思うと、どうしようもなく怖くて。
ボロボロとこぼれてくる涙を止める術なんて、私は持ってない。
だから。
「私が安心出来る場所、奪わないでよ…っ!」
わかってる。
これは私のワガママ。
本当は一番アイツを信じてあげなくちゃいけないのは私で、安心出来る場所を与えなきゃいけないのも私。
それでも、どうしても。
「…だから、琴子の誤解を解きに来たんだ」
そう言って私を無理やり自分の腕の中に連れ戻して思いっきり抱き締めた和也に、私は我慢出来なくなって泣きながら縋ってしまった。
…わかりたくなんてなかったけど、わかってしまった。
私が一番安心出来る場所は、この腕の中なんだってこと。