第5話:蝉
太陽の光りも、蝉の羽ばたく音も、夏が進むにつれ、騒がしくなった。山村の姿を目の前に置きながら、橋を渡り、店の前を通り、狭い歩道を歩いた。
口には出さないけれど、山村は消えかけている気がする。いや、確かに消えかけている。手を延ばしてみたが、宙をかすめてしまい、ひやりと冷気だけがした。
「もう、何度目かな。ここに来たの」
花が活けられている電柱の前で止まり、山村は呟いた。供えられた花は腐りかけていた。わたしが置いた一輪の花は茶色く変色している。
「俺も段々忘れられていくのかな」
「……分からない」
「どうせお前も忘れるんだろ」
「うん、わたしは忘れる」
わたしがそう言うと、山村は声を上げて短く笑った。そして、口角を上げたまま、俯いた。わたしは腐った花を見つめた。
「俺がはねられたとき、どう思った?」
「ああ、死んだ。……って思っただけ」
山村は顔を上げて、わたしを見た。そして、ニンマリと笑みを浮かべて、わたしへと手を延ばした。手首を掴もうとしたのか、手首付近に冷気が走っただけで、感触はしなかった。
「恨んでる? 謝ってほしい?」
「恨んでない。謝ってほしくない」
「ごめんね」
「なんだ、結局謝るのかよ」
苦笑を漏らし、山村は空を見上げた。眩しさで目を細めることはなかった。
「生きていたら、お前とこんな風に話したりできなかった。だから俺、別にお前のこと恨んでない、死んだことを悔やんでない、自分がしたことを悪いなんて思ってない」
山村は悲しそうに眉を寄せた。わたしが返事の言葉を探しているときに、ただ、と山村は呟いた。
「こんなに近くにいるのに、触れないのが嫌だ。そのうち、俺の姿が見えなくなって、声が聴こえなくなって、忘れさられてしまうのが、嫌だ」
わたしへと顔を向けた山村の表情はクシャクシャになっていて、泣いているように見えた。なんだ、悔やんでいるじゃない。そう思ったけれど、声には出さなかった。頬を一粒の涙が静かに伝った。
「バイバイ」
蝉時雨が降り続ける中で、山村の声と同時に一匹の蝉がわたしの目の前を飛んでいった。一瞬視界がその蝉に遮られた。蝉が通り過ぎ、視界が晴れたとき、山村はいなかった。
また一粒、涙が落ちた。
わたしはその場から走り出した。うるさく泣く、蝉たちを鬱陶しく思いながら。
ここまでお読みくださり有難う御座いました。
連載にしては短かったですが完結です。
今度はもっと長い連載をしてみたいです。
評価などありましたら是非お願いします。
2006.12.19.藤原千世