第二十九話 8月16日について
9/21 更新
『…………何、これ。…………何なんだ、これ』
眠っていたオレの意識がそんな声で目覚めた。
今までに体験したことのないことである。
意識がない=存在していないはずなので自分以外の意識の声が聞こえることはありえないと思っていたからだ。
そろそろ本格的に消されるのかもしれないな。
だって、これは脳のバグだ。こんなことがあっていいはずがない。
コンピューターのユーザーが一人ずつしかアクセスできないことと同じだ。
目の前には何が見える。
「誰もいないじゃないか」
今自分が立っているのは路地裏で、特に綺麗というわけではないが汚いわけでもない空間。
グレースケールだった景色に色が宿っていき、自分の意識が覚醒していく。
「何……してたんだっけ?」
記憶の消去に伴って前後の記憶がほとんど思い出せない。
オレの経験した記憶ではないし、そもそも都合よく書き換えられた偽の記憶なので信じるに値しない……というか。
何で、服が汚れてんだ。
何で、地面がへこんでんだ。
何で、鷲のぬいぐるみが落ちてんだ。
何で――、
「こんなに体が痛いんだ」
ふと地面を見ると小さな血だまりができていた。
その血をたどっていけば自分の指、手のひら、腕、足、腹、頭から血液を流しているのが確認できる。
「痛ッ」
足の骨が折れたか、ヒビが入っているような痛みが頭の先まで突き抜けた。
もしかしたら地面のこの小さなクレーターは自分がやったのかもしれない。
だとしたら大馬鹿者だ。コンクリートに肉体でケンカを売るとはどういうことなのか。
「体が痛い。頭も痛い。これじゃあ動くことすらままならないな」
壁を背にして力なく座る。
「いや、これは『倒れている』っていう方があってるな」
タイヘンなコトだっていうのに、口からは馬鹿みたいに笑い声が溢れる。
「もう笑うしかやることがないや。陽海には嫌われちゃったし、何やってんのか自分でもわかんないし。ホント――」
そう言ってまたクスリ、と笑う。
「笑うしかないや」
考えることなどもう必要ない。ありえないと思っていたことが起こった以上、自分に何ができるかは明白だった。
空を見上げれば、茜色を過ぎて、既に暗くなり始めている。
「そういえば、陽海と初めて会ったのはいつだっけか」
ふとそんな疑問が頭をよぎった。
陽海とは随分と小さい頃から知り合っていた気がする。あれはいつだったか。
「ダメだ。全然思い出せない。そもそもオレの名前がなんであるかもあやふやだ。これじゃあもう本当にゲームオーバーだな」
自嘲してみると、それもなんだか乾いた雰囲気になった気がする。
胸の穴、心臓に穴が空いている気分だ。
なんていうか――、
「こんなとこで何やってんの、一人で」
「そうそう。そんな感……じ?」
地面を見つめていたオレは、近寄ってくる影にすら気付かなかったようだ。その声に二日ばかりの懐かしさを覚えて、ちょっぴり気分が良くなった。
「よう……とかそのナリで言わないよね?」
「はは、お見通しか。よくわかってんじゃん」
オレがそう言うと、陽海はあからさまに呆れた表情をした。
「なんだその顔は。文句でもあんのか?」
少し好戦的な言葉遣いをしてみる。いつもは冷静キャラなんだから、こういうのもたまには良いだろう。
しかしその言動にすら呆れた顔をされてしまった。
「あるある。とってもとっても文句を言いたい気分だよ。さしあたって、鷲のボロボロ加減についてかな。何? 喧嘩でもしてたわけ?」
「いいトコつくなぁ、陽海は。でも正直に答えると覚えてないかな。今しがた起きたばっかりでねぇ」
「ふうん、それでも減らず口は叩けるってとこ?」
「……どうかな。結構どうでも良いんだ……もうあんまり興味無いし」
オレの言葉に陽海は顔をしかめた。
その顔を見ていられなくて、オレはまた地面に視線を向ける。
「そんなんで良いの?」
「何が?」
「何がって……全部だよッ!!」
全部?
「多重人格の辛さはあたしにはよくわからない。むしろとんでもない迷惑をかけられたって思った」
「はる……み?」
「小さい頃、あたしと鷲と陽ちゃんとで遊んでた。病気で遊ぶこともままならなかった陽ちゃんのために二人で演劇をした。
陽ちゃんの家のメイドさんも、付き人の由衣人さんも、みんなあたし達の演技を褒めてくれた。
何より、鷲があたしの演技を褒めてくれた」
そういえばそんなこと――。
「ねぇ、覚えてる? エドモン・ロスタンの戯曲」
陽海はオレの隣に座りこみ、自身の膝にオレの頭を乗せる。
「……ごめん」
陽海は「うん」とだけ呟いた。
無表情なその顔は、けれど嬉しそうな表情に感じ取れた。
「シラノ・ド・ベルジュラック」
「シラノ?」
「鷲が教えてくれたんだよ。『皓々《こうこう》たる月の世界へ、機械の助けなんぞ借りないで、ひとっ飛びだ……』あの時の鷲はカッコ良かったなぁ」
そう陽海は惚ける。
思い出し笑いをしているようなその顔は、どこか恋する乙女だ。
「そんなことを言っていたのか、オレは」
「そうだよ。シラノは唯一鷲じゃなくて、あたしが家から持ってきた戯曲。あたしは内容なんてちんぷんかんぷんだったから。鷲があらすじなんかをあたしに説明してくれて……それを読んだ鷲が一日中、シラノ・ド・ベルジュラックの魅力について語ってたんだ」
「楽しそうに」とニッコリ笑みを浮かべて陽海は言ってのける。
「そういうの、結構恥ずかしいものなんだな。今、オレの顔はとっても熱いよ」
「照れるな照れるな。ほら、『可愛い顔だった』ってば」
オレの髪を撫でる陽海をよそに、自分の顔を陽海の膝に押し付けて冷静さを取り戻す。
小さかった頃のオレは何を考えていたのだろうか。
「で、『じゃあ今度はこの戯曲を演じよう……きっと陽ちゃんを笑わせることができるぞ』って張り切って陽ちゃんの家に行ったの。シラノの鼻は大きくて不細工って設定だったから、鷲は付け鼻をして意気込んでたんだよ?」
………………覚えていない。
「それで?」
「それで……あたしたちが着いた頃、陽ちゃんとはもう会えなかった」
「それって……」
「うん、元々病気で体が弱いことはわかってた。でも陽ちゃんも酷いよ、治療しなくちゃいけないのに、無理してあたしたちと遊んでたなんて……一言も言ってくれなかった」
陽海の瞳には涙が滲んでいた。言葉尻もほとんど聞こえないくらいに。
「じゃあ、それから?」
「うん、それから。それから鷲の行動や言動、性格なんかに違和感が出始めたの。普通の人はあんまり気づいてなかったみたいだけど、あたしはすぐに気づいた。鷲の保護者に相談したのもあたし」
「そうだったのか」
オレは何も考えずにそうとだけ呟いた。
自分の記憶は、自分が感じることで確かめることができるのだと思われる。今聞いた話が本当だとしても、オレはそれを真実だと認識できない。
オレ自身、そのような記憶は遠の昔に改ざんされていたようで、自分の記憶だとしっくり受け止めることができないでいた。
悲しいことに。
ただ、他人事のように頭に響いているのだ。
「それが、事の顛末……か」
陽海の頭が揺れる。
「迷惑をかけたんだろうなぁ。たくさん」
「それはもういくつもあったよ。男子トイレと女子トイレとか、プールだったり。ああ、温泉もそうだね。子ども会の企画であったんだ、そういうの。でも――」
「でも……どうした?」
「本当の鷲が居てくれて嬉しかった」
その表情は今までに見たこともない、とびきりの笑顔だった。
「あたしね、鷲が好きだったんだ。あ、ううん、今の好きなんだけど……それでもあの頃は支えてくれるものが鷲ってだけだったから余計に、かな……って、なに言ってるんだろうね、あたしってば。ごめん、変な話して」
「あ、いや、別に……」
二人して気恥しくなって目と目をそらし、こほん、と前置きしてから陽海は言う。
「とにかく、そういうこと。まぁ、あたしが鷲と出会ったのは陽ちゃんと会う前なんだけど……それも覚えてないか」
「…………悪い」
自分が情けなくて、まともに陽海の顔を見ることさえできない。
「いいよ、いいよ。鷲のことは誰よりもわかっているつもり。悪いとこも、良いとこもね」
「良いとこ?」
「うん、良いとこ」
「へぇ。どこだよそれ」
「教えたげない」
「なんだよそれ。ケチ」
「ケチで結構」なんて陽海は明るく言った。
なんだかそのやりとりだけで楽しくて、胸の穴が満たされていく気持ちになれた。
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