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空白の時間

作者: ユッキー
掲載日:2026/10/28


 時計を見る。約束の時間まで、あと十二分。


 まずい。


 僕はスマートフォンを握りしめ、駅へと続く見慣れた通りを早足で進んでいた。取引先との大事な打ち合わせ。遅刻など許されない。いつもなら十分かかる道のりも、近道を使えば五分は縮められるはずだった。


 路地を曲がり、細い坂道を下り、さらに角をひとつ曲がる。


 ところが、見覚えのあるコンビニも、交差点の信号も見当たらない。代わりに現れたのは、古びた石塀と、その向こうに伸びる木々の枝だった。


 こんなところに、公園なんてあっただろうか。


 引き返そうとしたが、来た道さえ曖昧になっていた。焦る気持ちに背中を押されるように、僕は公園の門をくぐった。


 中は妙に静かだった。


 街の喧騒が、厚いガラス一枚を隔てた向こう側にあるように遠のいている。木々の間を風が抜け、乾いた葉が地面を転がっていた。人影はほとんどない。奥のベンチに、ひとりの老人が座っているだけだった。


「すみません。駅へはどう行けばいいでしょうか」


 老人は顔を上げ、僕を見て微笑んだ。


「駅かね。まあ、焦りなさんな」

「いや、急いでいるんです。約束の時間が迫っていて」

「ここはね、急いで逃げようとすると、ぐるぐる回って出られなくなるんだよ」


 冗談を言っているのだと思った。僕は曖昧に頭を下げ、スマートフォンの地図を開こうとした。だが、画面には位置情報を取得できないという表示が出ている。


 仕方なく腕時計を見た。


 秒針が、ほとんど動いていなかった。


 いや、止まっているわけではない。じっと見つめていると、ほんのわずかに進む。けれど、一秒が十秒にも感じられるほど、その動きは遅かった。


「故障かな……」

「ここでは、みんなそんなふうになる」


 老人はベンチの隣を軽く叩いた。


「ここはね、街の人が置いていった『余った時間』が溜まる公園なんだよ」

「余った時間?」

「忙しい人たちは、いつも時間がないと言うだろう。でも、時間そのものがなくなったわけじゃない。急ぐあまり、気づかずに置いていってしまうのさ」


 僕は老人の顔を見た。理解できなかったし、理解しようとも思わなかった。


「すみません。そういう話はまた今度。出口を教えてください」

「それなら、少し座っていきなさい」

「そんな時間はありません」

「だからこそ、だよ」


 老人の声は穏やかだった。反論しようとした僕は、ふと、自分がひどく息を切らしていることに気づいた。肩は強張り、指先には力が入り、胸の奥がせわしなく脈打っている。


 僕はしぶしぶベンチに腰を下ろした。


 座った途端、風の音が聞こえた。


 葉と葉が擦れ合う、さらさらという音。遠くで小鳥が鳴いている。木漏れ日が地面に揺れ、膝の上に淡い光の模様をつくっていた。


 ただ、それだけのことだった。


 なのに僕は、ずいぶん長いあいだ、こんな音を聞いていなかった気がした。


 子どもの頃、近所の公園でひとり、空を眺めていたことがある。雲が流れていくのを見ながら、あれは魚に似ているとか、あれは大きな船だとか、そんなことを考えていた。何かを達成する必要も、誰かに認められる必要もなかった。


 日が暮れれば帰る。それだけだった。


 いつから僕は、何もしない時間を無駄だと思うようになったのだろう。


 通勤電車ではニュースを読み、昼休みにはメールを返し、帰宅してからも明日の予定を確認する。少しでも空白ができれば、何かで埋めようとする。そうして一日を隙間なく使い切ることが、立派な大人の証しだと思っていた。


 けれど、気づけばいつも疲れていた。


 好きだった本を開く気力もない。友人からの連絡に返事をするのも億劫になる。休日ですら、何かをしなければ損をしたような気持ちになっていた。


 僕は時間を大切にしていたつもりだった。


 けれど、本当に大切にしたかった時間は、どこかに置き忘れてきたのかもしれない。


「何か思い出したかね」


 老人が尋ねた。


「……昔は、ぼんやりしているだけでも楽しかったんです」

「今は楽しくないのかい」


 僕はすぐには答えられなかった。


 楽しいことがないわけではない。ただ、楽しいと感じる前に、次の予定のことを考えてしまうのだ。目の前の景色を眺めながら、頭の中ではいつも別の場所へ走っている。


「時間が足りないと思っていました」


 僕はゆっくりと言った。


「でも、時間があっても、ちゃんと使えていなかったのかもしれません」


 老人は何も言わず、木々の向こうを見つめた。


 その沈黙は、不思議と気まずくなかった。


 どれくらい座っていただろう。やがて、老人が立ち上がり、公園の奥を指さした。


「そろそろ行くといい。十分な時間は充電できたろう」

「充電?」

「心の余白、とでも言おうかね」


 指さされた先には、細い小道があった。来たときには気づかなかった道だ。木々の間を抜け、その向こうに見慣れた街並みがのぞいている。


「また来てもいいんですか」


 思わず尋ねると、老人は楽しそうに目を細めた。


「さてね。ここは、探している人の前にいつも現れる場所じゃないから」


 僕は礼を言い、歩き出した。


 公園を出ると、車の音も人々の話し声も、いつものように街に満ちていた。スマートフォンの地図も、何事もなかったように現在地を表示している。


 腕時計を確かめる。


 公園に入る前と、針はほとんど変わっていなかった。


 約束の時間までは、まだ十分以上ある。


 僕は少しだけ驚き、それから小さく笑った。


 急がなくては。そう思いかけて、ふと足を緩めた。


 道端の植え込みに、小さな白い花が咲いていた。名前は知らない。いつからそこに咲いていたのかもわからない。


 それでも僕は、ほんの数秒、その花を眺めた。


 そして、また歩き出した。


 今度は、少しだけゆっくりと。


 時間は相変わらず、僕の手の中にはなかった。明日になれば、きっとまた忙しさに追われるだろう。それでも、ほんの少し立ち止まることならできる。


 風の音を聞くことも、空を見上げることも。


 時間が余ったからするのではない。


 生きていることを忘れないために、そうするのだ。


 僕は顔を上げた。


 空には、白い雲がひとつ、ゆっくりと流れていた。

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