空白の時間
時計を見る。約束の時間まで、あと十二分。
まずい。
僕はスマートフォンを握りしめ、駅へと続く見慣れた通りを早足で進んでいた。取引先との大事な打ち合わせ。遅刻など許されない。いつもなら十分かかる道のりも、近道を使えば五分は縮められるはずだった。
路地を曲がり、細い坂道を下り、さらに角をひとつ曲がる。
ところが、見覚えのあるコンビニも、交差点の信号も見当たらない。代わりに現れたのは、古びた石塀と、その向こうに伸びる木々の枝だった。
こんなところに、公園なんてあっただろうか。
引き返そうとしたが、来た道さえ曖昧になっていた。焦る気持ちに背中を押されるように、僕は公園の門をくぐった。
中は妙に静かだった。
街の喧騒が、厚いガラス一枚を隔てた向こう側にあるように遠のいている。木々の間を風が抜け、乾いた葉が地面を転がっていた。人影はほとんどない。奥のベンチに、ひとりの老人が座っているだけだった。
「すみません。駅へはどう行けばいいでしょうか」
老人は顔を上げ、僕を見て微笑んだ。
「駅かね。まあ、焦りなさんな」
「いや、急いでいるんです。約束の時間が迫っていて」
「ここはね、急いで逃げようとすると、ぐるぐる回って出られなくなるんだよ」
冗談を言っているのだと思った。僕は曖昧に頭を下げ、スマートフォンの地図を開こうとした。だが、画面には位置情報を取得できないという表示が出ている。
仕方なく腕時計を見た。
秒針が、ほとんど動いていなかった。
いや、止まっているわけではない。じっと見つめていると、ほんのわずかに進む。けれど、一秒が十秒にも感じられるほど、その動きは遅かった。
「故障かな……」
「ここでは、みんなそんなふうになる」
老人はベンチの隣を軽く叩いた。
「ここはね、街の人が置いていった『余った時間』が溜まる公園なんだよ」
「余った時間?」
「忙しい人たちは、いつも時間がないと言うだろう。でも、時間そのものがなくなったわけじゃない。急ぐあまり、気づかずに置いていってしまうのさ」
僕は老人の顔を見た。理解できなかったし、理解しようとも思わなかった。
「すみません。そういう話はまた今度。出口を教えてください」
「それなら、少し座っていきなさい」
「そんな時間はありません」
「だからこそ、だよ」
老人の声は穏やかだった。反論しようとした僕は、ふと、自分がひどく息を切らしていることに気づいた。肩は強張り、指先には力が入り、胸の奥がせわしなく脈打っている。
僕はしぶしぶベンチに腰を下ろした。
座った途端、風の音が聞こえた。
葉と葉が擦れ合う、さらさらという音。遠くで小鳥が鳴いている。木漏れ日が地面に揺れ、膝の上に淡い光の模様をつくっていた。
ただ、それだけのことだった。
なのに僕は、ずいぶん長いあいだ、こんな音を聞いていなかった気がした。
子どもの頃、近所の公園でひとり、空を眺めていたことがある。雲が流れていくのを見ながら、あれは魚に似ているとか、あれは大きな船だとか、そんなことを考えていた。何かを達成する必要も、誰かに認められる必要もなかった。
日が暮れれば帰る。それだけだった。
いつから僕は、何もしない時間を無駄だと思うようになったのだろう。
通勤電車ではニュースを読み、昼休みにはメールを返し、帰宅してからも明日の予定を確認する。少しでも空白ができれば、何かで埋めようとする。そうして一日を隙間なく使い切ることが、立派な大人の証しだと思っていた。
けれど、気づけばいつも疲れていた。
好きだった本を開く気力もない。友人からの連絡に返事をするのも億劫になる。休日ですら、何かをしなければ損をしたような気持ちになっていた。
僕は時間を大切にしていたつもりだった。
けれど、本当に大切にしたかった時間は、どこかに置き忘れてきたのかもしれない。
「何か思い出したかね」
老人が尋ねた。
「……昔は、ぼんやりしているだけでも楽しかったんです」
「今は楽しくないのかい」
僕はすぐには答えられなかった。
楽しいことがないわけではない。ただ、楽しいと感じる前に、次の予定のことを考えてしまうのだ。目の前の景色を眺めながら、頭の中ではいつも別の場所へ走っている。
「時間が足りないと思っていました」
僕はゆっくりと言った。
「でも、時間があっても、ちゃんと使えていなかったのかもしれません」
老人は何も言わず、木々の向こうを見つめた。
その沈黙は、不思議と気まずくなかった。
どれくらい座っていただろう。やがて、老人が立ち上がり、公園の奥を指さした。
「そろそろ行くといい。十分な時間は充電できたろう」
「充電?」
「心の余白、とでも言おうかね」
指さされた先には、細い小道があった。来たときには気づかなかった道だ。木々の間を抜け、その向こうに見慣れた街並みがのぞいている。
「また来てもいいんですか」
思わず尋ねると、老人は楽しそうに目を細めた。
「さてね。ここは、探している人の前にいつも現れる場所じゃないから」
僕は礼を言い、歩き出した。
公園を出ると、車の音も人々の話し声も、いつものように街に満ちていた。スマートフォンの地図も、何事もなかったように現在地を表示している。
腕時計を確かめる。
公園に入る前と、針はほとんど変わっていなかった。
約束の時間までは、まだ十分以上ある。
僕は少しだけ驚き、それから小さく笑った。
急がなくては。そう思いかけて、ふと足を緩めた。
道端の植え込みに、小さな白い花が咲いていた。名前は知らない。いつからそこに咲いていたのかもわからない。
それでも僕は、ほんの数秒、その花を眺めた。
そして、また歩き出した。
今度は、少しだけゆっくりと。
時間は相変わらず、僕の手の中にはなかった。明日になれば、きっとまた忙しさに追われるだろう。それでも、ほんの少し立ち止まることならできる。
風の音を聞くことも、空を見上げることも。
時間が余ったからするのではない。
生きていることを忘れないために、そうするのだ。
僕は顔を上げた。
空には、白い雲がひとつ、ゆっくりと流れていた。




