↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

満タン

作者: ほかほか
掲載日:2026/05/27

マンガン亭4階大広間


清潔感のある乳白色の壁は、柑橘の小片の如く品のある照明に照らされ暖色にきらめいていた。


私は、眼前に鎮座する琥珀色の光を放つ丸鶏に、脂汗そして口にべっとりと付着したソースを垂らしながら、現状を憂うのであった。思えばそれは数刻前のことである。


 


 ひりひりと焼けを感じる肌に、海からくる非日常な温度の風を感じながら、水平線に吸い込まれる雫のような夕日を眺めていた。それは白く熱を帯びていた浜が、人々の足が遠のくとともに夕日に染まりその足跡に影を生み出すほどである。影が次第に大きくなるにつれ、体も冷えてくるので気が付けば酒場にいた。海の家にも似た、やや開かれた建物で、腰ほどまでの高さの壁からは濃紺の風景がぼんやりと形を成していた。酒に酔った人々の湧き上がる声が店の中で絶え間なく行き交う中で、バーカウンターの縁で輝く黄金色の意匠に私は手招きされるように着席した。買ったまま着たかのような制服を着たバーテンに、適当な酒の名前を投げつけ呆けた顔で店内を見まわす。伸ばしたマヨネーズが暴れた文字のラベルはぼやけてしまってよく読めない。酒が来るまでの暇つぶしを潰されたうえ、この身一つで来た私はバーカウンターの端から端までの客のいきさつを考察することを考えた。  


 


 早速目を付けたのは、ちょうど端にて孤独に酒をたしなんでいた老人である。日に焼けところどころしみがつく顔には、乱雑に伸びたねこっ毛とともに前掛けにも似たひげを蓄えていた。なんとも厳格に刻まれた眉間のしわに、何かを眺めると見た。おそらく彼は長年海をかけてきた漁師であろう、しかも定置網というよりもなにか一本釣りだとかベーリング海に行くような過酷なものである。15歳から、働きに出てこの道45年。今では孫ほどといわれる年齢の従業員も増え、そろそろ引退も視野に入っており、余生をどう過ごそうか考えている。老人を遠めに眺め妄想にふけっていると、注文していた酒が提供された。グラスのふちには白浜を散らしたかの塩があり、輪切りの柑橘が差し込まれ、なんとも異国情緒にあふれたものだ。一口し、再び老人に目をやると、老人は何人かの若者に囲まれていた。彼らの服装はある程度に統一されており、警戒色の帽子に首から下げた双眼鏡、手元にはすり鉢状のプラスチック塊が握られていた。監視員だ。目を凝らすと老人の足元には、白地に赤ボーダーの甚だ普段使いではないであろう厚みの浮き輪が置かれていた。老人は海を眺めていたが、海産物ではなく人命のためであったのだ。答え合わせが早急に起こったため、また一口しカウンターを眺める。すると、またひとりで酒をたしなむ客を発見した。貴婦人という言葉を想起した場合、始めに思いつく高貴な衣服を身にまとうクラシックな存在であった。グラスの中を物憂げに眺める視線からは、一抹の疲労を感じる。例えば、どこかの格式高いパーティーの堅苦しさ、あるいは熱気から逃れてきたかといったところだ。あふれ出る気品や懐の温かさの度合いがなおのこと孤高さを際立てている。妄想が頭の中で雲を作り、そろそろ視界を遮るであろうという時、貴婦人が私に声をかけてきた。それとない世間話とともに、答え合わせともいえる身の上話を聞き、何なら酒をおごってもらった。気分の上がった我々は意気揚々と近場のカジノへ足を運んだ。


 


 サクサクと夜の砂浜を進む、酒で火照った体に海から来た冷風が心地よく、蒸気に常夏の香りを感じる。浜から出て、舗装された道に出るところで、薄く張った砂がじゃりじゃりと通りに響いていた。貴婦人、名をチョウチョという、がポツリと電灯に照らされた公衆電話からいずこかへ連絡すると、どこからともなく羊羹の化け物のような車がやってきて我々をカジノへと運んだ。車内では、チョウチョ夫人がシャンパンやらを開け始め、普段駆けるような四足のガソリン車では、感じたことのない座り心地や考えたこともない配置のシートに居心地の悪さを感じた私は、思わず窓の外の風景へと目を逃がした。しかし、闇夜にフルスモークの組み合わせがより神経をとがらせた。一言二言他愛ない会話を交わしたところで、ドアが開かれると車内を隅々までのぞこうとするほどの光を放つカジノが待ち構えていた。




 人間の欲望だとか、命を削って何かをすることの美しさみたいなものを渦巻いてまとめたような光に包まれた人々が遊具に張り付き、固唾をのんでいた。移動中、ひるみ切った私の心も熱に浮かされ、泳ぎ方を思い出していた。一度、夫人と別れ、とにかく財布を厚くするために現金自動預け払い機へ向かった。この時間が一番現実に戻される。自分が今まで歩んできた道のほとんどが、10ケタもない数字によってその価値を表され、また増減するからである。パスワードを見せないためにATMを体で何となく覆うので画面に影がかかる。私のほとんどが、こんな4ケタのパスワードごときで守れるものか。そんなことを考えていても、口座の数字が増えるわけでもないため颯爽と賭場へ向かう。夫人はルーレットで早々に勝ちゴキゲンであった。私も同じ卓に並び1ゲーム2ゲームと賭けていく。財布が軽くなるにつれて、身を乗り出していく。負ける、負ける、また負ける。圧倒的敗北。卓という渦へATMと紐づけられた私が飲み込まれるように。颯爽と引き出しへ向かう、なぜなら悔しいからだ。もちろん、ギャンブルは無情、されど負けるのは悔しいのだ。だが負ける、負ける、負ける。あまりに私の顔が強張るので、夫人は違うゲームを提案した。レースである。




スロットマシンの喧騒、一喜一憂の声をするりと外れた先にひっそりと階下に伸びる階段。防音のためか、分厚く重くつくられた扉の先には、ほの暗い部屋の中で画面の中を駆け回る犬を眺める集団があった。曰く、ドッグレース。チョウチョ夫人には、必勝法があるというので話を聞けば、なんと夫人の知人がドッグトレーナーであり、連絡を取ればその犬の調子がわかるという。にわかに信じがたい話であったが、一勝二勝と勝つうちに思わず、賭け金も増えていった。ままよと、ほぼ全財産をかけた最終レース、私は夫人の言葉の通りにパークライフ号、ファーアウト号、クローオード―号に賭けた。身を乗り出して、レースの始まりを凝視する。前へ前へと一番前まで出てきてしまった。犬たちがパドックに首尾よく収められる。緊張の一瞬、であるのに肩を何度か叩かれる、私は忙しいのだ後にして欲しい。構わず何度か手を払う、まだ叩かれるのでまた手を払う、もうすぐレーンの端に交通整備のビブスにも似た蛍光色のダミーが来るのだ。まだ叩かれる。あまりにしつこいため、これほど不躾な人間はどのような顔をしているのかむしろ気になり、画面を視界の端にとどめつつ振り向く。先に体が崩れた、じんわりと鼻に温かさが満ちる。鼻を擦った手に、糊を塗り広げたような感触が広がる。私はドッグレースの光に染まり、土色になったセキュリティに見下されながら、その顔と赤く擦れた拳骨を交互に見るほかなかった。




 鼻からなのか、舌の根なのかわからないがとにかく血の味がする。それもこれも、チョウチョ夫人のせいだ。イカサマがばれた我々は現在、赤血球が如く路地を駆け巡っているのだ。ぼやけた翡翠色の街灯がかろうじて照らす裏路地、頭上にはだらけたバルコニーが飛び込み選手の装いをしている。追手の温度は次第に冷め、二人だけの足音が軒並ぶ住宅の間に反射していた。脚と同じく跳ね上がる心も、じきにおとなしさを取り戻したため私たちは、じっくりとこの先の話を始める。追手はこの町でかなり幅を利かせているので、町の外へ行くほかないらしい。夫人は二枚のチケットを取り出すとともに、駅までの道のりを説明した。ひと通り話が終わったところで大きな駐車場に出た。




 小ぶりな電柱ほどの太さである柵を乗り越える。茶色の塗装の上には、ところどころに粉が吹き人間の力では到底できない金属のへこみが生まれていた。敷かれた白線はところどころ剥がれ、舗装も小粒の石が顔を見せている。忘れられた車たちがポツリとおり、主人を待つ車を恨めしそうに眺めるその横を私たちは申し訳なく進むのであった。アスファルトの黒を踏みしめるたびに、砕け散ったその小片が足を小突く。夫人に言われて気づいたが、無我夢中で走った私の服には、鼻血が赤黒く固まっていた。このまま町を練り歩くには、あまりに過激であったため、駐車場のある由縁であるショッピングモールへと向かうこととなった。




 静けさを飛ばすような涼しさに洗われ、私たちはショッピングモールへと入った。昼間の喧騒はいずこかへ歩き、広告の音声だけがそこかしこから聞こえていた。忍ぶ必要もなかったため、早速、適当なアパレルに入り服を物色する。さすが観光地といったとこか、ありとあらゆるところに土産品が差し込まれている、むしろ土産品しかない。仕方がないので、ペチカカラーのアロハシャツを手に取る、貝色のハイビスカスを首に巻くのは少しでもカモフラージュをするためだ。夫人はというといかにも、観光地に来たセレブともいうようなシックな姿になっており、サングラスのすりからみえる瞳が、見た目の凡庸さはあふれ出る品を隠すためであるという逆説的な証明をしていた。ファッションに対する意気込みが、こうも人間を振り分けるのかなどと考えていると、店外の吹き抜けより私たちを追う声がきこえる。入口は押さえられているだろうということで、階段より上階目指し、私たちは店をあとにした。前を過ぎ去りながら考える、ショッピングモールってかばん屋が多すぎる。買い物に来てかばんを買うってなんだ。さんざん遊んだ後に、収納を買うってなんだよ。まったくもって意味が分からない。仮にかばんを買うとして、旅行中に「このかばんの中に何を入れる」みたいな現実のことを考えるのだろうか。私は認めない、私は認めないがそんなことより今は逃げるほかないのだ。さんざん悪態を湧き上がらせ移動階段へ着く。照らされた階数は2階で、左右には伝統工芸であろうか面があしらわれている。と同時に私たちのほかの足音が昇ってくるのを感じ、階上へと足を速めた。




 散々逃げ回ったものの、私たちは最上階である4階まで追い詰められてしまった。立体駐車場というなんともしけた風景を望むフードコートと、保険屋、広告代理店など退屈を加速させるほかない階である。仕方がないので入ったディーラーの外では、追手が「自分から出てくれば悪いようにはしない」などとじゃあなにをするというのだと返すほかない説得をしている。店内には、展示用のクラシックカーと商談用の机など暴力的な手段が一つもない。私たちはといえば、受付カウンターの裏に身を隠していた。手を伸ばせる範囲には、バックヤードへの鍵やレジの鍵など、どうにも袋のネズミになろうキットとしか呼びようのない鍵が羅列され、ている横に燦然ときらめくタグが一つ。展示用車の鍵だ。ひっそりと手を伸ばし、夫人へ向ける。私は夫人と顔を合わせうなずく、言葉はなかったが夫人もすぐに理解した。




 動き出した車は爆発するまで止まることはなかった。ソーダ味のボディは白色の照明を流しながら轟音を発し、次々と追手を轢き飛ばしてゆく。鈍く光を発していた床のワックスの上に、べっとりとしたタイヤのラテックスが張り付き、楕円のモールに一文字を半ば描いたあたりで私は気づいた。この先には、忌まわしきフードコートしかない。途端に保険屋へ向けた大切さや感謝が沸き、敬意すら覚えたが突き進むほかなかった。せめて、申し訳ない顔だけでもしておこうと夫人の顔へ向くと、夫人は楽しんでいた。


 


 無色のカーテンを無事潜り抜けた私たちは、立体駐車場の壁へと突っ込み危機に瀕していた。きしむような痛みがある体を起こし、自分たちが飛び出てきた穴を振り返る。追手は見えない。続けて向けた下方向の光景は私の肝に霜を付けた。私たちの車の半分は、立体駐車場よりはみ出しており今にも傾き始めていたためである。あれほど楽し気な顔をしていた夫人はすっかり意識を失い、シートベルトがかろうじてその体の伸びをとどめていた。まずは自分のシートベルトを外し、次に夫人のを外す。そのまま外しては、夫人が激突するため伸びた夫人とダッシュボードの間に手を伸ばす。バックルとタングの外れるクリック音、シートベルトが巻き取られる勢いとともに車体のきしむ音。夫人をシートに預け、重心をずらさぬようにメーターに手をつき体を上に持ち上げる。羽毛になった気持ちでメーターに腰かけ、夫人の脇へ両手を伸ばす。鼓膜が揺れる心拍に任せて、思い切りシートを蹴り上げてボンネットへと飛ぶ。転がり落ちると同時に背中に小石の突き刺さるのを感じ、ゆっくりと車は落ちた。




 私が現実から逃れよう、そう思いながら漠然と汚らしい雲にも似た、駐車場の天を仰いでいる頃、夫人は腕の中で目を覚ました。夫人はといえば、私には目もくれず機械的に起き上がり、それとなく車の突き抜けた壁に目をやると膝の汚れを払った。私は、やはり漠然と一連の流れを眺めるしかなかったが夫人に手を差し伸べられ起き上がった。私はそのまま夫人に手を引かれ、駐車場を後にした。




 追手の目におびえる私と対照に、夫人は歩みを進めた。というのも、私は観光客であるので、目的の駅がどこにあるのかわからないのだ。先ほどまでの緊張で、温まっていた体も静まり返った街の空気で冷めていく。冷静になるほど、後ろで大破した車、砕け散った窓を振り返りたくなる。しかし、振り返ってしまえば、途端に、夫人が姿を消してしまうのではないかという不安がよぎり、私は前を向き進むしかなかった。




 人気のない通りを抜け、私たちは駅前についた。見上げるほど巨大な駅とは反対に、街灯は飛びかかる虫の影だけを写し、けだるげに頭を垂れていた。車通りも少なく、観光客をだます気しかないタクシーと孤立した影にも似た車たちが待ち構えていた。縦列駐車されたユニコーンの間を通り、駅から漏れ出た光の中へと向かう。




 薄く照らされるホームの真ん中に、白いハットを押さえる手。明らかに移動されたベンチには、汚れひとつない白スーツの男が顔を伏せリラックスしていた。男は糸に引かれたように立ち上がると、どこからともなく仲間が姿を現した。屈強な黒ずくめの仲間の中に立つ細身の体が不気味なほどに目立つ。手に汗が滲み、呼吸音だけがソナーのようにひどく広がる。肩を揺らしながら息を吸う。サンダルの摩擦音、レザージャケットの押し付けられる音が耳に響くその瞬間、開幕を告げるボイラーが叫びを上げた。


 一同が目を向け、また目を合わせる。最初に動いたのは白ハットの男だった。虹色の魚のような手袋を掲げ、ゆっくりと下ろす。眼前で動きを止め、指を擦り合わせる仕草をみせた。ハットと指の間から、優しさを感じる瞳が鋭くこちらを覗く。ボイラーの勢いに揺らされたケーブルがスラップ音を刻み出した。




 肩を揺らしながらやってくる集団に、私たちは徐々に壁に追われつつあった。夫人の前に手をやり、少しずつ下がる。しかし目は離さない。緊張が辺りを支配するなか、私は脇腹に走った衝撃から反射的に手を上げた。追手を目におさめつつ、夫人へ向くと夫人は笑っていた。私はゆっくりと手を下げ、そして動きを止めた追手たちに擦り合わせながら指を見せる。鼓動に合わせながら、左足がビートを刻み始めた。




 肩と腰もそのうち動き始め、左手はポケットの中で余裕を見せていた。覗くようにして顔を向けた私は、ゆっくりと白ハットと追手たちへと近づく。奴らは私が近づくにつれ、一定の距離を保ちながら下がり続けた、いや、足を滑らせるように移動したといった方が正確かもしれない。奴らが下がるのをやめたため、私も進むのをやめると、対抗するように白ハットが両肩を内、外、内と動かし始めた。一回転、こちらに指をさし、けるようなしぐさを見せた。私もひと蹴りを見せると、ホームへの突風が舞い込み夫人の髪を揺らした。両手を広げ、視線を下げ、風を受け止める私の汗は、ホームの中で最も輝いていた。頭を左右へと振り、円を描くように踊り移動する。両手を上下。手を振る。引き込むように腕を動かす。すべての動きが混然となって、ホームには、昂った奴らのバイオリンのような叫びが響いた。すっかり線路側へ移動した私たち。そのまま流れ込むように電車へと乗り込んだはずであった。だが、あまりに夢中になっていた私が、夫人は電車に乗り込んでいないことに気付くのは約1分後のことである。




 仄暗い空の端が、陽の光のせいか青く染まり始めたころ。私はといえば、どこへ行くとも知れない海岸線を時速30Kmほどで進み続けていた。誰もいない列車の中で、ひたすらに頭を抱えていた。私が乗車口の前でひたすら踊り呆けていた時、夫人は何を思って静観もしくは攫われたのか、などと考えと後悔をひたすらに巡らせていたのだ。次第に知恵熱ともいうべき頭痛が、後頭部で警告を説き始めたため、ひとまず考えるのはやめた。それにしても、この列車はどこへ向かうのだろうか。改めて切符を見ると、私はマンガン亭前なる場所までで降りなければならないらしい。窓枠とガラスに頭を預け、息を吐くとやけに息が熱かった。見下すように向こうの窓へと目をやると、少し白みがかった青空が広がっていた。




 しばらく電車に揺られると、マンガン亭前のアナウンスとともにドアが開かれた。駅から出ると暖かな日差しとは裏腹に、ひりつく潮風が吹く。行く当てもないので、とにかく大きな通りに出よう、そう思い進む。この町はなんだか廃れていて、裏路地に佇む廃ホテルは半ば崩れ、あたりに立ち入り禁止の立て看とテープが巻かれていた。通りを抜けていくと、営業時間外のインフォメーションと錆びれた案内板を見つけた。少し戻って、線路沿いに進めばマンガン亭があるらしい。駅名にもあるくらいであるから、さぞ立派な旅館か何かなのだろう。ひと目見てみよう、そう思った。




 裏路地を進む。落ち着いた路地には、クラシックなカフェやシーフードレストランなどかつての活気が伺える。路地の奥へ平行に構える踏切、そこを曲がればマンガン亭が見えてくるはずだ。駅から離れるにつれ、じんわりと汗がにじみ始める。朝焼けに目を覚ました虫たちの声が徐々に大きくなっていくのを感じる。そういえば今日はずっと夫人に手を引かれる一日であった。手が異常に冷たく感じるのは、そのせいかもしれない。




 踏切を挟んでマンガン亭を見る。スイカを無理やり旅館にしたような色で、ところどころに年季を感じさせる黒ずみがあった。山腹にいるような蒸気を吐き出す煙突、二つ折りにしたタワマンと首里城のあいの子のような容貌には東洋の香りを醸し出している。もう少しだけ近くで見てみようと、なんとなく踏切を渡り近づく。見上げた首が痛くなるほど近づいたところで、こんな朝だというのにドアマンらしき人物が立っていた。




 ドアマンは私の手に握られた切符を見るなり、飛ぶように近づいてきた。曰く、私たちがまだ街を駆け抜けていたころ、夫人はマンガン亭に潜伏することを見越し、連絡をしていたという。すでに一室用意されているというので、私は案内のなすままにマンガン亭へと吸い込まれていった。




 まさに豪華絢爛であった。もっといえば、柘榴の上から金粉を散らしたような、引き締まった豪華さだ。敷かれた絨毯があまりに肉厚なので、毛の生えたミディアムステーキの上を闊歩するかのようであった。一通りの施設案内を聞いた後、キーをもらい自室に向かった。




 鍵をかけたところで、これまでにかかった疲労が一身にのしかかってきた。私の足は自我を持ったようにベッドへ向かい、仰向けに思いきり寝転がった。少しだけ首を起こす。壁一面に貼られた窓がちょうどベッドの向かいにあり、朝日が容赦なく降り注ぐ。胃が空虚感を示したので、シャワーを浴びた後、食事会場へと向かうことにした。ガラス張りのバスルームで、体を洗う。うなだれた花のような金属のヘッドから降る、温水が体を伝う。日に焼けた肌を温水が這う、ひりつきだけがあるのではなく、ここへ来るまでに刻まれた傷に途切れた照明のように信号が走る。




 エレベーターを降りると、通路には香ばしさ、甘味、塩味などが漂っていた。空腹に耐えかねた私は、気が付けば食事会場へいた。席へと運ばれると、すべてを食べつくしてしまうぞという意気込みを向けウェイターへと目配せをした。




 私の満腹など無視された、冷酷無比な食事が運ばれる。最初はよかった、私がこれまでお目にかかることのないような料理が次々と運ばれ、口へ運ぶたびに母への感謝を忘れないと誓ったほどだ。今はどうだろう、にわか雨の残りのような、皿の底が透けるだけのスープすら飲み干せない。あまりの充足に、私は壁や照明、あたりを見渡し現実逃避するほかなかった。腹が熱い。胃腸の輪郭が、造影剤を脳に注いだかのように感じられる。席を立って、ここを後にしよう。そういくら思っても、接ぎ木のように椅子から離れられない。圧迫感、脂汗、むかつき、喉からバルーンアートがせり出るような感覚がある。舌が喉の奥へと引きずり込む、口の渇きが例を見ないほどに。




 カメラが水中にもつれ込む音とともに、暗闇が目に入った。体がわけもなく熱い、背中にぴっちりと張り付いたシャツの不快感から、布団の中で身をよじる。時間はわからない。月が照らすのか、朝焼けなのか冷たさを感じる光が控えめに部屋に広げられていた。半身を起こし、掛け布団を下ろす。汗の作用か次第に体が冷めてきた。脊椎を伝う寒気が、体を揺らし、布団が小刻みに震える。あまりに腹が痛い。寒気をものともせずに、暗闇の中で私の影が汗を散らしながら跳ねた。感覚で壁を撫でまくる。暗順応した目をもってしても、腹痛の興奮を前にしてはあまりに無力であった。気合で電気をつけ、座る。終わりがないであろう腹痛が、ひたすらに頭の中でゴングを叩きまくる。何も考えられない私は、ドア枠の木目に気が済むまで目をかっぴらいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。