3、野心と愛の選択
リソスフェア地峡に侵攻する帝国軍の誤算は、国境を越えた瞬間に始まった。
彼らは大公国軍が国境線に固執し、捨て身の防衛戦を挑んでくるものと予測していた。しかし、目の前に広がっていたのは、白銀の静寂と、執拗な遅滞戦術であった。
大公国の騎士たちは馬を降り、歩兵と一緒になってパトロール部隊を編成していた。彼らは、庭同然である森林と沼地を完璧に利用した。帝国軍が進軍路に選ぶ道には倒木が横たわり、橋は落とされ、一歩足を踏み出すたびに物陰から矢が降り注ぐ。
「深追いはするな。影を見たら、矢を撃ち込み、消えろ」
ヒルデガルドの厳命を守る大公国軍は、決戦を避け、時間を稼ぐことにのみ専念した。帝国軍が苛立ちとともに森を焼き、進路を切り開く間に、時計の針は残酷に刻まれていく。
一週間の浪費。それが帝国の楽観に最初のひびを入れた。
帝国軍がようやく、大公国の鋼鉄の盾と謳われる主要防御線、フリーデリケラインの前にたどり着いたのは、一二月六日のことであった。
ゴニアタイトでの、ヒルデガルドとエドガールの平穏な日々を破ったのは、彼女の幼馴染のアウグストの来訪だった。彼は大公国の陸軍大臣の随行員として、彼女の前に現れた。
「ヒルデガルド、君はこんな場所にいるべき人間じゃない」
アウグストは、彼女の指先の荒れを、親愛と嫌悪が混ざったような目で見つめた。彼は彼女の軍事的才能を誰よりも愛していた。それは、彼女の才能を愛しているのか、それとも彼女という人間の魂を愛しているのか、彼自身にも分からなかった。
「君の才能は大公国の宝だ」
彼は彼女の肩を強く掴む。その手には、友情以上の熱がこもっていた。
「ヒルデガルド、これは一時的な迷いだ。今ならまだ、軍への復帰の道がある」
ヒルデガルドは反論しようとした。しかし、アウグストは、本国の情勢を語り、彼女の学んだ歩兵戦術が本国にとっていかに重要かを熱弁し、再び大公国軍へ復帰して国のために尽くすべきだと強く諭す。
「君の指はジャガイモの皮を剥くためにあるのではない。戦場で部隊を動かすためにあるのだ」
ヒルデガルドは自分が本来立つべき表舞台の話を聞くうちに、封じ込めていた野心が疼き始めるのを止められなかった。
「……わかった。彼との関係は断つ」
口から出たのは、自身の心さえ欺く不実な約束だった。
その後、ヒルデガルドはエドガールに割のいいアルバイトを見つけたと言って、大臣の秘書官として帝国へ出立した。嘘はついていないつもりだった。
洗練された上流社会の空気。完璧に事務をこなす自分。周囲の賞賛を浴びるたび、エドガールと過ごした質素な部屋は遠い幻のように霞んでいった。愛と野心の狭間で、ヒルデガルドの精神は摩耗し、夜ごとに自己嫌悪の闇に沈んだ。
帝国から大公国を護る、スオミ湾からガドリン湖までを繋ぐその防衛線は、総司令官フリーデリケ公女の名を冠し、フリーデリケラインと呼ばれていた。
帝国軍の斥候は、それを難攻不落の巨大要塞群であると本国へ報告した。だが、雪の中に隠された実態は、貧弱と言っても差し支えないものだった。石造りの本格的な塔は数十箇所に過ぎず、その大部分は土を盛り、丸太を組んだだけの簡素な野戦陣地だったのである。
しかし、そこには大公国の知恵が凝縮されていた。
それは湖沼や深い森、底の見えない湿地帯を縫うように陣地が配置され、敵の進軍を強制的に細いルートへ絞り込む自然の要害であった。
陣地の屋根には雪と土が盛られ、接近するまでその存在に気づくことはできない、完璧な偽装が施されている。
幾重にも張り巡らされた障害物と、招き寄せられた獲物を狙い撃つための射線が、一寸の隙もなく設計され、多層的な罠が構成されていた。
フリーデリケラインは物量に対抗するための、貧者の、しかし冷徹なまでの防御思想の結晶であった。
またフリーデリケラインには、ヒルデガルドの手によって守備にあたる歩兵のための宿舎も整えられていた。
「ヒルデガルド閣下は、俺たちのためにこの地下室を設計してくれたんだ」
泥だらけの陣地で、寒さに震える若い歩兵が語る。騎士たちからは臆病者の隠れ家と蔑まれても、歩兵たちにとっては自分たちの命を数字ではなく生きた存在として扱ってくれた司令官への、信仰に近い忠誠心をもたらしていた。




