2、二人のままごと
大陸暦三一五年。ゴニアタイトの冬は、刺すような冷気の中にどこか自由な香りが混じっていた。
「生ける時計仕掛け」。エステメノスクス伯爵家の令嬢、ヒルデガルドは、大公国の友人たちにそう揶揄されていた。名門貴族の誇りと両親の期待を背負い、最適解のみを導き出すために調整された機械として彼女は成長した。
ヒルデガルドはたぐいまれなる才能を評価され、先進的な歩兵戦術を学ぶため、ゴニアタイトの軍事アカデミーに派遣された。そこでの生活は大公国のため、家門のために、知識を吸収するものにすぎないはずだった。
しかし、劇場で踊る一人の青年の姿が、彼女のはずみ車を狂わせた。
エドガール。薄い絹のような繊細さと、今にも消えてしまいそうな危うさを持つダンサー。彼がならず者に絡まれているのを見かねて助け出したとき、ヒルデガルドは初めて軍人としてではなく一人の人間として他者の体温に触れた気がした。
「なぜ、私を助けたのですか? あなたのような方が」
震えるエドガールの腕を介抱したとき、ヒルデガルドは戦慄した。摘み上げれば破れてしまいそうなほど薄い肌。そこには家庭教師や学校からは教わらなかった命の無防備さがあった。
それからの数ヶ月、二人の時間は密やかに、しかし深く重なっていった。ヒルデガルドは夜の劇場裏で、彼から感性という名の未知の言語を教わった。
「ヒルデガルド、風が建物の隙間で鳴らしている、あの寂しい旋律を聴いてみて」
エドガールはヒルデガルドの世界の解像度を無理やり変えてしまった。効率と戦術しか知らなかった彼女の脳内に、初めて実益のない、しかし鮮やかな色彩が流れ込んだ。
二人の交際は瞬く間に本国の知るところとなった。公務を逸脱した不適切な関係。下されたのは、冷酷な免官処分だった。
免官が決まった日、名誉を捨て、一人の人間として生きることを決めたヒルデガルドが持ち出せたのは、一振りの帯剣と数冊の戦術書だけだった。
エドガールの住むアパートは、冬になると廊下全体が饐えたキャベツの匂いに包まれていた。
「……これが、君の日常か」
ヒルデガルドの声は、隙間風の吹く部屋で白く震えた。エドガールは、ひび割れた窓枠に古新聞を詰めながら、はにかむように笑った。
「贅沢は言えませんが、凍え死ぬことはありませんよ、ヒルデガルド」
それからの日々は、滑稽なほどにままごとのようだった。
名門貴族の令嬢として温室で育ったヒルデガルドにとって、火を起こすことは敵陣を包囲することより難しく、ジャガイモの皮を剥くことは馬で川を渡るより複雑だった。彼女がナイフで指先を切り、血を滴らせるたび、エドガールは慌ててその指を口に含んだ。
舌の上の熱。それは、アカデミーでの講義よりもずっと直接的に、彼女の欠落を埋めていった。
ヒルデガルドは私塾での講師の仕事を見つけた。夜、私塾での授業を終えて帰ると、エドガールがオーブンで何かを焼いていた。香ばしい匂いが部屋中に満ちている。
エドガールの手は、料理をするときも舞台で舞う時のようにしなやかだった。ヒルデガルドは彼の背中にしがみつき、その細い身体に顔を埋める。彼のシャツからは、常に日光の匂いと、彼女が教え込んだインクの匂いがした。
「エドガール、今日教えた「自由」という文字は、鳥の翼をイメージして書くんだ」
「こう? ……難しいな。僕の指は、地面を這うことしか知らなかったから」
ヒルデガルドは彼の手に自分の手を重ねた。彼女はペンを持つエドガールの手の甲の凹凸を、慈しむように指でなぞった。
金も、名誉も、未来への約束もない。
ただ、狭いベッドで互いの体温を分け合い、食事になればスープの中の形のそろわない具材を笑い合う。
それは大公国の騎士道精神からすれば堕落以外の何物でもなかったが、彼女にとっては、生まれて初めて自分の意思で選んだ生の感触だった。
「僕は小さいころ、医者になりたかったんだ。若くして死んだお母さんの病気を治してあげたかった……。医者になんかなれっこないってことは、現実が教えてくれたよ」
そんなことを語りながら眠ってしまったエドガールの横で、ヒルデガルドは暗闇の中、自分の手のひらを見つめることがあった。そこにはもう、剣や馬の手綱を握るための硬いタコはなく、代わりに彼を抱きしめるための柔らかい皮膚が戻りつつあった。
その幸福は、薄氷のように危うく、そしてあまりに静かだった。




