1話 餓鬼
「 結構深刻そうな顔してたけど、さっき何考えてたんだ?」
テニス部の部室に着くと、秋葉が少し心配したような顔で問いかけてくる。
「ん?あぁ、ちょっと将来の事考えてナイーブになってたのと、あと最近見る夢の事とか」
「夢? この前言ってたやつ?」
「そうそう。ココ最近毎日見てるんだよ、なんか怖くなってきた。」
「結構重症だな、春風に抱きしめてもらったら治るんじゃないか?」
「はは、別にいいよ。親友の好きな人にそんな事頼めねぇし。」
「あんま強がんなよ、他の男ならともかく、隼人ならビンタくらいで許してやる。」
「ビンタもやだよ。」
「それに、隼人が先に頼んだら俺も頼みやすくなるだろ!」
それが目的か、と呆れたような目を秋葉に向ける。
親友の恋路は素直に応援しているが、こういう所がマイナスになるのでは無いかと心配になる。
「ま、何にせよなんか悩んでるなら俺でも春風にでも相談しろよ、できる限りの事はするからよ」
そう言って、話している間に着替え終わっていた秋葉はラケットを持ち、テニスコートに向かったのだった。
※※※※※※※※
「はぁああ!疲れたぁ!」
そう言って、秋葉と隼人は部室に倒れ込む。
現在の時刻は12時半。
部長である山岸先輩の一旦終了の掛け声で、午前中の練習は終わり、お昼休憩に入った。
「相変わらず先輩の練習メニューキッツいな、これが午後もあると思うと憂鬱になるわ」
そう言って今も大量に汗を流している秋葉に対し、隼人も同感だと返し、
「アップで5キロ走らすって絶対やり過ぎだよな」
「それな」
秋葉はそうとだけ相槌を打ち、持ってきていたスポーツドリンクを呷る。
喉が潤うと次は、体が栄養を欲し初めて来たようで、ぐるぐると腹を鳴らし始めた。
「昼休憩1時半までだし、さっさと飯食うか」
そうだなと隼人は返事をし、自分の鞄の中にある弁当を───あれ?
「どうした?」
「やべ、弁当家に忘れてきた。」
「まぁ、お前ん家近いんだし、ささっと取りに行けよ。10分ちょいで帰って来れるだろ。」
「面倒くさいけどしょうがないか。ごめん、ちょっと家まで取りに行ってくるわ。」
「いってらー」
秋葉の言葉を背に受けながら、隼人は家に向かったのだった。
※※※※※※※
「お、あったあった」
鍵を開けて家に入ると、隼人はリビングの真ん中にあるテーブルの上に弁当があることを確認し、やはり家に忘れていたのかと自分に少し呆れる。
宿題の忘れ物は無かったものの、やはり自分は抜けている所があるなと反省しつつ、弁当を持ち上げる。
すると、下にどうやら母の書いたであろう置き手紙が1枚挟まれていた。
次は忘れない事!という文面の右下には怒ったような顔をした恐竜のようなキャラクターも添えられていた。
「はいはい、気をつけるよ。」
それでよろしい、と声が聞こえてきそうだが、生憎今部屋の中には隼人1人だ。
何となく少し寂しくも感じたが、仕方のない事だ。
「そろそろ学校に戻るか。」
もうここで食べてしまおうかとも思ったが、もし啓介が隼人を待ってまだ食べていないとしたら、その気持ちを無下にすることになる。
「まぁ、気にせず食べてるんだろうけど、一応ね。」
そう呟きながら玄関に向かおうとすると──
──ふと、窓の外にあるものに目がついた。
「……?」
窓を開け、隼人はソレが何かを確かめる。
まるで大きなガラスに無数の亀裂が入っているかのように、何も無いはずの空中を白く覆っていた。
やがて亀裂は真下にあったマンションを覆うほどに巨大な物になり、内側からジワジワと赤みがかってきていた。
「は?」
全く理解の及ばない光景を目の当たりにし、隼人は思わずそう漏らす。
ただ、直感的にその亀裂がまずい物だと分かった。
まだ夏だと言うのに薄ら寒ささえ感じながら、目だけは縫い付けられたかのように今なお拡大し続ける亀裂をじっと見ていた。
「何だ、アレ...?」
いつの間にか黒く変色していた亀裂は、より一層暗く輝き、そして──。
パキ
その決定的な音とともに、強烈な光と音が街全体を隼人諸共飲み込んだ。
「ッ....ぐぁ....」
突然の事に、耳を防ぐ事が間に合わず、音の暴力に脳を強く揺さぶられる。
まともに光を目に浴びたせいで視界も完全に奪われ、パニックを起こす。
──何、が
隼人は亀のように身を縮め、光と轟音が止むのをじっと待つ。
暫くすると音は止み、それに合わせて隼人も恐る恐る瞼を開ける。
「………….....」
何とも言えない不安と恐怖により呼吸が思ったように出来ず、不規則に空気を震わせる。
──どう、なった?
そう思い、先程見た謎の亀裂、それが割れた後の街を隼人は確認する為に震える足を押さえつけながら立ち上がる。
テーブルに体を持たれさせながら隼人は外、あの亀裂があった方へと目を向ける。
「── ─」
そこにあった光景は、
──特に異常は何も無い、いつも通りの街が広がっていた。
隼人自身、立っていられないほどの轟音があったにもかかわらず、あの物体の周りはともかく、その中心にあったマンションさえ何の変化も無かった。
「あんな音したんだ...あのマンションの窓くらい割れててもおかしくないと思ったんだが...」
「気の.....せい....か?」
そうとしか、今見た現象に説明が付かない。
あんなものがこの世にある訳が無く、あった形跡も消え失せた。
「幻覚、幻聴、立ちくらみ、それに悪寒もしたな。これは、そろそろマジで精神に異常を来してんな。」
自嘲気味にそう呟き、冷や汗ですっかり濡れてしまったシャツに不快感を覚えながら深呼吸を繰り返し心を落ち着かせていく。
──学校に、戻ろう
隼人は一刻も早く日常に戻る為玄関へ向かう。
靴を履き、ドアノブに手を掛けドアを開こうとする瞬間。
背後から、ぎしと床の軋む音が聞こえた。
嫌な予感がする。
確かめたくないと叫ぶ心とは裏腹に、目線はすぐに後ろに振り返り、そこに居た人型を捉える。
浅黒い肌に、充血し切ったどす黒い目。
不自然に膨らんだ腹に引っ張られる様に背は丸く曲がり、額には1本の角が生えている。
隼人はその姿を見て、昔話に出てくる『餓鬼』という化け物を思い出していた。
隼人は、鬼の垂らした涎が床に落ちるより早くその場から逃げ出していた。
「……ハッ……ハッ……!」
部屋を出てすぐ目に入った階段を滑り降り、
エントランスの方へ走り抜け、そのままマンション前の道路まで行き着いた。
町は何も変わっていない。
走り去っていく車にも特に変わった様子はなく、やはりあの爆発と生物は自分の気の所為だったのかと安堵する。
少し息を整えようと、周りを見渡すとふと、違和感に気がつく。
マンションの周りを囲む塀の一部が完全に崩れている。
そしてそのすぐ近くに、不自然な水溜まりが出来上がっていた。
声にならない声が喉から漏れる。
二歩三歩静かに後ずさりし、水溜まりに背を向けて走り出そうとした時
誰かの悲鳴が、辺り一帯に響き渡っていた。
すぐに尋常ではないと分からせられるその悲鳴に、隼人はその場に凍り付いたように動けなくなる。
「ぁぁぁあ!」
また悲鳴。しかし今度の悲鳴は先程よりも明らかに小さくなっていた。
悲鳴は、すぐ後ろから聞こえている。
心臓がバクバクと脈打ち、頭に血が上り過ぎているせいか、視界がやけに小さく見える。
今も尚聞こえてくる何か硬いものを無理矢理噛み砕く音に吐き気を覚えながらそれでも
動けない。動けない。そして──
「や……、て...ぇ」
3度目の、悲鳴。
否、悲鳴と言うには余りに弱々しいその声に心を掻き毟られる様な感覚を覚える。
隼人は後ろに振り向くと、水溜まりの上に手を伸ばし、先程まで足掻いていたであろう女性が事切れていた。
「…………ぅ」
強烈な吐き気を覚えながら、学校への迂回路を探す。
喰われている人には悪いが、今更助けようとしても仕方ない。
そう自分に言い聞かせながら、込み上げてくる胃酸を無理矢理飲み下し、道を変えて歩みを進める。
「……気持ち悪い…」
明らか過ぎる異常が隼人の思考を鈍らせる。
ついさっきまで啓介とテニスの練習をして、明日から学校が始まることに嫌気がさす、そんな、いつも通りだったのに。
本当に、意味が分からない
空がひび割れ、直後の光。アレが原因なのは何となくわかるが、その後の展開が意味不明過ぎる。
これが夢だと言われれば、なんだそうかと直ぐに納得するだろう。
「……夢?」
何か引っかかる。
これは、この状況はどこかで…
「────ッ!」
迂回、したはずだ。
だが目の前には先程の人喰いと思われる化け物が立っていた。
「………くそッ!」
どこかに隠れてやり過ごすしかない…!
そう考え、咄嗟に餓鬼がいない、別の道へと走りだす。
ただ自分に恐怖を与えてくる存在から少しでも遠ざかるために走る。
背中に追跡の気配を感じながらも、振り返る勇気は隼人には無かった。




