雪中花 ~紅のむこうに~
…思考がぼんやりとして、それが現実なのか夢の中なのか、はっきり判断できるほどのちからは残っていなかったけれども。差し出した手に伝わるぬくもりを握りかえして、「もうどこにも行くな」と呟いて途切れた。
齢80を過ぎたこの体。
長年使い込んで来たんだもの、ガタがきているのは当然。
血圧が高い。腎臓も悪くなっている。挙げ句の果てに心臓まで脈をバラバラにうち始めた。目はかすんで近くのものさえ、はっきり見えない。
苦しい。ちょっと身じろぎしてさえ息が切れる。
見慣れた自宅の籐のベッド。ギシリときしむ微かな音が俺の生きている証。天井のぼんやりとしたシミに目を凝らしてみる。
妻は「病院に行くわよ」と俺を連れていく気満々だ。
何のことはない、ぐあいが悪ければ連れてこいと主治医に言い含められているのだ。
ベッドサイドに車椅子を横づけして、着替えでパンパンになったバッグも置いて、すでに準備完了。
このままでいると、病院に連れていかれて。
検査。治療。
辛い一日が、残された日々がまた1日延びてしまう。
それもなあ。どうなんだろ。
ああ、このまま。
…なんとかこのままほっといてくれないもんだろうか。
そうすれば。
よっこいしょ。
右向きに寝返りを打って目をつむる。
ああ、昨日も同じ愚痴を言ってた自分。
ふわふわ傾眠がちになって、血圧も低めだ。
さっき妻が無理やり手首で血圧を測ったら「上が90だわ」とコソッとつぶやいていた。
お~。いや、意外に気持ちは安らかなもんなんだよ。
もどかしい苦しさはあるけど。
食べ物がつっかえて落ちないから流動食オンリー。幸いなことに妻お得意の南瓜のポタージュは食べられる。これだけでも幸せだ。
最期に食べたいものは?
ううむ。
うなぎ? ステーキ?それとも。
直ぐには思い当たらない。そうね、考えてみよか。
目をつむるとすやぁと眠れてしまう。
色彩のない、どこまでも境のない白い世界。
透明な自分がふわあっと降りていく感覚も悪くない。
どこかにある着地点に。ふわふわ漂っている凧のような自分。
そこに何があるのか。
待っているのは地獄?それとも。
「パパ、着いたわよ」
妻の声。
天国か?
いや違った。いつもの病院、外来の待合室。なんだ。ぼけっとしてる間につれてこられてしまってた。
「いかがですか?」
きっちり白衣を着こんだ年配の主治医が心配そうに覗き込む。具合悪いからきたんでしょ、先生。
「入院されますか?」
うー、それはない、なあ。血圧低いだけだし。あ、それだけで充分入院案件か。
寒い。力のない指で上着の襟をかきあわせる。
外にはチラチラ小雪が舞い始めていた。
検査の結果を待つ間、診察室の窓のはじにチラと紅い何かが見えた。霞む視野に鮮やかに紅い。
「あれ…あれ、なに?」
震える指でさした先にあったのは。
「パパ、あれはお庭のシクラメンよ。」
シクラメン?えっ?
駄目だ。あんな戸外の、雪のあたる場所になんて植えたら速攻葉が傷んでしまう。
「ふふふ」
眉をひそめた俺に、妻が笑いを洩らす。
「盆栽しか興味がないのかと思っていたわ」
今流行りのガーデンシクラメンと言うらしい。紫がかった紅の花冠が肩を寄せあって集い、つもり始めた雪に陽炎のように燃えている。俺の知っているシクラメンは、クリスマスの頃、暖かな室内に飾られる鉢花だった。クリスマス。ふと、なぎさのくしゃくしゃの笑顔が浮かんできた。
なぎさ。俺の一人娘。
もう何年前になるのか。こともあろうか、一回り年上のシングルファーザーに惚れて、さらわれるように九州の港町に嫁いでいった。
「わざわざ苦労することはないんだぞ」
俺の、絞り出すような言葉に冷たい一瞥をくれると黙って出ていった娘。それ以来俺とは音信不通だ。妻とはごく稀にLINEでやり取りがあるらしい。ぽつりぽつりと近況を教えてくれる。
娘が幼い頃、仕事の合間を縫って、やっと買ったクリスマスプレゼントを渡した年があったっけ。「わあああ、パパありがとう。どうしてこれが欲しかったのか分かったの?」ピョンピョン飛び跳ねて喜ぶ娘の姿が瞼に浮かんでくる。いやなに、妻の差し金なんだが…ま、これは内緒にしておこう。
なぎさ、元気でいるのか。幸せに暮らしているのか、今頃。
背を向けられても、いつも心が離れることはなかった。
「ー症状が進んでますね。今日のご様子ではご自宅での療養が難しいと思われますが…。どうされますか?」先生の困った表情。検査の結果は想定内だ。
「…帰る」
声がかすれて伝わったか分からない。妻が俺の顔を覗き込むように身を乗り出して聞き取ろうとした。
先生は重ねて言った。
「ご自宅で、ということもあり得ますが、よろしいのですか?」
俺はだまって頷いた。先生、分かってる。今日明日ってこともあるって、察してはいるのだ。
「…そうですね。仕方ないんです。この人の頑固には誰にも勝てませんから。先生、ありがとうございました。」妻はピョコンと先生に一礼するとくるりと車椅子を回した。連れてきた割には潔く覚悟を決めたようだ。
帰れる。家に。あのベッドに。
ほっと息を吐いた。
ありがとう。
妻を見上げると、照れたように笑った。「どれだけ一緒にいるか分かってる?」
…そうだな。長い長い時間を共に暮らしてきたんだった。言わずと伝わるありがたさを言葉にしたいけど。もう言葉も出ない俺はただ妻を見つめた。
長い廊下が途切れると駐車場までの庭を突っ切って行く。
車椅子の前車輪をうまく庭の飛び石に乗せるのはなかなか難しい。ふと車椅子が止まる。
「パパ、ほら。さっきのシクラメン」
窓から見えた花の群生が視線の先に紅く広がっている。
小雪が静かに花を包んでいる。
ああ、視界がすこしぼやけきた。
「パパー」
駐車場の車の窓から、誰か手を振っている。
誰だ。聞き覚えのある声。
ガチャ。車を降りてこちらに駆け寄ってくるのは。
必死に見えない目を凝らした。
「なぎさ…」
俺の目じりからすうっとあたたかいものが流れ落ちた。
「あら思ったより早く着いたのね。さっき羽田に着いたってLINEきたばかりなのに。パパ、パパ?どうしたの!パパ!」
ありがとう。
俺は静かに瞼を閉じた。
駆け寄ってきた娘が俺にとりすがってすすり泣いている。
駆けつけてきた主治医はなすすべもなく静かに俺の最期を見守っている。
…雪は途切れることがなく降り続き、シクラメンをやわらかく埋めていった。
シクラメンの花言葉は「愛情」「絆」です。