アルトーエス戦役・前
ウェルティコスを擁したアルトーエスの王スレイヴスは、領土の割譲や権限の移行を条件にニルギスに戦線布告する可能性が高く、叛乱はまだ終わっていなかった。
総司令官と執政官になったディアニクスが不安に感じていたのは、アルトーエスとの戦いよりアンディコスの優柔不断によって遠征軍や輜重部隊の行動に支障がでることのほうであった。
各都市で住民を懐柔することを目的にした簡易的な式典を行った後、王都の無産階級を意のままに動かせることができるように、彼らを使った公共事業としてライトに機能していなかった王都の下水とその汚水を溜めていた五つの貯水池の修復工事を命じ、有産階級に対しては、すでに壊れて使い物にならない防壁の石材を自由に持ち出して売却することを認めることで懐柔を試みた。
戴冠式が終わった後、ディアニクスからアルトーエスとの間に起きる可能性をアンディコスは説明される。
それを聞いた新王は、処刑される恐怖や幽閉生活に戻されるのではないかと不安になり、寝込んでしまう程に気落ちしてしまった。
大神官ピウスが卜占で神々の意を確かめ、吉兆が出たと報告することで、アンディコスは何とか落ち着きを取り戻すが、ディアニクスは彼の優柔不断を不安に思い、集会にて民衆に判断を委ねるように進言する。
他者の言葉を信じ易く自分で何かを決めるのが苦手なアンディコスは、ディアニクスの案を受け入れると正気を取り戻した。
集会で事情が説明されると、式典や利益誘導による大盤振る舞いの接待を受けた民衆は、ディアニクスにアルト―エスとの交渉権に加えて遠征の際には全権大使として和平交渉を進める権限を認めた。
「王の素晴らしき決断と皆の賢明な判断を真似、不測の事態が生じた場合には私の独断で物事を決めず、市民である軍団の皆と話し合い、合議によって解決することを宣言する」
壇上に上がったディアニクスは、民衆を前にそのような演説をした。
それは、正規軍がアルト―エスの国内で行動している最中、気が変わったアンディコスが遠征の邪魔をした場合に備えて、正規軍内での決定が王の命よりも優先する事を間接的な表現で表明したに過ぎないのだが、自分たちが利用されるだけ存在だと気が付いていない民衆は、この言葉を拍手で歓迎した。
その年の冬は暖かく雪の降り積もる日は年が暮れるまで少なかったおかげで、ディアニクスは行動する時間を多く得ることができた。
戴冠式や市民を懐柔するための政策、そして、各国に同盟更新の大使を送り、アルトーエス王スレイヴスにもウェルティコスの亡命を正式に認める代わりに同盟の更新を求めた。
しかし、すでにスレイヴスは次の年の遠征に向けた税の設置に加えて傭兵と軍夫の募集を始めており、ニルギスの大使は王都にも入れず王の代理より開戦の意を示す抜き身の剣を渡された。
ティタン王国以外の国は、ニルギスの叛乱はまだ終わっていないと判断して同盟更新に来た大使の足止めをしていたので、ディアニクスは他国に介入させる隙を与えないために、春の雪解け前に進軍を開始し、アルトーエス国内に配置された傭兵の集結が終わる前に決着を付けることを決めた。
そのために割高であったものの同盟更新の返礼としてティタンから穀物を買い、国内では投機目的で貯め込んでいた商人から罰金と共に強制的に穀物を買い取ることで、国内の穀物の価格を抑える。
この戦役は後に『スレイヴス戦役』とよばれる。
ライトにはアンディコスが意見を変える場合の説得に加えて、国境周辺に残っている傭兵軍の残党の監視を命じ、その指揮下の残留部隊には第二軍団三千と騎兵二百を残し、輜重部隊の護衛にはマルカ率いる第四軍団の一部を当て、遠征には三個軍団と有力者の子弟を加えた騎兵六百が行くことになった。
王都を空ける間、ディアニクスはアンディコスが王の権限を使わないように気を使わなければならなかった。
王の心の安寧を考えて助言を行う大神官ピウスが重要な役割を担っていたが、それでも払拭できない不安があった。そのためにディアニクスは執政官代理の職を設けると、王都に住む有力者を含む親方連中にその職を交代制で任せ、彼らが反抗しないようにその子弟を騎兵として招集した。
アルトーエスの王は対外的な呼称であり、他の国よりも早く執政官による独裁が成立したために、各都市にはまだ自治の制度が残っている。
王は国内では共和制を標榜しているので、市民の代表として「正義の旗手」、議会と行政の代表である「第一人者」と議会に対する拒否権と軍に対して命令権を持つ「終身執政官」、神官団の長として「大神官」と、様々な役職を兼務した存在だった。
このため王と各都市の有力者とは緊張状態にある場合が多く、ディアニクスはこれら反抗的な都市を切り崩し、アルトーエスの勢力を削ぐことを考えていた。
アルトーエスとニルギス、両国の境界線となっているプカ山脈は長く、アナハルドによる譲渡でアルトーエスが山脈を実効支配していたので、その通り道となる隘路には幾つもの見張り塔を備えた砦を築いており、守備は麓に住む市民と傭兵で構成され、隘路の巡回も頻繁に行われており軍団が気付かれずに通り抜けるのは困難であった。
しかし、冬期には僅かな数の市民だけを残して傭兵の多くが麓の街に冬営していたために、攻城兵器と工兵によって防壁は瞬く間に突破される。
我々は砦を数日余りで攻め落とすとアルトーエスに侵攻、その際、ディアニクスは砦の保持に拘る味方を説得すると防壁を破壊した。
この戦いにより、ニルギスからの兵站線が確保され、アルトーエス国内で孤立する危険性から解放された。
ニルギスと同じくアルトーエス内の街道は入り組み、時には舗装されていない道なき道を進まなければならず、案内がなければ迷う所だが、ディアニクスは商談でリアナッカスへの道をある程度は把握しており、アルトーエスに侵攻を始めて二日後に、我々はニーバという名の街に到着する。
元々から独立心の高かったニーバの住民は、傭兵が逃げ出すと我々を喜んで街に向かい入れてくれたのだが、住民達は我々の起こした叛乱の話や他の国の様子、自分達の国の状況など様々な事を聞きたがり、そのためにささやかな宴会が開かれた。
宴会の席ではとても真実とは思えない話や詩を詠う者などがいた中で、ディアニクスも、バルト共和国を生んだ伝説の王子達の逸話、世界の果てに在るという島の話、ハイド王国の森に生息するという一角獣や酒に漬けられた果実の事、その一角獣の角というのを皆に見せた後、実はその角は凍土の果てに棲む巨大な海獣の牙であると明かし、その海獣の皮を見せて皆を驚かせた。
二日間ニーバに逗留した後、我々はこの街と同盟を結び、もしも、傭兵が報復に来た場合のために、降伏した傭兵達の装備を残して出発した。
ディアニクスは、立ち寄った集落から募兵官や傭兵を追い払い、住民と個別に同盟を結んでは小麦や家畜を正規の値段で買い取り補給路を確保していく。
六日後、カイヤ村に逗留した我々は、七日分の食糧と家畜を村の市場から買い、その後も四日間同村で過ごしていた。その理由は、アルトーエスの南の在るノマロ山の山中に、未だにアルトーエスに併合されずに抵抗を続けているシフィナシスとう小部族が暮らしおり、ディアニクスはこの部族と同盟を結ぶための返事を待っていたからだ。
そして、ここで重要な情報が手に入る。
アルトーエスの王都リアナッカスに駐留する傭兵の数は事前の情報によれば一万前後とあったが、国内に入ってから集めた情報から実際の数は五千余と判明し、一万は王都の民を招集した場合の数だったことが判った。