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1931年2月頭。
「ううむ」
山中五郎は冷や汗をかいていた。想定以上にダンジョンが稼ぎを産み出していたからだ。
「玉鋼だけで月産四トンか……」
西粟倉ダンジョン付属のたたら場を一回稼働させるのに必要なダンジョン産選別済の砂鉄は一〇トン、木偶人形の炭一四トン。そこから得られる銑鉄は一.七トン、玉鋼が一トン。ひとつあるたたら場を週一回だけ稼働させ、それを月四回やっているので、月産の玉鋼は四トンにもなる。
銑鉄の方は釘だ機械だと需要があるため売れに売れているが、玉鋼は今までは刀や包丁程度しか使い道がなかった。また玉鋼は刀剣向きの品質なため工業機械にあまり向かず用途が限られていた。
軍刀以外の需要を作るため、刀の技術を流用し玉鋼も使った鶴嘴を作らせたところ、これが売れに売れた。この鶴嘴は、
『既存の鶴嘴と違い、折れず、曲がらず、よく掘れる』
と土木業者に大人気。この先二年は予約待ちという有り様だ。
「砂銀も、凄いな」
砂鉄一トン掘る毎に、砂銀は六キログラム、砂金は二〇〇グラム得られている。両者共に貨幣としての価値が高く、全て国に納品されているが、銀は貨幣としての価値以外に近頃流行りの電子部品にも使われる。そんな銀の産出量が増えたためか、電子部品の生産量もじわりと増えたことで銀価格はむしろ僅かに上昇傾向にある。
西粟倉ダンジョンは砂銀と砂金だけでもかなりの利益が上がっていた。
「ガラス瓶の生産もなんとかなったが、これまた順調そのもの」
ダンジョンから産出する砂鉄は、川の水を使って選別されて純度を高められる。その残りカスな砂が高純度なケイ砂だと気付いた現場からの意見を採用したガラス瓶の生産も、四か月ほど前から始まっている。
ガラス生産に必須のソーダ灰については、瀬戸内海に面する赤穂のダンジョンにわんさかと生えているシオクグの灰が使えた。瓶の蓋のコルクは瀬戸内海にある鹿久居島のダンジョンのモンスターから大量に得られる。
それらと合わせて生産されるガラス瓶は、西粟倉の農産物を使った瓶詰めに使われている。保存食と言えば缶詰の時代に瓶詰めを売り出したのは、五郎の娘桜が、
『瓶詰めは中身が見えるから、綺麗な料理を詰めればそれだけで装飾になる』
と強く推したためであり。またダンジョン産砂鉄の副産物であるケイ砂を川に捨てれば川が氾濫する可能性が高くなるため、政府から川に流す以外の処理を求められていたからだ。
桜の目論見は上手く行き、見た目も鮮やかに工夫された漬物の瓶詰めが売れに売れ、ダンジョンに関わっていなかった人々にも利益を与え初めている。今年は梅干や梅酒、桑の実ジャム等の瓶詰めを売り出すことも計画されており、それに向けてガラス工房は大忙しだ。
モノが売れ、誰もが得するこの状況は素晴らしいものだ。だがダンジョン庁西粟倉支部の支部長である山中五郎はそうも言っていられない。
「お陰で書類仕事が追いつかん。特に税関係」
儲かるなら税を取られる。当たり前のことだ。そしてダンジョンは国の管轄下であり、付属の炭窯やらたたら場やらガラス工房やらは半国営で監視の目も厳しいので、納税を誤魔化すことは不可能だ。
しかし。
「書類仕事をこなす人員が足りん」
ダンジョン庁自体が真新しい組織なため、官僚も役人も足りない。ならば人を雇えば良いが、簡単に雇える人材は既にダンジョンに入ったり工房に入ったりしている。
「どうする……?」
五郎は悩む。
悩んで悩んで、目がグルグルし始めた頃、五郎はひらめいた。
「短時間で良いから家にいる奥様方に手伝ってもらおう!」
機密以外の書類を、家で子育てに励んでいる奥様方にやってもらおう、と思い付いたのだ。
そして男親一人で娘を育てている五郎は、この解決策の問題点にも気付いていた。
「そのためには、保育園や家事仕事の専門家が必要だな!」
人が集まるかは別として、それらの人員を雇い設備を整えるだけの利益を、西粟倉支部は叩き出していた。
ダンジョン庁西粟倉支部にて『保育園』と『家事代行公社』が稼働を始めたのは、この年1931年4月頭からだった。
西粟倉だけでは人手が足りず、神戸や大阪、筑豊に出稼ぎに行っていた人々を呼び戻してなんとか稼働を始めたこの二社は、西粟倉支部に勤務する人員の増加に大きく寄与したが、同時に冒険者の増加にも繋がった。
子持ちでも冒険者になれるようになったからであり、出稼ぎに行っていた人々が出稼ぎ先で作った知人友人を呼び寄せたからでもある。
人員増により、集団で動き、砂鉄を掘る『砂鉄組』は朝八時から夕方五時まで勤務する『昼勤組』だけだったのが、夕方四時から深夜一時まで勤務する『夕勤組』も増えた。
これにより砂鉄・木偶木炭・粘液肥料の産出量は倍増。それに伴い選別場・たたら場・ガラス工房も拡張され、その生産量はほぼ倍増した。
ダンジョン庁各地の支部が保育園を設置し始めたのは1931年3月頃で西粟倉支部の動きは少し遅い位であったが、家事代行公社まで設置したのは西粟倉支部だけだった。
家事代行公社の仕事が冒険者以外にも有用だと気付いた各財閥は、日本全国に『家事代行社』を設置。
『どうにもならない家事は代行社を使おう!』
そんな認識が、日本人の間にじわりと広がっていくこととなる。