11 1935年あたりのイタリア
世界大戦の被害から回復しつつあった矢先の世界恐慌で、ヨーロッパ経済はガタガタに崩れていた。
多くの植民地を抱えていたイギリス・フランスはブロック経済化を進めることで、この状況を脱しようと試みていた。その余波で敗戦国たるドイツ経済は死に、アドルフ・ヒトラー率いるナチスが躍進してしまった。
一方、この情勢に動じなかった国がある。ベニート・ムッソリーニ率いるイタリアである。
「こちとら世界恐慌前からずーっと景気悪いんだよ!」
という後ろ向きな理由から、慌てる必要がなかっただけではあるが。もちろん、それだけではない。
ムッソリーニ率いた国家ファシスト党は、復員軍人と地主、土地持ちの農民が初期からの支持母体だった。そしてムッソリーニは彼らに仕事を与えることに成功していた。
日本の成果を見て、1931年中頃からダンジョン探索を推進したのである。
戦闘経験のある復員軍人を先鋒に、仕事に溢れたり副業を求めたりした農民を後詰に。ダンジョンの外での娯楽や飲み食いは地元の地主や商人に。
イタリアのダンジョン探索は、初期から組織化された運用がなされた。出来るだけ楽に・確実に稼ぐため、荷運びのためと初期から馬やロバが投入されたし、成果が見え始めてからは、軍から戦車やトラックを出させたりもした。
なお戦車が投じられたダンジョンのほとんどが、マフィアの活動が盛んな地域であり。戦車投入と前後して『軍事技術秘匿のため』と多くの憲兵が投入され、マフィアが壊滅したのは、余談としておく。
多くの資源を輸入に頼っていたイタリア。1935年までに、石油・石炭・粗鋼に関しては完全に自給出来るようになったのは、ひとえにダンジョン探索のお陰である。
また、地中海性気候で水不足に苦しむ南部にて、少なくとも飲み水に困らなくなったのも、ダンジョン探索のお陰である。
こうしてイタリア経済は、少しだけ余裕が生まれた。しかし足りない。商品の売り先が足りない。足りないならどうすれば良い?
「リビアを開発するぞ!」
イタリアの植民地であるリビア(正確にはイタリア領トリポリタニアとキレナイカを合わせた地域)にも、複数のダンジョンが確認されており。特に綺麗な水が得られるモノの周囲には、さながらオアシス都市のように村が出来ていた。ムッソリーニはそんなダンジョン『村』をダンジョン『街』まで引き上げることで、市場を生み出そうと企んだのだ。
1933年末から始まったこの試みにより、リビアの砂漠のど真ん中に、ダンジョンを囲む町が複数出現した。
嫌らしいのは、これらの町はダンジョン産の水・草・肉・皮を使った産業が主体であり。工業製品とくに金属製品は、たとえ包丁やナイフですら外部に依存していた点だろう。そしてこれら必要とされる工業製品は、ほぼイタリア本土から輸出されたモノだった。
これらダンジョン町は、イタリアも予想していなかった影響をもたらした。衰退しつつあったサハラ交易が、リビアの砂漠を越える形で復活したのである。
サハラ砂漠を越えるこの交易は、元々アフリカ大陸北西部を中心に行われていた。砂漠の更なる乾燥化によって難易度が上がり。また植民地として国境が確定したことで衰退した。
しかし、リビアの砂漠地帯に関しては、ダンジョン町を経由することで難易度は大幅に下がり。サハラ砂漠を超えた先のフランス植民地の人々も、世界恐慌として続く不景気に、商品の売り先を探していた。
密貿易扱いされるようになってからもサハラ交易を続けていた商人は、これらの事情に気付いていた。彼らはリビアのダンジョン町で皮・干しデーツ・綿布を仕入れ、サハラ砂漠を超えフランス領に入り、岩塩・象牙・ダンジョン産の砂金を得る、という密貿易を確立した。
フランスとしては、この交易によってフランス領赤道アフリカの内陸部(現在のチャド辺り)の栄養状態が改善し。また砂金を求めてダンジョンに入る方に人手と体力が取られたのか、反抗的な現地民が減ったので、この密貿易を黙認した。
リビア開発は順調だった。しかし1935年初頭、イタリア政府は、イタリア王室は、ムッソリーニは思った。
「想像よりリビア市場が小さい」
そりゃあリビアのほとんどが砂漠の過疎地帯なのだから、当然だろう。
だからイタリアは止まらなかった。
「エリトリア・ソマリアでも、リビアでやったようなことをしよう! ついでにヨーロッパの隣国にも、なんか商品を売ろう!」
イタリア領エリトリアの方は上手くいかなかった。
イタリア領ソマリアの方は成功。オガデン砂漠を越えたエチオピアとの密貿易が盛んになった。
オーストリアがナチスドイツからの庇護を求めてきた。ドイツとやりあえるほどの軍事力がない自覚はあったので、適当に武器を売り付けてナチスを外交的に批判して、それ以上は動かなかった。
大恐慌に喘ぐアルバニアの国王ゾグ1世とギリシャの名政治家ヴェニゼロスが軍事的支援を求めてきた。こっちは遠慮なく武器を売り軍事顧問団を送り込み企業も進出させ。それとなくダンジョン探索を推進して代価となる金・銀の採掘量を増やさせた。
極東でラストエンペラー溥儀が国を建てるから工場を建てて欲しい、と言ってきた。トラックと農業機械の工場を建てる約束はしつつ、数年はイタリアから輸出する予定だ。
そんなことをしていたら、オガデン砂漠の密貿易を取り締まろうとしたエチオピア軍が、オガデン現地住民の反撃に遭い、内乱になりかけていた。
「これは植民地獲得の、市場拡大のチャンスだ!」
こうして2度目のエチオピア戦争は起こった。1935年10月3日のことである。
内乱がソマリア植民地に波及することの予防、と強弁することで、イギリスを中立に抑え。
戦後もジブチエチオピア鉄道に頼る、と交渉してフランスをイタリア寄りの中立にして。
イタリア軍はエチオピア軍を一方的にボコボコにした。知らずダンジョン探索で戦闘も戦術も洗練されていたイタリア軍に、まともに軍備の整っていないエチオピア軍では相手にならなかった。
1936年1月4日。エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世は降伏文書にサイン。第2次エチオピア戦争は終結した。
イタリアはイタリア領エリトリア・ソマリア・エチオピアを『イタリア領東アフリカ』として統合。ゴム園・果樹園・コーヒー園・サトウキビ畑といったプランテーションを新設しつつ、既存の農場の安定化も狙った利水工事を推進。
この先進的な利水工事の予算はエチオピアからの持ち出しだったが、エチオピアが独立していた頃なら技術的・利権的に出来ないことだったので、エチオピア市民と農民は歓喜し、反抗的な勢力は沈黙するしかなかった。
なお、様々な道具や機械の工場はエチオピアに置かず。整備だけは出来るようにするも、部品や本体はイタリア本土からの輸出に頼るようになっていた。




