悲しき道化回し
いづれの御時にか、学生、教授あまたさぶらひ給ひける中に、いとあやしき様にて、すぐれて懸想づきたる者ありけり。
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今日もまた、友人のであり、同期のひろぽんの家にお邪魔している。ひろぽん、というのは山田浩史くんに他ならない。今のところ俺の学生生活の中で、多分一番顔を合わせている人物だ。山田浩史くんだから「ひろぽん」なのであって、「疲労がポンと取れるから」といういかにも怪しげな由来でないことを声を大にして申し上げておきたい。何せ、俺がひろぽんと呼び始めてから「あいつはクスリやってるヤバいやつなんじゃないか」という根も葉もない噂が立ち始めてしまったのだ。反省はしていない。
俺は、そのひろぽんの家でもう一人の友人であるはじめと三人で酒を飲んでいた。俺は何の躊躇もなく冷蔵庫を開ける。
「冷蔵庫! オープン! ひらけゴマー!」
と一人小声で聞こえない程度の大きさの声で呟いてから開けてみる。案の定、味噌と卵くらいしか入っていない。酒がない。とりあえず、酒を手に入れることが先決である。リビングにいるひろぽんに声をかけてみた。
「ひろぽーん、酒あるー?」
それに対して、ひろぽんがややため息をついたような気がした。気持ちはわからんでもない。友人の家で素っ裸で酒を探す人間なんぞ、この大学の中に俺一人くらいしかいないだろう。ひろぽんの代わりにはじめが返事をする。
「酒買いに行くかー、まだスーパー開いてるぞー?」
はじめはこういうとき、フットワークが軽い。リングの中を縦横無尽に動き回るモハメド・アリのようなフットワークで蝶のように舞い、末期のアルコール依存症患者のように手早く酒を買ってくる。
そもそも、はじめを「はじめ」と呼び出したのも考えたら俺だ。斎藤という姓を聞いた瞬間に全部名乗る前に「はじめ」と呼び出したのだ。そもそも、新選組とかあまり詳しくないし、斎藤一について特に思い入れはないのだが、なんとなく斎藤といわれたら斎藤一を思い浮かべてしまう。はじめは特に嫌な顔をしたわけではない。後日「道三とどっちがいい?」って聞いたところ、「道三だけはやめろ」といわれたので、はじめと呼んでいるのである。
そのはじめのお言葉に甘えて、ポテトチップスもついでに頼むことにした。
「買いに行くならついでにポテチも頼むわ」
味は何でもいい。ただ、ポテトチップスが食べたいんだ。はじめはスマートフォンを少しばかりいじると、ひろぽんにも問いかける。
「ひろぽんは?」
「僕は半額の弁当と、あとはビールを適当に」
時計を見ると、午後九時前。弁当がそろそろ半額になる頃だ。抜かりないな、ひろぽん、と思い、ひろぽんを見ると、グラスについた水滴を指でなぞっている。そういえば、グラスも汗をかくような、そんな季節になっていた。アパートの近くの田圃では、蛙が頻りに鳴いている。
「たけっちはポテチでひろぽんは弁当なー。ちょいいってくるわ」
はじめは財布を持つと、颯爽と扉を開けて扉の外へと躍り出ていった。扉を開けた瞬間に、夏の夜の匂いがした。俺は半ば忘れかけていた暑さを思い出す。
「いやぁ、それにしても暑いなぁ。長野県って涼しいと思ってたのに」
「そんなに涼しい格好をしておきながら何を言ってるんだよ。服くらい、いや、せめてパンツくらい履けよ」
「本当なら保冷剤股間に挟みたいところ」
俺は敢えて腹ではなく尻を一回高らかに叩いて口にする。
「塗るタイプの湿布薬塗るぞお前」
当然、粘膜に塗ってはいけない類のものである。ひろぽんがやや笑いを堪えているのがわかった。
「それだけは勘弁、履きます、履きます」
そろそろパンツくらい履きたかったのもあり、俺は素直にパンツを履くと、ベッドにダイブした。
「お前、やめろ! そこは聖域だ!」
ひろぽんがムッとした声で俺に話しかける。だが、このベッドにひろぽん以外が寝ることなど考えにくい、と思った矢先である。明らかに男物とは思えない香水の匂いがした。
「そうはいっても今までこのベッドに寝たのは誰が……なんか女の子っぽい匂いしねぇ?……この枕」
俺は、思わず、聞いてしまった。
「それはこの前さ、できたんだよ、これが」
こいつ、友達の俺に最も突き立ててはならないものを突き立てやがった。頭の中で何かが弾けた。目の奥が熱い。頭が、チリチリする。人は何か衝撃的なことが起こると、一瞬冷静になったあとに突如津波のごとく感情が押し寄せるのだと、このとき俺は実感をもって思い知ったのである。
ーー何故ひろぽんに恋人がいるのか! 小指という、最も突き立ててはならぬ、中指よりも突き立ててはならぬものを俺の前に突き立てたのか! 激情に駆られた俺は思わず、バンシーのごとき叫び声を上げた。
「え……? 嘘だ……嘘だーー!!中指じゃなくて小指突き立てるなんて!!お前なんてもうフレンドじゃない!ケダモノ!!」
そして、そこから先の記憶が少し抜け落ちている。ただ、記憶にあるのは、街中の電灯と、車のクラクションで、気づいたら自宅の前にいた。破れかぶれのまま、家に入ろうと思ったところで、鍵がないことに気づく。考えたら、ひろぽんの家にズボンを置いてきていたのだ。あまりの遣る瀬無さに、僕は涙を流し嗚咽を漏らした。そもそも、こんな惨めな思いをしなければならないのは、どう考えてもひろぽんが悪いし、ひろぽんは間違いなく邪智暴虐の徒である。必ず除かねばならぬ、とまではいわなくとも、何かしらの報復はしてやりたいが、考えたらひろぽんは友人だ。友人相手に酷いことはできない。この煩悶をどうしようか、と考えているうちに、俺は再び頭の中で何かが弾けた。気づいたら、ひろぽんの家に辿り着いていたのだ。
ひろぽんの家に入ると、二人はびっくりしたような、安堵したような、複雑な顔でこちらを見てきた。
「家の鍵、ポケットの中だ……」
思わず、口から漏れ出た言葉に、二人の顔は綻んだ。はじめが笑いながら口を開く。
「よく捕まらなかったなお前、逆にすごいよ。それで、いつ頃デート行くのさ?」
単なるひろぽんへの質問が、俺の心を深々と抉った。
「はじめぇ……やめてくれえ!やめてくれよお!」
思わず、年甲斐もなく、懇願してしまった。二人は会話を続ける。
「それが、彼女ちょっと忙しいんだ。ほら、テストも近いだろ?」
「彼女、どこの学部?」
「秘密。理系とだけ言っておくよ」
ひろぽんの彼女か、どんな美女なのか。馥郁たる美女を想像したところで、俺は俄にその想像をかき消した。絶対にぱっとしない女の子に決まっている。そうであってくれ。いや、そうかもしれない。そうだったらいいな……。希望的観測をするたびに、またもや当初思い描いた馥郁たる美女の想像図がありありと目の前に迫ってきた。じゃあ、美女かもしれないが、傾国の美女の類だ。そうであってくれ。そう思いを巡らせながら、俺はひろぽんの家にある一番抱き心地の良さそうなクッションに顔を埋めていた。
「なるほどな。とりあえず、ひろぽんの彼女の話、楽しみだな、たけっち」
急に話を振られて、変な声が出た。
「へ?」
顔を上げたところ、よだれと鼻水が糸を引いた。ごめん、ひろぽん。このクッション、返すよ。ひろぽんが口を開く。
「たけっちは何か浮いた話ないの?」
あるわけがない。あった試しがない。
「うわああ!! 聞くなあああ!!」
俺はまたクッションに顔を埋めて叫んだ。やっぱりしばらくクッションは借りておこうと思う。もうやけ酒だ。
「やってられるか!」
と一言言い放つと、俺は座り直した。どいつもこいつも欣喜雀躍としやがって。少し説教してやる。
「俺たち学生の本分はなんだ! 学業ではないのか! 君たち、いや、ひろぽんは恥ずかしくないのか! 忸怩たる思いを懐くべきではないのか? 俺はそう問いかけたいね! 俺たちは最後に笑うんだ! ミネルヴァの梟は黄昏時に翼を広げるんだ!」
頭に思い浮かぶ限りの正論を並べ立てた。少しすっきりとした、と思った矢先である。
「でもたけっち、あんまり勉強してないよね?普段授業時間もスマホいじってるけど何調べてるんだ?」
言い返されたが、まだ持ちこたえられそうだ。
「そりゃあ調査だよ」
嘘はついていない。松本のおっパブとか風俗についての現状調査をしているだけだ。
「何の調査?」
はじめがが食いついた。はじめはよく実地調査に出かけている。夏休みも行くらしいが、ここまで食いつくのか、と半分感心、もう半分は恨みを覚えた。。和装古書を実際に取り出して翻刻するらしい。
「それは……」
言葉に詰まったところで、ひろぽんが口を開いた。
「松本のデリヘルとかそんなじゃないかな? な、たけっち。実は僕も……」
「え……あ……」
図星だった。完膚なきまでに、言い負かされた。もはや、二人相手に四面楚歌である。
「なんでわかるんだよおお!!!」
俺は項垂れて慟哭するしか、他に道はなかった。
「ちょっ、冗談だって! 泣くなって! ほら! ポテチあるから!」
ひろぽんが慌てたようにポテトチップスを差し出すが、到底喉を通る気がしなかった。
「あー、ひろぽんがたけっち泣かせたー」
はじめが小学生みたいなからかいをしている。もしかしたら、悪意などなかったのかもしれない。そそっかしいな、と我ながら思う。酒が大分回ってきたようで、俺はそのまま寝入ってしまった。
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翌朝のことである。俺が目覚めるとひろぽんはよだれを垂らしながら寝ていた。はじめもうつらうつらと船を漕いでいる。いち早く寝た俺はもう目が冴えてしまっていたし、日は既に高く登っている。ひろぽんを起こそうと思ったのだが、ひろぽんは非常に寝起きが悪い。起こしても起こしても、三十秒も経てば夢の中へと引き返していくのである。俺は一計案じることにした。
「ひーろくん! おはよー!」
「うわっ! 気持ち悪っ!」
俺はひろぽんに接吻をするように飛びついたのである。ひろぽんに恋人ができたという嫉妬ではないか、と問われたとしたら、俺は間違いなく「そんなことはないこともない」と断言する。奥歯に物が挟まったような言い方かもしれないが、男としての体裁は守らせてもらいたい。
ひろぽんに飛びついたとおもうや否や、俺の頬に硬い拳がめり込んだ。これはフレンドにするような、「学友パンチ」ではない。全盛期のマイク・タイソンですら躊躇するような、そんな硬い拳だ。俺は思わず、頬を抑えながら涙目で、一話だけ取り残された兎のように震えながら、恨みを込めて
「お……親父にも打たれたことないのに……」
と言い放った。。
「あー、ひろぽんがたけっち泣かせたー」
はじめが平坦な声で言い放つ。はじめ、眠いのだろうか?
「僕はファーストキスを男に譲るつもりはない」
ひろぽんが言い放った。恋人ができたからといって、ひけらかしやがって。俺にその気はないが、気付いたら口から言葉が放たれていた。
「うるさい! 抜け駆けした罰だ! ファーストキスは俺がもらう!」
「絶対やらん。はじめ、奪ってやれよ。たけっち、はじめにならばディープキスしてもいいぞ」
ごめんな、ひろぽん。はじめに恨みはないんだ。
「えー、はじめはなんか違う」
「それはそれで傷付くな……告白もしていないのにフラれた気分だ」
はじめが何やら複雑そうな表情を浮かべた。
「ところで今何時だ?」
「三時だな。午後の」
「やっべ、授業」
「ひろぽん、今日土曜日」
はじめはいつも冷静だ。
「ああ、そういえば」
ひろぽんはこの辺抜けているのである。そこが友人として放っておけないところでもある。
「まったく、ひろくんったらあたしがいなきゃ……」
それにしても、俺はいつまでこのキャラクターを続ければ良いのだろう。
「まあいいや、メシ、どうする? つーか汗ばんでて気持ち悪いな。風呂でも行く?」
少し離れたところに浅間温泉がある。そこに行ってから、夕食にしても良いだろうな、と思っていると、はじめが口を開いた。。
「風呂の後メシでいいな。とりあえず、着替え持ってくるか。浅間温泉口集合でいいかな、たけっち、ひろぽん」
「オーケー、一時間後な」
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集合場所に行くと、ひろぽんが手提げの袋を持って佇んでいた。
「だーれだ!」
俺は昔からこういったいたずらをしてきた。女の子にやると本気で怒られるので、気のおけない友人にのみ限定でやる。それで毎回呆れられている様を見てくすくすと笑う女の子を見ては、俺は満足していた。
「お前、いい加減にしないと陰毛ライターで炙るぞ」
だが、考えたらここには抜け駆けの天才ひろぽんしかいないのである。なんとも虚しい。
「ひい! 鬼畜ひろぽん!」
なお、ひろぽんは多分ライターは持っていない。煙草を吸ってるところを見たことがないのだ。
「たけっち、流石にしつこいだろ」
後ろからはじめの声がした。はじめの冷静な声がなかなかに面白い。
ひろぽんはから離れると、俺は戦闘に向かってあるき出そうと踏み出した。
「お前、そのタオル……」
ひろぽんが俺の手に持っているタオルを見るなり、口を開いた。
「ひろぽん、誤解だ! 俺は……俺は流石に元気にしてやれなかったんだ……」
俺のあたまには、あの日のおぞましき思い出が蘇るとともに、俺自身その苦々しい思い出を反芻しなけならなかった。思い出も嘔吐できたら、どんなに良いものか。
「お、おう……元気に……ならなかったんだな……心中お察しするよ」
「世の中に、本当にいるんだな……ゴブリンとオークの間の子って……」
思い出したくもない。ただ、大凡「地雷系」意味するところは伝わったと思う。地雷系というか、もはや地面に埋まった核弾頭だといって差し支えないだろう。
「それより風呂行こうよ。この前のところでいいな?」
はじめが促した。
「オーケー!」
俺は元気よく返事をした。
銭湯に着いた。全員で生まれたまんまの姿になると、浴室に入る。俺は早速はじめに話を振った。
「はじめ、サウナチキンレースしようぜ!」
「たけっち、前それやって結局ぶっ倒れただろ。『俺はこんな暑いところで死ぬのか! 死ぬんなら巨乳の谷間がいい!』ってひたすら叫んで。大変だったんだからな、あのとき」
「うっ! やめろぉ!」
そこまで言わなくてもいいのに、と俺は一人呟いた。ひろぽんはしばらく黙っていたが、「まあまあ、他に人いるし、静かに入ろうな」と、その場を取りなして、掛け湯を浴びてから温泉に入る。
「あー、生き返るー!」
俺は温泉に入った瞬間の、一瞬震えるような、そんな感覚がたまらなく好きだ。
「おっさんみたいだな」
おっさんって同い年だろ、と言いかけたところではじめが口を開く。
「俺はまだ中学生くらいなんだぞ、精神的に」
それにしても人が少ない。少しばかり騒いでも怒られまい。
「泳ごうぜ!」
泳ぎはしないが、試しに口を開く。
「たけっち、ハウス!」
「犬じゃねえ!」
小学生の頃に、従兄弟と行ったキャンプの記憶がふと蘇った。あのときと同じように、世界は鮮やかで、輝いている。
「ところで、メシどうする?」
「そこの定食屋で食ってから、適当に酒とか買って誰かの家でよくないかな」
「じゃあ、はじめんちで決定!」
「俺の家かよ……まあ、たけっちの家は……」
「おう……」
絶対に呼ぶ訳にはいかない。床には到底二人には見せられないようなものが転がっているし、畳にはきのこの二、三本でも生えていてもおかしくはない。
「魔境だもんな!」
逆に清々しいくらいなので、一層のこと胸を張ってやろう、と誇らしげに言ってみる。
「自慢するなよ。不名誉だぞ、大分」
「えー、かっこいいじゃん! ラストダンジョンみたいで」
「じゃあ魔境じゃなくて腐海だな、うん」
否めない。帰りたくないもん、俺だって。
「さて、そろそろ身体とか洗って出ようか。流石にのぼせるよ」
「そうだな」
三人ほぼ同時に立ち上がって歩きだす。そこではじめが俺の股間を一瞥して口を開いた。
「そういえばさ……たけっち、デカいな……負けた……」
「なんというか、俺たち……」
「負けた気分だ……」
「器の大きさに比例してるんだ!」
大きくても、使い所がないのが悩みなのである。虚勢を張るように、俺は器の大きさに比例すると言っておいたが、その実俺の器はかなり小さい。
外に出た。日が大分傾いて来ている。黄昏時が、もうそこまで迫ってきている。こういうときに飲むビールは、最高にうまいんだ。贅沢な時間が、今、始まる。