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魑魅魍魎の街  作者: 毒パンツ
大学二年目の懊悩
2/10

怒れるニ人の青年

昔、男ありけり。その男、身を用なきものに思ひて、信濃の国なる筑摩のわたりに下りけり。


ーーーーーーーーーー


 その店の一角には気まずい沈黙がどしりと腰を据えている。表情こそ見えないものの、明らかに怒りを湛えた斎藤と、半泣きでひたすら謝る上原がいた。僕がトイレに立ってから戻るまでの二分間に一体何があったのか。聞くに聞けない状況に手をこまねいていると、そっとアルバイトの学生が状況を教えてくれた。

 どうやら、上原が天津飯を片手に「さよなら天津飯っ」とふざけていたところ、本当に彼の手元からさよならしてしまい、その熱々の天津飯を斎藤の頭の上にダイブさせてしまったようなのである。たしかに、斎藤の頭からはホカホカと湯気が立ち上っているし、あんかけが頭から垂れている。上原が謝り倒しているが、斎藤は勢いよく立ち上がると、上原の胸倉を思いっきり掴んだ。

「上原、お前……食い物を粗末にするんじゃない!」

一瞬、時が止まったかのように、沈黙がその空間を支配した。夏場の浮足立ったはずの時分に、その凍りつくような、押し潰されるような、そんな異様な時間を破ったのは、上原の謝罪だった。

「ごめん……なさい……はじめ……いや、斎藤くん……ごめんなさい……すみませんでしたぁあ!」

もう、見るに耐えない。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。小学生と大人のやり取りを見ているように思えるし、何よりも斎藤がここまで怒ったところを、僕は初めて見たのである。店員さんに申し訳無さそうに頭を下げ、ひとしきり片付けると、斎藤は手短に上原を説教した。

「同期に言われるのはどんな気分だ? 俺だって言いたくはないよ。ただな、友人として言っておく。二度とするな。以上だ。終わり。メシ食うぞ」

と、斎藤は席に座ると、僕を呼んだ。

結局、三人とも炒飯を食べたのだが、斎藤の恐ろしすぎる怒りを目の当たりにしてしまった僕は炒飯の味などわかるはずもなかったし、何よりも、呆けたように泣く上原を宥めるので手一杯だった。

「ここは俺が払うよ」

と斎藤が全額支払うと、僕らは店を出た。

「集合、どうする? 結局僕の家かな?」

僕は斎藤に聞いた。

「そうだね、そうしよう。たけっちもそれでいい?」

上原は無言で頷いた。心なしか怯えた目をしているが、それには取り合わず、斎藤は続けた。

「二人で先に飲んでてくれ。俺はシャワー浴びてから行くから。それじゃあ、後でな」

と言うと、足早に去っていった。

「ごめんよお、はじめ!」

というと、斎藤は後ろ手に手を振り、先にやってろよ、とでも言いたげに信号を渡って行った。あの凍りつくような圧は全く消え去っていた。


 僕は今、上原の介抱をしている。話は一時間前に遡る。斎藤と別れた僕らは、僕の家に着いた。その後、二人で缶ビールを開けたのだが、夕食時のこともあり、上原はビールを一気すると、さらにウィスキーも半分近く一気してしまったのだ。僕は、これはまずい、と思った。流しで無理やり吐かせたが、やはり酔い潰れてしまった。斎藤が来る前に酔い潰れるとは、こいつはどこまで醜態を晒すのか。とりあえず呼吸はきちんとしているし、これ以上出るものはないというところまでは吐いたので、おそらくは大丈夫なのだが、どうせ上原のことだし、あと三時間もしたら起き出して

「頭が!頭が!」

と転げ回るに違いない。どうしようか、と考えてるところでチャイムが鳴った。斎藤が来たのだ。

「たけっち、さっきはごめん、言い過ぎ……あれ?」

拍子抜けしたような斎藤に対して、僕は酔い潰れて寝ている上原を指さした。

「おう……ひろぽん、大変だったな……とりあえず飲み直そうか」

斎藤は袋から瓶を取り出す。ラフロイグだった。

「はじめ、なんでこんな高い酒……?」

「ああ、親父が仕事の関係で貰ったらしいんだけど、親父飲まないからくれたんだ。たけっちの分も残しとくとして、まあ、こんなもんかな」

ロックグラスに氷とラフロイグを注いだ。アイラウィスキー特有のスモーキーな香りがなんともいえない。扇風機の風が心地よく頬に当たる。斎藤と僕は、馬鹿騒ぎというほどではないが、話に花を咲かせて夜も更けた頃、上原が目を覚ました。

「たけっち、大丈夫か?」

斎藤が気にかける。

「大丈夫だよ」

「さっきは言い過ぎた、ごめん。まあ、これでも飲んでくれ」

ラフロイグを注ぐと、上原にも差し出す。三人で酒を飲みながら、談笑していると、夜も更けていった。

 無論、単位の保証はない。だが、三人のうち気にする者は誰もいない。留年なんぞ絶対にしない。根拠のない自信が僕らに胸を張らせる。実際、学問なんぞしていないし、する気もないし、しないことに誇りすら感じているともいえる。小学生の夏休みを思い出してみるとわかりやすい。最終日の夕暮れ、鳥たちが巣に戻る時分に、夏休みの宿題に何一つ手を付けていない時の「何もしないで夏休みを終えてやった」という逆説的達成感、そして、あの「学年でも多分そんな快挙を成し遂げたのは自分くらいであろう」という英雄的感覚。その達成感なり英雄的感覚に酷似している。実際のところ、達成感というよりはどちらかといえば無力感を抱くべきだし、快挙ではなく暴挙であるし、英雄的感覚というよりは退廃的態度であるといわざるをえないのだが、そこら辺は多分僕ら自身の中で韜晦されて、初めからそんなものなかったかのように消し去られていることに違いない。

「ところでさ、ひろぽん」

上原が口を開く。

「なんだ、たけっち、腹でも痛いのか?」

「違うわ! 理系の彼女について、教えてくれない? めちゃくちゃ気になるんだお!」

一気に酔いが覚めた。上原、こいつ手痛いところを無意識に突いてくる。斎藤はというと、「まあ、頑張って切り抜けろ」とでも言いたげな視線を送り返す。斎藤には、本当は僕に彼女なんぞいないし、彼女がいるなんて勢いで出てしまった嘘であるということがバレているのかバレていないのか、一向にわからない。疑心暗鬼になる。僕は意味ありげに口角を上げ、視線を落としたまま

「たけっちにはまだ早いよ」

と呟くように口にした。

「なんでだよぉぉお!!!」

ごろごろと転げ回る上原を尻目に斎藤に一瞥を加えると、斎藤はそっと親指を突き立てた。

「はじめえ!彼女が欲しいよお!」

上原は今度は斎藤に泣きついて行く。

「ほら、たけっちにはあれがあるじゃん。オークとゴブリンの出てくるソープランド」

「俺はホモ・サピエンスがいいんだよお!」

子供のように泣きじゃくる上原に、僕らはやれやれ、という顔をしながら一口飲むと、上原の肩に手を置いた。

「たけっち、まあ、飲んどきなよ。はじめが持ってきた酒、まだあるから」

上原のグラスにラフロイグを注ぐ。上原はそれを一口飲むと、途端に大人しくなった。

「旨えよ……はじめえ! この際はじめでもいいから付き合ってくれえ!」

「俺にも選ぶ権利があるから! ほら、ひろぽんの左側なら空いてるからそっちなら迎え入れてくれるよ!」

「ひろぽーん!!」

「空けねえよ!」

跳んでくる上原を僕が避ける。上原はそのままクッションに顔からダイブする。昨日上原がよだれと鼻水まみれにした、元僕のお気に入りのクッションだ。そして、上原はそのまますやすやと寝てしまった。

二人で顔を見合わせて、やれやれ、と口にした。ややあって、斎藤が口を開く。

「ひろぽんの彼女って、何学部のどこの学科なの? 学年と名前、あとサークルとかも教えてもらえるかな?」

目が笑っている。明らかにすべてを察している。

「えーと」

「とりあえず、たけっちには隠しておこうか。しばらくこのままにしたほうが面白そうだから」

「そ、そうだな」

この男、底が知れないという意味で恐ろしい、と僕は斎藤をある意味で畏敬の対象として見ることになったのである。

 上原は寝言で想い人の名前を言っているのか、時折むにゃむにゃと聞こえてきていた。誰のことかは、わかったのだけれど、忘れておくことにしよう。


ーーーーーーーーーーー


 期末テストが終わった。二つの意味で終わった。それもそのはずである。僕らは何一つ復習などせずに遊び呆けていたのだから。自業自得である、と言われても致し方ないのかも知れないが、何人かの学生は同じような表情をしていたし、学生というのは案外学ばない人間なのだ。不可抗力だ、と己自身に言い聞かせる。テスト終了時、僕は涅槃の境地であったし、斎藤は小難しい顔をしていたし、上原に至っては「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と書かれた門を今まさにくぐる瞬間、といったような顔をしていたのである。

 そして、僕らはラウンジで休憩をしている。先程小難しい顔をしていた斎藤を見ると、明らかに項垂れている。その横の絶望を極めていた上原は、机に突っ伏して肩を震わせていた。

「たけっち、何笑ってるんだ?」

僕は訝しく思い話しかけたのだが、顔を上げた上原を見た瞬間に口をつぐまざるをえなかった。涙と鼻水の洪水でぐしゃぐしゃになっていたのである。 

「笑ってなんかないよ!」

斎藤は無言でタオルを手渡す。そのタオルは先日僕の家から消えていたお気に入りである。何故、僕の家の布製品はこうも上原の鼻水やらよだれやら涙にまみれるのか。

「はじめ、それ僕のタオル……まあいいや。たけっち、ここラウンジだから。みんな見てるから。な、いいじゃん。ほとんどレポートで単位認定だし、まあ、今日はパーッと飲もうよ、な?」

僕はできる限り励ますと、今夜飲みに行く店を探しだした。

 松本城から一本奥まった道のあたり、そこには大正ロマンをそのまま持ってきたかのような一角がある。そこにしよう。こういう日は、静かに飲むに限るのだ。

「じゃあ、松本城に五時に集合で。僕は一足先に帰ってるよ」

帰ろうとすると、上原が僕の袖を掴んだ。

「いかないでよぉぉおお!!!」

「わかった、わかったから騒ぐな!」

周囲の視線が痛い。何人かひそひそとこちらに一瞥を加えてから話している。その中には高校の同級生の女子の姿もあった。変な噂など立たねば良いが……。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 結局三人揃って行くことになった。バスに揺られて松本城近くまで行く。夏の暑い盛りである。赫奕たる、とまでは行かぬまでも、暮れなずむ夏の日は未だ僕らの背中をじりじりと照らした。

 店の前まで来ると、「商い中」の看板が出ていた。入ってみる。

 小綺麗な店の中には入ってすぐカウンター席とテーブル席があり、少し奥に座敷があった。

「いらっしゃい。初めてかな?」

「はい。ちょっと街散策してたら良さそうなところがありまして」

斎藤が無難な挨拶を返す。

「三人でいいですか?」

「はい、三人です」

「こちらへどうぞ」

テーブル席に案内された。飲み物を見ると、日本酒と焼酎が並んでいる。日本酒に詳しくない僕らが固まっていると、お通しが運ばれてきた。

「注文はお決まりですか?」

二人と顔を見合わせる。二人とも決まっていないようだ。僕が口を開いた。

「すみません、僕ら日本酒や焼酎詳しくなくて……おすすめってありますか?」

「はいよ、じゃあ三人ともこのお酒でいいかな?」

「はい、じゃあそちらでお願いします。あとおつまみなんですが、ごぼうの唐揚げと、つくね、あとはクリームチーズの味噌漬けでお願いします」

「はい、しばらくお待ちください」

三分ほどで枡とグラスが運ばれてきた。枡の中にグラスを入れると、酒が枡ギリギリまで注がれる。僕らがこういった店に来るのは初めてだ。

「乾杯!」

の一言とともにまずはコップの酒を舐めるようにして飲んでみた。すっきりとした中に、米の旨味が感じられる。お通しとの相性も良かった。

 やがておつまみも運ばれてきた。いずれも日本酒との相性が良い。ごぼうの唐揚げは薄すぎず厚すぎないごぼうに、下味はやや薄め。衣は薄めで揚げられていて、香りも食感も良い。クリームチーズの味噌漬けは炙られており、焦げ目が香ばしく、一緒に添えられたクラッカーがありがたい。つくねを三人でどう分けようか、と思案に暮れていると、店の扉がガラガラ、と空いた。

「いらっしゃ……バイトだっけ? 今日?」

「いやだなぁ、忘れないでくださいよ」

僕らが入り口を見ると、ロングヘアの、見目麗しい、「深窓の美女」とでもいうべき女性が立っていたのである。三人で固まっていると、その女性がこちらを見た。

「あら、お客さん? いらっしゃいませ。初めてですか?」

「は、はい!」

上原が返事をするが、声が裏返っている。

「もしかして、あそこの大学の学生かな?」

「そうですよ。僕ら人文学部の友人同士でして」

斎藤が明らかに声を作って返す。明らかに、意識的にキャラクターを作ろうとしている。

「私もなんですよ、理学部で。よろしくお願いします」

僕は結局口を開かなかった。ただ単に開く機会を逸してしまっただけなのだが、何か勘違いをした上原がこちらを鬼のような形相をこちらに向けていた。

 僕らは二杯ほど飲むと、会計を済ます。やけに安いな、と思ったが、大将が「負けといたよ」と言ってくれたので、ご好意に甘えておいた。店を出ると、先程の女性が出てきた。

「また来てくださいね!」

というと、手を振って見送ってくれた。彼女の姿が見えなくなった頃のことである。

「ひろぽん……裏切りものー!」

盛大な勘違いをした上原が掴みかからんばかりの勢いでこちらに迫り出して来たのである。

「勘違いだよ!」

「だって! ひろぽんの家の枕の香水と同じ匂いがしたもん!」

「香水くらい同じの使ってる可能性あるだろ」

「ちくしょうぉぉお!!」

上原の魂の叫びは、夜の松本城の天守閣のあたりまで響くと、松本の街を駆け抜けて、女鳥羽川を流れていった。

 僕らはスーパーで酒を買うと、斎藤の家に集合することになった。

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