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魑魅魍魎の街  作者: 毒パンツ
大学二年目の懊悩
1/10

学生街の百鬼夜行

学生通りの喘ぎ声

諸行無常の響きあり

ーー

 僕がここに引っ越してきたのは、かれこれ一年半近く前のことだった。長野県の片田舎にある大学に進学することが決まり、東京から遥々やって来て早一年半。当初夢見た、彼女と過ごすキャンパスライフ……とは程遠い生活が繰り広げられている僕の住まう築四十年のおんぼろアパートの一室には、女の痕跡なんぞあろうはずもない。ただただ煮詰められた男の汗と涙と何かが掃き溜めのように蓄積されていた。掃き溜めの中で、僕の青春は朽ち果てていくのか。嗚呼、僕の青春は何処へ。大学を挟んで反対側の学生街には、僕の求めた青春が漂っているに違いない。入れ替わりたい。クリスマスにバレンタイン、夏休みの旅行にハロウィン。一人で枕を濡らす夜は幾度となく経験した。SNSで東京の大学生たちが楽しそうな様子を投稿している様を見るたびに、僕は嫉妬に狂いそうになる。

 兎にも角にも、煮詰められた男汁とでもいうべきこの空間を一刻も早く脱出せねば、夢に描いたキャンパスライフはまさしく夢の如き絵空事に終わってしまうことは火を見るより明らかだ。誰か女の子が僕の家に来てくれたら、と思いつつも来るのはむさ苦しい男ばかり。苦々しい思いを噛み締めていると、キッチンから甲高い声が聞こえてきた。

「ひろぽーん、酒あるー?」

必修の英語でたまたま隣りに座った上原。通称たけっち。小柄な身長に天然パーマに似合わない金髪小太りで、案の定彼女はいない。できたこともない。そして僕からしたらできる気もしない。家主の断りなく勝手に冷蔵庫を漁る。いい加減にしろ貴様。

「酒買い行くかー? まだスーパー開いてるぞー」

落ち着いた声が返答する。入学ガイダンスでいやに距離感の近かった斎藤。通称はじめ。眼鏡が似合う好青年なのだが、何故か彼女ができたことがない、と周りから訝しがられる。最近僕のパソコンで何かを検索していたので、履歴を覗いたところ、なぜ彼に彼女ができないのかよくわかるようなタイトルのアダルトコンテンツが大量に残されていた。本名は祐也であり、新選組の斎藤一とは縁もゆかりもない。それはそうと何故お前は僕の秘蔵の同人誌を手にしているんだ、斎藤。

 斎藤の問いかけに対してたけっちが口を開いた。口元から咀嚼中のポテトチップスがこぼれ落ちる。

「買い行くならついでにポテチも頼むわ」

人の家のポテトチップスを勝手に食っておきながら更にポテトチップスを頼むのはまだいい。食いながら喋るな。

「ひろぽんは?」

「僕は半額の弁当と、あとはビールを適当に」

そろそろスーパーの半額シールが貼られる時間帯だ。

「たけっちはポテチでひろぽんは弁当なー。ちょいいってくるわ」

何だかんだ一年以上の付き合いになるこいつらだが、それにしても遠慮というものがない。斎藤は勝手に僕の家で金魚を飼い始めるし、今家主の目の前にいる上原は何の躊躇いもなく全裸である。仮に彼女がいたとしても、こんなところに連れ込めるか。

「いやぁ、それにしても暑いなぁ。長野県って涼しいと思ってたのに」

涼しいといっても、場所による。松本はまあまあ暑い。

「そんなに涼しい格好をしておきながら何を言ってるんだよ。服くらい、いや、せめてパンツくらい履けよ」

友人、いや、知人の家で全裸のやつがなにを考えているのか、僕にはとんとわからない。聞いたところで「大阪人は皆友達の家では全裸だよ」としかいわないが、こいつはそもそも大阪府ではなくて茨城出身である。大阪府民に謝れ。

「本当なら保冷剤股間に挟みたいところ」

尻を一回高らかに叩いて口にする。

「塗るタイプの湿布薬塗るぞお前」

当然、粘膜に塗ってはいけない類のものである。

「それだけは勘弁、履きます、履きます」

上原は慌ててパンツを履くとベッドに寝っ転がった。

「お前、やめろ! そこは聖域だ!」

「そうはいっても今までこのベッドに寝たのは誰が……なんか女の子っぽい匂いしねぇ?……この枕」

「それはーー」

ーーそれは僕が「これなら彼女と寝てる気分になれる」と女物の香水を枕に振りかけて抱きしめたはいいものの、ただただ虚しくなって一人さめざめと泣いたときの匂いだ、となんて言えようはずもない。

「それはこの前さ、できたんだよ、これが」

小指を立ててみた。ちょっとした冗談のつもりである。

「え……? 嘘だ……嘘だーー!!中指じゃなくて小指突き立てるなんて!!お前なんてもうフレンドじゃない!ケダモノ!!」

上原はマンドラゴラを抜いたときのような叫び声を上げてそのままアパートから出ていってしまった。斎藤が入れ違いで入ってくる。

「何があったんだ、たけっち、パンイチで走って出てきたけど大丈夫なん?」

「いや、それがさ……」

ーー

「え!? 彼女が!? ひろぽんに!?」

事の子細を話した。話したというよりはでっち上げた、に近い。彼女ができて、あろうことか、既にその彼女と同衾したという作り話を斎藤に話してしまった。

「同じ布団で寝たとなれば、当然もうその……」

「いやそこまではまだ……」

したことにしたら流石にバレる。童貞はまだ捨てていないと強調しておいた。早く捨てさせてくれ。

「よかったぁ! 抜け駆けされたのかと思ったよ」

斎藤の顔が途端に綻んだ。こいつ案外気にしてるんだな。

「それで、どんな人なの?」

「えーと、顔はどちらかというとかわいい系というよりはどちらかというと……」

「いや、待ってくれ、実際に見てみたいから楽しみにしておくよ。今度デートしてる写真でも見せてくれ。そうしたら、多分俺も彼女探し頑張れると思うし」

「あ、ああ」

大変なことになった。どうしよう、可及的速やかに彼女を作らなければならない。頭の中が真っ白になりかけたところで上原が戻ってきた。

「家の鍵、ポケットの中だ……」

こいつ、家まで一旦行ったのか、意外と足が速いことに驚きを隠せないが、捕まって欲しいと心のどこかで思ってしまったことは否めない。

「よく捕まらなかったなお前、逆にすごいよ。それで、いつ頃デート行くのさ?」

「はじめぇ……やめてくれえ!やめてくれよお!」

上原が懇願するような声で制止しようと試みる。やめてくれ、と僕も言いたい。

「それが、彼女ちょっと忙しいんだ。ほら、テストも近いだろ?」

七月末にはテストがある。僕ら三人のようにレポート課題ではなく、テストが主たる評価となる学部の学生達にとって、この時期は憂鬱になることだろう。過去問を貰えなかった哀れな子羊達よ、君たちは僕の仲間だ。恋人がいる奴らを除いて。

「彼女、どこの学部?」

当然この手の質問は予測の範囲内だ。

「秘密。理系とだけ言っておくよ」

僕の所属する大学のうち、理系学部だけキャンパスが長野県内各地に点在している。これでしばらくはごまかせるに違いない。こういうときだけ僕の頭の回転は異様に早い。

「なるほどな。とりあえず、ひろぽんの彼女の話、楽しみだな、たけっち」

斎藤はクッションに顔を埋めて項垂れていた上原の方を向いた。

「へ?」

涙と鼻水とよだれに塗れた顔を上げて、僕と斎藤を交互に見る。上原の顔面から出た液体をたっぷりと吸い込んだクッションは後で捨てておこう。

「たけっちは何か浮いた話ないの?」

僕は最大限の悪意を好奇心のうちに隠した質問を上原に投げかけた。

「うわああ!! 聞くなあああ!!」

上原がまたクッションに顔を埋めた。見ていて面白い。斎藤は上原の反応には目もくれず、金魚に餌をやっていた。

一しきり泣きじゃくった上原は「やってられるか!」と言ってグラスに入ったカシスオレンジを一気に飲み込んだ。その上で

「俺たち学生の本分はなんだ! 学業ではないのか! 君たち、いや、ひろぽんは恥ずかしくないのか! 忸怩たる思いを懐くべきではないのか? 俺はそう問いかけたいね! 俺たちは最後に笑うんだ! ミネルヴァの梟は黄昏時に翼を広げるんだ!」

学生の本分は学業だ、それはそうなのだ。だが、僕も斎藤も上原が期末レポート直前に「ちょっとそろそろ俺も男見せてくるわ」と言って教員におもねりに行く姿を幾度か目にしているし、なんなら「土下座しても無駄ですからね」と英語のH先生がそれとなく言っていたことを思い出す。たしか、昨年同じH先生の授業で唯一単位を落としたのが上原だった。そして、留年ギリギリで滑り込んだのも上原だった。

「でもたけっち、あんまり勉強してないよね?普段授業時間もスマホいじってるけど何調べてるんだ?」

斎藤が金魚鉢から目を話して上原の方に視線をやる。

「そりゃあ調査だよ」

目が泳いでいるのがすぐにわかる。

「何の調査?」

調査、と聞くと斎藤が食いついた。斎藤の専門は実地調査がメインである。和装古書を実際に取り出して翻刻するらしい。

「それは……」

「松本のデリヘルとかそんなじゃないかな? な、たけっち。実は僕も……」

そろそろ上原を笑い者にするのもやめてやろう。僕はそんなつもりで軽い冗談としていったつもりだった。僕はこの時の軽い冗談を深く後悔することになる。「実は僕もよく調べていたんだ」と口にしようとしたあたりで、上原からただならぬ空気を感じた。

「え……あ……」

上原の表情が固まったかと思うと、小刻みに指先が震えだし、涙が目頭に溜まっていった。

「なんでわかるんだよおお!!!」

堰を切ったように涙が頬を伝ったと思うや否や、上原は一気に項垂れて泣き崩れた。

「ちょっ、冗談だって! 泣くなって! ほら! ポテチあるから!」

「あー、ひろぽんがたけっち泣かせたー」

斎藤が、小学生が悪企みを思いついた時のような顔でニヤニヤしている。

 慰めつつ酒をついでいるうちに、上原はそのまま寝入ってしまった。僕のビールも温くなり、汗をかいた缶が扇風機の風を受けてこころなしか涼しそうにも見える。網戸を開けてあれだけの馬鹿騒ぎをしていたのだが、苦情も特に入らず、いつの間にか僕のアパートの周りはすっかりと寝静まっていた。午前ニ時半。草木も眠る丑三つ。不気味なほど静まり返ったこの時間、僕は案外嫌いじゃない。

「それにしてもさ」

窓際の椅子に腰掛けていた斎藤が口を開く。

「どうした、はじめちゃん」

「いつの間にか二年生の夏なわけだよな、俺たち」

確かに、あっという間に一年が過ぎていた。桜が二度咲き、二度散って、梅雨を二度迎え、二度明けた。しばらくしたら山が色付き、やがて雪が降る。もうあと三度雪の季節が来たら、僕は多分このアパートから去るわけだ。

「そうだなぁ。でもまだ成人式も迎えてないよ、僕ら」

成人式、皆どうしてるだろう。一緒に遊んだ友達とも、最近は連絡を取ることが稀になってきた。

「でも、成人式に行ったらさ」

「行ったら?」

「もう働いて結婚資金貯めてますって人だっているわけだ」

考えたらそうだ。東京と斎藤の地元、群馬とでは大分違うだろうが、それでももう働いている人はそこそこ周りにいる。幼い頃の友達の顔が思い浮かぶ。続けて斎藤が口を開く。

「とりあえず、大学出て、その後どうするのかはわからないけど、何年か先には結婚しててもおかしくないんだなぁって」

斎藤はそう言うと、上原の方を見た。相変わらずパンツ一丁のまま寝ている。

「案外たけっちが一番最初に結婚したりするかもしれないな」

「……でも、僕達童貞だよ、かっこいいこと言ってるみたいになってるけど」

「あ……」

しばし無言が続いた。斎藤はグラスに注がれたウィスキーを飲み干すと、続いてもう一杯注いだ。多分ザルというやつなのだろう。ひたすら飲んでもいつまでも冷静だ。本人曰く酔ってるらしいが。

「さて、飲み明かしますか。ひろぽんなにか飲む?」

ウィスキーを少しグラスに注いで、二人で乾杯した。上原が寝返りをうつと、寝言で何か言った。相変わらずよく寝る男だ。風邪を引かれると面倒なので、タオルケットを掛けておく。そろそろ三時になる。夏の夜は短い。


ーーーーーーーーーーー


 夜が明けて、太陽はすでに山の端から大分上のあたりで輝きだしていた。青々とした山々から吹き下ろす風が心地よい、そんな季節である。アパートの裏手にある林檎畑には、今頃もう農家の人々が出てきて作業をしている頃だろう。

 悲しきかな、僕にはその深緑に染まった山々や林檎畑を一緒に歩く理系の彼女どころか、理系の女友達すらいない。酒の勢いと、あとは上原の反応見たさについつい存在すらしない彼女を作り出してしまったのであるが、一向に女友達すらできる気配はない。こうなっては、もはや僕に「女友達」がいるかどうかすら怪しい。会ってみて、「僕たち友達だよね?」と確認しなければ、友達と認識されているかすら定かではない。仮に友達がいたとしても、その女友達に「僕たち友達だよね?」と質問を投げかけようものならば、怪訝な顔をされるか、最悪嫌われる。そういった意味で、女友達と信じている人たちは僕の「可愛い仔猫ちゃん」ではない。むしろ、確認するまで友達なのか、そんな女友達いないのか、はたまた地獄の番犬ケルベロスなのかすら定かではない、いわば「シュレディンガーの猫」みたいな、そんな存在だし、さらにいえば開けてはいけないパンドラの匣とでもいうべきものに思われて仕方がない。

 となると、僕が取るべきは新たな人脈を作るしかない、という話になる。もちろん、僕自身大学デビューなるものは挑戦した。サークルに二つほど参加していたのである。

 一つは「哲学思想サークル」である。チラシを見たときには「そんなところに可愛い女の子などいるものか」と思ったものであるが、図書館前で勧誘していたサークルの勧誘をしている女性を見た途端、その思い込みは的はずれなものだと思ったのである。

 その女性に完全な下心でついて行って、そのまま入った。「来月あたりにちょっといい雰囲気になれるかな」と、頭の中が桃色に染まっていたところで、「サークル歓迎合宿」が開催されるとのことだった。僕は意気揚々と近所のドラッグストアに行って、コンドームを購入した。店員さんがコンドームを手に取ったとき、「ついに僕も卒業するんだ」と胸の中で誇らしく思ったものである。

 結論からいえば、その「誇らしきコンドーム」は未だに使われることなく、押し入れの中に眠っている。端的にいうとすれば、僕は騙された。「哲学思想サークル」とは、会員集めを目的とした、サークルを装った、いわゆる新興宗教の団体だったのである。

 合宿まで、バッグの中のコンドームをどう使うかまで、人生で一番といっても過言ではないほどに、綿密な計画を練ってきた。そして合宿当日、当の女性を探したのであるが、一向に見当たらない。合宿場所に着くと、何やら広い部屋に入れられて、そこでひたすら何か「霊魂に感謝せよ」だとか、「我々は一つの霊魂だ」とか、よくわからないことを胡散臭い爺さんが熱に浮かされたような口調で捲し立てて来たのだ。なんとか三日間を耐え抜き、「これを家で毎日かけて祈りなさい」とCDを渡されたのである。「それじゃあ、また次の水曜日にね!」と視線の定まらない先輩に言われたのであるが、その「次の水曜日」が来ることはなかった。

 二つ目はテニスサークルである。運動音痴の僕がテニスサークルに入った理由としては、大概テニスサークルといえば飲みがメインのサークルと相場が決まっているためである。ゆるーくやりましょうや、という気分で入ったのであるが、最初から「体力づくり」として五kmのランニングをやらされるとは思わなかった。隙あらば「本気と書いてマジと読む」みたいなことを言う先輩と、明らかにムスッとしている鬼のようなOBの先輩が勢揃いしている、そんなサークルである。「飲み」を期待していたのであるが、まさか飲むのがプロテインであるとは思わなかった。二日目にして「行くものか」と思ってしまったのである。

 そうこうしているうちに、サークルの勧誘期間も終わり、アルバイトに勤しむわけでも、勉学に励むわけでもなく、ただ無為に、暇さえあればアダルトサイトにアクセスして一喜一憂する、そんな学生生活を営んでいたわけである。

 人脈を広げるにはどうすれば良いか。アルバイトをしようかと考える。アルバイトは二つだけ経験した。飲み屋と塾講師である。「とりあえずアルバイトして金貯めたら彼女くらいできるだろう」という浅はかな考えで、二つ同時並行でやっていた。

 結論からいえば、両方ともクビになった。結局、そう都合よく彼女などできようはずもなく、自棄になって飲み屋横の風俗店で一発やろうかと思ったのである。風俗店に入って、嬢を待っていたところ、まさか来たのが塾の生徒だったのである。

「え!? 先生!?」

「山本さん! なんで!?」

「……イテー」

「え?」

「サイテー!!」

「いや、ちょい! 山本!」

「ボーイさん!助けて!!」

そうして、僕は風俗店は出入り禁止となり、その話が飲み屋の店主のところに行き、飲み屋はクビ、学習塾は「ピンサロ先生」という不名誉なあだ名が広まり、行くに行けなくなってそのままクビとなってしまったのである。

 ほぼほぼ冤罪なのであるが、ピンサロに行ったのは事実であるため、言うに言い返せないまま、「でもまあ、他にバイトくらいあるだろう」という怠惰な性格も相俟って何もせずにずるずると現在に至るわけである。

 上原と斎藤は深い眠りについている。一向に目を覚ます気配もない。僕もそろそろ寝ようか。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


「ひーろくん! おはよー!」

「うわっ! 気持ち悪っ!」

眼の前に迫っている唇に驚き、思わず思いっきり殴ってしまった。

「お……親父にも打たれたことないのに……」

上原がほっぺたを押さえている。

「あー、ひろぽんがたけっち泣かせたー」

斎藤が抑揚のない声で言い放つ。抑揚はないものの、斎藤は明らかにニヤついている。もしかしたら、斎藤の差し金なのではないか、と邪推したくなる。

「僕はファーストキスを男に譲るつもりはない」

「うるさい! 抜け駆けした罰だ! ファーストキスは俺がもらう!」

「絶対やらん。はじめ、奪ってやれよ。たけっち、はじめにならばディープキスしてもいいぞ」

「えー、はじめはなんか違う」

「それはそれで傷付くな……告白もしていないのにフラれた気分だ」

斎藤がなんともいえない表情を浮かべた。

「ところで今何時だ?」

「三時だな。午後の」

「やっべ、授業」

「ひろぽん、今日土曜日」

斎藤が冷静に言った。

「ああ、そういえば」

「まったく、ひろくんったらあたしがいなきゃ……」

上原はいつまでこのキャラクターを続けるのだろう。

「まあいいや、メシ、どうする? つーか汗ばんでて気持ち悪いな。風呂でも行く?」

おおよそ二kmほど離れたところに温泉街がある。浅間温泉の旅館近くの通りでそのまま夕食を食べて帰って来るのも良いだろう。

「風呂の後メシでいいな。とりあえず、着替え持ってくるか。浅間温泉口集合でいいかな、たけっち、ひろぽん」

「オーケー、一時間後な」

二人を見送ったあと、タオルと着替えを用意して、ついでに冷蔵庫の中に残されていたチューハイを一本開けた。飲みながら歩くのも良いだろう。

 蝉の鳴き声が聞こえる。あと二時間もすれば、ひぐらしの鳴き声になり、夜は少し涼しい風が吹き始める。夏は夕方と夜の境目、黄昏時が好きだ。幼い頃、ひぐらしが鳴く中で従姉とやった線香花火。夕立ちのあとの、日が暮れる直前に漂う涼しさと切なさ。そんな郷愁を、ふと思い描いた。ふと我に返り、空を見上げると、東京よりも大分広い青空のキャンバスに飛行機雲が二本、まっすぐに伸びている。あの飛行機雲の行く先には、僕のまだ見ぬ何かがあるのかもしれない。それが、直近で探している、まだ顔も見ぬ彼女であるのか、生涯の親友であるのか、はたまたどこともつかぬ人生の最果てなのかはわからない。

 夏の夜は短いが、そこに詰められた思いは案外秋の長夜よりも多いように思う。それは多分、高校までの長期休みが基本的に夏にあることと、夏には親戚や友人と顔を合わせることが多いことによるのだろう。ぼんやりと考えながら片手に持ったチューハイを一口飲む。もう片方の手には着替えとタオル。三十分ほど歩くと浅間温泉入口の文字が見えた。

 飲み終えたチューハイの缶を近くの自動販売機横のゴミ箱に入れる。二人はまだ来てないな、とあたりを見回したところで、いきなり視界が塞がれた。

「だーれだ!」

明らかに男の裏声であるとわかる、その声の主は見ずともわかった。上原だ。

「お前、いい加減にしないと陰毛ライターで炙るぞ」

「ひい! 鬼畜ひろぽん!」

「たけっち、流石にしつこいだろ」

後ろから斎藤の声がした。

上原が僕から離れる。手には「ハニーパレス〜蜜蜂の館〜」と書かれたタオルが握られていた。この辺では有名な地雷系の風俗店である。

「お前、そのタオル……」

「ひろぽん、誤解だ! 俺は……俺は流石に元気にしてやれなかったんだ……」

「お、おう……元気に……ならなかったんだな……心中お察しするよ」

「世の中に、本当にいるんだな……ゴブリンとオークの間の子って……」

想像したくない。ただ、大凡「地雷系」意味するところはわかった。

「それより風呂行こうよ。この前のところでいいな?」

「オーケー!」

僕たちは「松の湯」に向かった。三階松の紋様が描かれた暖簾をくぐると、いつもの光景が目に広がる。僕たちは脱衣所で服を脱いだ。僕は標準体型で、上原は小太り。斎藤はあまり意識して見てはいないが、細身ながらも筋肉質な、均整の取れた身体をしている。服を脱ぎ終えて、浴室に入る。土曜日ではあるものの、客はまばらだった。白髪交じりの爺さんと親子連れが一組いるだけだった。

「はじめ、サウナチキンレースしようぜ!」

「たけっち、前それやって結局ぶっ倒れただろ。『俺はこんな暑いところで死ぬのか! 死ぬんなら巨乳の谷間がいい!』ってひたすら叫んで。大変だったんだからな、あのとき」

「うっ! やめろぉ!」

斎藤が微妙にニヤッとした。

「まあまあ、他に人いるし、静かに入ろうな」

その場を取りなして、掛け湯を浴びてから温泉に入る。

「あー、生き返るー!」

「おっさんみたいだな」

「俺はまだ中学生くらいなんだぞ、精神的に」

十八歳未満アクセス禁止のサイトの中でも、大分「ハードな」それを好む斎藤が口にする。

「泳ごうぜ!」

「たけっち、ハウス!」

「犬じゃねえ!」

ふと修学旅行の旅館を思い出した。この二人は何故か昔からの友人のような気がしてならない。出会って二年も経ってないのに、懐かしさを感じてしまう。このあと、また誰かの家に泊まるのだろう。

「ところで、メシどうする?」

「そこの定食屋で食ってから、適当に酒とか買って誰かの家でよくないかな」

「じゃあ、はじめんちで決定!」

「俺の家かよ……まあ、たけっちの家は……」

「おう……」

「魔境だもんな!」

上原が何故か誇らしげに胸を張る。

「自慢するなよ。不名誉だぞ、大分」

「えー、かっこいいじゃん! ラストダンジョンみたいで」

「じゃあ魔境じゃなくて腐海だな、うん」

「さて、そろそろ身体とか洗って出ようか。流石にのぼせるよ」

「そうだな」

三人ほぼ同時に立ち上がって歩きだす。そこで唐突に斎藤が口を開いた。

「そういえばさ……たけっち、デカいな……負けた……」

確かに、言われてみれば相当大きい。

「なんというか、俺たち……」

「負けた気分だ……」

「器の大きさに比例してるんだ!」

適当に受け流すと、僕たちは銭湯を出てきた。まだ周囲は明るい。黄昏時が、始まる。


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