第二の試練『慈悲』
光が止むと、アリアはまた、遺跡の中に戻っていた。
『第一の試練を突破しました。第二の試練を開始しますか?』
「あぁぁっ……そんな……っ……そんなっ!」
『後は着替えて、そしたらトイレに行ける』
そう思っていたアリアの希望は、粉々に打ち砕かれた。
「あぁぁっ!? だ、だめっ! ダメぇぇぇぇっっっ!!!」
遠退いていく希望に、疲弊した括約筋が屈しかける。
アリアは死ぬ思いで力を振り絞り、尿道への浸水を食い止めた。
(あ、危なかった……んんっ! でも、もう……っ!)
あのまま着替えてトイレに行けていれば、十中八九間に合っていただろう。
多少、インナーか下着を濡らすことになったかもしれないが、大洪水は避けられた筈だ。
だが、その道は閉ざされた。
『お漏らし』
考えることを避けていた四文字が、現実味を帯び始める。
(だめっ! だめよっ! そんなこと……絶対に……んんっ!?)
「あああっっ!!? あああああっっっ!!!」
遅いくる大波。遠ざかるトイレ。
アリアの心に、絶望が広がる。
(もう、我慢できないっ! あぁっ、どうしたらいいのっ!?)
『第二の試練を開始しますか?』
「しれ……ん……っ! やるっ! やりますっっ!!」
アリアの返事に、魔法陣が眩い光を放つ。
どうやら試練の際は、一時的にこの遺跡から出ることができるようだ。
ならば、次の飛ばされた先で、試練を終える前にトイレに行ければ、最悪の事態は回避できる。
(もう、どう思われてもいい! トイレっ、トイレぇぇぇっっ!!)
『『慈悲』の試練を開始します』
――――――――――――――――
光が止む。アリアは素早く瞬きをして、周囲を見渡した。
今度の試練の舞台は、街中だった。
建築様式は帝国やランドハウゼンと似ているが、一、二世代遅れているようにも思える。
少なくとも、アリアの知識の中には、存在しない街並みだった。
アリアは知る由もなかったが、ここはアリア達の住むイーヴリス大陸ではない。
魔獣犇く南東の海を超えた先にある地域、『エルドラン』にある国の一つだ。
だが、アリアにとって重要なのは、ここがどこかではない。
(トイレっ! トイレはどこっ!? 私っ、もう、我慢できないっっ!!)
どこかにトイレはないか、アリアは周囲を見回した。
こんな状態になっても、アリアはまだ、店でトイレを借りることを躊躇っていた。
だから必死に公衆トイレを探したが、残念ながら、見える範囲では見つからなかった。
(あぁぁっ……どうしようっ!? どうしようっっ!!?)
――ジョロッ。
「うああぁぁあぁっっ!!?!?」
とうとう、ほんの少しだけ、出口が開いてしまった。
浸水は僅か。
だがインナーのクロッチに、小さな、だが、確かな染みが広がる。
「あああぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
最早、一刻の猶予もない。
アリアは、一つだけ気に留めていた、客の少ない喫茶店に飛び込んだ。
「あ、ああの、そのっ、すみませんっ、トイレっ、あぁぁっ!? くぅぅっ……トイレをっ、貸して下さい……!」
入ってくるなりそう告げたアリアに、店のマスターが不機嫌そうな視線をぶつける。
「トイレは客専用だよ」
「あ、あ、ちゅ、注文しますっ。でもっ、先に、トイレにっ。おおお願いしますっ!」
だが、目に涙を浮かべ懇願するアリアの様子に、視線は徐々に哀れみを帯びていく。
「はぁ……振り返って左奥の扉だ」
「ありがとうございますっ! あっ、あっ、あっ、あああぁぁぁぁ……っ!」
腰を突き出し、内股で、言われた方向に駆け出すアリア。
そして、初めてしっかりと、トイレに続く扉を視界に収めた。
「あ、あぁ、あぁぁぁっ!?」
扉の前には、既に二人の女性が列を作っていた。
(そんなっ、そんなぁっ!)
たった二人。
だが、今にも忍耐の糸が切れてしまいそうなアリアにとっては、永遠とすら思える時間だ。
しかも二人とも、アリアほどではないが落ち着きがなく、とても順番を譲ってもらうことはできなそうだ。
(が、我慢っ、我慢よっ! 後二人……たった、ふたりぃ……っ!)
ジョッ、ジョロッ。
「ああぁあぁぁあぁっっっ!?」
再びの浸水。
放出の快感を知った尿道は、もう容易く小水の侵入を許してしまう。
(だ、だめぇっ、間に合わないっ!)
一人は出てきた。順番待ちは後一人。
だが、その一人すら、アリアは待てる気がしなかった。
(漏れるっ、漏れるぅぅっっ!!)
「ね、ねぇ」
「っ!?」
尿意に支配された思考が、現実に引き戻される。
顔を上げると、前の女性が気遣わしげな表情でアリアを見ていた。
「順番、変わろうか?」
彼女も額に汗を浮かべているし、しきりに太ももを擦り合わせている。
それでも、あと一人二人間に挟んだところで、間に合わなくなることはないのだろう。
少なくとも、今にも限界を超えようとしている哀れな少女に、順番を譲る程度の余裕はあるようだ。
「ああありがとうございますっっ!!」
一も二もなく、アリアはその施しに飛びついた。
これで、目の前の扉が開けば、アリアの長い戦いはハッピーエンドを迎えることができる。
そして、その始まりを告げる水音が聞こえてきた。
「くううぅぅぅぅぅっっっ!!!」
膨れ上がった膀胱が、水音に反応して収縮を始めようとする。
(まだっ! まだよっ! もう少しだからっ、お願いぃぃっっ!)
これが最後の我慢。
アリアは全ての力を振り絞り、力を抜こうとする括約筋を締め上げる。
そして、ついに、扉が開いた。
(あぁっ! 間に合っ――)
「漏れちゃうううううぅぅっっっ!!!」
幼い声が、店内に響き渡った。
――えっ。
五、六歳くらいの少女だ。
両手で出口を抑え、泣きながらトイレの方に走ってくる。
その様子は、アリアに負けず劣らず、切迫したものに見えた。
彼女は、涙でぐしゃぐしゃの顔をアリアに向けて、無自覚に、悪魔のような言葉を口にした。
「お姉ちゃんお願いっ! 先に入らせてっ! もう漏れちゃうっっ!!」
「え、あ、あの、私……っ!」
『どうぞ』と即答できないアリアを、誰が責めることができようか。
少なくとも、彼女の窮状を知る店内の客は、皆気遣わしげな表情を浮かべていた。
やがて少女の目にも、涙目で膝を擦り合わせるアリアの姿が映る。
「お姉ちゃんも……漏れちゃいそうなの……?」
自分も限界だというのに、年上のアリアを慮る言葉。それが、逆にトドメとなった。
「お、お姉ちゃんはっ、大丈夫よっ。漏らしたりなんて……んんっ……し、しないわっ!」
精一杯平静を装い、少女に道を譲るアリア。
「ありがとうお姉ちゃん! すぐ出るからっ!」
一目散にトイレに駆け込む少女に対し、何とか『お姉ちゃん』の体裁を守り切った。
が、そこまでだった。
やがて聞こえてくる小さな水音に、アリアの理性が崩れ落ちる。
「ごごごめんないっ! 早くしてっ! お姉ちゃん、本当はもう我慢できない!」
「ごめんねっ! お姉ちゃんごめんねっ! もうちょっと! もうちょっとだから!」
「早くっ! 早く変わってぇぇっっ!!」
ジョロッ、ジョロロッ。
「あああぁぁあぁっっっ!!! 早くうううぅぅっっっ!!!」
店中の注目を集めた、アリアの壮絶な我慢。
恥も外聞もかなぐり捨て、両手で力一杯に出口を押さえつける。
全てはその先にある、最悪の醜態を回避するため。
そして、そんなアリアに答えるかのように、最後の扉が開かれた。
「お姉ちゃんっっ!!」
「ああああああああぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!」
――最後の、試練の扉が。
光が、アリアを包んだ。