第一の試練『使命感』
『進んでいけば、トイレがあるかも知れない』
何せここまで整った環境だ。
人が長時間過ごすことを、想定していてもおかしくはない。
ならば、トイレだってあるはずだ。
そんなアリアの淡い期待は、扉の先の部屋に入った瞬間、脆くも砕け散った。
入ってきたところ以外、扉は奥の封印されたもの一つ。
とてもトイレに繋がっているとは思えない。
そして、目の前の立て看板だ。
「ふぅぅっ……三つの、試練……?」
看板には、こう書かれている。
『三つの試練。『使命感』、『慈悲』、『献身』。聖涙の衣を欲する者よ。汝が心を示せ』
『試練』だ。
恐らく、ここは何らかの魔導具の保管庫で、アリアはそれを手に入れるための試練の間に迷い込んだのだ。
途中でトイレがあるとは思えない。
「んんっ……これ、全部……あぁぁっ……やるしか、ないの……!?」
焦燥が、膀胱を縮み上がらせる。
アリアにはもう、一刻も早く全ての試練をクリアし、ここを出る以外に道は残されていない。
部屋の中心には、これ見よがしに光を放つ、複雑な術式で書き上げられた魔法陣がある。
顔面を真っ青にしながら、アリアはそれに足を踏み入れた。
『第一の試練を開始しますか?』
「……やるわ……!」
魔法陣の放つ光が、より一層強くなる。
『『使命感』の試練を開始します』
アリアの視界が光に包まれ、やがて、遺跡とは別の風景が浮かび上がる。
「っ!? ここはっ!」
目を開けると、そこには見慣れた風景が広がっていた。
ノイングラート帝国、皇立学園ベルンカイト本校。
アリアは、学園に帰ってきていた。
何故? どうして学園に?
状況が飲み込めず、不安を覚えるアリア。
だが、それでも――
(トイレ! トイレに行けるっ! あぁぁっ……よかった……っ!)
遥か彼方の存在だったトイレが、すぐそこにあるのだ。
しかも、普通に実習から戻るよりも、かなり時間を短縮できている。
アリアは、天にも昇る気持ちだった。
「んんっ……!」
(ダメよっ、油断しちゃ。慎重に……でも、できるだけ早く、トイレに……っ!)
余裕ができたとは言え、かなり追い詰められていることに変わりはない。
それに、ここが『試練』の舞台である可能性も捨てきれない。
試練を終えたら、またあの遺跡に戻されるかもしれないのだ。
その前に、何としてでもトイレに行かなければいけない。
焦りを悟られないギリギリの速さで、アリアは校舎へと入っていった。
――――――――――――――――
「んんんっ! んんんんっっ!!」
『もうすぐトイレに行ける』
そう思うこともまた、尿意を加速させる原因の一つだ。
アリアの顔には脂汗が浮かび、うめき声は、そろそろ隠すのが難しいほどに、大きくなっていた。
(大丈夫……我慢できるっ! 我慢っ……がまっ、あぁぁっ……!)
膀胱を満たす熱水が、急かすように出口を叩く。
「ふぅぅぅ……んっ!? んむぅぅぅっっ!!」
だが、これ以上苦悶を表に出すわけにはいかない。
今、アリアは注目を集めている。
アリアは、勿論いい意味でだが、目立つ生徒だ。
そんなアリアが、訓練服のまま、他の生徒に先んじて学園に戻り、険しい顔をして廊下を歩いている。
視線を集めてしまうのも、致し方ないことだ。
故に――
「あっ……ん……くぅっ!」
目の前に現れた、赤いマーク。
夢にまで見たトイレの看板を、アリアは切なそうに見上げただけで、足を向けることなく通り過ぎた。
(あぁぁっ、トイレぇぇっ……!)
アリアが今着ている訓練服のインナーは、上下一体の黒いレオタード。
さらに股布部分は、ズラす、破るなどが出来ないように、固くキツく作られている。
生徒達には知らされていないが、過去の調査実習で、教師の目がないのをいいことに、不埒な行為に及んだ生徒がいたため、対策が為されたのだ。
そのため用を足す場合は、ソックスとブーツを残して、全裸になる必要がある。
なので、実習の後は、皆着替えを済ませてからトイレにいくのだ。
訓練服のままトイレに飛び込むといことは、『私は着替えの時間も我慢できないほど漏れそうなんです』、と言っているのと同じなのだ。
(ダメっ……そんなの、耐えられないっ! 我慢……あぁぁ……我慢よ……っ!)
ならば着替えを、と行きたいところだが、アリアが向かっているのは、更衣室ではない。
優秀なアリアは、この学園に置ける自分の立ち位置を、よく理解している。
アリアの母国、ランドハウゼン皇国は、帝国の隣国にして、最大の同盟国だ。
父ランドハウゼン皇王は、帝国内でも、実権こそないが、影響力なら皇帝に次ぐとまで言われている。
その娘の自分が、『安全だ』と保証された遺跡内で、未知のトラップにより行方不明になったのだ。
どれほどの人々にまで責任が及ぶのか、想像もつかない。
一刻も早く自身が無事であること、そしてある程度は仕方がない、未開放領域によるものだと、関係各所に伝える必要がある。
(それまでは……我慢……我慢、するのよっ! 私はっ、ランドハウゼンの、おう、じょ……あぁぁっ、でも、トイレぇぇっ……!)
もちろん、アリアが関係者全員を回る余裕はないし、そんな必要もない。
アリア程の立場の者なら、学園長に直接報告をして、後のことを頼めばいいのだ。
あと少し、あと少しの辛抱でトイレに行ける。
アリアは震える手で、学園長室の扉を叩いた。
――――――――――――――――
「状況はわかりました。大変だったわね」
穏やかの雰囲気の年配の女性。
学園長は、アリアの報告を聞いて、優しい声でそう告げた。
「それにしても、あの遺跡に未開放領域があったなんて。エクエス・レヴィエム……やはり厄介な人物だったようね」
「あの、私、その……っ!」
遺跡と先史文明の天才に意識が逸れた学園長に、アリアが切羽詰まったように声をかける。
「あら、ごめんなさい。貴女にはまだ、聞きたいことがあるのだけど……」
「っ!?」
(先に、行かせてあげた方がよさそうね)
報告の間、アリアはずっと、忙しなく太ももを擦り合わせていた。
表情は固く、時たまブルっと震えては言葉を詰まらせる。
誰が見ても、トイレを我慢しているとしか思えない。
それも、今すぐにでも駆け込まないと、大変なことになる位に。
「実習から気を張りっぱなしで、疲れたでしょう。着替えて、少し休んでから、また来てちょうだい」
「は、はいぃっ!しし失礼致しますっっ!! あぁぁぁ……っ」
学園長の言葉を聞くや否や、アリアは安堵に顔を綻ばせ、逃げるように学園長室を後にした。
廊下に出たアリアは、周囲の視線も構わず、早足で歩き出した。
最早、転移直後の余裕は一切ない。
(も、も、もう、限界っ! あぁぁっ……あと少しっ! あと、着替えだけだからっ、お願い……っ!)
尚、無事に帰路に着いていた場合、そろそろ馬車に乗り込む頃だ。
帝国の馬車は新しいモデルだし、道だって舗装されている。
だが、それでも微弱な揺れは、断続的に発生する。
こんな状態で揺れに襲われ続けて、本当に学園まで我慢しきれたのか……今となっては怪しいところだ。
遺跡からの招きに若干感謝を捧げながら、アリアは更衣室の扉を開いた。
そして――
「えっ」
――光に飲み込まれた。