3 村
右側に壁のない停留所よりも小さな町が道を走っている。村とも呼ばれる農民たちの町だ。町の右側には壁がなかった。農民たちはこの小さな町を住居とは考えてはいない。作物を運ぶ運搬用のサイクルだった。彼らは壁がある暖かな平穏な生活よりも扉を開けて出入りして荷物を積み込む場合の労力と危険を減らすために風の吹き込み続ける寒さを選んだ。一瞬のタイミングのずれが命取りになる収穫作業。右側の壁は彼らが町を陸地に横付けしてすばやく出入りできるようにむき出しになっているのだ。
いつものことだが収穫するときは緊張する。ペイは気心の知れた八人の町サイクラー達に声をかけた。
「いくぞ」
「おー」町サイクラー達が声を返してきた。
陸地に向かって開いた壁の前と後ろに舵取りが一人ずつしっかりと貼りついている。ゼクとバク彼ら二人は町の進行方向を絶えず注意しながら町サイクラー達に指示を出す。舵取りの指示に従って町サイクラーたちはペダルの力に強弱をつけ右に左にハンドルを切る。小さな町のサイクラーはたった八人だ。いずれも瞬発力を持ったつわものぞろいだ。
「前へ一。右へ二。行きすぎだ。左へ一。そのまま行け。ゆっくり近づくぞ」
「後ろへ二」陸地と町の位置を慎重に計算しながら舵取りが指示を出す。もう何十回と繰り返してきたことだがいつも初めてのように緊張する。失敗したら一瞬で全員が吹き飛ばされるのだ。慣れることなんか無い。慣れたなんて考えるようになったときに油断が生まれる。それは終わりを意味していた。
町の一番前に二人の舵取りとは別にもう一人、物見係が立っている。遥か彼方の小石の影の砂粒をも数えられる視力の持ち主だ。本当に目で見ているのか何か別の力で見えているのかわからないが物見係エリの告げることは絶対に正しかった。それはまだ小さな少女だった。死んだ母親の後をついで物見係になってまだ日が浅い。だがリーダーのペイはエリに全幅の信頼を寄せていた。彼女は自分の意見や想像を一切言わなかった。すべて見えるもの真実だけを告げた。それも的確にすばやく。彼女の母親が死んだのは自分の意見をいったからだ。希望的観測。反吐が出るほどいやな言葉だ。
「五百メートル」エリが言った。
「四百五十」
「四百」
「三百、二百、百、五十、四十」
「十、九、八、七、六、」
陸地の波が近づいてくる。
「五、四、三、二、一」
どおん、という音が鳴り、町の横を走る陸地が大きく揺れ風圧が小さな町を直撃した。舵取りの二人はエリのカウントに合わせて町を陸地から離していたため横揺れしたが被害は無い。ペイは頭の中で時間をカウントしていた。エリの正確さに自信を持った。いいぞ、この子がいれば大丈夫だ。
陸地には樹木が生え草花が生い茂りまた揺れ動く地面を物ともしない動物たちも生息している。動物たちは体も小さく物凄い素早さで動き回るためほとんど見ることはできない。そしてところどころに耕作に適した肥沃な平地がある。そこに農民たちは種をまき作物を育て収穫する。もちろんいくら肥沃な土地だからといって種をまいてすぐに収穫できる訳ではない。種を蒔いた作物が収穫できるまでは何ヶ月も待たなければならない。それまでの間揺れ動き後ろへ高速ですれ違っていく土地に町が貼り付き続けていることはできない。種を蒔いたのは前を行く別の農民たちだ。それを収穫するのは後を走る農民たちなのだ。そして収穫する農民たちはまた後から来る別の農民たちのために必ず種を蒔かなければならない。自分たちが決して収穫しない作物の種を蒔くことは安全に収穫できるための祈りの儀式に似ていた。陸地は後ろへ交代し続ける。そして大きく揺れ動く。揺れはある程度の規則性があり大きくうねりながら移動してくる。その大きな揺れと揺れの間の小康状態のわずかな時間に農民たちは陸地に上がり収穫し種を蒔くのだ。収穫することに目がくらみ欲を出しすぎて引き上げるタイミングを間違うと揺れ動く大地の大波に呑まれて空高く弾き飛ばされるか土地の奥深くに埋め込まれてしまう。まさに収穫作業は命がけの作業だ。
ペイはいらいらしていた。物見係のエリから何の言葉も聞こえてこないのだ。エリは小さな体を町の最前列に備え付けた太く丈夫な物見柱にしっかりとベルトでしがみつけて過ぎ行く陸地の前方を見つめて彫像のように微動だにしない。
「ペイどうする」舵取りのゼクが声をかける。ペイと同じようにそわそわしている。目の前にはさっきから静まり返った肥沃な土地が流れ続けているのだ。作物はまだ現れないがこれだけの肥沃な土地だ。種だけでも蒔いておきたい。そのうち徐々に作物の姿が現れ始めた。それを見て舵取りの二人はますますそわそわし始めた。
「これだけの収穫は見たことがないぞ」
ペイは毅然として首を振った。いくら平穏に見えていても突如として大波が現れることがある。何人もの農民が飲み込まれているのだ。遥か彼方まで平穏に見えるときが最も恐ろしいのだ。今まで揺れていなかった陸地が突如として跳ね上がるそんな光景も見てきた。確実なのは波の始まりを見極めることだった。波の始まりが見えればその波が到達するまでの間は別の揺れは起こらない。時間は限られるが結局一番安全で確実だった。それを頑なに守り続けてきたおかげでペイは貧乏だが生き延びられてきたのだ。ペイは相変わらず前方を凝視し続けるエリのそばへ行き顔を覗き込んだ。かすかに口が開いた。
「三千、」エリが言った。
「三千?」ペイはその数字を信じられなかった。それだけの広さの平らな土地があり作物が実っているのか。それよりもこの子は、エリはそんな遠くまで本当に見えるのか?
「作物があるのは二千五百メートルまで後の五百は何もない平らな土地が続いている。」エリは感情を交えず淡々と告げている。なぜ後の五百もの広大な土地に種を撒かなかったのだろうというペイの疑問はエリの次の言葉ですぐに解けた。
「その先には高さ八十六メートルの大きな波が進んでくる。」
「その先は見えない」
「速度は?」
ペイは凍りついたようにしわがれ声でエリに尋ねた。
「十ノットで一定している」
ペイはエリが告げたすべての言葉を信じた。とても信じられないことだらけだがこれは真実だと直感した。頭の中ですばやく計算して何をやるべきか即座に決断した。
「接岸する。碇を下ろす準備をしろ。退避は五時間半後だ。種を残らず持って行く。急げ」
ペイが一瞬で理解したのは平地の広さは手持ちの種を全部撒いてしまっても足りないくらいの広さだということ。新しい種は今回収穫した作物から取れる。そして一瞬で決めたのは二千五百メートルで必ず退避してその先には種を撒かないということだ。おそらくそこが退避のボーダーラインなのだ。前を行く先に収穫して種を撒いたさまざまな農民たちがそう告げているのだ。それだけは必ず守らなければならない。どんな誘惑が現われようとも。
村は舵を取り陸地に近づいていく。エリは規則的に距離をカウントし続けていた。
「二千九百八十。」
落ち着いていけ慌てるな。ペイは逸る心を抑えててきぱきと指示を続けた。
「いつもと同じようにやれ。舵を戻せ。慎重にゆっくり接岸しろ。あと二メートルだ。碇を構えろ。全員ベルトを締めろ」ペイはエリのところへ走ってエリのベルトがしっかりと締まっているのを確認した。そして自らの定位置に戻り自分もしっかりと固定ベルトを締めた。
「一メートル。もうすぐだ。五十センチ」
ゆっくりと村は陸地と平行に走りながら徐々に陸地との隙間がなくなってきた。
「二十センチ。十、九、八、七、」
不意に村に強い衝撃が伝わり鋼鉄で補強された側面のバンパーが悲鳴を上げた。バンパーと陸地が擦りあわされギィーという神経に障る音が響く。
「碇を下ろせ」ペイが叫んだ。
上に折りたたんだ二枚の鋼鉄の板が跳ね上がり下に降りてきた。同時にそれぞれの板の上を鋼鉄の強大な碇が滑り降りてくる。ガラガラと鎖が引きずられる音が鳴り響くが碇自体は板の上を音もなく滑り降りている。いいぞ、よく手入れしてある。毎日夜遅くまで屋根裏ですべり板を磨き続けているのはこの一瞬のためだ。碇係の二人の兄弟ジャクとデクの顔を思い浮かべた。だが最終的に碇が陸地にうまく突き刺さるのはペイの指示だけが頼りだ。その全責任はペイに懸かっている。運悪く碇の角度が悪く陸地に突き刺さることができなかった場合、それがたまたま小石に角度を変えられて滑ったりしたり着地点に急に小動物が現われて碇が滑ったとしてもペイの責任だ。ほかの誰の責任でもない。ペイは食い入るように碇の軌道を見つめた。いつもその瞬間は何故かスローモーションに時間がゆっくり進む気がした。碇は陸地に近づきゆっくりと接地し、ぐんぐんと土地の中に奥深く吸い込まれていく。碇の側面に赤いラインで示した安全の表示の下まで食いこんでいった。よし、ペイは心の中で叫んだ。村は相変わらず陸地にこすられて悲鳴を上げ続けている。ジャラジャラと鎖が引きずられ始めた。
「よし、刺さった。みんな構えろ。」ペイが暴風の中、バンパーと陸地の擦り続ける悲鳴のような大音響そのすべてがの騒音を吹き飛ばす大声で叫んだ。すべて一瞬の間だ。
「くるぞ」鎖が伸びきってぎりぎりという音がキインという甲高い音に変わった
ガクンという振動で町は陸地に接地した。村はぴったりと陸地に貼りついた。
ペイはいつものことながら不思議に思う。村が陸地に貼りついたその瞬間からあたりの雰囲気は一変して静寂に包まれるのだ。風は道の上だけで吹いていて陸地の上ではまったく吹いていないのだ。ペイたちの村から覗き込める景色はまったく穏やかな天国のような光景だった。ペイは蔓で編んだカンジキを履いてふわりと陸地に降り立った。ゆっくりとあたりを見渡す。ああ、ずっとここで暮らせたらどんなに幸せだろう。しばし物思いにふけったがすぐにわれに返った。
「楔を打ち込め」
何十本もの蔓で編んだロープとその先に木製の楔を結んだ束が村から陸に向かって投げ込まれた。それと同時に村人も全員、町サイクラーまでも陸地に降り立って楔を引っ張りロープを張り陸地にしっかりと楔を打ちつけていった。総出で取り組んであっという間に何十本もの楔が打ちつけられ陸地と村はしっかりと固定された。
「よし収穫だ。種は全部蒔け」
めいめい村に戻って籠を背に腰には種袋を結わえて陸地に降り立った。誰もが頬を赤くして喜びをみなぎらせている。
「ヒャッホー」
「すごいぞ。今日の収穫は」
ペイは芋や野菜、麦、果物とありとあらゆる大地の恵みが広大な平地に広がり続けるその土地を見て自らは収穫作業をやめて村人たちに指示を出すことに徹した。そしてただ一人収穫に加わらずに前方の彼方を凝視し続けているエリの口元に注意した。
「二千七百三十、」エリは他のことには全くとらわれずひたすら前を見つめてカウントを続けている。
ペイは作物で満杯になった籠を背負って走り回っている碇係りに怒鳴った。
「碇係り。カウント千で碇を上げる。五百で出発だからな」
「イエッサー」二人はおどけて敬礼した。
しばらく収穫を続けているとカウント千を待つまでもなく村の倉庫が満杯になってきた。これ以上入れると陸地を離れた後の運行に問題が出る危険が発生する。作物の重みで舵が利かなくなるかもしれない。もちろんそんな経験は初めてだ。こんな大豊作はうわさでも聞いたことがない。ましてや自分で経験することなど全く初めてなのだ。ペイは喜びに顔を輝かせて狂ったように収穫を続ける村人たちの姿を見ているとだんだん怖くなってきた。収穫を止めろといったらこいつらどうするだろうか。ペイは首を振って不安を吹き飛ばした。
「終了だ。収穫を止めろ」
近くにいた全員の動きがぴたりと止まりペイを振り向いた。
「遠くに行ったものを呼び戻せ」
ペイは農民の持つ細長い蔓でできた呼子を吹いた。その音に反応して遠くに言って収穫しているものも驚いたように振り返った。
「なんだよう。まだこんなにあるじゃないか。もっと収穫させろ」遠くから怒鳴り声が響いてくる。ペイはかまわず碇係りに言った。
「早く碇を上げろ」
エリを振り返った。エリは相変わらず凍りついたような姿勢のままカウントし続けていた。
「千三百六十、」
時間はまだある。だがこれ以上収穫すると村がつぶれてしまう。
碇係りの二人も釈然としない顔でペイに詰め寄ろうとしたが振り向いたペイの形相を見て言葉を失った。二人は顔を見合わせて首を振った。しぶしぶ碇の引き上げに取り掛かり始めた。
「よしやろう。?」
二人がもたもたして碇の引き上げに取り掛からないのを見てペイの怒りが爆発した。
「このやろう。殺すぞ」湯気を立てて詰め寄ってきたペイに二人は青くなって言った。
「ペイ。そうじゃないんだ。碇が上がらない。抜けない」
「えっ」ペイもあわてて碇に取り付いて踏ん張っている二人に加わった。だが土地に深く突き刺さった碇はびくともしなかった。こんなことは初めてだ。通常村が陸地に接岸するとき碇には想像を絶する力が加わり繋がっている鎖にもものすごい負荷がかかる。だが一度接岸してしまうとどういうわけか無風となり陸地と村はそよ風の中を寄り添うようにくっついているのだ。だから木製の楔と蔓だけで陸地と村は固定できる。現に今も鎖のほうはだらりとたるんでいる。碇にも力は掛かっていない。重さを別にすればいつもなら簡単に抜けるのだ。重さのほうは力持ちの碇係りの兄弟なら一人でも持ち上げることができる。だが突き刺さった碇をよく見ると根元まで、今まで見たことのない深さまで食い込んでいる。ペイは青くなった。陸地に長く居すぎたのだ。気がつかないうちに少しずつ少しずつ碇は大地の奥深く食い込んでいたのだ。
「千五十、」エリのカウントは着々と時を刻んでいる。
三人は蒼白になった。
「ピッピピー」ペイが呼子を吹き鳴らした。遭難信号だ。
まだ収穫を続けていた全員が慌てふためき走りよってきた。
「ペイ。どうしたんだ」口々に村人が叫ぶ。
「碇が抜けない」ペイは真っ赤な顔で叫んだ。一瞬の内に静まり返り全員が真っ青になった。それから村人たちは総出で碇に取り付いて抜きにかかった。だがいくら踏ん張っても碇はびくともしなかった。大勢でやっても意味はないのだ。近くによって碇に触れる人数は決まっている。結局は力の強い何人かが持ち上げるしかないのだ。碇係りは村一番の力持ちだった。
「九百四十」エリのカウントは正確に続いている。
どうするどうする。ペイは考え続けた。もう一か八かだ。だが失敗したら。ペイは迷い続けた。もしうまくいっても二人は。ペイは迷い続けていた。いつも決断の早いペイがこんなことは初めてだった。碇係の兄弟が言った。
「ペイ。言ってくれよ。考えがあるんだろ。お前は村の決めた代表だ。村長だ。村長のお前に何の考えもないなんて言わせないぞ」最後は泣き声になってきた。
「八百六十」
ペイは決心した。
「ある。考えはある。」真っ青になっていた村人達の顔に生気がよみがえってきた。
「だがとても危険な方法だ。失敗したらみんな風とともに消えていく。うまくいっても何人かは帰ってこない」ペイを取り囲んで村人たちはごくりとつばを飲み込んだ。
碇係が言った。
「いいよペイ。それで行こう。どうせこのままでもみんな大波に呑み込まれて消えてしまうんだ。ペイ俺たちはお前に従う」
「八百二十」エリのカウントが小さいがよく響いている。
「よし。全員村にもどれ」
次々に村人たちは陸地から村に戻り始めた。
全員が村に戻ったところでまだ陸地に立ったままペイが怒鳴った。
「全員配置につけ。サイクラーもペダルに足を乗せろ。舵取りも構えろ。これから俺が説明することをしっかりと聞け、命令違反は絶対に許さん。もし逆らったり手を抜いたものがいたらそいつは村の生死を左右することになる。そんなやつは八分だ。」
八分という言葉に全員が緊張した。
ペイは腰に差していた刀を抜いた。
「今から俺がこの楔の蔓を叩き切る。するとおそらく村と陸地の間に少し隙間ができる。その瞬間サイクラーは全員全力で逆走ペダルを漕ぐんだ。隙間ができた瞬間今の静寂は消えて後ろからものすごい風が村の背後にぶち当たってくる。いつも陸地を離れるときにぶち当たるあの風だ。その風に向かって全力で逆走をかける。陸地が進むのと同じ方向に逆走するんだ。陸地より前に出ることができれば食い込んだ碇は緩むはずだ。その間に碇を外す。碇が外れれば後はいつものとおりだ。」
ペイの話が終わり一瞬静寂に包まれたがすぐにひそひそ声が聞こえ始めた。
「逆走だって、そんなことできるのか」
「碇を外す役目の碇係りは戻れないぞ」
「ペイは最初に、うまくいっても何人かは戻って来れないと言ったぞ」
「うるさいぞ。他に何かいい考えがあるやつは言ってみろ。このままじっとしていても全員消えてなくなるんだ」碇係りの兄ジャクが真っ赤な顔で怒鳴った。目が据わっている。
ぶつぶつ言っていた村人はうつむいてシーンとなった。
「ペイ。わかったよ。俺たちみんなお前に従う。俺たち二人はこれから陸地に戻る。早くペイは村に戻れ」碇係りのジャクは弟のデクに目配せして陸地に跳び降りようとした。弟のデクもその顔は真っ青だが動きは毅然としていてジャクに続こうとしている。
「まて。碇係り。そこから動くな。勝手なことをするな、命令違反は八分だ」ペイが怒鳴った。
ペイの言葉にびっくりしたように碇係りの二人はその場に立ち尽くした。
「命令違反?」二人はきょとんとした。
「もう一度言う。碇係りはそこを動くな。そのほかの誰も陸地に下りてはならない」
「じゃあ誰が碇を引き抜くんだ」
「まさか」
「俺がやる」ペイが怒鳴った。
「ペイが一人で?無理だ」碇係りの兄弟は顔を見合わせた。
「切るぞ。サイクラーいくぞ。逆走だ」
そう叫ぶなりペイは刀を振り下ろし蔓を切った。それを合図とするかのように走り出して端から端まで駆け抜けて次々と蔓に刀を振り下ろした。あっという間で、誰もが呆然としてペイを見つめていた。すべての蔓が切られると村と陸地が離れ始めた。ピューという耳を劈く音と共に隙間風が吹き込んできた。
「サイクラー。サイクラー」ペイは声の続く限り怒鳴り続けた。
サイクラーたちはペイの合図に耳を澄ましていた。風に向かって逆走なんて見たことも聞いたこともない。だがペイの力強い声はすべての迷い不安戸惑いを吹き飛ばした。ペイを信じて力の続く限り死ぬ気でペダルをこぐのだ。今までもそうだったように。八人のサイクラーは一瞬の遅れも無く全力で逆走を開始した。
だが、彼らはいきなり壁にぶつかったように感じた。
「ぐあー」サイクラーたちは大声で叫びながらペダルを漕いだ。足に皮ひもで縛り付けられたペダルを全力で引き上げ全力でまた踏みしめた。がくん、と風に押され始めた。
「三百二十」エリはその間も集中を切らせることなくカウントしている。
だめか、ペイは陸地の上から村人たちと全力で漕ぎ続けるサイクラーを見つめていた。
「サイクラーたちを手伝え」ペイは他の村人たちに向かって声を上げた。
「ペダルの上からほかの村人が重なって漕ぐんだ」
その声は村の上で歯軋りしながらペイを見つめている碇係りジャクに届いた。暴風の中、声は聞こえない。ペイの口の形を読み取ったのだ。
「みんなサイクラーのペダルの上から踏みつけて漕ぐんだ。」
すべての村人が揺れ動く村の床の上でバランスを取りながらサイクラーに駆け寄った。二人掛かりでひとつのペダルを漕ぎ始めた。中にはひとつのペダルに三人掛かりで漕いでいるサイクルもあった。
「ぐおお、」ペダルの下に血だまりが出来始めた。渾身の力で踏みつけ引き上げ続ける足と足がこすれて皮が剥けたのだ。渦巻く風は鮮血を空へ向かって吸い上げていく。骨が折れたのかぶらぶらしている足もある。血だか汗だか涙か、みんなぐしゃぐしゃの顔をして泣き叫びながらペダルを踏んだ。
「おお」ペイは目を瞠った。村が動き始めた。風に押されてさらに深く食い込んでいた碇が徐々に平行になり村は碇の突き刺さっていた位置を追い越し始めた。
「もう少しだ」ペイは碇のそばへ寄った。もうずいぶん碇は緩くなっているように見える。
「もう少しだ」ペイは碇を抱えて抜き取ろうとした。ぐらぐらと動く。やった。もう大丈夫だ。
「二百六十」エリのカウントは続く。
一本目の碇はどうにか抜けた。ペイは全身汗びっしょりとなり体がこわばってくるのを感じていた。ふらつく足でもう一本の碇のほうへ歩み寄った。碇をつかんで持ち上げた。
「あっ」半分ほど抜き取った碇を手が滑ってまたもとの穴の中に落としてしまった。ペイは気を取り直してもう一度碇を抱えた。腕に力が入らなかった。こんなゆるゆるの碇なんか抜き取るのは普段ならわけないはずなのに腕に力が入らないのだ。碇を抱えている腕を遠くから見ているような気がした。自分の右腕はどこへいったんだろう。手は俺の右手はどこへいったんだ。さっき碇を落としたときに二の腕を碇と穴の隙間に挟まれたのだ。右の二の腕が妙な形に曲がっている、折れているのかもしれない。ペイは歯噛みした。畜生、油断だ。なんて間抜けなんだ。ペイは碇に頬ずりするように動く左手と頬と肩で抱きしめて持ち上げようとした。頬の皮が剥けたみたいだ顔が熱い。歯が欠けて生暖かい鉄錆の味がした。
「百八十」エリの声が暴風を超えてはっきりと聞こえてくる。ペイは気が遠くなってくるのを感じていた。
みんなすまない。俺のミスだ。
ペイは顔を上げて村を見上げた。村人たちが泣き叫びながらペダルを踏んでいる。誰もがわれを忘れて必死の形相だ。
いや、まだあきらめないぞ。俺はあきらめない。あきらめるもんか。
「百六十」
「百五十」
あきらめてたまるか。
「百四十」
俺はあきらめない。
あきらめない。
あき ら、
ペイはそのまま動かなくなった。
サイクラーと村人たちは巨大な壁を押しているような徒労に満ちた必死の戦いを続けていた。誰もペイの様子に気がついたものはいなかった。普段は信じられないほどの広角度の景色を見渡している舵取りでさえも村と陸地の隙間が開かないように舵を取ることに精一杯でほかのところへ目をやる余裕はなかった。
ペイは必ず約束を守る、一度口にしたことは必ず成し遂げる。みんな当たり前の事として心からペイを信じていた。
「百十」小さなエリもただひたすら遠く前を見つめてカウントを続けていた。
「命令違反、八分、八分、」碇係のジャクは何度もつぶやいていた。
「八分、八分、、、八分が何だぁ」そう叫ぶと狂ったように手を振り回しながら駆け出した。弟のデクはサイクラーの上にまたがりペダルの上の靴を必死で踏みつけながら兄の駆け出すのを目の端でちらりと捉えた。
「ジャク」
叩きつけられる激しい衝撃と痛みでペイは我に返った。懐かしい村の臭いだ。不意にがばっと起き上がると辺りを見回した。村に戻っている。
「何が起きたんだ」
村人は総出でサイクルに取り付いて必死の戦いを続けている。ペイの呟きに誰も耳を貸そうとしない。
ただ一人碇係の弟デクがサイクルを漕ぎながらもちらりと陸地のほうへ目をやるのに気がついた。ペイもつられて陸地を振り返った。
そこには碇係のジャクが一人で、残った碇を引き上げている姿が目に入った。碇を引き上げたジャクの筋肉隆々の巨体が仁王立ちになって村のほうを向いた。服がぼろぼろに破けていて顔も手も擦り傷だらけだ。もう村と陸地の隙間はかなり開いていた。その間を嵐のような暴風が吹きぬけている。時々目にもとまらない速さで作物の破片や埃が通り過ぎていく。
あいつ、この風の中を陸地へ飛び移って俺を村へ投げ返したのか?
「ジャク。早くもどれ」ペイは強い風にはさまれて声が届かないのを承知で陸に向かって叫んだ。ペイの口形を読んでジャクはにやりと笑った。
「俺はもう戻らない。命令違反は八分だ」ジャクの口形がそう言った。
「五十」エリのカウントも終わりに近づいている。もう、すぐ先に巨大な山のようなうねりがぐんぐん近づいてくるのをペイは見た。
掟を破ることはできない。たとえどんな場合でも。みんなの命を救うためでも、掟は掟だ。例外はないのだ。もし破ることを認めればすべての規則が消えてなくなり村が崩壊してしまう。ペイは口の先まで許すという言葉が出てきそうになるのを必死でこらえた。代わりに涙が溢れてきた。もしペイがジャクの命令違反を許せばペイも村長失格だ。村はどうなってしまうのだろう。
ペイは叫んだ。
「ジャク。許す。お前を許す。村へ戻ってくれ」その言葉が届いたのかジャクは真っ赤に怒りが沸騰した顔になった。ペイを指差して怒鳴り始めた。
きさま、言葉に責任を持て、ぶっ殺すぞ。
ペイは泣きながら、許す許す、と叫び続けた。
「三十」
ジャクは怒りに我を忘れて怒鳴りながらばたばた動き始めた。碇の一本を村に向かって投げ返すと碇は村まで届かず風の中を舞った。それを見てもう一本の碇を抱きかかえると抱えた碇もろとも風の中に飛び出した。碇をつないだ鎖がピンと張ってジャクの体は暴風の中、振り子のように大きく振り回された。
「十、九、八」エリのカウントに合わせて陸地の向こうから巨大な山のようなうねりがぐんぐん近づいてくる。
ペイは村人に向かって叫んだ。
「逆走中止だ。サイクルの向きを正常に戻せ。陸地から離れろ」
だがそのペイの声にはかつての自信に満ち溢れた響きはなかった。
「三、二、一!」
ごおーという轟音に包まれて村はきりもみ状態になった。




