1 メッセンジャー
町を飛び出すと前には誰もいなかった。前方には遥か世界の終わりまで見通せるような地平線が広がっている。一気に加速して巡航速度に達した。少し気を緩めて前を眺めた。遥か前方にちらりと何か見えた。砂粒のように小さいふんわりとした影が浮かんでいる。速度を上げるとみるみる近づいて来た。不規則にふわふわと漂い、大きく広がっては、くるりと小さくつぼまり不思議なリズムで方向転換している。やわらかくて力強い、ゆっくりとすばやく軽々として圧倒的な存在感を持つ、そのすべてが美しく、生命力に満ち溢れていた。速度を落としゆっくりと近づきながらしばらく見とれていた。さらに近づくと花のような匂いと共に遠慮がちな息遣いが聞こえてきた。
くるくる回っているのは腰まで届きそうな女性の黒髪だった。
長い髪の毛が風に吹かれ、泳ぐように柔らかくしなやかに、たなびいている。
強い風を受けても物ともしない強さと美しさを持って、見るものに語りかけるように踊るように先端はくるくるとひらめいている。それもまた美しかった。
いつまでも見つめ続けていたかったが仕事を思い出した。ペダルに力を入れ速度を上げる。
追い抜く時、チラリと目の端で捕らえた。
瞬間、体が斜めに傾いた、と感じたときはもう遅かった。
圧倒的な風圧に全身が包まれた。もう遅い、まだ間に合う、一瞬の間に高速で車輪が回るほどの速度で二つの考えが交錯する、この間抜け、というイメージをときおり挟んで。
そのとき、チラリと、試してみようという考えが浮かぶと同時に、カイは風に身をまかせた。風の中を木の葉が舞うように、カイの体はひらひらと鋭角的に空を滑った。
その反動を利用するように、その流れに逆らわず、カイは大きく円を描くように羽ばたいた。
するっと型にはまるように、カイは元の位置に戻った。
何事もなかったように、そのまま元のように走り続けた。
全身に鳥肌が立って背中がびっしょりと濡れている。なにくわぬ顔でカイは走り続けた。
「冷や汗が流れているわよ、」
その声を聞いてもカイはもう振り向かなかったが、あざけるような響きにカチンときた。
「長い髪の毛を伸ばすのは個人の自由だ、だが、その事によって仲間や旅人に迷惑をかけるのは犯罪行為だ」
「特に美しい髪の毛の場合は」前を向いたまま小さくにやりと笑ってカイは速度を上げた。
しばらくして遠く後ろのほうから、小さいがころころと弾むような声が届いた。
「ごめんなさい。本当はすごく怖かったの。死んでしまうかと思った。あなたすごい事ができるのね。いつもそんなことしてるの」
「いつもじゃないさ」はじめてやったんだ。
「もういいだろ。行くよ。気にするな」走り続けながら言った。
「余裕がないのね」
またカチンときた。カイはぐんと速力を上げた。後ろからかすかに何か声が届いてきたがもう意味は判らないほどだった。なぜか笑みが込み上げてきた。髪の毛だけじゃなくて声も美しい。うっかり気を許すと殺されるぞ。カイは笑いながらますます速度を上げた。今日はいい日になりそうだった。
気になる事があった。風にあおられてカイが空を必死で滑っているとき誰かに追い抜かれたのだ。そいつはものすごい速力でカイの後ろに迫り、弧を描いて地面に突き刺さるカイの一瞬下をすり抜けて行ったのだ。あっという間に見えなくなった。気のせいか、そんなはずは無い、確かに見た。そしてにおいもはっきりと覚えている。
カイは自分の足に自信があった。仕事はメッセンジャーだ。メッセンジャーは人並み外れた脚力が無いと勤まらない。そのカイを一瞬の内に追い抜いていく奴なんているはずが無いし、いてほしく無かった。そして信じられなかった。きっと何かの間違いだ。カイはそう自分に言い聞かせながら走り続けた。
停留所で声をかけてきたのは痩せて薄汚れた老人だった。枯れ木のように痩せていて触っただけでポキリと折れそうだった。カイは黙ってコインを一枚老人の手に握らせ食事を続けた。薄いスープとビスケット。仕事が決まり金が入ってくるまでできる限り倹約しなければならない。持ち金も底をつき始めてきた。その中から一食分のコインを見も知らぬ薄汚れた老人に渡したのだ。カイは人道主義者などではない。トラブルには決して首を突っ込もうとはしなかったし、弱々しい病人や老人、女、たとえ子供が物取りに脅されているようなときに居合わせてもそれは変わらない。決して助けようとは思わなかった。何の警戒もしないでひどい目に会うのは自分の責任だ。泣き叫んで助けを求める手合いにはもううんざりだった。自分の身くらい自分で守れ。当たり前の権利みたいな顔をして人に助けを求めるな。そういう奴らを見かけると怒鳴りつけてやりたい気持ちになった。だが、矛盾するようだが、精魂尽き果てた物乞い達に対しては別だった。薄汚れてからからに乾いた、もはや自らの意思を持たない物体。ごみになる一歩手前の存在だ。いずれ自分も年をとり彼らと同じような境遇になるのだ。カイは彼ら物乞いのうつろな瞳の中にいつも自分を見ていた。それはカイにとって唯一確実な未来だった。
だが老人は握らされたコインを黙って返してきた。
「何だよ。足りないっていうのか。勝手にしろ。」
カイはつき返されたコインを自分のポケットにしまい立ち上がろうとした。老人はゆっくりとその腕をつかみ肩に手を置いてカイをもう一度座らせた。ものすごい力だった。この枯れ木のような体のどこにこんなパワーが秘められているのだろう。カイは驚き呆然として老人を改めて見つめなおした。老人はじっとカイを見つめて静かに言った。腹の底に響いてくるような重い声だった。
「金に困っているわけじゃない。若いの、名はなんと言う」
老人の思わぬ迫力にむっとしてカイは虚勢を張ったように口を尖らせた。
「人に名前を聞くときはまず自分の名前を言え」
老人は聞こえなかったように同じ質問を繰り返した。
「名前は」
「名前だよ」
「名前」
「な、ま、え、」
「カイ」答えずにはいられない迫力があった。
「カイか、いい名だ。いくつになる」
「十六」
「十六才か。若さに似合わずいい面構えだ」
「メッセンジャーをしているのか。もうどのくらいやっている?出発するときには親は心配しただろう。恋人はいたのか?」
カイは老人のペースにはまっていると思うとだんだん腹が立ってきた。
「いったいなんだよ。あんた、あれこれ聞いて用があるなら早く言ってくれよ」
「まあ、あせるな。時間はある。」
「あんたにはあったって、俺にはないよ。」
「もういくぜ」
「さっき見せてもらったよ」
「えっ」
「見事なマクリだった」
「風に身をまかせて滑るように空から舞い降りた。まだ甘いところもあるが筋は悪くない。しかも地面に降りる瞬間わしに気づいて避けたな。あれには驚いた。覚えてないのか、無意識に体が動いたか。ますますいい、」老人は静かに笑った。
カイは老人が言っていることが理解できなかった。あの時疾風のようにカイの下を追い抜いていったサイクラーはこの物乞いと見間違える枯れ木のような老人だというのか。改めて老人の姿を見つめなおした。赤茶色に染まったぼろぼろのジャケットはメッセンジャーのものだっだ。それも超一流の印が並んでいた。
しばらくして老人は言った。
「わしと来てくれないか」
「、、、」
「町を救うため。いや、この世界を救うため。」
「わけのわからないこと言うなよ。あなた、いったい誰だよ」
「わしの名はロード」
カイのいる世界は足の力でペダルを回し二つのタイヤを回転させて進むサイクルと呼ばれる乗り物。それをほとんどすべての人が乗りこなしていた。大きいものも小さいものもさらに特殊機能を持つものも基本の動力はすべて人力でこの世界にはそれ以外の動力はなかった。人はこの世に生れ落ちて歩き始めるころすぐにサイクルを与えられる。サイクルは高価なもので専門に作る職人や工場もあったがほとんどの貧しい人々は男女年齢を問わず自らサイクルを作り上げた。子供たちは初めてのサイクルだけは親や知り合いに小さいサイクルを与えられるが体が大きくなってきて大きなサイクルに乗り換えたいと思い始めるころはもう自分でサイクルを作らなければならない。古くなったサイクルを譲り受けたり買い求めて自らの体にあったプロポーションに作り直す者もあったが、誇り高い人々は自分でサイクルを作りたがった。そのためサイクルの部品を作る職人は人々の尊敬を集めていた。尊敬されてはいたが職人は自らはサイクルには乗らなかった。乗ることができなかった。足を怪我していたり、生まれつきサイクルに乗ることができない体だったり、そういう人間がサイクルの部品職人になった。職人たちは町に住んでいた。町は大きな町や小さな町があり、中には数人だけしかいない小さな町もあった。小さな町でも偉大な職人が住んでいれば多くの人々が部品を求めて職人のもとを訪れた。そして職人は来る日も来る日も作り続ける素晴らしい部品を自らの必要とするものと交換した。食べ物だったり衣類だったりまたは跡継ぎだったり。職人の中には元は偉大なサイクラーだったもの達もいる。多くはサイクリング中の事故によってサイクルをこぐことができなくなったもの達だった。偏屈な職人たちの中にはこだわりもあり下手なサイクラーの注文には多額の対価を要求し一流のサイクラーに対しては無償で一級の部品を提供した。そして真のサイクラーだと認めた者に対してはサイクルの完成品を組み立てて提供を申し出たりもした。もちろん真のサイクルラーが一流の職人と言えども他人の組み立てたサイクルに乗ることなど絶対になかった。サイクラーにとって自分のサイクルは命と同じだった。ちょっとした不具合で命を落とす事故になるのだ。命以上に大切で慎重に扱うものだった。それでももはや自らサイクルに乗ることのできなくなった職人たちは自分の魂を込めて作った作品に真の超一流のサイクラーが乗ることを夢見た。
町は動いていた。大きな車輪がいくつも土台に設置されてその車輪の回転によって進んでいた。その動力ももちろん人力だ。町には何十人何百人というその町の車輪を回転させる町サイクラーが住んでいた。町サイクラーになれば生活には困らなかった。来る日も来る日もひたすらペダルをこぐだけの毎日だが町を支える彼らは町の住人から尊敬されていた。町サイクラーは普通は二交代で一日の半分を昼の番のサイクラーがペダルをこぎ十二時間後に夜の番のサイクラーが残りの十二時間、朝までペダルを踏み続けてまた昼番と交代する。町サイクラーは一日の半分をまったく自由な時間として与えられている夢のような生活だった。町を支え動かす圧倒的な脚力と持久力が必要とされる町サイクラーになれるのはやはり選ばれたものだった。いつかは町サイクラーになりたいと若者たちは願った。そして裕福な町には三交代の町サイクラー達もいたが貧しい町にはその逆の一.五交代の町サイクラーもいた。来る日も来る日も十六時間ペダルを踏み続けて八時間寝るだけの毎日だ。それが死ぬまで、ペダルを踏むことができなくなるまで続く。そんな貧しい町の町サイクラーにも若者はなりたがった。貧しい町の町サイクラー達は裕福ではなくとも町や人、その生活を支えているという誇りがあった。そして数々の逸話を残した。
そして停留所がある。小さな町と同じくらいの大きさだが主としてメッセンジャーや旅人たちの休息の場所だ。財産を残し引退した元メッセンジャーが荒廃した小さな町を町サイクラーごと買い取って作ったものが多い。停留所では誰に対しても一宿一飯の施しがある。一宿といっても風除けの小屋にごろ寝できるだけだ。狭い小屋はいつでも物乞いたちと年老いた引退間近の老メッセンジャー達でいっぱいだ。そして一宿一晩の鉄のおきてはどんな場合でも破られることはない。病人だろうが、怪我人だろうが朝になれば追い出される。停留所の薄汚い仮眠小屋に好んで寝泊りするものはいないが、他に行き場所がないものたちが一時の休息を求めていつも満杯だった。彼らは朝になれば全員小屋から出て行く。そのとき小屋に居残っているようなものがいれば、出て行く彼ら自身がそのものを引きずり出す。それが掟だった。たとえ死んでいるものがいたとしても死体を運び処理するのも小屋に泊まったものの責任だった。もしその責任を果たさないような宿泊人がいた場合は停留所の主はすぐさま小屋を閉鎖する。後から停留所にやってきたものたちにはもう仮眠小屋はないのだ。主は場合によっては小屋自体をぶち壊す。だから宿泊人たちは必ず鉄の掟に従う。もし停留所の主が気が弱くて人のいい優しい人間の場合、行き着く先はもっと悲惨だ。小屋には追い出すことのできない病人や老人で溢れかえっていき、やがて停留所自体が重さに耐えられなくなって崩れ落ちていく。旅人やメッセンジャーはまれにそういう崩れ落ちた停留所が道をふさいでいるところに行き会わす事もある。だがそれもわずかな間で強い風にあおられ残骸はすぐに跡形もなく吹き飛ばされて消えてしまう。そして残骸を目にして通り過ぎたメッセンジャーや旅人の心には停留所の鉄の掟がさらに強く焼き付けられる。
人や町そして様々な乗り物はすべて人力で一直線に同じ方向へ向かっていた。強い風が絶えず後ろから吹き続けているこの世界は風より早く、少なくとも同じ速度で前に向かって進み続けなければならなかった。世界全体が前へ進んでいた。町の外で立ち止まることは死を意味していた。うっかり転倒したサイクラーは強い風に後ろからあおられてすぐに吹き飛ばされてしまう。木の葉のように吹き飛ばされて地面にたたきつけられるならまだいい。大怪我をしても命が助かりどこかの町に逃げ込めることが辛うじて出来ればまだいい。だが地面を外れてもし沼地に落ちてしまえばもうそれで終わりだ。沼地は何もない空間だった。人々はそこが何なのか知らないし知ろうとも思わない。ただ決して入り込んではいけない空間だということだけを知っていた。だから町は沼地から離れた位置の地面を走る。そして地面をはさんで沼地の反対側は風と一緒に動く土地が広がっている。土地は風になびくように絶えずゆらゆらと揺れている。土地は時に大きな揺れに巻き込まれる。土地の向こうは本当に何もない空間だった。かつて町にではなく土地に住もうと思った人々もいた。だがあるときの大きな揺れで土地に住んでいた人々は突然消えてしまった。大きな揺れとともに学校も病院も豪華な家々もすべて一瞬の内に消えてなくなった。大破壊と今でも伝えられるその出来事以後人々は絶えず揺れ続ける、でこぼこでサイクルも走れない土地には入らなくなった。わずかに勇気のある農民だけが独自のすばやさで土地に入るだけだった。彼らは土地に種をまき手入れをして収穫する。だが風と一緒に走る土地に入るためには走っている町を土地すれすれに隣接して走らせて土地に渡るか、地面の上で一人サイクルを操り土地に突っ込むしか方法がない。町を揺れ動く土地すれすれに走らせることは町の住民全員の命を危険に晒す事になるためほとんどの農民たちはその驚異的なハンドル捌きと瞬発力で単身土地に挑む。それだけの危険を冒しても余りあるほど土地にはさまざまな自然の恵みがふんだんにあったのだ。
ロード。ロードだって。そんなはずはない。大昔に死んだはずの伝説の英雄。偉大なメッセンジャーだ。人付き合いの少ないカイでもその名は聞いたことがあった。町も人も飲み込まれた大破壊を切り抜けてただ一人無の空間から帰ってきた男。百年以上昔の話だ。この薄汚れた老人は確かに年をとってはいるが先ほどカイを押さえつけたパワーといい朗々と話すよく響き声といい、それにまだ信じてはいないがカイをあっという間に追い抜いていった脚力といい、まだ現役だ。年寄りだが伝説のメッセンジャーにしては若すぎる。ロードの息子か。それともたんに同じ名前なのか。同じ名前を名乗っているのならあまりにも図々しいやつだ。よりによってロードの名前を名乗るなんて。酔っ払いが神の名を名乗るようなものだ。
カイは当初の驚きと困惑から急速に気持ちが醒めていくのを感じた。いつしか冷ややかな目で老人を見つめていた。だが老人はカイの冷ややかな目つきにまるで気がつかない様子でカイを正面からじっと見つめたままで返事を待ち続けている。まるで彫像のように動かない。カイは肩にのっている老人の手をどうにか振り落とすと立ち上がった。
「俺は一人でいるのが好きなんだ。今までずっと一人だったしこれからもずっと一人さ。死ぬときも一人。誰にも気づかれずにいなくなる。」
「さみしくは無いのかね」
「さみしいのが好きなんだ」
「みんなを助けようとは思わないか」
「思わない」
「一人の意味がわかっていないな。若いな本当に。体も心も若すぎる。言葉では伝えられんな。今はもう何も言えん。」
老人も立ち上がった。独り言のように歌うようにつぶやいた。
「町へ行っても楽しいことなどひとつも無い。今まで経験したことの無いつらく苦しい毎日が待っているだけだ。そしてお前がどんなにがんばっても誰もお前に感謝などしない。心を許せる相手など誰もいない。メッセンジャーとはもともとそういうものだ。」
そう言ってにやりと笑った。カイはくるりと向こうをむいて自分のサイクルへ向かった。停留所を後にして後は一度もバックミラーを除くこともなくサイクルのペダルを全力でこぎ続け風のように疾走した。カイはしばらくしてポツリとつぶやいた。
「本当にあのロードだったとしたら今何才なんだろう」
「百二十一歳だ」
老人のよく通る低い声が空を飛んで返ってきた。カイは思わずミラーを覗き込んだが何も見えなかった。さらに足に力をこめてペダルを踏んだ。
メッセンジャーの仕事は差出人に頼まれたメッセージを受取人に届けることだ。ただそれだけのことなのだが。人力以外に動力が無くほかに何の通信手段も無いこの世界では当然サイクラーがペダルを漕いで運ぶ。メッセージを運ぶサイクラーはメッセンジャーと呼ばれる。荷物を運ぶメッセンジャーも中にはいるが大部分のメッセンジャーの仕事は言葉のメッセージを運ぶことが多い。町に住み、もはやサイクルに乗らなくなった人々が外の町の人々へ言葉を伝えるのはメッセンジャーによって運んでもらうしか方法が無い。この世界ではそれだけが唯一の通信手段なのだ。そしてメッセンジャーには帰るところは無い。ただ一方向に強い風が吹き町も世界も一方向に進み続けているこの世界ではメッセージも基本的には一方向しか運べない。風よりも早く前へ進むことができる優秀なメッセンジャーだけが前を走る町へメッセージを届けることができる。だからほとんどのメッセージは一方向へ進むだけで返信は無い。中にはメッセージを届ける相手を探し続けていくつもの町をほとんど休むことなく追い抜き続けている優秀なメッセンジャーもいる。メッセンジャーは差出人からメッセージを引き受けるとき対価は前金で受け取る。もう二度と差出人に会うことは無いのだから当然の方法だ。差出人のほうもそれはわかっている。メッセージが間違いなく受取人に届いたことを確かめるすべは無いのだ。それはメッセンジャーを信頼しているからだけではない。もしかしたら受取人はもういないかもしれないことだってあるのだ。どんなに誠実で優秀なメッセンジャーでも、いない相手にメッセージを届けることはできない。それでも差出人はメッセージを頼む、大金を払って。大破壊によって別れ別れになった親兄弟、子供たち、友人、かつての恋人、恩人、学友、それぞれの相手に自分が今生きていてどれほど相手のことを思っているのかどれほど感謝しているのか伝えたい、かつて学友と研究し続けてどうしても解けなかった難問をついに解いたことを伝えたい、その強い欲求が人々にメッセージを送らせ続けるのだ。たとえ届かなくたっていい。それでも伝えたいのだ。メッセンジャーは人々の生きる望みを運んでいたのだ。そしてメッセージを届けた時の受け取り料金は本来は必要ない。受取の血印のみで、払わなくてよいのだが、たいていの受取人は別に受取の対価を払うことが多い。それはメッセンジャーに対する感謝のしるしだ。
メッセンジャーには誰もがなれるというものではない。最低限、吹き続ける風や進み続ける町より早く進むことができなければ役に立たない。だから新しく町へやってきたものは少なくともその資格はある。そして町へやってきたメッセンジャーたちのもたらす情報もメッセージとは別に町の人たちに大きな興味をもたらした。後ろを走る町の情報はすべての町で貴重なものとして受け止められていた。どんな人々がいてどんな暮らしをしているのかどんな喜びやどんな悲しみがあるのか人々は貪るように新しくやってきたメッセンジャーを取り囲んだ。人々は寸間も惜しんでメッセンジャーを歓待した。メッセンジャーの休息は優雅なものだった。だが少しでも必要以上に休息し続けるメッセンジャーはすぐに怪訝な顔に向かうようになり、それに気づかずさらに出発を遅らせるメッセンジャーは軽蔑されるようになる。人々にとってメッセンジャーは崇高なものだった。頼まれているメッセージを少しで遅らせるようなメッセンジャーはもはや尊敬の対象ではなくただの怠け者の悪党だった。そしてそういう噂ほど速いものは無く、ほかのメッセンジャーたちによって町々にあっという間に広がり誰もがその者にはメッセージを頼むものは無くなるのだ。メッセンジャー失格。一度その烙印を押されたものは二度とメッセンジャーとしてやっていくことはできない。大部分の人々は何年も働き続けて貯めた大金でやっとひとつのメッセージを託すことができるのだ。失格の烙印を押された元メッセンジャーには対価がどんなに安くてもメッセージを託すことは無い。メッセージを届けたことは差出人には伝えることはできないが前を走るほかの町の人々はそれを知ることができる。メッセージを受け取った人間がメッセンジャーに感謝の印を残すからだ。もともとはさまざまな印があった。今は概ねひとつの形になっている。血印と呼ばれる血の指印だ。差出人は自らの子指の先を鋭利な刃物で深く切りつけ溢れ出た血によって指型をメッセンジャーの背中に押し付ける。受取人は親指を切り差出人の指印の隣に受け取った印の血印を押し付ける。背中にいくつもの真っ赤な指型の並んでいるメッセンジャーは一流のメッセンジャーだとすぐにわかるのだ。また指先に生涯消えない深い切り傷の後を持っている受取人たちの中にはメッセージを受け取った印としてその指を人々に誇らしげに見せる者もいた。メッセージを受け取った印はどこかの町に自分を思い続けている人がいるというまぎれも無い明らかな証拠だ。これほどはっきりとした結びつきの証拠は無い。人はその受け取ったメッセージとその証の指の傷とともに辛く苦しい残りの人生を生きていくのだ。血印の赤い色は時とともに変色していくが決して消えることはない。受取印の並んでいない変色した差出人の血印が背中に並んでいるメッセンジャーは長い間、預かったメッセージを届けていないことがわかるのだ。
メッセンジャーがメッセージを受取人に届ける場面に居合わせた人は幸運である。大概の受取人は驚き喜びそして泣き崩れる。人々はその場に居合わせたいと新しく町にやって来たメッセンジャーを取り囲むがよほど急いでいる場合じゃない限り、またなかなか受取人を見つけ出せずに町の人に協力を願う場合じゃない限り、たいていはメッセージは他人の目に触れないところでひっそりと渡される。そしていつの間にか指に深い傷を持っていたり、急に手袋をし始めた人がいる。誰にも知られずメッセージを受け取ったのだ。それは自分だけの宝物だ。決して人に見せたり教えたりするものではない。あるときは妬まれ、あるときは受け取ったメッセージを教えろとしつこく絡まれたり、人はさまざまだからだ。メッセンジャーの仕事にはメッセージを届けるだけではなくそういう後の対処の仕方の指導も含まれている。足が速いだけでは真の優秀なメッセンジャーではないのだ。
カイがメッセンジャーとして旅立ったのは十二の時だった。それからどうにか四年の月日が過ぎた。生き続けることができた。町にやってきたメッセンジャーにくっついて仕事の補助をして手間賃をもらう、だんだん慣れてきたら独り立ちをして自分でメッセージを引き受ける。足には自信がある。そんなまったく甘い考えだった。夢見る少年たちの頭の中はいつでもどこでも夢と希望でいっぱいだ。心配事を注意してくれる身近の大人たちなんか軽蔑の対象でしかない。
メッセンジャーについていったあの子は死んだよ。俺はそんなへまはしない。そいつは力がなかったんだ。危険は承知の上だ。ずっとこの町にいて町サイクラーになれるように訓練しろ。その根性もないのか。根性は誰にも負けない、だけどメッセンジャーになりたいんだ。外の世界を見てみたいんだ。メッセンジャーはいつも知らない町を走り続けるだけだ、友達も知り合いも誰もいない、できてもすぐに別れる生活だ。ずっと一人で生きていくんだよ、孤独でさみしい一人ぼっちの生活だ。今だって一人だ。この町で大勢の中にたった一人だ。
カイがついていったのは若い二流のメッセンジャーだった。今はそれがわかっているがそのときは必死で夢と希望に満ち溢れて飛ぶようにサイクルをこいで巨大なものを追いかけた。そもそも一流のメッセンジャーに夢見る少年がついていけるわけがないのだ。メッセンジャーには弟子を育てる責務があった。メッセンジャーの仕事を心底愛し、長い年月走り続けてきた年老いたメッセンジャーが自らの終わりを感じ始めたときこのすばらしい仕事を若い力に託したいと思う場合もある。老人は町でじっと訓練に明け暮れている少年たちを眺める。そうしてこれはと思った少年に声をかける。だがそういうことが現実になることはほとんど無い。老サイクラーが気弱になる一瞬はわずかな瞬間でしかなく気に入った少年が見つからなければ老人はまた一人で出発するし、少年たちのほうも老人に憧れることは無い。かつては多くの人々の賞賛の的になり背中に判別できないほど多くの指印で埋め尽くされているぼろぼろのシャツを着ていても、少し歩くだけで苦しそうな息を吐く、ぜいぜいとして聞き取りづらい声で話しかけてくる老人についていくことは無い。特に顔も足も指の先まで尖っている、触れただけで今にも切れそうな攻撃的なバネも持久力もある少年とは相容れるところは無かった。老人は自分の若いころを思い出し心の中で頷く。そして彼らに自分がどう見えるか想像して一人苦笑して旅立っていく。そしてもはやメッセージを託されることも無く一人道を走り続けて、ある日そのまま風とともに消えていく。たまたまその場に居合わせた旅人やメッセンジャーたちは黙って心の中で手を合わせる。いずれ自分もそうありたいと、それぞれの感慨にみたされて。
カイとその師匠のメッセンジャー、セイはちょうど老メッセンジャーが宙を舞うはるか後方を走っていた。老メッセンジャーはサイクルもろとも何十メーターも空へ吹き上げられた。両手はサイクルのハンドルをしっかり握り締めたままで微動だにしなかった。そのまま上空に舞い上がったままカイたちに近づいてくるとあっという間に後方に消え去っていった。上空はまた違う風が吹いているのだ。セイは空高く舞い上がっている老メッセンジャーの下を通り過ぎるときつばを吐いた。そのときいきなりカイの顔に何かが貼りついた。カイはあわててハンドルから片手を離し貼りついているものをつかんだ。何かの紙だった。それをつかんだままカイはサイクルをこぎ続けちらりと右手に目をやった。メッセージだった。セイがバックミラー越しにカイを見ていた。
「カイ。そんなもの捨てちまえよ」
「えっ、だって」
「早く捨てないとタイミングを失うぞ」
「それはお前には全く関係のないものだぞ。金を受け取ったのはあのじじいでお前は誰からも頼まれたわけじゃない。余計なことは考えるな。届けることなんかできないぞ」
セイの言う通りだった。だがカイはまだ迷っていた。本物のメッセージに手を触れたのは初めてだった。
「ちっ、もう遅い。カイ、その紙、絶対に人に見せるなよ。捨てるのもだめだ。一生隠し持ってろ。メッセンジャーになるつもりならな」
そのときほかのメッセンジャーたちの一団にカイたちは追い抜かれた。セイはもう何事もなかったように走り続けている。カイはセイに訊ねたい気持ちを必死にこらえた。今までもセイはカイの質問にはまったくといっていいほど答えてくれたり教えてくれたことは無かった。何か指示をするときも自分が危険だったり負担になるようなときだけでカイが辛くなったり困っていることには何の興味も無かった。
セイがそんなものと言い、その紙といったそれはあの老メッセンジャーが消えていなくなる前に最後に引き受けたメッセージだった。夜遅く停留所のトイレの暗い明かりの中でひとりカイは確かめた。そしてセイの言った最初の言葉の意味がわかった。届けることなんかできない。あて先も差出人も書いていない。書いてあるのはひとつの言葉だけだった。そしてセイの言ったもうひとつの言葉、一生隠し持っていろ。その意味は何年か後にカイは思い知ることになる。
ある町で一人のメッセンジャーが広場に人を集めていた。背が高くすらりとした体だ。長い間の風圧を受けて硬く引き締まった端正な顔が興奮して真っ赤になっている。町の代表を呼び寄せて言った。大きな声で周りにいるみんなにもよく聞こえた。
「今、町にいるメッセンジャーと旅人を全員広場に集めろ。そしてご苦労だがしばらくの間出発も延期してもらう。サイクルを押さえろ」
カイが思わずセイを振り返るとセイは舌打ちしてカイの手を引き広場に向かった。男と町の代表に指示されて大勢の男たちが町の出口のほうへ走って行った。セイは走ってくる男たちを避けながらまっすぐにその長身のメッセンジャーの方へ進み出て言った。
「ご苦労だな。ジャニ。」
「セイか、連れがいるのか」その男は射るような目でセイとカイを見つめた。じっと凍りつくような目で見つめられてカイは思わず寒気がした。しばらくの間、ほんの一瞬だったかもしれないがカイにとってはじりじりと体が凍り付いていくように感じる間セイとジャニは睨み合った。やがてセイが言った。
「先にやってくれないか」
「どっちからだ」
セイはカイを振り返って言った。
「カイ、お前からだ」
カイは訳もわからないまま体が凍りつくのを感じた。足が動かない。額から冷たいものがだらだらと流れ落ちてきた。自分がどこにいるのかわからなくなった。
「早くしろ」
はっとわれに返り顔を上げるとジャニと呼ばれたメッセンジャーの顔がカイの目の前にあった。体ががたがた震えてきて今にも泣き出しそうになった。そのとき後ろのほうで声が上がった。
「捕まえたぞ」
ジャニはカイを覗き込んでいた顔を上げて声のほうを見た。そしてその声のほうに向かって歩き出した。歩き始める時、もうカイには何の関心も無いようにカイの肩を軽くたたいた。肩をたたかれた瞬間カイの呪縛は解かれた。カイはそのままへなへなと座り込んだ。
「カイ、勉強だ」
セイが座り込んでいるカイの腰を蹴った。はじかれたように立ち上がるとセイはもうジャニの後を追ってずっと向こうを歩いていく。カイは小走りで後を追った。
声のした町の出口の方に向かっていくとそこはもう黒山の人だかりになっていた。大勢の人だかりの中をジャニがまっすぐに進んでいく。少し遅れてセイが行く。その後ろを小走りでカイが続く。ジャニとセイはまるで誰もいない広場を歩いているかのように人だかりの中を進んでいく。カイは両手を前に出して人々を掻き分けながら突き飛ばされ転びそうになりながら二人に離されないように後を追う。どんどん二人との差は開いていく。そのうちカイは突き飛ばされて地べたに這いつくばった。目の前の無数の足のずっと先に見覚えのあるセイの靴が見えた。セイの靴は踊る様に前後左右に細かくリズミカルに跳ねている。目の前に並ぶ多くの足達のわずかな隙間にくるくるとステップを踏みながら滑り込んでいく。カイは立ち上がりセイのステップを思い出しながら人々の隙間をかいくぐり始めた。だが二人との差は返って開くばかりだった。それでもカイは必死になって踊り続けた。不意に人だかりが途切れてカイはつんのめった。そのままステップを踏み続けた。先にいるセイがあきれた顔で振り返った。
「なにやってんだ。」
カイは思わずカッと顔が火照るのを感じたが、セイはかまわず言った。
「見ろよ」
セイの顔が向いた先に一人の男がいた。顔の大きい背の高い引き締まった男が超然とした感じで真っ直ぐと立っている。だがよく見ると変わった顔をしている。カイは不意に分かった。いったいどれだけ殴られたのだろう。顔全体が大きく紫色に腫上がり、片目はほとんどふさがり鼻もつぶれてだらだらと血が流れている。真っ直ぐ立っているのは両脇をそれぞれ二人づつ四人の屈強な男たちに支えられているからだった。男の両足は宙に浮いていた。
ジャニは真っ直ぐに男の前に進んだ。男を押さえている四人の一人が口を開いた。
「ジャニ、こいつ、制止を振り切って、、」
「いい、どうせすぐ分かる。だが、」と捕まっている男の顔を覗き込んで言った。
「殴りすぎだ。お前たちプロだろう」
「殴ったのは俺たちじゃない」
「住民の暴力を止めるのも仕事のうちだろう」
「確かに」
「止めて助けたさ。だからこいつまだ生きているんだ」黙っていたもう一人が言った。ジャニは遠巻きに取り囲んでいる住民を振り返った。よく見ると怪我をしていたり血を流しているものもいる。静止する四人の男たちに殴られたのだ。刺すような目つきで男を睨み付けて罵声浴びせて続けている住民達に言った。
「静かにしてくれ。始める」
一瞬にして波を打ったように静まり返った。セイは腰につけたポーチから白いハンカチに包まれた物を取り出した。慎重にハンカチを開くと中に小さな紙切れのようなものが見えた。所々黒ずんでいるのが遠めでも分かる。
「メッセージの燃えカスだ」いつも間にかカイの隣にいるセイが耳元でつぶやいた。
「まず俺からだ。」ジャニは焼け残った紙切れを手で触れないようにガラスでできたクリップで挟んだ。その臭いを嗅ぎ、押さえられている男の臭いを嗅いだ。
「つぎ」とジャニは群集の一人を指し示した。指差された若者はどぎまぎした様子で進み出て、ジャニの指示に従った。ジャニの差し出しているクリップの先の紙片の臭いを嗅ぎ、押さえられている男のそばへ行き臭いを嗅いだ。
「つぎ」ジャニは次々に群集を指し示していった。セイも指差され臭いを嗅いだ。
次にカイが示された。カイは緊張しながら前へ進み出てガラスのクリップで挟まれた紙切れの燃えカスの臭いを嗅いだ。そして押え付けられている男の前へ進み出た。男の腫れていない開いている方の目とまともに目が合った。青く空のように澄んだ美しい目だった。それは何の恐怖も戸惑いもなく落ち着いてすべてを受け入れている瞳だった。こんな目をした男が、とカイは思いながら男の臭いを嗅いだ。同じだった。焼け焦げた紙切れと男は同じ臭いだった。カイは呆然とした気持ちで元の場所に戻った。そしてその判定のための検査は延々と続いた。誰もが無言だった。無言ということは肯定ということだ。違うときは否定する。やがてジャニが言った。
「参加者の全員一致だ。総数の規定も満たした」
「この男の刑は確定した。メッセンジャーの責任を放棄してメッセージを燃やして証拠隠滅を図った。メッセンジャー検査官としてジャニが告げる。メッセージ放棄の罪に処する」
男はそのまま引きずられていった。引きずられながら男はちらりと群集を見た。そのときカイと目が合ったような気がした。遠く離れていても青く深い澄んだその瞳は男の不動の落ち着きと断固とした心構えを表していた。その瞳はカイの心に突き刺さった。なぜあんな目をした男がメッセージを燃やすなんてこんなずるくて卑怯で無責任なことを。カイは納得できなかった。知らず知らずにカイは群集とともに男の後を追った。
「カイ、終わりだ」不意に強く肩をつかまれ引き戻された。セイだった。
「勉強は終わりだ。処刑を見ることもない。」
「処刑、」
「メッセンジャーになるという事はこういうことだ。」
「中には間の抜けた奴やうすのろやどじな奴もいる。受取人を探せなくていつまでもうろうろしている、そんな間抜けをお前だって見たことあるだろう。いらいらしてぶん殴りたくなる。だがそれとこれはまったく別だ。能力のことを言ってるんじゃない。約束をしたらメッセージを託されたらそれを受取人に届けるまでは決して終わらないんだ。どんなことがあっても。」
「どんなことがあっても」
「そうだ。どんなことがあっても。」セイは遠くを見るような目付きになって繰り返した。
「どんなことがあっても」
「でも、あの人」カイはまだセイと話したかった。
「やめろ。そんなことわかっている。ジャニも俺も」
セイは急に不機嫌になり出口に向かって歩き出した。もう出発するつもりだ。
いつの間にか群集はほとんどいなくなりカイは辺りを見回した。カイと同じ年頃だろうか一人の少年が顔を伏せて地面にしゃがんでいる。肩が小刻みに震えてよく見ると足下に水溜りができている。カイは吸い寄せられるように少年のほうへ足が向かった。
「カイ」セイの怒鳴る声がした。
「置いていくぞ」
振り向くとセイは足早にどんどん出口のほうへ向かっていた。カイはあわててセイの後を追った。しばらく走ってやっと追いついたカイをセイはいきなり胸倉をつかみ壁の隅に引きずった。誰にも見えない陰になったところで力いっぱい殴りつけた。カイはわけもわからず目がちかちかして頭の中がぐるぐる回った。セイには何回も殴られているがこれはひどかった。
「お前の馬鹿さ加減にうんざりしたぞ。いちいち説明しなくちゃわからないのか。」
カイには何のことかわからなかった。
「住民だって勘のいい奴はもうわかっているんだ。」
セイは叱られた子供が泣きべそを我慢しているような不思議な顔になった。
「ダキはあの子の身代わりになったんだよ。」
「ダキ」セイはあの男のことを知っていたのか。
「そうだ。ダキみたいな立派なメッセンジャーが放棄などするわけがない。」
「それじゃあ、、」と言い、カイは言葉に詰まった。あの男、ダキは無実の罪で処刑されるのか。住民はわかっているって?何だよそれ。さっきの延々と続けた判定は何だよ。ジャニの奴、えらそうな顔しやがって。初めっからお芝居かよ。あんな美しい目をした人を、セイも言った立派な人を。なんだよそれ。
「カイ、いつまで拗ねてるんだ。俺は子守じゃないぞ。こんなことはよくある事だしこれからも見かける事だ。ダキは自分であの子の身代わりになる事を選んだ。だから処刑される、こんな正しい答えはないだろう。それともお前はどうにかしてでも証拠を探してあの子を処刑させろと言うのか。ダキもあの子も二人とも処刑されるぞ。身代わりの罪も重い。その方が正しいって言うのか。」
カイはわからなかった。
「でも規則は」
「規則って何だ。何のためにある」
「それは、悪いことをした人を罰するために」
「悪いことって何だ。」
「人殺しや、盗みやだましたり物を壊したり、」
「そんなことじゃない。規則ってのはみんなが幸せに生きていけるためにあるんだ。俺みたいな馬鹿でもわかっている。ただそのためにあるんだ」
「あの子はこれからたった一人で一人前のメッセンジャーになるために必死で生きていく。あの子がダキの弟子だったことを隠して生きていくのか、堂々とダキの弟子と名乗って生きていくか俺は知らん。だがどちらにしろダキが自分の身代わりになったなんて事は死んでも言わないはずだ。それがダキの望みだからだ。のたれ死ぬかもしれないが俺はあの子が生き抜いて一級のメッセンジャーになる事を望む。」
そう言ってセイはサイクルにまたがった。
卑怯者ダキの弟子サキの名前を町で聞くようになるのはそれからずいぶん後の事だった。
「カイ。ぼろ雑巾のミアラだ。探せ」
それだけ言うとセイは町の簡易休憩所へ向かっていった。セイはふと思い出したように立ち止まってカイに声をかけた。
「カイ、くどい様だけど見つけたらすぐ俺のところへ戻ってくるんだ。絶対に声をかけるなよ。質問はぼろ雑巾までだ。ミアラの名前は絶対に口に出すな。話をするな。わかったか。じゃな」
いつものことだがカイはまた気持ちが暗く重くなった。セイはメッセージの受取人を探すとき情報を小出しにする。カイが実際にメッセージを頼まれたわけではないので本当のところはわからないが、何年も働いてやっとためた金でたった一つのメッセージを送る相手の名前がぼろ雑巾はないだろう。差出人はどうしても届けてほしいためにいくつもの手がかりをできる限り詳しく伝える。その中には人に誇れるようないいものもあるし言いにくい内容のものもある。恥も外聞も捨ててすべてをさらけ出して、すべての情報をメッセンジャーに与える。メッセージを届けてもらうというただそのためだけに今まで生きてきた全人生をさらけ出すのだ。大金を支払うだけじゃなくて過去の人生もすべて支払ってメッセンジャーに託すのだ。その情報はもちろん第三者に知られてはならないことも多い、だからメッセンジャーは基本的には一人で行動し友達や知り合いを作らない。若いメッセンジャーの中には時にその内容の重さに押しつぶされそうになるものもいる。同情や怒り悲しみ、信頼すらも、感情を持っていたらメッセンジャーは務まらないのだ。だからメッセンジャーは冷酷でもある。メッセージを伝えることが第一番の目的でありほかの事は二の次であるどころか存在すらしない。どうでもいいことなのだ。そのころのカイはまだわからなかったがセイにしたってカイを弟子にして雑用をやらせることが自分にとって楽をすることにはなっていなかった。自分ひとりで簡単にできることがカイを使うことによって余計な手間がかかった。そしてカイはよくセイに殴られた。理由もなくただ気分で殴られているようにも思った。メッセンジャーのメッセージ運搬以外のただひとつの義務、新しいメッセンジャーを育てる事を早く終わらせるためいやいややっているのではないかともカイには思えるのだった。とにかく一人でも育てて一人前にすれば義務は完了する。もうお前は一人前だこれからは一人でやれ、と言われればもう放り出されるしかないのだ。
とにかくじっとしていてもしょうがないしどうにかして手がかりだけでも見つけなくてはならない。カイは当てもなく町の中を歩き回った。人だかりの中の人々、一人で歩いている人、物売り、遊んでいる子供にもカイは手当たり次第に声をかけた。しばらくしてカイの顔はあざだらけになった。尋ねた相手を怒らせてしまい殴られ突き飛ばされた。ぼろ雑巾の言葉だけで人を訪ね探す事に困難を感じ始めていた。だけど手がかりはそれしかないのだ。
「坊や、このぼろ雑巾がほしいのかい」老婆が声をかけてきた。
「いえ」真っ赤になってカイは首を横に振った。
あてもなく町を歩き続けて疲れきっていたカイはふと街角の雑貨屋の裏口に打ち捨てられるように積んであるぼろ雑巾に目がいった。どうしよう、とぼんやり眺めているところを店から出てきた老婆に声をかけられたのだ。
「ほら、こんなものでよければ持っていきな。遠慮はいらないよ。」老婆はきれいに洗ってあるぼろ雑巾を丁寧に結束してカイの目の前に差し出した。カイは老婆に言われるままそのぼろ雑巾の束を受け取った。
「あの、おいくらですか」こんなものいらなかったのだが断ることもできず自分でも変なせりふだと思いながらカイは浮かんできた言葉を口にした。
「ははは、おかしな子だねえ。こんなぼろを買う気かい。冗談だよ。あんまり真剣に雑巾を睨んでいるからついからかってみたくなったのさ。」
「冗談」
「そう冗談。坊や頭がどこかへ行っちゃっているねえ。」
カイは怒る気力もなくため息をついた。雑巾を老婆へ返して立ち去ろうとした。
「それは持って行きな。ほしかったんだろ。ただであげるから。きっといいことがあるよ。」
「いえ。ほしかったわけじゃありません。」返そうとするカイを押しとどめて老婆は言った。
「何度も言わないよ。わしは良い事があるって言ったんだ。年寄りの云う事は聞いておくもんだよ。」
まだぐずぐずしているカイに老婆は顔を近づけてきた。しわだらけの瞼の中に優しい瞳がのぞいていた。
「坊や、メッセンジャーの弟子なんだろう。時間がないよ」声のない口の形だけで老婆はそう言った。
「それをいつも見えるところに持っていな。」そういって出てきた雑貨屋の裏口へ戻っていった。
「おばあさん」カイは老婆を呼び止めようとした。
聞こえないのかどんどん行ってしまう。カイは駆け寄って、もう一度呼んだ。
「もうおしまい。」老婆は振り返って声を出さず口の形でそういうと裏口へ消えた。
カイは結束された雑巾を左手にぶら下げたままとぼとぼと来た道を引き返した。もうあたりはすっかり暗くなっている。どうしよう、セイになんて言おう。また殴られるかもしれない。殴られるくらいなんでもない。怖いのはお払い箱になることだった。お前みたいな間抜けの面倒を見るのはもううんざりだ。今日限り俺とお前は無関係だ。どこへでも勝手に行け。怒り狂ったセイの鬼のような顔が浮かんでは消えた。カイはそのときをなるべく後に伸ばそうというかのようにいつまでも人のいなくなった町の通りをとぼとぼと歩き続けた。カイがセイのいる簡易宿泊所に戻ってきたのはもう深夜を過ぎ明け方近くなっていた。それまでの間すっと、カイはあてもなく町の中を歩き続けていたのだ。やっと簡易宿泊所の前まで来てセイの泊まっている個室の前に来た。個室といっても二人が横になるスペースは無い。たいていはセイが横になって毛布をかぶりカイはその足元に服を着たまましゃがんで寝るのだった。そっと触れてみると扉の鍵は開いていた。とりあえずほっとしてカイは寝ているセイを起こさないようにそっと扉を開けた。暗い豆電球の明かりの中毛布をかぶっているセイが見えた。とにかく寝よう、殴られるのはその後、明日の朝セイが目覚めてからにしてもらおう。疲れきったカイはそろりそろり扉を開けて中に入ろうとした。そのときガバッとセイが跳ね起きた。
「わあ」カイは尻餅をついた。
「ご、ごめんなさい」体を起こしたセイは物凄い形相で睨みつけている。言葉も無くわなわなと体が震えている。カイは頭を両手で押さえて小さくなった。疲れきった体はもう限界だった。目まいがしてくらくらしてきた。セイが毛布を跳ね飛ばして立ち上がる音が聞こえる。カイは小さくなったままセイを見ることができなかった。セイは立ち上がってカイの方へ歩いてくる。このまま外へ追い出されるのか。カイが覚悟を決めたとき、セイが不意にいなくなった。カイを通り過ぎて外へ出て行ったのだ。カイはしばらく何が起きたのかわからずそのまま固まっていた。外で小さな話し声が聞こえる。カイがまだそのまま固まっているとセイが戻ってきてカイの頭を踏んづけた。とうとう始まる、とカイがついにあきらめたときセイが言った。
「おっごめん」
{?}恐る恐るカイが顔を上げるとその上に高揚したセイの顔があった。そしてその後ろに一人の女の人が立っていた。
セイはカイの右手を両手で強く握り締めて引き上げて、上下に力強く振った。そしてさらに肩を軽くぽんとたたいた。
翌日。カイは昼過ぎに目覚めた。毛布に包まってまっすぐに体を伸ばして寝ていた。目が覚めると部屋の中にセイの姿はなかった。セイの荷物もない。置いていかれた。いきなり氷水を被ったような気持ちがして跳ね起きた。眠気は一瞬で吹っ飛んだ。そのままばたばたと部屋の外へ転がり出た。足がもつれて前へ出ない。そんな事言っていられない。外に出て大声で叫んだ。
「セイ」
「セエイイ、」どこにもいない。
こんなの酷い。酷すぎる。カイは町の出口まで息が苦しくなるのも忘れて走り続けた。いつの間にか涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃに濡れている。それを拭くのも忘れて走り続けた。全力で走っているのにもどかしいほど前に進まない。出口が見えてきた。サイクル置き場にセイのサイクルはまだあるはずだ。どこだっけ。あっ、あった。自分のはあった。セイのは、セイのは。どこだ。
あったのはセイのサイクルのタイヤの跡だけだった。外に向かってまっすぐに伸びている。
「ああ、」とカイは力が抜けてくるのを感じた。見るとセイのタイヤの跡の上をいろいろな人々の靴跡やサイクルのタイヤの跡が横切っている。追いかけたらまだ間に合うだろうか、セイの方が自分より数倍早いのはわかっている、でも死ぬ気で休まず走り続けたらもしかしたら。俺だって最近はずいぶん速くなってきている。すぐに追いつけなくても夜も寝ないで休まず走り続けたら。どこかで必ず追いつくことはできるはずだ。だけど、とカイは思い直した。追いついてどうするんだ。セイは俺をおいていったんだ。そうだ俺は置いていかれたんだ。そうなんだ。
カイはもう何も考えられずどうしていいかわからないままふらふらとさっき出てきた簡易宿泊所の方へ歩き始めた。どこをどう歩いたのかわからない。ようやく宿泊所の前へたどり着くと体が動かない。宿泊所の扉を開けようと前へいくら手を伸ばしても扉のノブを掴む事ができない。なぜか耳が痛くなってきた。肩をゆすられた。
「カイ、カイ」
目の前に女の人が立っていた。カイの両肩を強く掴んで揺さぶり続けている。カイはうつろな目でその人を見上げた。
「カイ。あなたにメッセージよ」
「えっ」
カイ。長い間楽しかった。お前に教えることはもう何もない。今日からお前はメッセンジャーだ。がんばれよ。セイ。
「たったこれだけ?二年も一緒にいたのに」
「余計なこと言うなって言われたけど。セイは言ってわよ。よくまあ、ぼろ雑巾の言葉だけでミアラを見つけることができたもんだ。俺なんかよりずっと上だ。あいつは超一級のメッセンジャーになる。もう俺と別れたほうがいい。俺と一緒にいたらあいつの才能を駄目にしてしまう。まだまだ子供だと思っていたらいつの間にかもう立派なメッセンジャーだ。俺は別れは苦手なんだ。黙って行く事にする。大丈夫あいつは必ず一人で何とかやっていく。それにまだ一人でやって行けないのなら所詮その程度の奴さ。って。最後に、もしどこかの町で偶然出会うことがあったら今まで殴った分殴り返してもいいぞ。」
カイは泣き出した。違う違う。セイを殴ったりなんか絶対にしない。ミアラさんを見つけられたのも偶然なんだ。本当についてただけなんだ。僕にはまだそんな力は無い。
その日を今もカイは甘酸っぱいような苦い感傷とともに思い出す。セイを恨み自らの前途を悲観して固まっていたのは幸いなことにわずかな間だった。なぜならその町でカイにメッセージを託すものが現れたからだ。それはあの雑貨屋の老婆だった。
「僕なんかに」と逡巡するカイに老婆は言った。
「わたしゃいろんなメッセンジャーを見てきたよ。あなたは最高の部類に入るよ。一番じゃないけどね。」
「一番は誰ですか」
「そうさな。やはり」老婆はずっと遠くを見つめて味わうようにその名を告げた。
「ロードだよ」
「ロード、」
その名を聞いた最初だった。
町のゴミ捨て場に少し大きめのぼろの塊が風に吹かれている。街のはずれの誰もやってこないようなゴミ捨て場は壁の補修も後回しにされ外からの風が吹き込んでいるのだ。冬が近くなり外からの凍るような風が強くなっている。ごみといってもある程度再利用できそうなものはとっくの昔に浮浪者や物乞いたちが持っていってしまう。今残っているのは埃と同じような何の価値もない本当のボロ屑だった。突然突風が吹いて小さなごみくずを空へ舞い上げる。まるで重さが無いように見えるぼろの塊だったがゆらゆらと揺れるだけで留まっている。今までに気にも留めなかったその塊にカイの目は釘付けになった。あてもなく町中を歩き回って人の顔を見るのもいやになって誰もいない町のはずれにやってきたのだ。あれが何だがカイはもちろん知っている。そして時がたつのも忘れてただじっと見つめ続けていた。もうやめよう意味のないことだといくら自分に言い聞かせてもその場から立ち去ることができなくなった。ギイコギイコと神経を逆立てるような音を立てながら遠くからサイクルの近づいてくる気配がする。今日は回収業者のサイクルが回ってくる日だった。カイは驚くように音のするほうを振り向く。真ん中に平たい板を渡した二連のさび付いたサイクルを二人の男が漕いでくる。顔も体もボロ屑と見間違えるような汚れと臭いが染み付いた物乞いや浮浪者と変わらないそれ以上に汚いうつろな目をした二人の痩せた男がボロ屑の回収にやって来たのだ。彼らはもちろん町から仕事として回収を委託されて人の嫌がる作業を行う立派な業者だ。どの町にも必ず必要な仕事だ。だがいつの間にか物乞い達によってその仕事は奪い合いになり本来の正規の作業者は自らは手を汚さず物乞いたちに手間賃を払って作業を行わせるようになっていた。物乞いたちは生きていくためにわずかな手間賃を奪い合ってその仕事を手に入れようと競争してもともとわずかな手間賃をさらに下げた。そのうち物乞いをしたほうがましな対価になってしまった。そして物乞いすらできないような要領や態度が悪く人から嫌われている二人が残った。彼らがなぜ人々に嫌われているのかカイは知らない。だが二人の作業を見つめ続けているうちにカイは気分が悪くなり眩暈がしてきた。二人はサイクルを止めると無造作にカイが見つめていることに気にも留めずにボロの塊を蹴っ飛ばした。埃が舞い上がりボロは転がり痩せこけた人の手が突き出てきた。二人はそのボロボロの元は服であったものを脱がし始めた。慎重に脱がせると自らのやせた体の上からそれを羽織った。交互に二人でその作業を繰り返して最後に残ったボロをめぐってじゃんけんをした。カイは知らず知らずに後ずさりして二人の作業を遠く離れたところから見続けた。どうしても目が離せなくなっていた。二人は遅々とした速度でゴミ捨て場のごみやボロをすべて運び、最後にボロを剥がされたその物体を二連のサイクルの上に乗せた。そのときその物体の顔が見えた。幼い少年だった。カイは自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。その顔はカイ自身の顔だった。カイは一目散にその場を逃げ出した。
ぞっとして体中ががたがた震えている。何度も転びながら転んでいることもわからないほど無我夢中で走り続けた。気がつくといつの間にか街中を歩いていた。すれ違う人々がカイを避けるように大回りして通り過ぎていく。こそこそとささやき声も聞こえる。どこへ行けばいいんだろう。僕はいったい誰なんだ。どうしてここにいるんだろう。自分は何もできないほんの子供だったのだ。一人で生きていくことなんて考えることもできない。甘ったれの世間知らずの大馬鹿野朗だ。セイの顔ももうぼんやりとしか思い出せなくなった。とぼとぼと歩き続けてふと気がつくと雑貨屋の裏口に立っていた。相変わらずぼろ雑巾が積んである。この町で唯一カイに優しい言葉を掛けてくれた。おばあさんの顔が懐かしかった。カイはいつまでも誰も出てくる気配が無い雑貨屋の裏口を見つめていた。
怒鳴り声で目が覚めた。疲れきっていたカイは雑貨屋の裏口にしゃがみこんでそのまま眠ってしまったのだ。
「こんなところで寝るんじゃねえ。とっとと失せろ。」わき腹を力いっぱい蹴りつけられた。転がったカイは男の顔を見ることも出来ずおびえた野良犬のようにその場を離れた。もう本当におしまいだ。何も無い。とあきらめきった。何もない、何もない。と呟きながら歩き始めた。
何もない。
何もない。
しばらく歩き続けてカイの頭の中は静かに澄んできた。
何もない。
何も無い。
何も無いと言っているのは誰だ。
何も無いと言っているのは俺だ。
俺は誰だ。
誰だ。
なぜここにいる。
俺はカイだ。
メッセンジャーになるために故郷の町を一人飛び出てここにいるんだ。メッセンジャーはつらく苦しい仕事だ。町の人全員に嫌われ蔑まされることもある。メッセージは喜ばれるものだけじゃない。人を不幸にするメッセージだってあるのだ。メッセンジャーはあくまでメッセージを届けるだけだ、そこにほんのわずかでも私情を挟む事は許されない。そのメッセンジャーになるのが夢でどんなことにも耐えると誓ったはずだった。カイはだんだんと思い出してきた。そして小さくそして力強くつぶやいた。俺は一流のメッセンジャーになる。
俺はメッセンジャーだ。俺はメッセンジャーだ。小さくつぶやきながらもカイの足取りは力強かった。
「あっ荷物。」簡易宿泊所を転がり出てからそのままだ。もう何日たっているのだろう。
「しまった。もう捨てられているかもしれない。冗談じゃない。」
カイは見た目はぼろのままだが。気持ちはもうすっかりもとのカイに戻っていた。小走りで簡易宿泊所へ戻っていった。
「すみませーん」大声で宿泊所の管理人室のドアを開けながら呼びかけた。
「僕。セイと一緒に泊めてもらったカイといいます。荷物を、」と言いかけ不意に気づいた。お金がない。セイは一緒に泊まった日の分は払っていったと思うけどその後の追加料金を請求されたらどうしよう。お金がないと荷物を返してもらえない。カイは小さなリュックの中に生活用具一式を入れていた。サイクルに乗るときの必需品、手袋、帽子、ジャケット、サイクル用の靴、あれがないとサイクルで出かけられない。裸足で手袋もしないで帽子もジャケットも無しで暴風の吹き荒れる外の道を走るなんて想像もできない。真夏の太陽の下ならまだしも今は真冬だった。凍えて体がひび割れてきて足が動かなくなってそのうち眠るように死んでいく。そんな貧しいサイクラーをカイは何度か見かけたことがある。でも荷物を返してもらえなかったらそうするしかないのだ。町には町のおきてがあり旅人やサイクラーは長期間町にとどまることは許されない。それを許したら町は浮浪者だらけになってしまうからだ。だから浮浪者といえども町での仕事の無いものは時が来たら疲れきった体に鞭打って町を出て行かなければならない。特にメッセンジャーに対しては厳しかった。メッセンジャーを辞めて町に住み着く決断をすればまた別の道が開けるかもしれないのだが、カイには別の道はなかった。
どさりと目の前にカイの見覚えのある懐かしいリュックが置かれた。
「あっ。僕の荷物だ」恐る恐るカイが手を出すと
「全部揃ってるかい」親切そうな管理人がにこやかに声をかけてきた。
「はい。でも、」カイがリュックの中を探って紙入れを取り出すと
「ああ、いいんだ。支払いは済んでいるよ」管理人は手を振った。
「えっでも追加分は、」
「ミアラさんが払っていったよ。」
「それにこれ、メッセージの配達のお礼をまだ受け取っていないんだって?」そういうと分厚い茶封筒を取り出した。
「ぼ、僕に」ずしりと重い封筒を受け取り、手が震えた。ちらりと封筒の中身をのぞくと頭にカッと血が昇った。すごい大金だ。
「カイさん。余計なことだけどあんまり人前で大金を見せるんじゃないよ。初仕事で興奮しているのはわかるけど、そのお金はミアラさんが今まで必死で働いて貯めてきたお金だよ。そのメッセージが届くことを信じていつかきっと届くと信じて届いたときに必ず受け取ることができるようにそのことだけを信じて長い間働き続けてやっと貯めた大切なお金だよ。大切なものは大切に扱いなさい。冷たくしたり乱暴に扱うとすぐになくなってしまうよ。」
カイは神妙に頷き封筒をリュックにしまった。
「それともうひとつ、メッセンジャーなら知っていると思うけどミアラさんにお礼を言ったり会いに行ったりしちゃいけないよ。」
「えっ、はい」頷いたカイは今、ミアラにお礼を言いに行こうとしていたのだった。
「うん、わかっているならいい。メッセンジャーの仕事はメッセージを渡すまでだ。余計な事に興味を持つと悲しいことになるからね」
「まあ、わしも余計なおせっかいをずいぶん言ったけどみんな忘れてくれ。年寄りの独り言だ。」
「いえ、そんなことありません。助かりました。管理人さんどうもありがとうございました。」カイは深々と頭を下げて宿泊所を後にした。
「ヒャッフォー」カイは宿泊所を離れてしばらくするとうれしさを抑えきれなくなってきた。リュックにしまってあったカイのサイクル用のジャケットの背中のど真ん中に赤々とした指印が一つ、くっきりと残っていた。ミアラの指はその姿通りほっそりと美しかった。
翌日、一文無しになったカイが道の上でサイクルを走らせていた。ちくしょう、ちくしょう。さっきから何度もつぶやいている。あの管理人の奴。余計な説教しやがって、あの日のうちに全部使ってしまえばよかった。昨日次の小さな町の宿泊所に泊まったときカイは今までの疲れが出て泥のように眠りこけてしまった。前金で宿泊料を支払いベット付のちょっと割高な個室を選び部屋に案内されて中に入ったとたんベットの上で朝まで眠りこけてしまったのだ。鍵もかけず。目が覚めたときは部屋の様子が一変していた。リュックの中身がぶちまけられあのミアラの地と汗と涙の詰まった受取料金の入った封筒もくしゃくしゃになって転がっていたのだ。小柄な頭の禿げ上がった鼠みたいな顔をしたそこの宿泊所の管理人にいくら抗議しても無駄だった。鍵を閉めなかったカイが悪かったのだ。鼠の管理人はばっかじゃなかろうかという顔をしてフンと鼻を鳴らした。
こんな町、もうおさらばだ。
町を出ようとしたとき一人の小さな少女に声をかけられた。
「あのメッセンジャーさん。」
「えっあっ、俺のことか」
「はい、背中に指印のマークがあります。」
ミアラが受け取りの印で押してくれた指印だ。
「君が頼むの」
「はい、でもお金が少ないんです」
「少なくてもかまわないけど、君、わかっているの?大事なお金じゃないのかい。僕はもう二度とここへは戻ってこない。届いたかどうか君には伝えられないんだよ。」
「ええわかっています。これはお母さんがためたお金です。でも少なくていつも断られて。」少女は小さな両手を広げてお金を見せた。二食分の食事代と簡易宿泊所のごろ寝泊まり二回の料金で消えてしまう。それでも今のカイにとっては次の町へ行ける喉から手が出るほど必要な金だった。でも、と少女の姿を改めて眺めて思い直した。かわいい顔だが痩せこけて服もぼろぼろだ。
「そのお金は君が持っていなさい。君が使いなさい。人に渡したりしちゃだめだよ」
不意に少女の目に涙が溢れてきた。お金をしっかりと握り締めたまま体が震え始めた。
「みんな死んじゃったの」ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「お母さんが死ぬ前に、メッセージを出したい出したい、ってずっと泣いていたの」
少女は深く首を落として小刻みに体を振るわせ続けた。
「でも君は、」これからどうするのという言葉をカイは飲み込んだ。カイにどうすることも出来はしない。この子だって答えることはできやしない。
カイは黙ってお金を受け取った。少女は花が咲いたようなぱっと明るい笑顔になった。
「ありがとう。メッセンジャー。私の名はレイ。母の名はライ。届ける相手は、、」と繰り返し暗記し続けた言葉をすらすらと続けた。
「メッセンジャーカイ。私はあなたのために祈ります。あなたはこれからどんな事が起きてもどんな人たちに襲われても決して死ぬことはありません。必ず切り抜けて走り続ける事ができます。私は毎日祈り続けます。」
カイの目をまっすぐ見つめてそう言うと少女は自らの小指を取り出した小さなナイフで切り裂き溢れた血でカイのジャケットに指印を押し付けた。指から鮮血が滴り落ちるのもかまわずそのまま地面に跪いて祈り始めた。カイはあわてて自分のハンカチを取り出すと少女の手を取りその小指にきつく巻きつけた。
それは少女の父へのメッセージだった。届ける相手の情報は年齢、身長、容貌、性格、癖、得意な仕事、趣味、好み、居そうな場所等々詳細に亘っていた。これなら世界の果てまで逃げた逃亡者だって捕まえられる。だがメッセージはたった一言だった。彼ら家族がどんな目に合いなぜ別れ別れになったのかはわからない。その一言を届けるのにどんな意味があるのかもわからない。そしてもし届けることができたとしても少女にはメッセージが届いたことを伝えることはできない。そしてもしかしたら届けられないかもしれないのだ。届けられないかもしれない。カイはその考えを頭から振り払った。恐ろしかった。わずかな配達料金で受けた仕事だが、もう既にカイの心に重くのしかかって来ていた。それはカイが自分で受けたメッセンジャーとしての初仕事だった。
その後月日は過ぎ、いくつもの町を通り過ぎカイは少しずつメッセンジャーとしての仕事をこなし始めた。いつしかジャケットには差出人と受取人の指印がいくつも並び始めた。だが少女レイの指印の隣はまだ空いたままだった。
殺される。まだ観念したわけでは決して無かったが、カイはそう思った。目つきがおかしかった。こちらを見ているのに焦点があっていない。気が狂っているのかと思うような薄気味が悪い目つきをしていた。鍵は閉めたはずなのにとちらりと扉の様子を見る。どういう手を使ったのか扉は開いていた。男達の一人の手に目が行った。腰にぶら下げた数十個の鍵束をそっと抑えていた。ようやく合点がいった。こいつらプロの強盗だ。覆面をしていないのは端から相手を殺すつもりだからだ。そこまではカイにもすぐにわかった。こいつら見てたんだ。カイは後悔した。
カイは今日一人の受取人を見つけ出したのだ。太って裕福そうなその受取人はそれまでの尊大な態度を一変させて大げさに泣き崩れた。
「もうお金なんか入らない。このメッセージさえあれば私は生きていける。」
太って垂れ下がったあごを震わせながらおいおいと泣いた。
そしてカイに過分すぎる受取料金を支払った。男は自分の泣き崩れる姿を恥ずかしげも無く大勢のあきれる人々が見つめる中、演じ続けた。そう演じたのだ。男は自分がメッセージをもらえる人間なのだということを町の人々に見せ付けたかったのだ。うんざりして立ち去ろうとするカイの手をしっかりと握り締めてなかなか離そうとしなかった。
「ありがとう。ありがとう」と男はカイに向かってそして聴衆たちに向かって泣き喚き続けた。泣き喚き続けた男が疲れきってひっくり返った隙にカイは軽く会釈して男から逃げ出した。ジャケットの背中には男の巨体に似合わず小さな小さな受取の指印が残った。大げさに感謝して泣き崩れる割に男は自らの指先を裂くのを怖がり小さな切り傷をようやく入れてわずかな血を絞り出してどうにか指印を押したのだ。メッセンジャーにとってこれだけは絶対に必要だった。いくら大金を積まれても受取印がなければ未配達のままになってしまう。その指の傷の痛さで泣いたのかもしれないな。あんなちっちゃな傷で。とカイはため息をついたがその出来事のせいでカイは一躍町の有名人になってしまった。町の世話役や女将さんたち、様々な人から食事の招待を持ちかけられたが人付き合いの苦手なカイはそのすべてを無愛想に断り、逃げるようにこの宿泊所に戻ったのだった。それも今思うとまずかった。招待を受けていれば多少の憂鬱な時間を我慢さえすればその夜は安全な宿に宿泊できたのだ。朝になれば出発するメッセンジャーは強盗ごときに追いつかれるはずが無かった。
しまった。とカイは舌打ちした。
「しまった?もう遅いんだよ」大振りのナイフを構える定まらない目つきをした男がニヤニヤしながら言った。口の形だけで声は出していない。気がついたときにはカイは両手を後ろ手に縛られていた。リュックの中身はすべて出され慎重に並べられている。決して急がない丁寧な手際だ。座り込んでいるカイの首には大振りのナイフがぴたりと刃先が当てられ少しでも動いたり声を出したりしたらその前にカイの首は切り落とされるだろうという佇まいだ。そもそも殺す気なのだ。三人の男たちは落ち着いて手際よく作業している。慣れた作業をしているのだ。
「これで全部だな」中身を調べている岩のようながっしりとした大男が今日あの太った受取人からもらった札束と元々カイが持っていた小銭を床に並べていった。
「おっと声を出すな。首を振ればいい、振れねえか、ナイフがあるからな、ふふ」声を出さず口の形だけで大男はそう言い笑った。
カイは考え続けた。どうすればいい。どうすればいい。
「まだ金はある」声を出さず小さく口の形を動かしカイは言った。
「適当なことを言うじゃないぞ。おめえがもともと貧乏だったのはしっかりわかっているんだ」もう一人のやせた男が声を出さず口形で怒鳴った。
「金はある。」カイは繰り返した。じっと目の端でナイフの位置とその動きを見続けた。
「てめえ」と岩のような大男がカイの胸倉に掴み掛かってきた。カイは首が動かないようにするため男が掴みやすいように伸びてくる手の方に体の向きを傾けた。それでもナイフの刃がカイの首に食い込み血が流れ始めた。ナイフを持った男はまったく気にもせず刃先を微動だにさせない。胸倉をつかまれ引っ張り込まれるとカイの首はそのまま切り裂かれる。もうだめだ、恐怖と絶望感が体全体を押し包んでいく。体から力が抜けてきた。ふとセイの顔が浮かんできた。カイは渾身の力をこめて前へ傾かないように踏ん張った。それでもカイの首からだらだらと血が流れ始めた。その血は刃先を伝わり流れ続け、ナイフを握った男の手を濡らし始めた。ナイフを握った男はカイから流れた血が手を濡らしたとき思わずうつろな目に焦点を合わせて自分の手を見た。そのときカイは男の手に向かって突進した。自らの手を覗き込む男の鼻先にカイの額がぶつかった。ナイフはさらに深くカイの首に食い込んだ。首が切り裂かれるのもかまわず突進と同時にカイは体を左に大きく振った。カイの胸倉を掴んでいた大男がカイをつかんだまま左に振り回された。ナイフの先端がその男の首に突き刺さった。その瞬間カイは声の続く限り叫んだ。
「強盗だあ、」
「強盗だ、メッセンジャーカイが殺される」
男たちは不意に慌てふためきばたばたと立ち上がった。ナイフの男はカイを殺そうと血だらけのナイフを振り回し始めた。そのときはもうカイは立ち上がっていた。カイは両手を縛られたままステップを踏んだ。くるくると体を回転させて向かってくるナイフを避け続けた。首から血しぶきが乱れ飛んでいる。首の怪我は気にならなかった。今はこのナイフを避け続ける事だけに全生命をかけた。カイは生死を賭けて無心で踊り続けた。もう何も考えなかった。
気がつくとカイはベットに寝ていた。起き上がろうとすると首の辺りがずきずきと痛んだ。起き上がるのをやめてまた横になった。少しずつ記憶がよみがえってきた。そうだ俺は助かったんだ。そしてセイのことを思った。セイありがとう。セイの弟子でいる間、全くと言っていいほど何も教わらなかった。だがたった一つだけセイが冗談半分に言ったことがあった。セイは若いカイをからかって、よく冗談を言った。そしてうそか本当かわからない自慢話をした。
「いいか、お前みたいなひよっこと違って俺様はこれまで散々生きるか死ぬかの修羅場を潜り抜けてきたんだ。強盗や殺し屋、それも相手が一人じゃなくて何人もいて到底立ち向かってもかなわないとはっきりしている大勢の相手に捕まったときもある。そういうときはひたすら謝り続けるんだ。自分が悪くなくてもな。できるだけ無様に泣き喚くんだ。謝っても許してもらえないときもある。そのときはできるだけすばやく逃げる。物なんか全部捨ててひたすら逃げるんだ。だがもう捕まってしまって逃げられない。特に刃物なんか突きつけられてどうにも動きようがない。そういうときもある。そんなときは決して逃げようとするな、そいつに全力で突進しろ。そしてな、ここが肝心だ。よく聞け。胸倉を掴ませるんだ。悪口を言ったりつばを吐いたりして相手を怒らせろ。胸倉を掴ませたらぶつかりながら掴んでいる手の方へ全力で腰を触れ。ぶつかりながらだ。」
「セイ、するとどうなるの」
「どうなるかな。カイ、自分で試してみろよ。チャンスは一回だ」
セイ、ありがとう。今試したよ。