神楽姫はいじめられていないのです
大国の姫君のまさかな発言に、リクは自分の耳がイカレタのだと思った。
買う?
この忌み子を?
目の前の、へっぽこ姫が?
リクにいかにも高価そうな指輪を差し出してきた『神楽姫』を見ながら、呆気にとられる彼の耳に、相も変わらず情けない声が届く。
「――エマ~っ!!
人身売買は駄目だからっ!!
普通に犯罪なんだから、誰かに向かって買うとか言っちゃいけませんっ!!!」
ヘタレ王子も、相当に動揺しているらしい。
湧き出る魔物の群れを屠る速度が跳ね上がった代わりに、畏怖を抱く程の精密な剣閃が乱れ、リクでも怖い感じに血みどろになっている。
……何と言いうか、『殺戮の覇王』の名に相応しい、その身に大凶星を負うのも納得な姿であった。
「――はっ!
申し訳ございません、エド兄様。
犯罪などに手を出してしまいましたら、余計な濡れ衣をかけられてしまいますものね。
ですが、エド兄様。
――法に触れずに悪女らしく殿方を転がすには、どうすればよろしいのでしょうか?」
「……それを、僕に訊かれても……」
幼い子供の様に首を傾げる従妹姫に、アレクサンドリアの王太子はガックリと肩を落とす。
ついでに、その足元から浮かび上がる様に跳び出してきた咢を、当たり前に両断した。
そもそも、男に男の転がし方を尋ねてどうする。
【なぜ悪女……】
困惑しきったティレルの呟きへの反応は、『神楽姫』よりもヘタレ王子の方が激烈だった。
「――すいませんごめんなさいお願いだから勘違いしないでっ?!!
エマは悪くないって言うか、むしろ引きこもりの世間知らずで被害者なんですっ!!!
……うちの義姉さんが、ちょっと大分ものすごく性格悪くて、エマにヘンな本を貸し出したみたいでっ!!
義姉さん、敵に回らなくてもかなり性質の悪い愉快犯なところがあるから、エマにおかしな事を吹き込んで面白がっちゃってるだけなんですよ~~~~~っ!!!」
「エド兄様、ひどいですっ!!
サクリファス女公爵様は、お父様のご寵姫様方やお子様方よりも性根が歪んでいらっしゃいますけれど、わたくしをいじめた事なんかありませんっ!
――アレクサンドリアの為に、わたくしを最大限利用しようとなさっているだけですっ!!!」
泣きそうなヘタレ王子(ただし血塗れ怪談状態)の弁解に、これまた涙目で『神楽姫』が抗議した。
――とりあえず、ヘタレ王子の実兄である、アレクサンドリアの元王太子を婿にした女公爵は、とてつもない性悪女であるらしい。
リクの記憶が確かなら、王鞘の血統の分家筋だという、サクリファス公爵家の家紋は、咥えた剣に巻き付く白子の毒蛇の王であったはずだ。
毒を持ち狡猾さの象徴となる蛇は、誇り高き貴族を表す紋章にするには印象の悪い生き物だ。
それなのに、視線を以て獲物を死に至らしめる程の猛毒を有する、毒蛇の王をわざわざ家紋にする一族の当主が、まともな神経で務まる訳もなかろう。
ただ、ヘタレ王子にいくらヤバそうな義理の姉がいようとも、リクがやる気になるのは、不憫王子の冥福を祈ることぐらいだ。
アルトビャーノの王族共以上に厄介そうな人間になんぞ、リクは本気で関わりたくなどないのだ。
……そして、そんな女の入り婿に実の息子をあてがった、アレクサンドリアの現王の思惑なんて、首を突っ込めばろくなことになるまい。
面倒事はアルトビャーノだけ腹いっぱいなリクは、一瞬で思考を放棄した。
今は、生き延びてこの悪意の箱庭から脱出することだけを、考えるべきなのである。
当代の『殺戮の覇王』が魔物を殲滅している間に多少はましになったものの、先程の、魂を引き抜かれるような感覚から、リクはまだ回復しきってない。
まあ、大凶星が敵になっていないだけ、相棒に会う前に、祖父に腕を折られて魔物の巣に放り込まれた時よりは、最悪ではないのだ。
「要するに、俺を護衛として雇いたいってことだろう」
「そうなんですっ!!!
あと、エマはちょっとかわいそうな子だと思って下さると、とても助かりますっ!」
「え、エドにいさま~~~~~っ?!」
容赦のない従兄の台詞に、『神楽姫』が深く深く傷ついた顔をしているが、リクはヘタレ王子と同感だった。
こんなんでは、悪女になる前に、即行で攫われて、ドコかに売り飛ばされかねまい。
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