神楽姫は良い子になれない
何もかもが終わってしまった後で、無知は罪だと、嗤われた。
薔薇に擬態した毒蛇の王は、その血濡れた唇を歪め、赤銅色の瞳に混じり気のない嘲笑を浮かべていた。
だから、彼女は。
自分のせいではないという、従兄の優しい言葉に縋れなかった、幼き妖姫は。
――どうしようもなく、安堵、したのだ。
***
エマは、いい子になりたかった。
幾人もの寵姫や、腹違いの兄弟姉妹達と同じ様に、父に優しい笑顔を向けられたかった。
彼等が作る家族の輪の中に、母と一緒に入りたかった。
――それを望む事は、エマが産まれる前に手遅れになっていたなんて、知りもせず、悟ることもできずに。
弾き終えた時には、充足感しかなかった。
これで、父に褒めてもらえると、エマに演奏などできないと決めつけていた、腹違いの姉妹達と一緒に合奏が出来ると、それだけしか考えていなかった。
母の静止を振り切って、奏でたのは、つい先ほど耳にしたばかりの曲。
公国最高の奏者である『神楽御子』の、――それを弾きこなせる者だけが『神楽御子』を名乗る権利を有する――公国の守護結界の要たる神楽。
……天与の才を与えられた者が、数十年の研鑽を経て、それでも演奏できるかどうかも覚束ぬほどの難曲だ。
公国の上流階級では必須の教養である音楽の教育なぞ、一度もまともに受けていない、出来損ない扱いの公女の身で。
他の公女達の様に、父親である公王から、見合った楽器を与えられもしなかった、お飾りの公妃の娘の分際で。
身の程知らずの愚かなこどもの、耳障りな囀を、二度と聞かずに済むように、公王が課した条件だと、エマは気付きもしなかった。
だから、いつものように耳で覚えた神楽を、自分を呼び続けていた神琴で、聴き覚えた通りに弾き切った――完璧に、弾き切ってしまった。
それが。
守護結界の構成を、容易く書き換えてしまったことも理解できず。
当時『神楽御子』であった男の、たゆまぬ努力も、払い続けた代償も、積み重ねた矜持も、――存在意義すら踏みにじっていたことも分からずに。
母が目を塞いでくれたから、エマは目にすることだけは避けられた。
――気を違えた様に、己の命に等しい横笛を床に叩きつけて壊してしまった『神楽御子』が、自らの首を掻き切る光景を。
けれど。
砕けた硝子が肉を裂く、鈍い音で。
噴き出た鮮血の、鉄錆の臭いで。
そんなものにはまるで慣れていない、『双子剣姫』の二つ名を有する母を、野蛮だと馬鹿にしてきた人々の絶叫で。
何よりも。
――この子に、貴様の下らない誇りを押し付けるなっ!!!
母の、悲鳴じみた怒声で。
エマは、自分が取り返しのつかないことを引き起こしてしまったと、悟らずにはいられなかった。
◆◆◆
アレクサンドリアに来てから、慣れずにはいられなかった濃密な血臭が鼻につく。
冷たく硬い地面に座り込んだまま、エマは、エド兄様の背を見上げることしかできなかった。
温かく、母と同じように柔らかさのない掌が、定義付けられぬ元型の神器を振るう。
無造作に、何気なく、当たり前の様に。
――魔物が死んで、死んで、死んでいく。
それは、別に驚くことではない。
優しい従兄が、魔物の死体を量産していくことに、エマは何の疑問も恐怖も感じない。
だって、当然ことなのだ。
アレクサンドリア王家は、大凶星たる『殺戮の覇王』を宿星とするが、大凶星そのものではない。
大凶星を宿星としていても、伯父をはじめとする歴代の王の殆どは、仮初の覇王にすぎない。
それでも、アレクサンドリア王家が多くの国から畏れられ、厭われるのは、本物が産まれるからだ。
アレクサンドリア数百年、数十代に渡る歴史の中で該当するのは、初代を筆頭としたほんの数名のみ。
征く道に死体を積み上げ、悲劇をまき散らす、真正の『殺戮の覇王』。
――その当代が、今、エマの目の前にいる。
だから、大丈夫なのだろう。
エド兄様なら、敵を殺して、全部殺して、エマを護ってくれる。
エマは、情けなさに唇を噛み締めた。
エマは、知っているのに。
歴代の『殺戮の覇王』の中の誰よりも、純粋に殺戮に特化したエド兄様は、ろくな手加減もできずに、殺すしかない自分が大嫌いなのに。
ほんとうに、誰にも死んでほしくないと、叶わなくても願っているのに。
――殺すことが一番得意な『殺戮の覇王』に、敵を全部押し付けて、敵を全て殺させて、アレクサンドリアの民は生き延びてきた。
確かに、アレクサンドリアは『悪の王国』だ。
人の良い『殺戮の覇王』を幾人も使い潰して、己が身を護り続けた民なぞ、善人に分類できる訳がない。
もちろん、今、座り込んでいるだけのエマだってそうだ。
……悪女になると決めたのに、結局、エド兄様に大嫌いなことをさせている。
けれど、今、エマに出来るのは、何もしない事だけだった。
アレクサンドリア王家の人間は、割と得意不得意が極端に偏りやすい。
エド兄様も主な能力が殺戮方面に振り分けられているせいで、よく仕事が終わらないと泣いているが、残念ながら、エマも楽を奏でるしか能が無いのだ。
エマの場合、特に運動神経が壊滅的で、公国では、淑女の基本技能である舞踏が習得できずに、散々馬鹿にされたものである。
迂闊に呪楽でも奏でれば、どこかの誰かの悪意の標的がエマに切り替わり、エド兄様の負担を増やすことになる。
エマは、自分の身を自分で護ることも覚束ないから。
自分の無力に泣きたくなって、でも、エマに泣く資格などありはしない。
エド兄様に甘えて、頼り切って、この状況を打破できる何かを得る努力を怠っていたのは、他でもないエマ自身だ。
それでも出来ることを探したエマの目に、血の滲む黄昏色の髪が映る。
エマ達の業に巻き込んでしまった青年は、まだ顔色が悪かった。
綺麗な空の蒼を湛えた瞳は、厳しさを帯びてエド兄様の背に向けられている。
そして、今更ながらに気が付いた。
この青年は、恐ろしいと思わない。
いきなり暗い場所に強制転移させられたため、混乱して護身用のクマさんを抱えていたが、エマが感じていた恐怖は、青年に対するものではない。
目の前の青年が恐ろしくない理由は、分からない。
けれど、多分、エマに対する感情が何であれ、リクと言う名の赤毛の青年は、嘘だけは吐かないだろうと思う。
少なくとも、偽りを厭う真竜と信頼関係を結んでいるなら、エマが青年の禁域に踏み込まない限り、彼がエマに理不尽なことをする理由がない。
エマは、右手に嵌めた指輪をぎゅっと握り締めた。
交渉は、出来るだろうか?
青年を巻き込んでしまったのは、エマ達の方だけれど、エド兄様が戦えなくなってしまったら、身の危険に晒されるのは彼も同じだ。
戦える、人なのだろう。
何となく、魔物との攻防に、エド兄様の首を刎ねることを赦された王鞘と、似たものを感じたので。
エマはそろそろと立ち上がり、おっかなびっくり青年の方へとにじり寄る。
赤の他人に自分から近づいたのは、一体何年ぶりだろうか。
声を掛ける前に自分へと向けられた蒼穹の瞳に、鼓動が早まる。
――知らない人に何と言えばいいのだろう?
対人恐怖症の上に、何年も引き籠っていたエマは、交渉以前に対人関係構築の為の能力が著しく減退していた。
まあ、元々高い訳でもなかったが。
「――あの、貴方を買わせてくださいませっ!!」
「ちょっと待って、エマっ?!!!
何でそうなっちゃうのっっっ?!!!!!」
ちょっと悪女っぽい台詞と共に、持っていた指輪を青年に差し出したエマに、魔物達を皆殺しにしていたエド兄様が、驚愕の声を上げた。
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