竜剣の忌み子は、妖姫になんて関わりたくない
――もし。
もしも、何かが違っていたら。
時折夢見る追憶の中、いつもリクは自問する。
――根を張り巡らしていた悪意に、もっと早く気付いていれば。
――自分の拙い占術が示した予兆の意味を、もっと深く考えていれば。
――そもそも、リクが生まれてさえ、生き延びてさえ、いなければ。
ああ、もう、無理だ、と。
理解した時には、身体が勝手に動いていた。
剣から伝わった掌の感触に、己の頬に散った、血潮ではなくなりかけた液体に、ただ、最後の一線だけは、護ることが出来たと知った。
……でも、リクに出来たことは、本当にそれだけで。
驚愕と苦痛が、安堵に変わるのを、見て。
その死に顔が、まだ、ひとのままの、穏やかなものであることを見届けて。
厭わしく感じて当然であったろう存在のリクを、それでも、大事にしてくれた大叔母と大叔父。
呪詛に侵され、人に非ざるモノに変質しかけた二人を切り捨てたことに対して、リクは未だに後悔の念が湧いてこない。
だから。
――元から頭のとち狂っている祖父と、妹の忘れ形見としてリクを認識している伯父が、リクの所業を責めたことは、一度たりともないけれど。
忌み子、と。
母の命と引き換えに生まれ落ちたリクが、母方の親族を含めた周囲から、さらに厭われるようになったのは、当然だろう。
自分が忌むべき類の人間であることを、リクは当たり前の様に受け入れた。
リク自身、確かにそうだと思ったから。
本当に、後悔など、出来なかったのだ。
大好きだった二人が、変わり果ててしまう前に殺してやる事しか、その時、リクに出来たことは無く。
あの時、あの場所に、大叔母と大叔父を蝕んだ呪詛をどうにかできただろう、聖人も聖女も、いなかったから。
それでも、変えられぬ過去を映した夢の中、リクはいつだって、誰かに虚しい答えを乞うている。
一体、何が、違っていたら。
……決定的な破綻の前に、自分が、何をしていたのなら。
――あの人達は、まともな死に方が出来たのだろうか。
◆◆◆
たしんっ、と、小さな肉球が、古惚けたテーブルを叩く。
赤みを帯びた黒い瞳は、リクが片手で振る棒の先で、ひょこひょこと揺れ動く毛の塊に釘付けになったままだ。
そして、忙しなく動く瞳と連動するように、黒い横縞を有した、真珠色の長い尾が縦横無尽に振り回されている。
なぜか勝手にリクの周りをうろつき、ついでにリクの家に住み着いてしまった、猫型魔獣ことシロは、こうしていると本当にただの猫と大差ない。
鋭い音と共に、身体の割に太い前脚が空を切る。
今度は、非常に惜しいところで、シロの猫パンチは空振りに終わってしまった。
それでさらにムキになったのか、シロは奇声を上げながら、ますます集中して毛玉に狙いを定めた。
――ちなみに、あまり焦らし過ぎると、今は成猫程度の大きさのシロが、大の大人よりも大きくなって、リクに襲い掛かってきたりする。
故に、シロで遊ぶときは、その辺りの匙加減が必須であった。
付け加えると、祖父曰く、自らの肉体を自由に変化させる能力があるのは、不定形の魔物を除くと、最高位魔獣たる《原初の魔》ぐらい、らしい。
が、リクにとっては、シロが何だろうとどうでも良いから、そんな確認なんぞしたこともないし、シロの高位魔獣らしい一面を見た覚えもない。
だからきっと、シロは、猫型魔獣の突然変異か何かなのだろう。
リク自作の玩具に、夢中になっているシロをじゃらしながら、彼は投げやりに呟いた。
「……『妖姫』エルザマリア、ねぇ」
「リク、今はアレクサンドリアの『神楽姫』だ。
『神楽姫』っ!」
板が軋む床の上に書類を散らかし、頭を抱えていた伯父が、リクの言葉を訂正する。
正直、『妖姫』でも『神楽姫』でも、リクは興味ないのだが。
「……おっさん、下らない作戦なんか立てるより、自分の心配でもしとけよ」
「可愛い甥っ子を心配して何が悪いっ!
それに、『アレクサンドリアの悪鬼』の暗殺よりは、『神楽姫』を口説き落とす方がまだ目があるだろうがっ!!」
呆れ返った顔のリクに、伯父が真顔で怒鳴り返してきた。
実の妹の命を喰らって生まれ落ちた様な甥を、真剣に案じる伯父の心は有り難いとは思うけれども。
リクは、やる気のなさを垂れ流しながら、伯父に向かって空いた片手を振る。
「おっさん、血族殺しの忌み子が、『教会』が欲しがってる聖女候補の夫になって、どうしろって?
どうせ、『教会』の上層部もあいつらと大差ないだろうが。
――どの道、殺す理由を擦り付けられて、死ぬだけだっ――つっ?!」
伯父に向かって振っていた腕に強烈な衝撃が走り、リクは思わず声を上げた。
怪我をさせない程度に威力は抑えているものの、リクは魔法によって攻撃を受けたのだ。
祖父のお陰で、リクはそれなりに痛みへの耐性は有していたが、その魔法は絶妙にリクの痛覚を刺激するものであった。
「何しやがる、ティレルっ!!」
【リク】
リクが、この場で唯一魔法が扱える相棒を怒鳴りつければ、彼の頭の中に、微かに雑音が混じる、薄布越しに聞こえる様な声が響く。
ティレル――ティレルファードの、半ば透けた、小竜の姿を映した幻影は、その青みを帯びた銀灰の瞳を不機嫌そうに細めた。
【ぬしを心配してくれている伯父御に、その態度は無いだろう】
「事実を言って、何が悪い」
シロじゃらしを中断した、リクの腕にしがみ付く様にして彼を見上げてくる、薄い灰色の小竜へ、リクは鼻を鳴らして吐き捨てる。
『天上の青』と評される、リクの高く晴れ渡る蒼穹の瞳に、冷ややかな色が浮かんだ。
――『天上の青』とは、とある血統に特有の、瞳の色彩を指す言葉である。
かつて、空の蒼を映した美しい瞳の色と、遠見の異能故に、時の権力者達に狩りつくされた、流浪の氏族が存在した。
『遠見の蒼穹』と呼ばれたその一族は、文化も尊厳も根こそぎ絶え果て、今は僅かばかりの伝承や、古い書物の中にその名残を残すばかりだ。
ただ、その血だけは細く、薄く、未だに残り、極稀に存在を主張する。
祖母にとっても、母にとっても、先祖返りとして浮かび上がった彼の一族の血は、ただただ厄を招くものでしか、無かったのであろう。
滅びた氏族の、稀有な容姿故に――その、無二の色彩のせいで、祖母は双眸を抉られ、母は、珍しい愛玩動物として権力者に弄ばれた。
――現王とその取り巻き達に玩具にされた結果、母が孕んだのがリクだ。
そして、権力者たちに攫われた娘を取り戻す為に、祖父が盛大にやらかしたせいもあり、リクの存在は、この国の上層部の黒歴史そのものになっている。
だから、本来ならば、――祖父が、『アルトビャーノの鬼神』との二つ名を得る程の強者でなければ、リクは、伯父さえも巻き込んで、『処分』されてもおかしくはなかった。
だがしかし、リクは、童顔の舐められやすい容姿であろうと、祖父から殺意を確信する修業を受けさせられたせいで、相応の実力を有している。
そして、相棒の意識が宿る『竜剣』もまた、リクの生存能力の向上に一役買っていた。
また、自分達に地獄を見せつけた『アルトビャーノの鬼神』やその孫に、暗殺者を送り付ける度胸も、現王やその側近達にはなかったらしい。
幸いなのか、何なのか、生まれてこの方、リクは暗殺者らしき人間に遭遇したことは無い。
けれども本当は、リクの父親かもしれない人間達は、目障りなものに、一刻も早く目の前から消えてほしかったのだろう。
――事の発端は、お隣の大陸の、悪名高い王国の姫君が、聖女となり得る能力を有していたことが発覚したことだ。
『妖姫』エルザマリア。
かつて、攻め込んできた数十万の兵を、文字通り灰燼に帰した『残虐王』を輩出し、『聖戦』の折には、数万に及ぶ『聖王』の軍を殲滅したアレクサンドリア王家。
隣国のヴィエナ公国に輿入れした、現王の実妹より、『悪の王国』の王統の血を受け継いだ姫君は、公国に混乱をもたらした。
母子共々冷遇されていた姫君が有していたのは、公国最高の演奏者である『神楽御子』を自死に追いやり、実父の公王さえ狂わせる程の、音楽の才。
その演奏の難度により、弾きこなせる者が少ない呪楽を、易々と奏でる姫君は、呪楽を以て、並の聖職者には祓えぬ呪詛の浄化すらやってのけたのだ。
母方の実家であるアレクサンドリアによって阻止されたものの、公妃の子を実子と認めぬ公王が、近親婚の禁を犯しかけたが為に、彼女は『妖姫』で。
楽神に魅入られたが如き奏者の才故に、彼女は『神楽姫』と謳われる。
そして、リクとは無縁だったはずの『悪の王国』の姫君は、彼女自身も知ることなく、彼に死ぬ理由をもたらした。
「――よりにもよって、『アレクサンドリアの悪鬼』が相手だぞ。
あいつらに、俺が死ぬ以外の何を期待されていると思うんだよ」
表向きは、『教会』が主催する、いわくが満載な聖女候補の婿探しに赴く、自国の王子の護衛が、リクに押し付けられた王命だ。
それにかこつけて、『近寄るな、危険』が合言葉な、お隣の大陸有数の危険物の暗殺命令なぞ出された日には、最早呆れを通り越して、笑うしかない。
歴代の悪鬼の所業を鑑みれば、下手をしなくても返り討ちになる可能性が高く、例え暗殺に成功したところで、リクの処刑台行きは確定だろうに。
ちなみに、リクの暗殺対象の主君は、唯一自慢できるのが逃げ足の速さという、王侯貴族に夢を持たないリクも驚愕した、へっぽこ野郎であるらしい。
元から『ヘタレ眼鏡』が渾名な国王の次男に、『悪の王国』で起こった内乱寸前の事件のせいで、突然王太子の地位が転がり落ちてきたのだ。
生まれ持った能力と性格に、未だに地位が釣り合っていない彼の王太子は、何かある度に、べそをかきかき己の忠臣になんとかしてもらっているとか、いないとか。
……そんな彼を、アレクサンドリアの民は、『不憫王子』と呼んでいる模様である。
故に、この国の上層部にしてみれば、第一の忠臣さえいなくなれば、『悪の王国』などどうにでもできる、と言う腹なのだろう。
【リク、なぜ、ぬしがあの馬鹿共の期待に沿う必要がある。
……もう、見捨てても、責められはしまい】
相棒の気遣うような言葉に、リクは、口の端に自嘲を滲ませる。
「――どこに行っても、同じだろうが」
他者への期待を投げ捨てて久しい、干乾びたリクの声に、ヒトでない相棒の方が、どこか痛まし気に目を伏せる。
そして、全く空気を読まず、もっと遊べと、前脚でぺしぺしとリクの腕を叩いてくるシロの首根っこを引っ掴み、彼はぺいっと、伯父の方へ放り投げた。
リクとは違い、戦闘の心得に乏しい伯父は、胸にシロの直撃を受けて呻く。
「俺はティレルと適当にやってくるから、おっさんの方こそ気を付けろよ。
何かあれば、シロに乗って逃げときゃいい」
身体の大きさを自由に変えられるシロは、乗り物として意外に優秀だ。
シロは他の魔物の居場所が分かるらしく、リクは、シロに乗っている時、他の魔物に遭遇したことが無いのである。
「リク」
物言いたげな伯父を遮るようにして、祖父がリクを呼ぶ。
居間に繋がった台所の土間に座り込み、黙々と鈍色の蛇腹剣の手入れをしていた祖父の、子にも孫にも引き継がれなかった黒い瞳が、リクを見据えていた。
「――もし、お前が、アレクサンドリアの姫君の御前に赴く事があれば」
必要と判断すれば、貴族さえぶん殴る祖父が、他人に対して敬称やら敬語やらを使用するのを、リクは初めて聞いた気がする。
実の孫に実質的な死刑宣告が出たにもかかわらず、平然のしたままの『アルトビャーノの鬼神』様は、どこか、物憂げに言葉を続けた。
「……もし、彼の御方が、正気でいられないようなら、――万が一、死を望んでいらっしゃっていたのなら」
この国で産まれた、父親違いの弟妹を訪ねてくるまでの、自らの過去を語らぬ祖父が知ることを、リクは知らない。
ふと、リクの脳裏に、二つの影が揺れる。
誰かの声であろう音は、不鮮明過ぎて、何を言っているのか聞き取れやしない。
血が滲む黄昏色に変じた蒼穹の瞳と、変わることない漆黒の瞳が交わる。
リクが忌まわれる理由の一つである異能も、なぜだか、祖父では異様に効きが悪い。
――彼の父親違いの弟妹を、救った時の様に。
「弑して、差し上げろ」
気を違えた様な台詞は、酷く重く響いた。
あまりに馬鹿馬鹿しい言葉に、リクは、祖父を二度見する。
……だが、リクと同じ童顔を隠すために、白くなった髭を蓄えた祖父の顔も、その深々と黒い眼差しも、冗談を言うものではない。
リクは思わず、眉を顰めた。
一体どうして、リクの暗殺対象を『アレクサンドリアの悪鬼』から、『神楽姫』に変更しなければいけないのだ。
――まあ、暗殺対象を変更しようと、さらに言えば、暗殺が成功しようとしまいと、リクの経歴はとっくの昔に詰んでいる訳だが。
きっと、理由はあるのだろう。
他人との埋められぬ齟齬故に、魔物が蠢く竜穴の外縁に、妻子共々住み着かざるを得なかった、『アルトビャーノの鬼神』なりの理由が。
「……ジジイ、どういう――どわぁっ?!」
一向に遊んでくれないリクへの不満を爆発させたシロが、巨大化してリクに圧し掛かってきた。
普段、リクの気晴らしにしか役に立ってなかろうと、シロは腐っても魔獣であった。
こうして、巨大化の上で圧し掛かられると、リクがシロから逃れるのは厳しい。
そして、むにっと、リクの顔面に巨大な肉球が押し付けられる。
「止めろシロっ!!
――肉球は、息が出来なくなるんだよっ!!」
リクが、全力で肉球を押しのけようとするも、魔物の残酷を以て、シロは構ってくれなかったリクへの報復の手を緩めない。
結局、リクは、シロの気が済むまで、肉球ムニムニの刑に処される羽目になった。
――彼は、言わない。
だから、リクも知らない。
なぜ、『アレクサンドリアの悪鬼』が継承する称号が、剣でも盾でもなく、王の鞘であるのか。
その、理由を。
どうして、主君殺しすら行う気狂いの一族の当主を、『悪の王国』の王が、第一の忠臣として遇するのか。
その、訳を。
……逃れられないのならば、向き合うしか、無いのだろう。
愛魔描(?)にモフられる孫と、自分の言葉の意味を咀嚼しようと試みる息子を放置して、彼は、己の得物の手入れに没頭し始めた。
◆◆◆
――運命、と。
巷に溢れる陳腐な言葉は、だが、リクは大嫌いだ。
全てに意味があるのなら、そんなものには、唾を吐きかけるだけだ。
理不尽と偶然の理由には、そんな言葉はあまりにも軽すぎる。
「――おい、大丈夫か?」
庭園の隅で蹲っていた少女に、リクが声を掛けたのは、放っておいたのを他人に知られた方が面倒だと判断したからだ。
生地の質からして、リクが身に着けているものとは大違いの衣装を纏った肩が、びくりと震える。
あ、駄目な方だったか、と、げんなりしたリクの息が、知らず、止まる。
おずおずとリクを見上げてくる面は、今まで見たことがない程に、繊細で儚げで、水面に揺れる手の届かない花を想わせた。
濃いめの茶色としか形容できない髪と目の色は、いたって地味だが、瞬いた長い睫毛から零れた雫が、妙に映えていた。
ぎゅっ、と、胸の辺りで両手を握りしめる仕草は、なぜか小動物を連想させる。
怯えの色が残る双眸に、しかし、リクへの嫌悪はない。
「――あの、どなた様ですか?」
途方に暮れたような声は、澄み切った清流のせせらぎに似て。
そこで、リクはようやく、自分がまともに呼吸をしていなかったことに気付く。
――『反転する宿命』、或いは、『定められた縁』。
なぜ、自分の記憶の底から、占術の手解きを受けた老婆の声が浮かんできたのか、リクには分からない。
と、――
足音はしない。
だが、空気が動いた。
「――エマ~~~~~~~~~っ!!!
見つけた~~~~~~~~~~~~~~~~っっ!!!」
世にも情けない、半べそな青年の声にリクは脱力し、拙くとも、占術者が読み取った予兆は、綺麗に彼の頭から吹き飛んだ。
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