そして亡き竜は爪をたてる
エド兄様がひどい。
父の寵姫達や、その子供たちほどではないにしろ、いじわるだ。
従兄のちょっとかわいそうな子断定に、エマは傷つき、涙目で胸を押さえる。
エマは、ちょっとかわいそうな子ではないのだ。
悪女になって、いじめられなくなって、頑張って殿方を転がせるようになるのである。
今現在は、少々、だいぶ――完全に、足手まといだけれども。
結局、魔物の群れを退けているのも、目の前の青年と護衛の交渉をしたのも、エド兄様だったから。
ままならない現実に、エマはしょんぼりと肩を落とした。
帰ったら、サクリファス女公爵様に悪女の心得について、教えを乞わないと。
ギルバート様が手に入らねば、アレクサンドリアを滅ぼしてのけただろう、完璧悪女のようになるまで、道は遥か彼方だ。
某ふびん王子が聞けば、エマほんとうにやめてっ! 義姉さんは一人で充分だよっ!! と、悲鳴を上げただろうエマの決意は、近づいてくる気配に吹き飛ぶ。
視界に入った武骨な革靴に、びくりと顔を上げれば、エマの目に映ったのは、血が滲む黄昏の赤と高い高い天上の青。
エド兄様より年下に見える青年の頭上では、朧で確かなちいさな竜が、エマの方に身を乗り出している。
なんだか可愛い。
のんきにもそんな事を思っていたから、エマは、自分に伸ばされた手への反応が遅れた。
「もらうぞ」
掴まれたのは、エマが常に身に着けている首飾りに嵌め込んだ、紅の貴石。
エマを護るために、アレクサンドリアの地神が創ってくれた、特別な魔石。
何をされるのか、エマが認識する前に、見た目に反し強靭なはずの華奢な鎖が、ぶちりと切れた。
「え」
エマの唇から、零れ落ちた声は何の意味もなさない。
青年は、当然のように、食べ物ではない――口にすれば、体内魔力が過剰になり身体を損ねかねない――魔石を、口に咥えた。
いつかの、王鞘と同じく。
それ自体武器に加工されることもある、高純度の魔力の結晶が、あっけなく、噛み砕かれて。
ふわりと、死に続ける魔物の血臭に侵された空気を、唐突に香った芳香が押しのけた。
甘く、甘い、けれど涼やかな薫香。
花の香に似て、でも、花のそれではない。
……エマの、大嫌いなにおい。
ざっと、エマの顔から血の気が引く。
咄嗟に、エマは自分の首の後ろを手で押さえたが、そんな事では香りを消せない。
エマは、ひゅっと、息を吸い込む。
それ以外できず、目の前のおとこから、目を逸らして顔を俯けた。
違う。
もう思い出さないようにどこかに押しやったはずの、昏い部屋や父の手が、脳裏にちらつき、エマの喉が干上がる。
ちがうちがうちがう――。
わたくしは、さそっていない。
そんなこと、していないのぞんでいないやりたくもない。
わたくしはよいこではないけれどわるいこだからみんなとおなじようにできなくていっしょにいたかったしわらいかけてほしくてがんばってがんばれなくてだけどやってしまって――
でもそれでも
ちがうの
【姫君は、花妖の民の末か。
――なるほど、それでこその『妖姫』だったか……】
溜息の様な小竜の思念に、エマは、胸の前で両手を握りしめ、肩を震わせる。
――アレクサンドリア王家は、混血の家系だ。
アレクサンドリアに住まう、あらゆる種族と子を生してきたゆえに、畜生の血筋とも揶揄される。
現王である伯父が迎えた花嫁は――エド兄様の母君こそ、人族だったけれど、アレクサンドリア王家の家系図には、さまざまな種族が並んでいるのだ。
現に、エマ達の祖父――先王の王配は、魔族である紅雷の民で、エド兄様の一つ前の『殺戮の覇王』の妻は、昆虫めいた特徴を具える幻虹蝶。
――遡れば、亡き竜に指摘された、花妖の民の血も取り入れて。
だから、エマは、首の後ろの根元に、遠い祖である花妖の民の生体器官を有している。
――でも、ただそれだけ。
魔族の生体器官が支える、血によって伝えられるはずの血統魔法を、しかしエマは扱えない。
魔力こそ、魔法に秀でた種族である祖父と同等の量を保有していたが、それを魔法に用いるための才能が、エマには欠如していた。
そして、世界の魔力たる魔素を使用する呪楽に、奏者の魔力は必要ない。
ようやくエマの魔力が役に立ったのは、伯父の親友から贈られた魔道人形である、クマさんの動力源としてだ。
エマ自身、自分で哀しくなるほどの、宝の持ち腐れである。
元々、アレクサンドリアの血統は人族寄りの形質で、混ぜ続けた他種族の血が、奇妙なくらいに表に出ない。
先祖返りがあったところで、大体はエマのように断片的だ。
――けれど、その遠い血の断片が、エマやヴィエナ公国に、不幸を招いた。
花妖の民の生体器官が生成する芳香は――血統魔法の触媒になる物質は、……効果の高い媚薬の主原料だったのだ。
ただ、なにが、実の父を狂わせてしまったのか、エマはまだ、考えをまとめきれていない。
初潮を過ぎたエマが纏いだしていた、媚薬の元か。
それとも、父が持つことが出来ず、寵姫達や我が子に求めた奏者の才か。
……ほんとうは、求める楽才の無い母を、父は愛したかったのか、否か。
不意に、凍り付いたエマの頭を、くしゃりと、武骨な手がかき回す。
エド兄様に似た、でも、もっと荒削りな手。
その手の持ち主は、エマの芳香を嗅いでなお、父や家族以外の殿方のように、獣の欲に塗れてはいない。
今は青年の髪と同じ黄昏色に染まる、蒼穹を封じ込めていたはずの瞳が、エマと、エマではないところを見て、揺れた。
「悪かったよ、大事なものを壊して」
瞬けば、エマの睫毛が、雫を弾いた。
身内以外から自分に向けられた謝罪の言葉を、エマはろくに聞いたことがない。
これは、目の前の殿方を、上手く転がせた結果なのだろうか。
後に、従兄や伯父、当の青年に頭を抱えさせることになる誤判断を、エマは正しいものとして認識してしまった。
自分だって、やれば、きちんと悪女ができるのだ。
ちょっぴり自信のついたエマの手をとり、青年――リク、という人は、何かひんやりとして硬いものを押し付けてきた。
エマの掌の上に載せられたのは、天上の青を写し取った貴石が美しい、首飾りだ。
なぜか、台座の一部の紋様が削りとられているのが、不思議とエマの印象に残った。
「護衛の担保だ。
……頼むからなくすなよ、――お袋の形見だから」
ばつの悪そうなリクに、エマはハッとなる。
「前払いです」
エマは、いそいそと彼に渡すつもりだった指輪を差し出す。
エド兄様の助けにもなるのだから、指輪を用意してくれた亡き王妃も、こうしたところで怒りはしないだろう。
リクはふっと笑い、エマの指輪を懐にしまった。
よく知らない殿方であるが、リクの笑顔を、エマは恐ろしいと感じない。
【――リク、いいのか?】
「お前と俺となら、問題ないだろう、ティレル」
なにかを窺うような竜の残滓に、リクは力のある声で答える。
一人と一頭のやり取りは、エマに、エド兄様と彼の忠臣の会話を連想させた。
そうして、どこからともなく現れたのは、青年の剣。
刀剣の類には疎くとも、丁寧に仕上げられたと分かる装飾が、エマには何だか切なく思える。
エマが知りもしない作り手の望みと、当然のように武器として振るわれる現状が、異なる気がして。
エマを魔物達から庇うように、リクはエド兄様が殺戮を続ける方向に進みでる。
息を吸う。
息を吐く。
リクの呼吸の仕方に、エマは違和感を覚え、眉を顰めた。
どうして、リクの呼吸法が、王鞘のそれに重なるのだろう。
王鞘の、戦闘における肉体の運用方法は、ウェイン伯爵家独自のものだと、エド兄様に教えられたのに。
王鞘達の戦い方は、この世界に存在する唯一つの疵物の神域にて練られ、特化したものであるから、他とは違ってしまったのだと。
ゆるりと、青年の皮膚に、紅い光が滲みだす。
戦う術を持たぬエマは知らないが、それは、体内の魔力を運用する、気功術を突き詰めた果ての極致。
でも、歴代の王鞘達は、それに名前を付けなかった。
――それが出来て、当然だから。
紅く染まる青年の頭上で、ちいさな竜の幻影がぶれた。
リクが、手にした剣を地面に突き立てる。
【リク】
「ああ」
エマの周囲の景色が、銀灰に霞む。
仮初に創造された空間そのものが、たわんだ。
亡き竜の咆哮は、疵物の神域の主たる地竜のものより低い。
半透明の爪が、地面に長々と傷痕を残す。
エド兄様の周囲から、怯えた様に魔物達が散開し、こちらを振り返った、エマと同じ色の瞳が見張られる。
天から堕とされ、地に縛られ、それでも奪われなかった威をもって、今は亡き竜の本来の姿が顕現を果たす。
地を這う獣の悪意など歯牙にもかけず、もはや宙を駆けることが叶わぬ翼をなおも広げ。
――とうの昔に死した竜は、終わりの始まりを、高らかに告げた。
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