アイツは今日から 二
運命じみた出会いから一年とちょっとが経ち、悶々とした日々を過ごし堪え忍んでいた俺こと宝田稔は、先日ついに清隆と結ばれる糸口を掴むことができた。
「実はな、朝起きたら女の子になってしまっていたんだ」
これまで目の前に浮かんでいた運命は、今日俺の手の元へ舞い降りたのだ。
ようやく訪れた我が世の春に浮かれてつい大袈裟なリアクションをとってしまったが、内心まったく驚いてなどいなかった。心臓はバクバク踊っているが、この状況は全て俺の想定内だ。
清隆は女になった。普通なら誰しも気味悪がったり、疑ったりするだろう。だが、俺は清隆を女にするにあたって“皆がそれを受け入れる”ように煙野郎へ頼んだ。これで清隆も他の奴らも、驚くことはあれど疑問を抱くことはないのだ。
授業中に覗き見る清隆の横顔は、いつにもまして愛らしいものだった。当の本人は普段より落ち着かないといった顔で俯いていたが、それもまたいじらしい。
楽しい時間はすぐ過ぎるもので、彼を眺めているだけで今日の授業は終わっていた。名残惜しい気もするが、今日はまだ月曜日。これから彼と毎日会えるというだけで心が弾む。いや、もう彼ではなく彼女だ。
そして、俺達には部活もある。
清隆は鞄を持ってそそくさと逃げ帰ろうとしていたが、俺が声をかけたらちゃんと着いてきてくれた。ぶつくさ言いながらもてこてこ着いてくる彼女を見ると、やはり素直ではないと思う。そんなところも好きなのだが。
「いらっしゃぁーい! 今日はまた一段と遅かったねぇ、道で草でも食ってたのかなぁ?」
部室に入るなり、デコメガネが喚いた。たしかにゆっくり歩いてはきたが、そう言われるまで遅くはないはずだ。
「ほうほうほうおてて繋いで重役出勤とはこれまた熱心なことで!」
部長がそう言うと、清隆はパッと手を離した。恥ずかしかったのだろう。できれば俺はずっと繋がっていたかったが、彼女がそう思うのなら仕方ない。
俺は右手に残った温もりを噛みしめながら、握り拳で椅子を引いた。
「テンションが高いですね、部長。なにか良いことでもあったのですか」
姿は多少変わっても、中身は清隆。いつものようにドライな態度で部長をあしらい、またいつものように部長が地団駄を踏む。
この時デコメガネはとても嫌味でうっとおしい。俺と清隆はお互いを心の支えとしているから耐えられるが、一年の時一緒だった他の奴らは皆辞めてしまった。清隆も話を聞き流してはいるが、心の目には涙を滲ませていることだろう。
「きちんと聞いているのかい、牧田くぅん?」
その時だ。部長が人差し指を清隆の右胸に突き立てたのだ。
何をしているのか一瞬思考が遅れたが、すぐに俺の体は怒りで満たされた。
何をしてくれているのか。拳を振り上げようとした瞬間、清隆は部長を平手打ちした。思いっきりぶったのだろう、彼の貧相な体はネズミのようによくとんだ。
清隆の顔は赤かった。怖かったのだろうし、単純に嫌でもあっただろう。俺が彼女を安心させるために彼女を抱き寄せると、トクリと小さな心臓の音が聞こえたような気がした。
「おぉふぉおんなぁ……」
訳の分からない嗚咽をあげる部長の姿はあまりにも哀れだったが、それ相応のことをしでかしたのだから仕方ない。
「僕は大丈夫だよ、宝田君」
清隆はほっとしたような顔をしたが、俺は少し心配だった。
今更だが、清隆はかなり可愛い。これまでは男だから変なことも起きなかったけれど、女になった今、彼女は危ないのではないだろうか。
まん丸とした瞳に適度に柔らかそうな体、気さくに話してくれる小柄な美少女なんてものがいたらどうだ。絶対勘違いする輩はいるだろう。
いけない、俺が守らねば。
決意に拳を震わせると、清隆がこちらを見ていることに気づいた。不意討ちでまっすぐ目が合わせるのはずるいと思う。これでは目を反らしてしまっても仕方がない。彼女が男であったころからその瞳に向き合うのは至難の業であったというのに、女の子になった今ならなおさらだ。
しかし、困ってしまう。清隆とは目を見ただけで意志疎通ができる仲だと自負しているが、これではアイコンタクトが不可能だ。
俺は深く悩んだ。
そういえば副部長も喋らないけれど、回りとコミュニケーションがとれている。あれはどうやっているのだろうか。
彼女を見ていても、時折ゆっくりとページをめくるだけで、それ以外は微動だにしない。まるで蝸牛のような人だ。
ぼうと牛歩で本を読み進める副部長を眺めていると、それなりに楽しかったが、やはり清隆を見ている方が有意義だった。
そう思って隣に目を移すと、先ほどまで部長となにやら言い争っていた清隆がプルプルしている。
「不安か、清隆」
「不安とは?」
彼女は強がりをした。女になったことを受け入れるようにしたとはいえ、そこから女としてどうやって生きていくかはわからない。怖いに決まっている。
「いきなり女の子になったら不安にもなるだろう。大丈夫だ、何かあったら俺が守ってやる」
俺は右拳を彼女の前に差し出した。少し臭い台詞だが、これが俺の本意だ。恥ずかしがることはない。
「えーと、どうもありがとう?」
「気にするな、親友じゃないか」
「そうだったのか」
清隆は少し首を傾げて、照れるようにそう言った。やはり、素直ではない。
・・・・・・
いつの間にか日は暮れていて、学校中に『蛍の光』が鳴り渡っていた。下校時刻だ。
先ほどまでぐでんとしていた清隆も元気になって、今日一番と思えるくらいの笑顔で鞄を肩に掛けている。
ああ、今日が終わってしまった。俺と彼女の家は反対方向にあり、帰り道にいっしょになるということがないのだ。
「牧田くん、ちょっといいかな」
せめて自転車置き場までは共に行こうと誘おうとした時、部長が清隆を呼び止めた。
どうやら、古本を売ってくる役目を彼女に押し付けようとしているらしい。古典部の予算は少なく、たまにいらない本を売ることで部費を賄っている。
以前顧問の向井先生に売った金を持ち逃げされてからは部長が直々(じきじき)に赴くようになっていたのだが、今日は何か行けない理由があるようだった。
可哀想に、清隆はため息をついて本を持ち上げた。彼女は以前から男としてはひ弱な部類ではあったが、この姿になってからはそれもひとしおのようだ。重みに耐えかねて体が揺れている。
「俺も手伝おうか」
「ありがたいが、遠慮しておくよ。君の家は反対方だろう」
彼女はそう強がって、ふんと背筋を伸ばした。まったく、なんていじらしいのだろう。
・・・・・・
家に帰った後も、俺はモヤモヤしていた。
やはり無理にでも清隆を手伝うべきだったのだ。そうすれば彼女も助かっただろうし、俺も彼女と過ごす時間が増えて嬉しい。
まったく後悔だらけだ。せっかく運命の気が俺に向いてきたというのに。
そもそも、俺は我が儘だ。清隆に頼まれてもいないのに、素直にしようとしたり女にしたり。本人がそう願ったならばともかく、俺の都合のいいように変えて。
慣れない体に振り回される彼女の姿が頭に浮かんだ。
何か彼女の力になれはしないだろうか。いや、また余計なお世話だろうか。
もうむやみに願いを叶えようとするのはやめよう。俺は清隆と共に歩んでゆきたいだけであって、彼女を自分好みにどうこうしたいわけではないのだ。
煙の彼には悪いが、あの箱はしまっておこう。
机の上を見ると、そこにあったはずの箱はなかった。
「えっ?」
ここに置いた気がしたが、間違いだっただろうか。
そう思って部屋中をひっくり返してみても、どこにも見当たらない。
母さんが掃除した時に片付けたのではと聞いてみたが、知らないと言う。 姉や父さんが知っているはずもない。
――煙の彼は、まるで夢であるかのように現れ、夢であったかのように消えてしまったのである。