今日から僕は
「俺の私のTS企画」とかいう素敵なものが見えたので、普段ROM専ですが参加させていただきました。
寝ていなくとも朝はやってくるように、かくも現実とは残酷なものであり、またその事実が現実を現実たらしめているのでございます。
しかし事実は小説より奇なりと言う通り、突拍子のない現実というのはいつだって突然に訪れるものなのです。何が言いたいのかと申しますと、私の目前の鏡に広がる姿形は現実とはとても思えないようなものでありまして。
「……僕に乳がついている」
かくして、天使の気まぐれか悪魔の悪戯か、僕こと牧田清隆は可憐な乙女に生まれかわったのでございます。
・・・・・・
再び瞳を閉ざしたくとも、今日はあいにくの月曜日。空は青く澄み渡り、絶好の登校日和でありました。しかしまぁ、どんよりとしたものを胸に抱えて、なれない重みを肩で背負う今の僕は、おそらくこの学校で一番の曇り顔をしていたでありましょう。
県立平中高等学校。僕の通うその場所は、伝統のある学校ではありますが、なんと言いますか中の下といった感じであり、騒がしい輩が多くてかなわんのです。思えば昨日も友人の宝田君が旧校舎で変なものを見つけたと部室ではしゃいでおりました。
時は九時前、場所は2-D。猿山のような声が渦巻くこの教室で、お猿さん達の視線はやはり僕に向いていました。
元より女々しい顔をしていると定評のある僕でありましたが、流石にこの体つきをごまかせるほど、彼らのおつむは悪くないようでした。多少の膨らみならば学生服で隠せると思いきや、教室に入った途端に向けられる懐疑の目。僕も作り笑顔でなんとか通そうとしたのですが、そうは問屋が卸してはくれず。
俯き姿勢をとっていると鈍感な西森君が
「どうしたマッキー元気ないぞぉ!」
と僕にひっついたあげく、
「なんかお前、胸でてない?」
と特大の爆弾を投下してくれたのでありました。
発言は見事教室の各グループに着弾、僕の心は大炎上。
ああ、なんてこったでございます。
ヒソヒソ話に聞こえないふりをしていると、宝田君が話しかけてきました。
「清隆、お前今日どうしたんだ」
持つべきものは部活の友。彼はどこぞの西森君とは違い、僕の様子がおかしいことを心配してくれているようでありました。
「言いたいけれど、ここじゃあ言えないんだ」
席を立ち廊下に手招くと、彼は怪訝な顔をしつつもついてきてくれました。
「なんだ、いったい」
「実はな、朝起きたら女になってしまっていたんだ」
「なにィー!? 朝起きたら女の子になっていただとォーッ!」
彼の声は2-Dはおろか、両隣のCとEにも響きわたり、聞きつけたお猿どもがなんじゃなんじゃと顔を出しました。僕は彼の頬に全力の右ストレートをお見舞いし、教室へ戻ろうとしましたが、いやはやこの年で耳年増といいますか、イナゴのような女子達に群がられたのでございます。
「女の子になったってどういうこと!?」
「やっぱり本当は女の子だったの?」
「宝田君にメス堕ちさせられたって本当!?」
ああ、なんてこったい。(3分24秒ぶり二回目)
こんな非現実、お年頃の少年少女からしたらそりゃあもう恰好の餌でごさいましょう。はたして作り笑いで乗りきれるのでありましょうか。
へらへらとした僕の服に、するりと手が差し込まれました。
「うひゃあ!」
一生の恥になりかねないような声をあげる僕を歯牙にもかけず、手の主であるクラスメイトの石田さんは僕の胸をひたすら揉みしだいたのです。
「……デカい!」
そこからはもうお祭り騒ぎでありました。我も我もと詰め寄る女子達に、制服のボタンを外され、脱がされ、揉まれ、あまつさえカッターシャツですら無理やり引き剥がされそうになったのです。世が世なら性的に乱暴されたと彼女らを訴えているでしょうが、今の世界で戸籍上男性である僕がわめいたところで、残念ながら司法は笑ってはくれませぬ。僕はひたすらに揉む彼女達の最渦中で、ひたすらに無我の境地を目指したのであります。
「待て待て、牧田くんがつぶれてしまう」
皆を制する良い声の主は、クラス一のナイスガイと僕が心の中で勝手に呼んでいる、学級委員の小森さんです。まぁ、ガイではなくガールなわけですが。
「すまなかったな、牧田くん」
白い歯を見せて微笑みかける彼女の姿は、間違いなく今の僕より、いや男であった時の僕よりも男前でありました。僕が身も心も乙女であったなら、クラスの阿保男どもよりきっと彼女に恋焦がれていたことでありましょう。
紳士的なエスコートにつられ席に戻ると、小森さんは小粋なウィンクとともに去っていきました。ああ、かっこいい。
ナイスガールに諭されて、イナゴの軍勢は瓦解してゆきました。ひとまずほっと一安心、といったところですが、まぁこれでこの話題が終息するはずもなく。
「おい牧田、女になったってマジなんか?」
「んなことありえるんか」
「マジで? チンコないの?」
一難去ってまた一難。今度は先ほどまでは女子に気圧され、周りてボソボソと話していた阿保どもであります。木島君、三原君、西森君の友達ってことでたまに話してるけど名前しらないヤツの三人に囲まれて、僕の心はうんざりの極みでありました。いつもは適当に適当な会話を連ねて場を流す僕でしたが、あいにくと今日の僕はいつもより多めにどんよりしております。
そもそも自分でも何故このような体になったのか理解が及んでいませんのに、こうもまわりから興味6割奇異4割の言葉を持ちかけられては、辟易するのも仕方のないことでございまして。
というかこの体になってからというもの、出会う男出会う男みな一様に視線を下げるのです。悲しきかな、男の性よ。しかしその目がどこに向けられているかは、向けられている側からすれば一目瞭然なのです。僕も見られていい気分ではありませんでしたが、まぁ揉ませてとならないぶん耳年増のオナゴどもより幾分かマシというものでございましょう。
喧騒を右耳から左耳へ流しているうちに、始業を告げるチャイムは鳴り渡りました。担任の鈴原先生が顔を見せると、猿の鳴き声も流石に雲散霧消。ようやく僕は解放されたのであります。
・・・・・・
キンコンカンと嬉しい響。本日最後の授業の終わりの鐘でございます。
普段より月曜日というものは一週間で最も疲れる時節でありますが、本日のお勤めは一層苦難を極めるものでありました。
誰彼構わずチラリチラリと向けてくる視線もさることながら、昨日まで友人と思っていた者達の態度の変化が存外心にくるもので、木島君に「なぁ、ちょっとでいいねん。おっぱい見せてくれへん?」と言われた時には思わず「うぇえええ」と物理的精神的にドン引いてしまったものです。
けれど、そんな苦痛ももう終わり。学校が僕を縛れる時間のはここまでなのです。
僕はルンルンと胸を弾ませながら、まとめた荷物を肩に掛けました。しかし浮き足立つ僕の体を、粗忽な腕が繋ぎとめたのでございます。
「何をするんだ、宝田君。僕は帰りたいのだ」
「部活をサボるつもりか、清隆」
何を言うかと思えば、この真面目チンは。少なくとも、一刻も早く一人きりになりたい今の僕が部活などというものに精を出すわけがないでありましょう。
僕はまた作り笑いを並べて、彼の腕を振り払おうとしました。
しかしどうしたことでしょう、振り払えないのであります。
おかしい、こんなことがあってはならない。自慢ではありませんが、僕はこと逃亡に関しては並々ならぬ技巧を所持していると自負しております。それこそ甲賀忍者のように、僕はするりと彼の握った手から抜け出せるはずであります。なのに何故でしょう、振っても振っても腕を抜くことはできません。彼の力が強くなったのか僕の力が弱くなったのかはわかりませぬが、彼は僕の左手を引っぱり引っぱり、部室へと連行していきました。
ああ、無慈悲。
そもそも僕と彼が日夜活動に勤しむ古典部は名目上は文学系でありますが、なんやかんやと理由をつけて東西へ走り回るので、実質ハイキング部のようでありました。なんとなく楽そうという理由でこの部に入った一年坊は、昨年の僕のように遺跡・図書館巡りその他学校の手伝いで魂をすり減らすことでしょう。
「いらっしゃぁーい! 今日はまた一段と遅かったねぇ、道で草でも食ってたのかなぁ?」
部室に入ると嫌味な顔が一番に目に入りました。古典部部長の十和田さんでございます。台詞の通り嫌味なのは顔以外もなので、皆には影でデコメガネと呼ばれて親しまれておりますが、ここに通う以上は彼と話すことは避けられないのであります。結果多くの学友が幽霊と化した後成仏し、ここに残る猛者はデコメガネを除くと副部長(名前を覚えていない)と宝田君、宝田君に連れられてくる僕の三人のみとなりました。
「ほうほうほうおてて繋いで重役出勤とはこれまた熱心なことで!」
「テンションが高いですね、部長。なにか良いことでもあったのですか」
「ケェーッ! 良いこと? いやはやおめでたいおめでたい、部員がこのまま五人未満だと廃部だって言われましたよ!」
「それは良いことですね」
「ケケェーッ!」
鶏のような声をあげ、部長は地団駄を踏みました。埃が舞うのでやめてほしいものであります。
「そ、も、そ、も! 今年の二年生諸君は一体どうなっているんだね! 一年の時こそ古典部はそこそこの部員数を有していたというのに、今となっては閑古鳥。チミ達のような不真面目クンでさえ繰り上がりでトップに成る始末ですよ!」
こうなると、部長はこの上なくうっとおしいのです。相原君、時田君、橋本君etcの同輩が次々この地から旅立っていったのも、おそらくはこのヒステリック・パニックに原因があることでしょう。
僕はいつものように脳内に好きなアニメソングを流してこの場を乗り切ろうとするわけですが、これまた厄介なことに部長はそうした相手の態度に人一倍敏感でありました。
「きちんと聞いているのかい、牧田くぅん?」
部長が人差し指を僕の右胸に突き立てました。それは僕が男であったならなんでもないパワー・ハラスメントでありますが、今この体の僕に至っては痴漢以外のなにものでもないのであります。
予想外の柔らかさにクエスチョンマークを浮かべる部長へ、僕はとりあえず平手を打ち込みました。部長の体は彼の器と同じように薄っぺらで軽く、軽くぶっただけでもよくとびます。それはもう軽くとぶのです。彼がぶたれる度に「あひん」とかいう気持ち悪い鳴き声を出さないのであれば、私どもは今頃部長をとばす遊びに夢中になっていたことでございましょう。
訳が分からないままに汚い床に倒れ伏す部長から庇うように、宝田君が僕の肩を掴み引っ張りました。確かに「おぉふぉおんなぁ……」などと訳の分からない嗚咽をあげる部長の姿は人が触れてはいけないような何かに見えますが、そこまで邪険に扱うのはいささか気が引けるというものです。
「僕は大丈夫だよ、宝田君」
部長の絡みに疲れると同時に、僕はどこか心の内で安心をしていました。この場所はいつもと変わらないのです。
いつも変わらず変な部長、いつも何かしらの小説を読んでいて活動に参加しない副部長、そしていつもと同じ態度の宝田君。いつもは一日の中で一番疲れる場所であった部活が、他の日常部分が非日常に侵されたことによって相対的にマシになったのでありましょうか。
まぁ、だからといってこの場所が楽しいというわけではございません。部長はアレでありますし、副部長はよく分かりませんし、宝田君とも元々それほど仲は良くないのであります。
僕は宝田君の顔を横目でちらりと覗きました。宝田君は一瞬目を合わせたあと、すぐに目を反らすのです。シャイボーイであるのか、そもそも彼はあまり口を開く方ではありません。これでは僕も彼に話かけづらいというものです。
「なぜ、私ははたかれたのかね?」
「人の胸に軽率に触ったからです」
「男の胸に触って何が悪い!」
気持ち悪い。
「心は男ですが、体は女なのですよ」
僕は渋り渋り学生服の前のボタンを外しました。カッターシャツに入りきらんばかりの膨らみを見て、部長もゴクリと唾を飲み、僕は再び平手を打ちました。
「女の子になったですと!? そ、そんなことありえない!」
「もうありえたから、ありえないことではないのですよ」
正直自分でも本当にありえたことなのかは疑わしいのですが、こうして頭の中ではっきりと物を考えられていること自体、この現実が夢ではないことの証明なのでありました。
――――そうなってしまったことは仕方がない、と受け入れている自分にも少し驚きではありますが。
部長はしばらく訝しげな目で僕を見ていましたが、いつものうざったらしい視線よりはまだ温いもの。教室の四面楚歌に比べたら春のそよ風のようであります。
「なぁんかあっさりしすぎと違うかな、キミ」
いい加減に喋りたくはないのですが、向こうから話しかけられたのであればしょうがありません。
「何がです?」
「普通はそんな非日常が起こったら、原因はなにか探るのではないかね?」
言われてみれば、確かにそうでありました。何故そこに思いが至らなかったのでしょう。まぁ、至ったところで性転換の心当たりなぞどこにあるのか見当もつきませぬ。
僕はまだ男であった昨晩のことを思い返しました。昨日は昼間に部室で居眠りをしていたおかげで夜は冴えており、サンデーナイトフィーバーに興じ、そのまま疲れて眠りこけたのでございます。最後に見た時計の太針が指していたのは4と3の間。朝起きるのが7:20なので、全然寝れていないではありませんか。どうりで瞼が重いはずです。お天道様が高みの見物を決め込む時間帯に机にふせった僕も悪いのですが、やはり許せないのは文化部だというのに休日に部活動をする古典部であります。かように無駄な時間を部に縛りつけることで、我々健全な青少年が不純異性交遊並びに青春もとい性春を過ごすことを阻止しているのでしょう。
おのれ部活動。このような仕打ちは許してはおけません。部活動という重しが僕にしがみついていなければ、きっと今頃は不特定多数の女学生と関係を持っていたはずであります。なのに、今の僕のこの姿はどうでしょう。女学生です。戸籍は男のままなので不特定女学生です。これも全て部活動のせいでございます。私は怒りに震えました。
「不安か、清隆」
プルプルしていると、隣で地蔵と化していた同輩が言葉を発しました。いきなり喋りだすとこちらも驚くので、少し予兆がほしいものです。
「不安とは?」
「いきなり女の子になったら不安にもなるだろう。大丈夫だ、何かあったら俺が守ってやる」
彼はそう言って右の拳を差し出しました。いきなり何を言っているのか、テンションについていくことは出来ませんでしたが、とりあえず彼が物欲しそうな目をしているので僕も右拳を合わせました。
「えーと、どうもありがとう?」
「気にするな、親友じゃないか」
「そうだったのか」
宝田君は一人満足気な顔で鼻を鳴らしました。
楽しくない時間というのは遅く流れるもので、ようやく部活終了の時間がやってまいりました。橙に薄紫の差す校舎に『蛍の光』のインストが響き渡ります。ああ、なんと心地の良いメロディでありましょうか。心なしかカバンを持つ手も軽くなっているようであります。
もうここにいなければならない道理はございません。何人たりとも僕が帰宅するのを止められはしないのです。
「牧田くん、ちょっといいかな」
よくはありませんが、無視をするのもよくありません。僕は作り笑顔で振り向きました。
「なんでしょう、部長」
「これ、頼める?」
彼の小汚ない指が差した先には、これまた小汚ない古本の束がありました。おそらく、僕にこれを持っていけということでしょう。古典部は部員の削減とともに予算も削れ続け、今はこうしていらない本を売ることで部計の足しにしているのです。こうもしてまでお金が必要な部活かはわかりませんが、きっと僕など考え及びもしない立派な浪費先があるのでございましょう。
「今日は部長が行くのではないのですね」
「残念ながら用事があってね。ちゃんと金は全額こちらに渡すんだよ」
部長はじとりと僕を睨み付けました。彼は僕が以前本を売ったお金でアイスを買ってしまったのをまだ根に持っているのです。確かにあの件は僕にも落ち度がありますが、あれはあの夏が余りにも暑かったこと、並びにそんな日に僕というか弱い人間に一人でおつかいを頼んだ部長にこそ責任があると私は思うのです。それに、アイス一つくらいなんでありましょうか。売ったお金を全て持ち逃げした顧問の向井先生よりは五十歩も百歩もマシであります。
僕はため息をついて本を持ち上げました。腕にずしりとのしかかる重みは、僕一人に仕事を押し付ける部長の罪の重みに比例しております。親切な宝田君は「俺も手伝おうか」と声をかけてくれましたが、彼の家は目的地の古物屋とは反対の方向。流石に彼にもこの業を背負わせるわけにはいきません。僕は涙を飲んで懇切丁寧にお断りを申し上げると、ふらりふらり本に揺られながら階段を下ってゆきました。
秋は夕暮れ、部長はばかもの。 自転車を漕ぎ始めて10メーターほどで気づいたのですが、この本は一人で運ぶにはいささか量が多すぎました。僕は普段からクラスのヤンキーを従える妄想をするほどの実力の持ち主でありますが、今のこの柔らかい体では、古本一つ相手どっても強敵でございます。どうして宝田君の助けを借りようとしなかったのか、十五分前の自分を叩きたい気分でありましたが、過ぎたことは仕方のないこと。後悔は切り捨ててこそ前に進めるのであります。僕は小さく雄叫びをあげました。
・・・・・・
埃が舞いカビの臭いが辺り一面に漂う、ここは古物屋ルークスペル。店名の意味は不明ですが、中身もこれまた意味不明でありました。
立派な歯を持つ兵隊の人形、怪しい玉手箱、金色に光る竹の節など、いらないものからいらないものまで何でも取り扱っているのです。さらにまた意味不明なことに、この店ではどんな変なものでもそこそこの値で買い取ってくれるのでありました。以前部長オリジナルの詩集が売れた時にはこちらも驚いたものです。
かようにいらないものばかりを循環させて、一体どうやって生計を立てているのか。甚だ疑問ではありますが、今日の目的はそれを知ることではございません。僕はさっさと用事を済ませて、この不思議空間からおさらばしたいのであります。
所狭しと並べられた商品は各々珍妙な存在感を発しており、威嚇するように此方を望むのです。ただでさえこちらは自由に歩けませんのに、こうも奇っ怪な細道では僕に当たれと言っているようなものです。もしやこうして商品に当たり屋の如く振る舞わせることによってこの店は回っているのでは、と不粋な勘繰りをしてしまいます。
古本を括った麻紐が指に食い込んでジンと痛みました。そういえば、こんな所で思い巡らせている暇はないのであります。僕は埃を吸わないよう小さく息を吸い込むと、窮鼠のごとく前に駆け出しました。
「店の中で走るな」
「あっすみません」
のっそりとした低い声。おそらくこの店の店主でありましょう、いかにもな無精髭を生やしたいかつい男性が僕を見ていました。
僕はへらへらと作り笑いを浮かべて道を踏み分けると、つい足元に注意散漫になってしまいました。床に布を敷いて置いてあった古びた茶釜に蹴躓き、僕の体はぐらりと傾きました。
ああ、まずい。倒れてしまっては、商品が僕の下敷きになってしまいます。このようなガラクタに値段をつけて売りさばくような闇市でドンガラに至ってしまえば、僕こと牧田清隆の運命はどうなってしまうのでしょう。きっとトンデモな弁償額を請求されるに違いありません。
まるで走馬灯のように、僕の頭に苦節16年間の記憶が流れていきました。思えばろくなことがなかったものです。特に平中高校に入学してしまったのが大いなる間違いでありました。僕が中学校までに獲得した友達総勢38人は皆々様別々の高校へ進学し、さらにこの高校で血の滲むような努力の末勝ち取った友人16名のうち二年生で同じクラスになれたのはたったの2名。神様が「友達の輪を広げよ」とおっしゃっているのか知りませんが、僕にとってはこの結果は糞食らえでございます。むしろ、神様に糞を食らわされた気分でありました。部活に関しても、仲の良くなった善良なる同輩諸兄は皆沈む船から逃げるように僕の元から去っていったのです。やはりここには部長である十和田さんが深く関係しているのであります。彼は諸悪の根源なのです。つまり、ここで僕が倒れ商品諸々を押し潰したところで僕に責任はないのであります。負債は全て彼に差し上げてしまいましょう。だって僕には非はないのですから。
巡る思い出が決意に置き換わっていった所で、僕の意識は現実に戻ったのであります。眼前に迫るのは赤い頭巾、煤けたランプ、片方だけのガラスの靴などの骨董品。もうすでにヘッドバットを決めることが分かりきった位置で、僕は痛みに備えて目を瞑りました。
するとどうでしょう。ふんじばることを諦めた僕の体が、崩れ倒れる直前で空中に繋ぎとめられたではありませんか。
「大丈夫ですか?」
なんと親切な何者かが僕の肩に手を掛けてくれたようなのです。日頃より神様仏様に願いを託している僕のことを、天は見ていてくれたのでしょう。やはり善良なる人間には救いは訪れるものなのでございます。
「ありがとうございます。助かりました」
「あれ、牧田くんじゃないか」
「その声と顔は小森さんじゃないですか」
なんとびっくり、まさかこのお店でボーイミーツガールするとは思いもよりませんでした。まるで少女漫画のような偶然の出会い、僕の頭にお花畑が生えていたら彼女に惚れてしまったことでしょう。しかし、見た目はアレですが僕は食べ盛りの男子高校生。お花よりたわわに実った果実に興味があるお年頃なのであります。僕は背筋を伸ばすと、毅然とした態度で彼女に向き合いました。
「こんなところで会うなんて奇遇だね」
彼女はいつもより少し気の緩んだ顔で笑いました。チェリーガールな僕は思わずドキリとしてしまいますが、それを顔に出さないのが僕の得意分野でございます。僕はいつもと変わらぬ作り笑顔で「そうだね」と紳士的に返しました。
何故このような粗末な場所に彼女がいるのでしょう。彼女の左手を見ると、そこには御伽噺に使われるような可愛いティーカップが握られていました。なるほど、小森さんは小洒落たグッズを探して、この洒落にならないほど怪しい店に迷い混んでしまったようでありました。傍から見るとへんてこりんなここの商品も、美麗な顔立ちの彼女が持つことによって不思議な気品を醸し出すようであります。
「それ、買うんですか?」
「ああ。ちょっとお見舞いの品にね」
「お見舞い?」
「うん。母さんが珍しい病気にかかってしまって。もう一年も入院しているから、お見舞いに何を持っていこうか悩んでいたところなんだよ」
「へぇ。たしかにティーカップなら普段から使えるから果物とかよりいいとは思うけど、どうしてこの店で買うんです? ここの品はみな中古ですよ」
「なんでかな」
彼女は先ほどまでとはまた違った顔で笑いました。その寂しそうな憂いを帯びた笑みに、僕の心はまた一つ鼓動を打ちました。
人には小説よりも奇異な事実を持った者がおります。彼女の母親もそうなのでありましょう。現実は時として無意味に残酷でございます。こうして対岸の火事を眺めている僕だって、いつ難病に倒れるか分からないのですから。
僕は何を言っていいのか分からず、そのまま無精髭の男のもとへ向かいました。淡々と事務的な会話をして、本の束は2枚の野口英世と少しの小銭に変わりました。
彼女は、まだ商品を見ていました。
僕は無力であります。普段から小森さんに助けられておきながら、いざ彼女が困っているときには何もできやしないのでございます。僕は心の中で自分を殴りました。
「お嬢ちゃん、迷ってるみたいだねぇ」
低い声が通りました。無精髭であります。
「贈り物だったら、こいつなんかどうだい?」
そう言って、男は奇妙な黒塗りの箱を取り出しました。綺麗な装飾が施されており、かつては立派な代物であったことがうかがえますが、どう見てもお見舞いの品といった感じではありません。
僕も小森さんも首を傾げて店主を見上げました。すると、彼はへへんと得意げに笑い、その箱の蓋を開けて見せたのでございます。
ぼわんと煙が上がりました。なんだ、ただのびっくり箱ではありませんか。拍子抜けていると、小森さんが何か夢を見るような目で上を見つめていました。つられて僕も見上げると、いやはや奇なりな事で、舞い上がった煙が人型に集まっていたのでございます。
これには流石の僕も吃驚仰天。汚い床に尻餅をつき、クリーニング確定であります。
やがて煙は完全に人の形をとり、僕らを見下ろしました。所謂魔人というやつでしょうか。しかし、僕の知っている彼らは決まって古ぼけたランプから出現するものです。そうなると、彼はセオリーを無視しているということであります。それはいけないことです。僕は立ち上がり、彼を注意しようとしました。
「君は何者なんだい?」
僕が口を開こうとした時、小森さんはすでに言葉を投げかけていました。喉まで出かけた台詞を飲み込んで、僕は魔人(仮)を見ました。そういえば、こいつは喋れるのでしょうか。言葉が通じないのであれば、僕らが何を言ったところでどこ吹く風でございますから。
「ワタクシは魔人。ネガイ叶える」
これはまたどうもご丁寧に、彼は魔人でございました。しかもセオリーに乗っ取り、しっかりと願いを叶えてくれるようであります。いやはや、いかつい顔してなかなか良い奴ではありませんか。
「それは凄い! ならば僕の願いを聞いてくれるか」
「おっと、それは買ってからのお楽しみだよ」
無精髭は意地悪にも箱の蓋を閉じ、魔人は汚れた空気へと霧散していきました。これでは彼が本当に願いを叶える魔人かどうか確かめようがありません。いや、そもそもそんなもの胡散臭いにも程があると思いますが、非現実というものを今日朝一番で経験した僕でございますよ。現実に対してそれはもう懐疑的なのであります。つまりは煙の彼が本当に願いを叶えてくれるかもしれないと本気で期待しても仕方のないのであります。
「買います! 売ってください!」
「毎度あり。税込みで2980円だ」
中古のゲームのような安いんだか高いんだかよく分からない値段ですが、高校生に手を出せない金額ではありません。僕は喜び勇んで財布のマジックテープを開きました。
……おや。
おかしいのです。三人いるはずの英世が一人もいないのであります。そういえば、昨日の夜の宴でコンビニエンスストアへ捧げた金額がそれぐらいであった気がします。
まぁ、小銭があるはずです。財布をひっくり返し、出てきた奴らをひぃふぅみと数えると、その総額はなんと727円。なんと、もう50円あれば7が揃ってフィーバーであったところを、惜しいものです。
しかし、これでは魔人君と再び対面することはできません。そんなことがあってはなりませぬ。
僕の目には、無精髭によって煙の向こうへ連れ去られていく魔人の君のヴィジョンが見えました。これは到底許される行為ではございません。必ずかの邪知暴虐の無精髭を倒さねばならぬ。僕の心はそう決意しました。
「店員さん、それはちょっと高過ぎるんじゃないんですかな?」
「なんだと?」
「だってそうでしょう。こんな怪しい店の、こぉんな怪しい商品です。それに高校生に対してその値段は厳しいと言わざるをえません」
「それで、何円にしてほしいんだい」
「500円」
無精髭は箱をカウンターの手前にしまいました。
「わぁ待って待って! 600円! いや700円出します!」
「どっちにしたって足りねぇよ」
ああ、ひどい。彼には血も涙もないのでしょうか、それとも栄養が全部ムダ毛に回って血液に回す余裕がないのでしょうか。髪の毛は順調に薄くなっているくせに。
僕は途方にくれました。その時、天啓が降りたのでございます。お前の手には丁度2000円強が握られているではないか、と。
僕はか細く成り果てた自分の拳を見ました。そこには確かにあったのです。野口二枚と数枚の小銭が。
おお、神よ。僕をお見捨てにはならなかったのですね。
満ち足りた表情で僕は代金を叩きつけました。無精髭はニヤリと笑い、僕もフフンとそれに応えます。
「さあさあ魔人よ、おいでませ!」
再び煙が舞い上がり、彼は姿を表しました。
「大金をはたいたんだ。まさかさっきのは冗談ですとはぬかさないだろうな?」
「ソレはナイ。おれにデキルコトならカナエル」
「言ったな! ならば、僕を男に戻してみせろ!」
「ムリ」
無慈悲にも、のっぺりとした顔で魔人はそう言い放ちました。ムリ……できないということでしょうか。それはまたどうも。
「なぜだ! 願いを叶えるのではないのか!」
「牧田くん、それは流石に無理が過ぎるのではないかな?」
先ほどまで唖然とした顔で呆けていた小森さんが、なだめるように僕の肩へ手を置きました。
彼女は眉をくにゃりと吊り下げており、どうもこの非現実的現実を受け止めきれていないようです。夢を見ているとでも思っているのでしょうか。違うのです。この夢のような光景は夢ではないのでございます。その証拠にほら、僕の胸はこんなにも柔らかいのです。
今この状況で問題なのは、何事もできて当然みたいな顔をしていた魔人の君が存外無能であったことであります。
確かに現実的に考えれば、人の性別をそっくり変えるなんてことできるはずがございません。しかし。しかしですよ。こやつ、魔人ではありませんか。どう見ても非現実の類いでありますよ。それはもう期待しても仕方のないことなのです。
「ベツのネガイは」
「いや、もういいよ。僕の最大の願いを叶えることは不可能だと言われたからね」
「オイオイいいのかい? せっかく大金をはたいたのに」
無精髭が笑いました。無能をつかませておきながらどの口が言うのでしょう。そりゃあガラクタが高値で売れれば気分もよろしいでしょうが、こちらとしてはすがった藁が泡と消える散々な状況なのでございます。
まったく、金を返せと言いたい気分でありますが、ここがクーリングオフが通じるような良い店でないのが悩み所であります。
「……ネガイ」
魔人が悲しそうに呟きました。何故そんな顔をするのか、顔を合わせるとつぶらな瞳が僕を映しました。彼は無能でしたが、じっくりと見てみると意外と可愛い目をしております。
物欲しそうに願いを求める彼は、きっと誰かの願いを聞くことに喜びを抱ける聖人なのでありましょう。そう考えると、僕の心にほんの少しの同情心が芽生えました。
確かにこやつは無能ではありますが、悪い奴ではなさそうであります。僕はいつもの神頼みを今日はこやつにしてみてもいいだろうと思い立ち、高らかに手を合わせました。
「では、健康祈願とこれからの僕の人生の栄光を願わせてもらおう」
「もうスコシ具体的ニ言ってもらえると助カル」
「注文が多いな、君は」
気を取り直して僕は両手を構えました。その時ふと、傍らで僕を見る小森さんの顔がちらりと目に入ったのでございます。
「僕と、ついでに小森さんのお母さんが今後の人生、無病息災の健康体で元気に過ごすことができますように」
僕はパンパンと手を叩いて、箱の蓋を閉じました。魔人がゆっくりと空気に溶けていくのを見届けると、小森さんに向き合いました。
「牧田くん……」
「僕のお祈りなんて気休めにしかならないけれど、どうかお母さんを大事にしてあげてください。ではまた」
我ながらキザだとは思いますが、けっこう格好よくきまったのではないでしょうか。少なくとも、僕にもいっぱしの男気があることの証明にはなったと思います。やはり、僕は男の子なのです。女の子の前でいいカッコをしようとするのは当然なのであります。
作りさわやかスマイルを崩さないように振り向き、颯爽と店を立ち去ろうとすると、服の裾がつかまれました。
「待って、牧田くん」
少しドキリとしましたが、こんなことで表情を崩すほど、僕の顔はやわらかくないのでございます。いやはやしかし、いくら僕が男気を見せたからといって、小森さんも可愛いことをするではありませんか。
「どうしたんですか、小森さん」
「これ、忘れてるよ」
彼女が目の前に差し出したのは例の箱。
ああ、そうでした。僕が買ったんでした。僕は期待で膨らんだ内心の空気を抜きながら、受け取ったそれをむりくり鞄に詰め込みました。しかしこの箱、思ったよりも横の幅が大きいのです。適当な詰め込みでは鞄の中身を押し潰すばかりで埒があきません。いや、別に教科書がクシャろうと破れようと僕は気にしない器の大きさを持っているのですが、荷物を詰めるのにもたつくのって、なんかスマートではないじゃありませんか。
「ふふっ」
小森さんが笑いました。
「……どうかしましたか」
「いや、牧田くんがかわいくて」
「男にかわいいと言われましても」
「ごめんごめん、でも本当にかわいかったんだ」
僕は何も言い返せませんでした。ただ作り笑顔で恥ずかしさを塗り固め、とにかく早くその場から逃げようとしたことを覚えております。
気がついたら僕は必死に自転車を漕いでいました。ペダルは軽くなったのに、何故でしょう、心がとてもわしゃわしゃするのです。
僕は今後金輪際、怪しい商品と怪しいおっさんには手を出さぬでしょう。あのような羞恥、もう味わいたくはありません。
・・・・・・
やはり現実は残酷であり、クラスの女の子が僕の男気にホの字などという非現実は僕には訪れないのでございます。どうしても僕には青春など訪れないのでありましょうか。例の箱に訪ねても、彼はウンともスンとも応えません。奴はやはり薄情者の魔人なのであります。
それにしても酷い一日でありました。まず朝から男としての人生を絶たれ、学校で男としての尊厳を絶たれ、放課後には男としての自尊心を砕かれたのです。これは一体なんの悲劇でありましょう。僕にこんな運命を与えたもうた輩は、たとえ神であろうと一生かけて怨む所存であります。
『ふふっ』
夕陽の差す彼女の顔が頭に浮かびました。あんな顔をして笑わなくたっていいじゃありませんか。あんな可愛い顔をして。
……いつもとは違う、見たことのない顔でした。
胸に手をあてると、トクリトクリと鼓動が伝わりました。鏡を見ると、こちらも見たことのない赤ら顔であります。いやはや、どうにも頬が熱いのです。いつものようにポーカーフェイスを作ろうとしても、自然と口元が緩んで止まらないのです。今の僕の表情は、存外やわらかいようでございます。
「まさか男気を見せるつもりが、女っ気にあてられるとは」
まったく、女慣れしていないにもほどがあるというものです。
「明日も話せるかな……」
「話せるヨウニすればイイノカ?」
「へぁっ!?」
時として非現実は、唐突にその体を現実に現します。それは病気であろうと怪しい煙の魔人であろうと、僕らには止めようのないことなのです。
つまりは、突然の返事に驚いてベッドから転がり落ち、12:03の暗い空にまぬけな声を響かせたとしても、仕方のないことなのでございます。
……ああ、なんてこったい。
書いてたら「これTS作品特有の要素あんましなくね……」と自身の存在価値を疑ってしまうようになりましたが、なにはともあれ書き上げれて良かったです。続きはいつかきっと投稿する日がくると思います。
読んで下さった方々、企画されたえみこ様に多大なる感謝を。