ポイズンワーム・サマーダイブ
それはよく晴れた夏休みの初日。
僕は毒虫になっていた。
開いた窓ガラスに映る姿を見て、僕は呆然とした。そこに映っているのは、どこからどう見たって気持ち悪い虫だった。
端的に言えば、鮮やかな模様の芋虫がそこにいた。まず足が無駄に多い。ピンクと黒と緑をごちゃごちゃに混ぜたような模様が全身にはびこっていて、毒々しい。触覚が頭からぴょこんと二本飛び出している。控えめに言って気持ち悪かった。
でも不思議と嫌悪感はなかったし、これが僕の姿であると受け入れられた。感覚としては、今まで虫だったのが、急に人間の記憶を取り戻したようなものに近い。
どうしてこんなことに? 記憶を辿ってみるけど、別段変わったことはない。そんなことよりも、僕はお腹が空いていた。
辺りを見回す。とても広く見えるけど、ここは僕の家の台所だった。なら、買い置きの食パンがあるはずだ。あった。レンジの上に置いてある。僕はレンジをうねうねと登り始める。そして妹と目が合った。僕を凝視したまま固まっている。僕は触覚をぴょこんと持ち上げた。
やぁ、ちょっとお腹が空いたから食パンもらうよ。
「ひゃぁぁぁぁぁっ!」
返事は甲高い悲鳴だった。あぁそうだ。僕は虫だった。妹はあたふたと視線をさまよわせる。
「ど、どどどこだっけ、ハエたたき」
それは勘弁してほしい。僕はくるりと踵を返した。急いでレンジを下りて、開いている窓に向けてうねうね動き出した。妹の引きつった声が届く。僕の動作は機敏だ。これは気持ち悪いだろうな。
窓が開いているのは風を取り込むためだけど、今は僕の逃げ道として働いてくれる。他の季節だったらこうはいかなかった。やっぱり夏は最高だね。夏バンザイ。
僕は庭に転がり落ちた。頭上でぴしゃりと窓が閉められる。追ってこない。逃走成功だ。だというのに、頭上にはどこまでも澄み渡る空。鼓膜を揺さぶるうるさい蝉の鳴き声。容赦なく落ちる日差し。うだるような気温。僕は真夏の中にいた。命の危機を過ぎて、さらに命を狙ってくる二段構え。まったく。うんざりする暇もない。
よろよろ足を動かして、やっとの思いで木陰に入る。他の季節だったらこんなことはなかったのに。なんで夏なんてあるんだ。
落ち着いたら、空腹だったことを思い出した。頭上に生い茂る葉っぱに視線が写る。
あれ、食べよう。
木を登る。枝を渡って、葉にたどり着く。ひんやりと冷たい。鮮やかな緑色が僕の食欲をそそる。そっと一口をくわえた。苦い。でも美味しい。僕はもしゃもしゃと葉を食べ続ける。いくらでも食べられそうな気がした。こんなにも美味しいものが世界にあったなんて。虫にもなってみるものだ。
彼女は、しばらくしてから現れた。僕が一心不乱に食べ続ける横で、僕を眺める視線があった。
「うわぁ……!」
聞き覚えのある声に僕は振り向く。くりっとした大きな瞳が僕を見つめていた。
「君、綺麗だね!」
幼馴染だった。
近くの角を一つ曲がったところに住んでいて、昔はよく一緒に遊んでいた。最近は話す機会すらめっきり減ったけど。彼女は制服姿だった。膝に手をつき、僕を興味深そうに眺めている。僕は避けるようにして食事に戻った。
「おお」
それなのに彼女は僕の体を後ろからつついてくる。彼女は昔から不思議なところがあった。僕みたいな虫に話しかけるくらいに常識外れなところとか。
「よし」
彼女が呟いた瞬間、僕の体は持ち上げられた。
呆気に取られて暴れることも忘れていた。彼女は僕を手のひらに乗せる。僕はぽかんと彼女を見つめる。彼女は同情するように瞼を伏せた。
「君……きっと捨てられたんだよね」
残念、違う。
「だってこんなの日本にいないと思うし」
こんなので悪かったね。
「だから私が飼ってあげるね!」
……はい?
もちろん僕の返事なんか待たずに、彼女はずんずんと歩き出した。
「あっ」
と思ったら、急に声を上げて立ち止まった。
「君、食事中だったよね」
彼女は僕の食べかけの葉と、他に二枚の葉を取ってくれた。僕は手のひらに置かれた葉を前に、しばし佇む。まぁ……そうなんだけどさ。
なんとなく腑に落ちないものを感じながら、僕は葉を食べだした。彼女はもさもさ葉を食べる僕をじっと見つめる。
「葉っぱって美味しいの?」
美味しいですね。
僕の返事が聞こえたわけではないだろうけど、彼女はおもむろに葉を一枚むしって口にくわえた。
「にがっ」
でしょうね。
――そんなこんなで、僕は彼女に飼われることになった。
僕は虫かごに入れられた。透明なプラスチックに囲まれて、頭上は空気穴のついた緑の蓋で閉ざされている。中には土が敷き詰められて、そこになぜか枝が刺さっていたり、美味しそうな葉が置いてあったりする。僕はここで暮らすのだ。僕の虫かごライフが今、始まる。
「住み心地はどうかなぁ?」
彼女の目がのぞき込んできた。
良好だよ。しいて言えばプライベートな空間が欲しいけど。
「出てきたりしないよね?」
彼女は爪でプラスチックをコツリと叩いた。思ったより大きな音がして僕は体を竦ませる。それやめてほしいなぁ。外はたいした音じゃないだろうけど、中では結構響くんだよ。そんなことに今更気づいたけど、小学生の頃に飼っていたカブトムシには謝れない。悪かったダークネスビートルMk2。うるさかったよな。あと名前もセンス無くてごめんな。三日で逃げていった彼は元気でやっているだろうか。
よし、と彼女は頷いた。
「じゃあ私は学校行ってくるからね。いい子にしてるんだよ」
彼女の言葉にはっとする。そうか学校か。夏休みを終えたらすぐに文化祭が始まるから、気合の入ったクラスは夏休みの初日から準備をするのだ。僕らのクラスは気合の入ったクラスだった。なんであんなにみんな頑張れるんだろう。クラス替えが無いせいで、例年僕は一人だけ疎外感を味わっていた。でも今年は行かなくていい。だって虫だし。
「いってきまーす」
いってらっしゃい。
僕は触覚を持ち上げた。
不思議な同棲生活が始まった。
彼女は学校に行ってしまうから、彼女がいない間は基本的にぼんやりして過ごしている。窓の外を眺めたり、寝たり、葉を食べたり、寝たり、部屋を眺めたり、寝たり。虫の感覚は面白くて、そんな暮らしでも退屈だと思ったりしない。ぼんやりしていれば日が落ちている。食事は彼女が用意してくれる。なんて贅沢だろう。客観的に見ればヒモなのが少し複雑だけど。
そんなゆったりした日々でも、発見はあった。
それは例えば僕の毒液。
何か口から分泌できるのは気づいていたけど、まさかプラスチックくらい簡単に溶かせる毒液だとは思っていなかった。隅で試してみたら、僕を覆う虫かごの壁は呆気なく溶けてしまった。というわけで、僕は簡単な脱出手段を手に入れた。使わないだろうけど。
もう一つは部屋の本棚。
一番上の段。左から二つ目。僕が昔勧めた本がまだ置いてある。主人公がある日目覚めると巨大な毒虫になっている話。僕の境遇と似ている。まぁ彼ほど大変な思いはしてないけど。
その本は、僕らが付き合いだして初めてのデートで買ったものだった。
懐かしいなぁ。
それに少し、胸が痛む。
仲の良かった僕らは、よく二人で遊んでいた。幼稚園の頃はそれが普通で、小学校に入っても相変わらず僕らは一緒に遊んでいた。よく囃し立てられたけど、それでも彼女との関係は変わらなかった。無邪気に二人で毎日一緒に過ごしていた。
お互いに意識しだしたのは中学校の終わりごろだったと思う。話をするだけで顔を赤くして、なんとも初々しいものだった。
そして僕らは付き合いだした。
かといって、特にすることは変わらない。二人で遊ぶだけ。しかも前よりぎこちない。気を使いあって、逆に相手に気を使わせてしまう。
でもそんな時間がとても大切に感じられた。一緒にいられるだけで僕の胸は一杯になった。
幸せな日々は、三か月続いた。
崩壊は僕が招いた。
きっかけは、僕の親戚が亡くなったこと。あの時のことはあまり覚えていない。余裕がなかったから。仲の良かったおじさんが死んで、僕は想像以上に強いショックを受けていた。言わなくてもいいことを言うくらいには。
なんて言ったんだったかな。
あぁ。
近づくな、だ。
それが致命的だった。
僕らの関係は崩れ去った。
話をしなくなって、目が合わなくなって、同じ空間にいると息苦しくなった。
昨日までそんな風に疎遠な関係が続いていた。今日,突然僕が虫になって、なぜか彼女に養われている。世の中何が起こるかわからない。
彼女が帰ってくるのは、空がオレンジに染まりだした頃。文化祭はクラスだけじゃなくて部活動でも出し物がある。彼女はダンス部だから、運動量は多そうだ。僕なら真っ先にベッドへ倒れ込むところだけど、
「ただいま!」
彼女は帰ってきてからも元気だった。どこにそんな体力があるのだろう。足音が近づいてきて、部屋のドアが開く。
「ただいまハデ子!」
おかえり。僕は触覚を持ち上げる。
ちなみに『ハデ子』とは僕の名前である。派手だからハデ子。彼女のネーミングセンスがうかがえる。あと僕メスじゃないし。
お風呂やら晩御飯やらを済ませると、彼女は部屋にこもりだす。
「ハデ子―、ご飯だよー」
僕にはパンが恵まれる。美味しい。もしゃもしゃ頬張る僕を見て、彼女は相好を崩す。それを見て僕も嬉しくなる。こんなことで喜んでくれるなら、僕はいくらでもパンを食べよう。
餌やりを終えると、彼女はいそいそと勉学に勤しむ。僕を養っているわけだけど、彼女はれっきとした受験生なのだった。加えて頑張り屋だ。うんうん唸りながら机に向かっている。僕はいつもそれを眺めていた。問題が解けた時はぱぁっと顔が輝くから、すぐに分かる。ころころ変わる表情を見ているのは面白かった。飽きることなんてない。
「あー! 疲れたぁ」
勉強が終わると彼女はテレビを付ける。今日はお笑い番組を見ていた。そういえば、彼女はお笑い番組が好きだった。昔は一緒に見て、一緒に笑っていた。彼女は笑うと可愛かった。今も変わらない。隣に僕がいなくても。
しばらくして眠る支度を整えた後、彼女は僕に話しかける。
「聞いてよハデ子、今日ね――」
それは学校でのことが大半だった。大人しい図書委員が器用だったとか、アツすぎる委員長が実は虫が苦手だったとか、とりとめのない話ばかり。そんな話を、彼女は上機嫌でしてくれた。
これは彼女の癖みたいなものらしい。話をすることで、いろいろと出来事をまとめているのだと昔、言っていた。
『本当は声に出さなくてもいいんだけどね』
記憶の中の彼女は照れたように笑う。
『でも声に出した方がいいから、聞いてくれると嬉しいな』
仕方ないなと、僕は呆れたように頭をかいた。ありがとうと彼女は赤い頬ではにかんだ。僕の照れ隠しは多分気づかれていた。そんな過去の記憶。
僕のものだったポジションが、巡り巡って僕に戻っている。こんな因果を僕は喜ぶべきなのだろうか。
「――って言ってたんだけど、ハデ子はどう思う? 私は――」
人の姿で話を聞けたらよかったと思うけど、きっとこの姿じゃなかったら目だって合わせてもらえない。
「でも体育館練習楽しみだなぁ! みんなはね――」
だから僕は黙って君の話を聞いている。
「あの時委員長が――」
昔みたいに話してくれて、昔みたいに笑ってくれる。
「けど私は――」
今はそれだけで十分だった。
他愛のない話は数十分続く。話終えると彼女はまず謝る。
「ふぅ! ごめんね、長々と付き合わせちゃって」
彼女はぐっと伸びをすると、電灯のリモコンを手に取る。
「じゃあ、お休み」
部屋の灯が落ちる。部屋は暗闇に包まれる。彼女がベッドに入り込む音を聞きながら、僕は思う。
やっぱり今日も、僕の名前は出なかった。
それから数日が過ぎたある日のこと。僕に話し相手ができた。
彼はからりと晴れた日に、涼しい風と共にやってきた。
「珍しい奴だ。体と中身があってないな」
突然届いた低い声に驚く。慌てて振り向いた先。窓枠にとまっていたのは痩身のカラスだった。
「そんなに驚かなくていい。少し気になっただけだ」
鋭い眼光に射すくめられる。僕はかなり怯えていた。もしかして僕を食べるつもりなんじゃ。
「安心しろ。誰もお前みたいに気持ち悪い奴を食おうと思わん」
安心はしたけど嬉しくはなかった。
「今この家に人間はいるか?」
いない。彼女は学校に行ったし、彼女の両親も出かけている。
「なら少し話そう。俺は暇なんだ」
なんとも雑な誘いだ。ただ彼の渋い声も相まってワイルドなカッコよさが醸しでている。これがハードボイルドというやつだろうか。
「お前、どういう経緯でそんなことになってる?」
僕は彼に全部話した。気づいたら虫になっていたことだけじゃなくて、昔の彼女との話まで。会話できることが嬉しくて、気を使わせるようなことまで話してしまった。
「なるほどな。俺はあまりそういうのは分からないが……」
カラスは真剣に聞いてくれた。目つきは鋭いけど、彼は面倒見がよさそうだった。
「困ったら言ってくれ。微力だが、力を貸そう」
きりっとした目に見つめられる。多分カラス界の中でもイケメンで通っているんじゃないだろうか。
その後は彼の話を聞いた。彼はコレクターで、ガラス片とか、きらきらしたものを集めているらしい。たしかカラスにはそんな習性があったと聞いたことがある。僕の部屋にあるビー玉だったらいくらでも上げたんだけど。
「今は駄目なのか?」
だって僕虫だし。部屋に戻ったら今度こそハエたたきでぺたんこにされかねない。
「残念だ」
本当に悔しそうに彼は言った。そこまで悔しがるとは。いつか機会があったら持ってこようかと言うと、彼は大げさに喜んだ。
「ありがたい。俺は気長に待つからな」
それからもカラスは時々現れて、少し会話をしては去っていった。
飼い主の彼女と、一羽の話し相手。
僕の時間は穏やかに過ぎていった。
長くは続かなかったけど。
「――ハデ子、その……」
彼女が僕に何かを隠しだした。それが兆候だった。夜になって、学校のことを話す口調の中に躊躇いが見えた。何かを隠しているのは明らかだった。僕は不安になった。笑顔なのに、陰りのあるその表情がたまらなく僕を揺さぶった。
「あー……やっぱり、もう少し待ってみる」
仄めかすようなことだけを言って、肝心の内容は教えてくれない。人間だったらと思わずにはいられなかった。人間だったら、僕はその先を聞けたかもしれないのに。疎遠な関係でも、僕は何か言葉をかけられるかもしれない。何か行動できるかもしれない。上手くいかなくても、何かをすることはできるはずだ。でもこの姿じゃ、そんなことすらできやしない。
「じゃあ、お休み」
結局、彼女は話してくれなかった。
次の日も、その次の日も、彼女はそれを伝えてはくれなかった。それどころかどんどん口数が減っていった。悩みがあるのは見え透いている。けど、僕はそれを聞くことができない。
もどかしい。
翌日。
――あの、お願いがあるんだ。
いてもたってもいられなくて、僕はカラスに様子を見てきてほしいと頼んだ。
カラスは見てきてくれた。
原因がわかった。
僕だ。
夏休みが終わるとすぐに文化祭がある。クラスはみんなで力を合わせて準備をする。誠心誠意、当日に向けて。僕らのクラスは行事に熱心だった。高校生活で最後の文化祭だから、普段以上に気合が入っていた。だから不真面目な生徒は顔をしかめられてしまう。一日も準備に参加しないなんてありえないことだった。
僕はそれを今、してしまっている。虫になっているとはいえ、その事情を伝える術はないきっと僕のせいで、クラスの雰囲気が悪くなっている。
カラスが見たのは、『僕の机を足蹴にする男子を、彼女が押し止めている』ところだった。
それだけで、何が起きているのか僕にはなんとなく想像がつく。例えば誰かが僕のことを悪く言う。彼女はそれを黙って見ていられる性格ではない。いけないことだよ! なんてきっぱりと言うはずだ。それで今度は彼女とクラスメイトの雰囲気が悪くなる。クラスの隅で、一人ぽつんと作業をする彼女が脳裏に浮かぶ。
今日も彼女は学校に行った。もしかしたら、陰湿なことをされているかもしれない。胸中に不安が渦巻く。
「どうする? お前は」
羽を嘴でいじりながらカラスは言う。
「そこで待ってるか?」
考えるまでもなく、答えは出ていた。
毒液を吐くと、僕を閉じ込める虫かごの壁は簡単に溶ける。溶ける様を見ながら、僕はバカだなと思う。 ただの虫でしかないのに、彼女を助けるヒーロー気取りなんだから。
虫かごを出ると、楽しそうなカラスの目が僕を捉えた。
ねぇ、カラス。僕を乗せて飛べる?
カラスはにやりと笑みを浮かべた。
「誰にものを言ってる?」
学校は、十五分ほど歩いた小高い丘に建っている。普段は自転車で通っていて、そうすると時間は半分ほどに短縮される。今日はカラスに乗って来た。体感だけど、道を気にしないだけ自転車より早い。さすがカラスだ。乗り心地も良かったし。
「そうだろう」
カラスは得意げだった。前から思っていたけど、このカラス可愛いところがある。面倒見がよくて、カッコよくて、可愛い。なんだこの生き物。天は二物も三物も与えてしまった。ちょっと過保護じゃないだろうか。
「くだらんことを考えなくていい」
おっと考えが漏れていた。でもカラスはどことなく照れている気がする。こういうところがなぁ。ビー玉あげてめちゃくちゃ喜ばせたい。
「それより、することがあるだろう」
強めの口調で話を戻される。そうだ、目的を忘れてはいけない。
僕らのクラスは、正門を入って正面に立つ校舎の二階だ。三年二組。窓ガラスで言えば、右から二つ目。
対岸の校舎の非常階段に僕らは止まった。ここからなら目を凝らせば教室の様子が見える。僕はじっと教室の中を眺めて、そして気づいた。
彼女がいない。
今年やるのは演劇だ。教室にいるのは例年で言うと大道具の面々だった。おそらく彼女がいるはずの、役者組が見当たらない。僕は毎回大道具で、しかもあまり気合を入れずにやっていた。役者組がどこに行ったかなんてあまり気にしたことはない。別の教室でやっていたら、もしそこが窓の無い教室だったら、僕らは見つけることができない。
「外かもしれない。上から探そう」
僕らは上空に舞い上がった。上空を旋回しながら、校舎を飛び回りながら、僕らは彼女の行方を探す。校庭にも、空き教室にも、屋上にも、外の公園も、どこにもいない。僕は歯を食いしばった。こんなことってあるか? 勢いきって来たというのに、なんて滑稽な話だろう。
「お前は何か聞いてないのか?」
探している間、ずっと黙っていたカラスが口を開いた。
僕が?
「飼い主のことをペットはよく知ると聞いたことがある」
それは犬とかの話じゃないだろうか。
そう思ったけど、僕は思い出してみることにした。彼女から聞いた話について。寝る前のささやかな時間について。記憶を覗いてみると、僕は驚くほどささいなことまで思い出すことができた。それくらい、僕は彼女との時間に意味を見出していたようだ。その記憶の中に、手がかりを見つけた。
「何か思い出せたか」
うん。
「どこだ?」
体育館、かもしれない。
「そうか。案内してくれ」
言うが早いか、カラスは翼を羽ばたかせる。僕はふと疑問に思った。どうしてこんなに僕を助けてくれるんだろう?
「ふむ」
カラスは呟いて、少し考えるように黙り込んだ。
「昔の話だが、実はお前の彼女に助けられたことがある」
驚いてしまって、彼女という言葉を訂正するのも忘れていた。
「本当のことだ。二年前だったか、小さな子供がバットを持って俺を叩こうとしていた。度胸試しのつもりだったんだろう。もしそのバットが振るわれていたら、俺の羽は使い物にならなくなっていたかもしれない。だがそれをお前の彼女が止めてくれた」
知らなかった。その頃は彼女と疎遠になって、僕が後悔で引きこもっていた頃だった。それでも彼女は、彼女らしくいてくれたのだ。子供をたしなめる彼女が目に浮かぶようだ。腰に手を当てて、こら! と怒っている。実際に見てみたかった。
「それだけじゃない。純粋にお前が気にいったということもある」
ありがたいお言葉。さすがカラス。フォローも忘れていない。
「行くぞ」
短く言われる。今度こそ行こう。彼女の元へ。
――体育館には七人の生徒がいた。全員がステージの周りに集まっている。談笑する者、台本を読み込む者、目を閉じて集中する者、様々な生徒がいる中で一人、スマートフォンの画面をじっと見つめる少女がいた。少女はメールの画面を呼び出す。連絡先を探して、一人のクラスメイトのメールアドレスに辿り着く。それは文化祭の準備に一度も顔を出さない生徒のメールアドレス。かつて、少女と付き合っていた少年のメールアドレスだった。
『ご機嫌いかがですか』
少女は打ち込んだ文字をじっと見つめると、ぶんぶん首を振って、消した。
『やっほー! 元気?』また勢いよく首を振って、消す。
『今ヒマ?』また消す。
少女はぐわっと両手で頭を押さえてうずくまった。
その耳に、尖った声が届く。
「――は? またあいつ来てないの?」
少女はぴくりと体を震わせる。
「いい加減にしてくれよ……これで最後なんだぞ?」
険のある声で、その男子生徒はガリガリと頭をかく。他の生徒はそっと離れていった。思っているのは皆同じことだ。あいつ、来ればいいのに。
「クラスのこと考えてねぇのか……?」
「そ、そんなこと言っちゃ悪いよ!」
体育館に少女の声が反響した。生徒たちは目を見張って少女を見やる。その中、男子生徒だけは眉間に皺を寄せて少女を見ている。
「だって、何か理由があるのかもしれないし……」
「じゃあそれを連絡しろよ。何の連絡もないんだぞ?」
「でも妹ちゃんは旅行してる、って」
「どうせ引きこもってんだろ。去年だってその前だって、全然やる気なかったじゃねぇか」
「そ、そんなことっ」
「だったら来いって言ってんだよ!」
体育館に響く怒声に少女は体を竦ませた。
「ふざけんな! こっちは一生懸命やってんだよ!」
男子生徒が足音を鳴らして少女に詰め寄る。少女は怯えた様子でスマートフォンを持った両手に力を込める。
だから、二人は気づかなかった。頭に血が上った男子生徒と、彼に意識を取られている少女は、周りの悲鳴が聞こえていなかった。
「……あ?」
ようやく男子生徒が異変に気づいた時には、既に〝彼〟は頭上にいた。上だよ! 上! と叫ぶ周りの声に、男子生徒は頭上を見上げた。まず目に入ったのは、照明と重なる黒の鳥。なぜカラスがいるのかと思う前に、もう一つ、落ちてくる〝何か〟が視界に入った。男子生徒は咄嗟に反応できなかった。避けられずに、〝何か〟が髪の中に落ちる。痛みを感じて、男子生徒は反射的にその〝何か〟を髪の中から掴み出した。
ゆっくりと開いた手の中にいた〝何か〟の正体を見た途端、男子生徒は絶叫した。
――体育館に彼女はいた。ようやく見つけた。でも既に彼女は危うい状況だった。怒鳴る男子生徒。怯える彼女。僕らは開いていた窓から体育館に飛び込んだ。何人かの生徒が気づいて悲鳴を上げたけど、肝心の二人は気づいていないようだった。加えて、男子生徒は苛立った様子で彼女に詰め寄ろうとしていた。行くしかない。
僕の考えを分かって、カラスが加速する。行き当たりばったりにも程があるけど、他に考えは無かった。せめて一泡吹かせたい。一寸の虫にも五分の魂というところを見せてやる。
男子生徒の頭上に達したところで、彼は異変に気付いたようだった。もう遅い。僕はもう準備に入っている。
「行ってこい」
ありがとうカラス。僕の部屋、勝手に入って好きなだけビー玉持ってっていいよ。
「心揺さぶられる提案だな。だが、そこにはお前もいてほしい。無事でいろよ」
オーケー。アイ、キャン、フライ。
そして僕はカラスの背から飛び降りた。
体に強烈な負荷がかかる。胃の底が持ち上げられるような感覚が僕を襲う。叫び出したいくらいの恐怖に、僕は気を失いそうになる。それでも持ちこたえられるのは、必死だったから。彼女のために、もう後悔をしないために。僕は死に物狂いで意識をつないで、ひたすら眼下の着地点を視界に収める。男子生徒が訝しげに頭上を見上げていた。自分が着地点であるとも知らずに。
着地の瞬間は、ぺちりと小さな音がした。のたうち回りたいくらい痛かったけど、狙い通り髪の中に落ちることができた。僕は痛みをこらえ、口内で毒液を作り出す。これが僕の意趣返し。毛根に多大なダメージを食らえ。名付けて、『ざまぁみろ! 三か月くらい十円ハゲに苦しめ!』作戦。毒液を吐き出してすぐに、僕は男子生徒にむしり取られた。彼はゆっくりと手を開く。そこには毒々しい色でくねくね蠢く僕の姿があるわけで。
「ひっ」
やぁ、久しぶり。こんな姿で悪いね。触覚をあげてみせると、哀れなくらい彼の顔面は蒼白に変わった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
彼は絶叫して僕を放り投げた。僕は高々と舞い上がる。周囲がスローモーションに見えて、僕は今度こそ死んだかなと思った。仕方ない。元から飛んで火にいる夏の虫みたいな状況だったのだ。危険に飛び込んで無事でいられるなんて虫のいい話は少ないだろう。だけどすがすがしい気持ちで胸は満ちていた。胸のつかえが取れたような気分に、僕は笑いだしたくなった。
僕は彼女を助けられた! やり遂げたのだ! ここで死ぬとして、僕は最高の気分で終わることができるだろう。彼女を助けて終わるとは、なんとも男冥利に尽きる終わり方だ。まったくいい人生だった。いや、虫生というべきなのか?
落ちる感覚に身を任せ、僕は目を閉じた。
あぁ。でも。浮きあがるような世界の中で、僕の胸がちくりと疼く。
心残りが一つだけ、あった。
このまま死ねば、もう、彼女と一緒にはいられない――
予想した衝撃は来なかった。何かが僕を受け止めていた。
「だ、大丈夫?」
心配そうな声が耳を揺らした。それはひどく聞きなれた声で、僕が聞きたいと思っていた声。
「あれ、ハデ子!」
目を開くと、くりっとした大きな瞳と目が合った。
「どうしてこんなところにいるの!?」
彼女は大きな目をさらに見開いていた。昔と何も変わらない。無垢な瞳も、優しい性格も。なぜだか無性に泣きたくなった。彼女の大声に釣られて他の生徒が寄ってくる。「げ、なにそれ~?」「それお前の?」「まーた変なの取ってきたのかよ」「ちょっと止めてよー!」クラスメイトは彼女の周りでがやがやと騒ぐ。そこに彼女を咎めるような空気はなくて、皆一様の呆れ笑いが浮かんでいた。
あれ? 思っていたのと違う。もっと彼女は孤立しているのだとばかり。
「この子はハデ子っていうの! 拾ったんだ!」
彼女が言って、「ダサい!」「ネーミングセンスなんとかしろって!」「その名前はどうなのー?」と笑いが起こる。彼女がふくれっ面になって、また笑いが大きくなる。楽しそうだ。
ここで僕は、今までないくらいに背筋が冷えていた。もしかして僕……すっごい勘違いしてた?
「でも、なんで来たんだろうねハデ子」
うっ。
「もしかしてさぁ、飼い主が委員長に襲われてると思ったんじゃない?」
誰かの茶化すような言葉に「まさかぁ!」「いやそんなはずないだろ!」「虫がそんなことしないって!」とか周りは好き勝手に笑い飛ばしている。……悪かったな! その通りだよ!
「委員長もカッとなると怖いけど、普段はいい奴だからなぁ」
なんだよそれ。もしかすると、カラスが見たという、『僕の机を足蹴にする男子を、彼女が押し止めている』光景は、ただ文化祭の準備の一環でそうなっていただけなのかもしれない。例えば高いところを装飾するために机を使って、彼女はそれを支えているだけとか。
つまり僕は盛大に勘違いをしていたのだ。うわ、めちゃくちゃ恥ずかしい。
穴があったら入りたいけど、あいにく僕は彼女の手の上にいた。必要以上に気持ち悪がらせたくないから、僕は動きを止めている。つまり、僕はまっすぐ彼女の視線を受け止め続けていた。きょとんとした表情で、彼女はじっと僕を見つめている。なにかあるなら喋ってほしい。でないと恥ずかしさでおかしくなってしまいそうだ。
「ハデ子は、助けに来てくれたの……?」
そうだよ。助けに来たんだよ。空回りだったみたいだけどね。僕の声が通じたわけじゃないだろうけど、彼女は「そっか」と呟いた。もう限界だった。僕は彼女の視線から逃げるように背を向けた。悲鳴があがるけど、知ったこっちゃない。なんだってんだよ。こんなに頑張ったのに、全部意味のないことだったのか? 全部バカな僕の茶番でしかなかったのか? やるせない気持ちに歯噛みする。
「ハデ子」
そんな僕を呼ぶ声がした。もうやめてくれ。きっと君だって僕をバカだと――
「ダメだよ! こんな危ないことしたら!」
え?
振り返ると、彼女がぷくりと頬を膨らませていた。僕は一瞬呆けて、それから理解する。どうやら、僕はまた勘違いをしていたようだ。
「というかどうやって出てきたの! あとあのカラスは何! それと――」
どんな時でも、彼女は人をバカにしない。そんなことを今更思い出した。説教をされながら、さっきまでのひねくれた気持ちが消えていく。彼女を前にすると、どんなことも『まぁいいか』と思えてくるから不思議だ。ひとしきり怒ると、彼女は急に難しい顔をした。
「でもまぁ……ハデ子は助けに来てくれたんだよね」
うーんと彼女は考える素振りを見せる。
「仕方ない。許してあげます。あ、それと」
そして彼女は、頬を緩めて微笑んだ。
「ありがとね」
純粋でどこまでも晴れやかな笑顔に、僕は息を忘れた。そんな自分に呆れてしまう。
あぁ、まいったな。
たったこれだけで、報われた気がしてしまう。嬉しさに小躍りしたくなる。何度だって駆け付けようという気になる。またこの笑顔を見たいと思う。それくらいには、僕は彼女を好きらしかった。
――ジリリリ。
なんだ……うるさいなぁ。
――ジリリリ。
決死の救出劇が終わったんだから、もう少し寝かせてくれよ。
――ジリリリリリリリ。
「うるさい兄貴早く起きろぉ!」
「はいごめんなさいぃぃ!」
妹の怒鳴り声に僕は跳ね起きた。慌てて目覚まし時計を止めて、時間を見た。『AM7:00』
「学校に行くんでしょ! もう。早くしてよね!」
妹はもう一度怒鳴って、リビングのほうへ去っていった。
妹? 学校?
僕は両手で瞼をこすった。
……両手で?
いくつもの違和感が僕を襲った。ベッドを降りて、僕は窓ガラスに映る自分自身を眺めた。認めるのは簡単だった。
僕は、人間に戻っていた。
目覚まし時計をもう一度手に取る。『AM7:01』の下に映る日付の表示を見つめる。『7月27日』。それは夏休みの初日だった。僕は呆然としばらく時計の画面を見つめていた。妹の怒鳴り声が届いて、僕は急いで部屋から出た。
「あー、おはよう」
声をかけた僕を見て、妹はぎょっと体をのけ反らせた。
「なんで芋虫みたいに動いてるの?」
「え」
あぁ、虫だった時の癖が。立ち上がって、何食わぬ顔でテーブルの前に座った。
「兄貴、昨日はしゃいで寝れなかったの? なんかすごい眠そう」
たしかに、長く眠った後みたいに体が重い。あれは全部夢だったのだろうか。
「あっ」ふと気づいたことがあった。「ごめん、ちょっと」
僕は妹に断って部屋に戻った。〝あれ〟はどうなっているんだろう。急いで僕は机の引き出し、上から二段目に手を掛ける。たしかここに、ずっと昔に集めていたビー玉がいくつも入っているはず――
入っていなかった。一つ残らず消えていた。僕は数秒、空になった引き出しを眺める。
リビングに戻ると、テーブルに朝食が並んでいた。妹は既に食べ始めている。僕は妹の前に座った。
「ねぇ」
「ん?」
「僕が昔集めてたビー玉、覚えてる?」
「んー、なんとなく」
「それどこかにやった?」
「え? 何もしてないよ? それがどうかしたの?」
なんでもないと答えると、妹は怪訝そうに首を傾げた。
カラスだ。僕には確信があった。
なら、夢ではなかったのかもしれない。
朝食を食べ終えて、僕は早めに制服に着替えた。やりたいことがあったから。
「早くない? どこか寄ってくの?」
妹が不思議そうに尋ねて、しゅわしゅわ泡立つラムネを口に運んだ。僕は靴を履きながら答える。
「うん。ちょっと告白してくる」
「ふーん……ん?」
妹が盛大にむせる音を背後に、僕は家を出た。
外は日差しが降り注いでいた。どこまでも澄み切った空が眩しくて、僕は目を細める。歩き出すと、涼しい風が頬を撫でる。カラスの背を思い出した。きっともう、あんな経験はできないだろう。
庭の前を通る。彼女と出会った木が佇んでいた。ふと思い立って、僕は一枚葉を千切ってみる。おもむろに口に運んだ。
「にが」
当たり前だった。
そのまま歩いて、彼女の家の前にたどり着いた。そこで僕は立ち止まってしまう。インターホンに手が伸びない。あと一歩が踏み出せない。
かぁ、と頭上でカラスが鳴いた。
見上げると、電信柱に止まったカラスが、じっとこちらを見つめている。彼なのだろうか。そのカラスはまた、かぁ、と鳴いた。頑張れよと言っている気がした。
インターホンは、あの頃と同じメロディだった。僕はボタンを押した姿勢で、少し固まる。がちゃりと音がして、僕はどきりとする。
『あ、僕です。えっと、そこの』
『うん、分かるよ』
話しているのは、まぎれもなく彼女の声だった。
『待ってて。すぐ行く』
通話が切れるとすぐ、彼女の部屋の辺りが騒がしくなる。さすがに早すぎただろうか。ここまで来て、僕は不安に駆られてしまう。迷惑に思われていないだろうか。
十分ほど経ってから、ドアが勢いよく開かれた。くりっとした大きな瞳が、僕の目を見据える。制服姿の彼女がそこにいた。
「あ、おはよ」僕は言う。
「うん、おはよう……えっと、どうしたの? 何かあったっけ?」
戸惑った様子で彼女は首をかしげる。
「うん」僕は考えていたセリフを言おうとして、でも何の言葉も出てこない。「話したいことがさ。あって」おかしいな。いろいろ考えていたはずなのに。
「話したいこと?」
彼女は不思議そうに聞き返してくる。
僕の心臓は高鳴っている。鼓動の音が漏れてやいないか心配だった。それでいて肝心の頭の中は真っ白だ。まったく、いざって時に役に立たない。汗をぬぐうことも忘れて、僕はじっと彼女を見つめていた。
仕方ない。もう思い浮かばないんだから、仕方ないったら仕方ない。僕の気持ちを余さず伝えるには、きっと言葉じゃ表しきれない。そういうことなのだ。でもこれ以上黙っているわけにもいかない。彼女を待たせるわけにはいかない。
だから、結局、シンプルに。
「好きです。付き合ってください」
じりじりと日差しは降り注ぐ。
蝉はみんみん騒々しい。
空は呆れるくらいに真っ青だ。
夏はまだ、始まったばかり。