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第二章:打算と妥協の果てにある、何か・其の六

      《 第二章:打算と妥協の果てにある、何か・其の六 》



「っ! 何だ、これは!?」

 東雲の苛立った声に、八九は苦笑した。

「おやおや、どうやら、我々は弾かれたようですねえ」

「…弾かれた? おい、どういうことだ!?」

 噛みつきそうな勢いの東雲を笑顔で制し、八九は周囲の白い景色を見やった。

「神が、我々に会うことを拒んだということですよ。まあ、当然と言えば当然でしょうねえ。何せ、神は神聖な存在。穢れを嫌いますからねえ」

「――穢れ、だと? 貴様はともかく、何故、この僕がこんな目に遭わなければならないんだ!? 僕は、神になるべき男だというのに!」

 東雲が、手荒く八九の胸ぐらをつかみ、唾をとばしながら怒鳴りつける。

 すると、突然、八九が吹き出した。

「はっ、はははっ! 傑作ですねえ、貴方! 滑稽すぎますよ! どこまで馬鹿なんですかあ?」

「どういうことだ!?」

「ふふっ。つまりですねえ、貴方は特別でも何でもなかったってことですよ。それどころか、貶し続けていた千鶴さんとあの子供のほうが選ばれた人間だという事実にも気づいていない。これを滑稽以外の何というんでしょうねえ? 盲目な羊ほど、哀れで滑稽なものはいません。自分がどれほど危険な場所にいるのか知らず、馬鹿みたいに自分は神だと喚き続けているんですから。ああ、何て惨めなんでしょう! あはははっ」

「っっ!!」

 口上を述べるような口ぶりの八九の様子に、東雲は、ようやく理解した。

 自分が、利用されていたという事実。

 本当は、特別な存在ではなかったということ。

 そして――自分が、とても危険な立場にいるということを。

「――き、貴様、最初から何もかも知っていたのか?」

 強張った声音に、八九は笑む。残忍に、冷酷に。

「ええ、知っていましたとも。ついでに言うと、貴方のような人間如きが神を殺せるはずがありませんし、寿命に縛られたイキモノが神になれるなんていうのも、荒唐無稽な話です。そうそう、一つだけ、貴方にとって光栄なことがありますよ。ななな、なーんと! 貴方は、栄えある千人目なんですっ!」

「――千人目?」

 千人。それが、何を意味しているのか。東雲にはわからない。

 八九は、にたにたと笑いながら囁く。

「ですからね、貴方で、ちょうど千人になるんですよ。私が殺した人間の数は」

「――…こ、殺した、だと?」

 あまりにも不吉な響きに、脳が拒否反応を示す。人間一人を殺すのも大変なことなのに、千人も手にかけるだなんて――冗談にしても、笑えない。ふざけるなと言いたい。

 それなのに、何一つ、否定の言葉が口から出なかった。

 東雲は、直感したのだ。彼の言葉は真実だと。じわりと胸の奥に滲む絶望という名の恐怖が、反論する気力を奪っていく。

 そんな冴えない顔つきの東雲とは反対に、上機嫌の八九は浮かれている。

「そうです。千の人間を殺し、百体の神を殺す。そうすると、何が起きるかわかります? わからないでしょうねえ、愚鈍で無能な人間風情には。いいでしょう、教えて差し上げましょう!」

 言うなり、バッと細長い両手を大きく広げ、猫背を不自然なほどピンと伸ばす。

「この私、八九が、真の神になれるのですよ! ああ、何と素晴らしいのでしょう! 千の人間と、百の神。人間はともかく、神殺しは心底骨が折れましたが――やっと今日で、すべてが終わる! 解放されるのです!」

「…貴様――っっ」

 東雲が、じりっと後ずさる。

 八九の恍惚とした表情に、明確な殺意が見え隠れしている。いや、殺意と呼べるほどたいそうなものではない。

 八九にとっては、殺人などハエや蚊を潰すのと同じレベルなのだろう。殺す意思を感じるのに、必死さや罪悪感はどこにも感じない。

 そのことが、余計に恐怖心を煽る。

「………っっ」

 じり、じり、と。東雲が、少しずつ八九から距離をとる。幸い、彼は、今日という記念日に酔い痴れ、こちらの動きに注意していない。

(……あと、少し…)

 もう、三歩ほど距離をとったら、全力で駆け出そう。見たところ、八九は運動神経がよさそうではないから、死に物狂いで逃げれば大丈夫だろう。そう考えていた矢先、ふと、八九と目が合った。

「!」

 びくり、と肩が震え、反射的に踵を返して逃げる。

 しかし、それを予測していたかのように、素早く八九の細長い腕が――尖った爪の先が、背中に迫った。

 ザシュッ、と。

 鋭い爪先が、上着を切り裂いた。直接、身体を傷つけられたわけでもないのに、恐怖のせいか、皮膚がビリビリと痛んだ。

「っっ!!」

 転びそうになりながらも、必死に駆ける。背後が気になって走りながら振り返ると、八九は、すでにヒトの姿を捨てていた。

 見上げるほど巨大で獰猛な黒い獣が、剥き出しになった牙をこちらに向けている。金色の瞳はまばゆく輝き、逆立った背からは、黒い靄のようなものが立ちのぼっていた。鋼のような力強い四本の足は、野生の猛獣のように筋肉質で、しかも、伸縮自在らしい。

「ぐっっ!」

 右の前足が伸びて、振り返った東雲の身体を蹴り上げた。まるで、プロボクサーの放ったアッパーのように、俊敏で無駄のない動きだった。

 どん、と、身体が木切れのようにあっさり宙に舞った。あまりの衝撃の強さに、痛みを感じる暇もなく、意識が飛びそうになる。

 その暗くなる視界のなか、東雲は見た。

 見てしまった。

 八九の背から発せられている靄の向こうにあるものを。

(――あれは、口だ!)

 八九の背は、背骨に沿うようにしてパックリと大きく割れていた。

 そこにあるはずの肋骨や背骨はなく、代わりに、ぎらりとした無数の尖った歯が見えた。

 そこから立ちのぼる黒い靄は、獣の吐息だ。不気味に開いた巨大な口の奥には、舌らしき赤いものがちらちらと覗いている。

 どうっと、身体が地面に叩きつけられる。

 そのときになって、殴られた痛みと着地の際に受けた衝撃が全身を苛む。

「っっっ!」

 あまりの激痛で、呼吸すらまともにできない。

 目の前がチカチカして、視力が奪われる。

 それなのに、正面から放たれる殺意だけは恐ろしいほど明確に伝わってくる。

 地面を歩く音、溜息をつくような呼吸音、靄が周囲を埋め尽くし、殺気を放ち続けている。

「おやおや? 東雲さん、どうなさったのですかあ? 神になるような男が、そんなところで這いつくばっていていいんですかねえ? ふふ、まるで、道に落ちた野良犬の糞みたいじゃないですか。臭いですねえ、醜いですねえ、哀れですねえ〜?」

「っっっ」

 恥辱に、身が震える。強烈な痛みで、無意識に涙が出る。

 こんな得体の知れない何かに、無抵抗でやられるなんて、プライドが許さない。

 しかし、自尊心は地に落ちて粉々に砕け散った。

 何とか視界が戻ったかと思うと、小山のように巨大な獣が正面に立ち塞がっているのが見えた。

 きらきらした金属めいた黒い毛並みは禍々しく輝き、忌々しいほどきらめいた金色の瞳が、哀れな獲物を嘲笑するかのように笑んでいる。

「っ、っっ!」

 恐怖で全身が痺れて、声すら出せない。逃げ出すなんてことは、もはや、考えられなかった。

 こんな獰猛な獣から、逃げられるわけがない。

 いや、逃げるどころか、心が怯えきって目を背けることすらできそうになかった。

「ひっっ!」

 びくりと肩を揺らした無力な男を前に、八九は笑う。狼が子ウサギを狩るような、残忍な色を金色の瞳に浮かばせて。

「――つまらないですねえ、東雲さん。ちょっとくらい、騒いでくれませんかねえ。ほら、惨めったらしい声で、助けてくれーとか、やめろーだとか。言うことはたくさんあるでしょう? これまで食ってきた人間は、みんな、無様に泣き叫んでくれましたよお?」

「っっっ」

 ぐっと、唇を噛む。

 こうなったら、何があっても声は出さない。これ以上、惨めな姿を見せるものか。他の奴らとは違うということを、証明してやる。たとえ、殺されるのだとしても――自分が他の奴らよりも優れたイキモノだということを、知らしめてやる。

 でも、誰に?

 そこで、東雲は気づいた。

 ここには、誰もいないという事実に。

 明らかに強者である猛獣と、捕食対象でしかない弱者の自分。

 弱肉強食の世界で、いくら格好をつけて足掻いたところで、結末は変わらない。それどころか、より惨めになるだけだ。

(……僕は、一体、何のために死ぬ…?)

 こんなはずではなかった。こんな、夢とも現実ともつかない死が訪れるなんて、考えてもみなかった。

 まさか――こんな気味の悪い獣に食われ、生きながら最悪の結末を味わうことになるなんて。

 八九は、目を見開いたまま、荒く息をする東雲に優しく告げた。

「――安心してください、東雲さん。貴方は、神になれますよ。ただし、私の身体の一部としてですが」

 獣の尖った鼻先が、恐怖で硬直している東雲の身体を上空に弾き飛ばした。そして、東雲は見た。背中に開いた大きな口が、自分を呑み込むのを。

 そして、感じた。

 鋭利な牙が、胸と背中を貫き、切断するのを。

 気が遠くなるような、激痛と死臭が意識を呑み込んだ。

 絶望、恐怖、怒り、悲しみ、後悔。

 押し寄せる負の感情が悲鳴となって飛び出しかけたが――それが、声として放たれることはなかった。

「――おや、コレは意外ですねえ」

 八九が、残念そうに呟く。

「悲鳴の一つもあげないなんて、何て殺しがいのない」

 ばりぼり、と背中の巨大な口が獲物を食い尽くす。ほんの十秒ほどで食事を終えた頃には、八九の頭からは、東雲という人間がいたことすら記憶から消え失せていた。

「――さて、腹ごなしもすんだことですし、本命に会いに行くとしましょうか」

 肉片どころか血の一滴すらも残さず片づけて、八九が四本足を踏ん張る。そして、軽く身震いするように身体を揺らすと、背中にあった巨大な口が閉じ、みしみしと音を立てて上空へ向かって盛り上がった。そして、それが左右に分かれて、巨大な翼へと変わる。

「…今さら神気を隠しても、無駄ですよお? 神域の一部に入り込めさえすれば、あとは簡単。一分とお待たせしませんからねえ?」

 ばさり、と翼を動かせて、黒い巨体が飛ぶ。

 ふんふんと尖った鼻で匂いを探り、八九の金色の瞳が三日月のように鋭く笑む。

「――ほおら、見つけました。ふふ、さあ、最後の狩りの始まりです。最高に足掻いて、苦しみながら、私のために消えてくださいねえ、神様?」

 殺意と悪意を撒き散らしながら、八九は上空へと舞い上がった。

 その目を神々しいほどにきらきらと輝かせながら。

 そして、目的地上空に差し掛かったところで、その身は、黒い獣から細身のスーツ姿へと変化して、流れ星の如く地上へと降り立ったのだった。

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