第二章:打算と妥協の果てにある、何か・其の五
《 第二章・打算と妥協の果てにある、何か・其の五 》
ふんふんふん、と昔、どこかで聞いた子守唄だかわらべ歌だかわからない歌を口ずさむ。
物悲しげな、それでいて滑稽な音調が気に入っていて、楽しい出来事があると、ついつい無意識に口から出てしまう。
「――ふふ、これでようやく私は神になれるんですねえ」
人通りの多い遊歩道を歩きながら、ほくそ笑む。
五百年もこの日を待ったのだ。
百の神を殺し、千の人間を殺すのが、厄病神となる者の定め。不可避の試練。
それが叶わなかった神もどき――つまりは、神の卵だった兄たちは、みんな死んでいった。
八九――そう呼ばれる厄病神の卵となる存在は、文字通り、八十九体存在している。それらを総じて八九と呼ばれているが、彼はそのなかの十二番目の兄弟にあたる。
一番目から十一番目までの兄たちが失敗して消滅しために、十二番目である自分こそはと意気込んで旅を続けてきたものの、忘れられた神を探すのは容易くはなかった。風の便りや伝承からそれらしい場所をあぶり出し、神を呼び出すための餌となる人間を探し出す。面倒くさい作業を嫌々ながらもこなし、兄弟の誰もが行き着くことのできなかったところまでやっと辿り着いた。
八九は、今にも踊り出しそうな足取りで歩きつつ、脳裏に、神となった自分の姿を思い描く。そのたびに、あるはずのない心臓が弾むような感覚を覚えて、さらに気分が高揚してくる。
そのときだった。
どろりとした甘ったるい香りが鼻先を掠めたのは。
「!」
その花の匂いは、身体どころか思考にまとわりつくようにして香り立つ。
「…忌々しいですねえ、神花という奴は」
神の花と書いて、シンカと呼ぶ。その花は、土地によって様々な種類があるが、この土地を守る神、つまりは土地神のシンボルとなっているのが、クチナシの花だ。
町を見渡せば、ありとあらゆるところにその姿を見ることができる。
公園、学校の校庭、人家の庭、遊歩道。
あちこちに植えられたクチナシの花は、大地に根を張り、神気を放っている。まるで、町を守るかのように、人々を災いから遠ざけようかとするように。
「――…それにしても、人間どもはどこまでも能天気ですねえ」
神花は、季節、時間帯に関わらず、一年中、咲き誇っている。夜だろうが朝だろうが、冬だろうが夏だろうが、関係なく咲いている。そのことを、この町の誰もが不審に思わない。それはつまり、忘れられた神が関係しているためだ。
「……最後に殺す神に相応しいですねえ。土地神とは」
これまで殺してきた忘れられた神とは、格が違う。今までは、せいぜいが小さな町の一角、朽ちた神社に棲みつき、八九から逃げ隠れることだけを考えているような輩ばかりだった。とはいえ、相手は神なので、こちらも死にそうな目に何度も遭ったが、それも今となってはいい思い出であり、経験である。
「…ふふ、あと一人の人間と一体の神を殺せば念願が叶うと思うと――顔がニヤけてしまいますねえ」
殺す人間は、最初から決めている。
東雲悟。
あれほど、馬鹿で愚鈍な人間には出会ったことがない。
「実に、楽しみですよ。自分が騙され、殺されることになるだなんて思いもしてないんですから」
きっと、想像以上に激情をぶちまけ、醜態をさらして命乞いしてくるに違いない。涙だか鼻水だかわからないもので顔中を醜く汚して、血を垂れ流し、それこそ、痛みと恐怖に支配されて――。
「ああ、想像すればするほど、待ちきれませんねえ」
馬鹿な人間の末路というものは、いつ見ても愉快だ。
それに比べて、千鶴は面白くない。
死を待ち望み、一片の恐怖もなく受け入れている。しかも、かなり頭の回転が速く、機転が利く。ああいう人間は、厄介だ。
「――私の悪い癖ですねえ」
厄介なものに、あえてちょっかいを出してしまうのは。
彼女自身の寿命を対価にして痛覚を奪ったのは、少しは人外の者に対する恐怖心なり尊敬なりを持ってほしかったからだ。しかし、彼女は驚きこそすれ、思った以上の反応を示さなかった。
「殺し甲斐がなくていけませんねえ、ああいう人間は」
しかし、どうせ放っておけばそのうち消えるのだから、気にかける必要はない。
それよりも、今夜のことを考えるべきだ。
「…東雲さんを殺し、この土地に潜む忘れられた神を殺す。これで、ちょうど千の人間と百の神を殺した私は、晴れて厄病神を名乗ることができるわけですが――問題は、相手が土地神だということですかねえ」
土地神は、神のなかでも力が強いと言われている。しかも、他の神が持たない特殊な能力を持っていることが多く、油断はできない。
「…その能力がわからない以上、隙をついて殺すしかありませんが」
神の隙をつく、と簡単にいっても、それは容易いことではない。しかし、今回に限っていえば、こちらに利があると八九は考える。
「……神は、本能的に子供を守るようにつくられてますからねえ。あの子供をうまく使えば、意外とあっさり殺せるかもしれません」
しかし、問題は、神が子供を殺されて激昂した場合だ。暴走してしまえば、おそらく、殺されるのはこちらだ。何せ、相手は正真正銘の神様で、こちらは神もどきなのだ。もともとの実力からして違いすぎる。
だからこそ、こちらは頭を使わなくてはいけない。
神を殺す。それだけに神経を集中させなくては、勝てない。
「――何はともあれ、できることはやっておきましょう」
時間の許す限り、町中の神花を消す。
神花は神の使いであり、神の一部でもある。神の本体は病院のどこかにあるので、その周辺の神花を潰してしまえば、それだけ神の力も弱まるという寸法だ。
「さあて、面倒ですが、夜までひと働きしますかねえ」
肩をぐるりと回す仕草をして、八九が呟く。
そして、手近にあったクチナシの白い花をつかみ、引き千切る。
パキリと音がして、花が落ち、その花を靴底で荒く踏みにじる。
「…伊達に、八九として生きてきたわけじゃないんですよねえ、これが」
枝の折れた部分に、八九の指先が触れた。それだけで、木の枝がびくりと震え、みるみるうちに枯れ始める。
「――まったく、この周辺だけで一体どれだけあるんでしょうねえ?」
ぼやきながらも、手早く作業を続ける。この町に目をつけた段階で地道に作業してきたのだが、枯らしても翌日には再生するので、きりがない。
とりあえず、病院の周辺二キロほどの神花を枯らしたところで、真っ暗な空に満月が明るく輝き始めた。
「…さて、そろそろ行きますか」
その口元に下卑た笑みを浮かべ、糸のように細い目に残忍な輝きを灯した八九が、病院へと向かう。
人気の失せた中庭で、車椅子に腰かけた千鶴と東雲と会った。
彼女の顔色は明らかに悪かった。思った以上の早さで死期が近づいているようだ。
「…こんばんは、八九さん」
彼女は小さな声でいい、強い瞳でこちらを見つめた。
「――おや、千鶴さん、随分と張り切ってますねえ。何か、いいことでもありましたか?」
茶化すような八九の声に、彼女は青白い顔で答えた。
「……私、絶対に神様を見つけようと思います。見つけて、ユーくんのこと、お願いしてみようと思うんです」
「お願い、ですか。これまた、どういうわけです? 安っぽい同情に突き動かされたわけでもないでしょうに」
八九の言葉に、彼女はうつむいた。
「……聞いたんです、私。お医者様に、ユーくんの病気のこと」
「そうですか。それで、何と?」
「……ユーくん、私とは違うんです。時間が経てば経つほど筋肉が弱っていって、歩くどころか食べることも喋ることもできなくなって、そのうち、呼吸もできなくなるんだそうです」
「おやおや、それはまた難儀なことで」
「…私、知らなかったんです。そんなひどい病気があるなんてこと。私は――自分の足で歩けなくても、食事も話もできて、趣味の読書だって楽しめるんです。不自由ではあっても、それでも、何とか今まで生きることができた。小さくても、楽しみがあった。でも、ユーくんは、何もできなくなるんだそうです。ただ、ベッドの上で苦しむことしかできないなんて――そんなの、あんまりだわ。あの子が――あんなに、元気に笑って話せる子がそんなふうになるなんて、考えただけでも怖くてたまらないんです」
そう言った彼女からは、これまで感じなかった恐怖や不安が伝わってきた。
(――これは、意外ですねえ)
まさか、自分のことでは動じない彼女が、初対面の子供のために心を動かせるとは。
(……予想外に、いい傾向です)
ひっそりとほくそ笑む。
負の感情は、悪神のエネルギーになる。それは、厄病神の前身である八九にも同じことが言える。
八九は表面上は穏やかに、しかし、内心では歓喜しながら告げる。
「――ちょうどいいではありませんか、千鶴さん。神に直訴すれば、きっと、叶うでしょう。もっとも、神に出会えればの話ですが」
わざと、試すように言ってやる。
すると、彼女は青白い顔からは想像もつかない強い口調で言い切った。
「絶対に、探してみせます。あの子は――…ユーくんは、生きるべきなんです。元気になって、幸せになるべきなんです。だから、私――頑張ります」
いい傾向だ。その強い気持ちが、一途な情愛こそが、神をおびき出す格好の餌になる。
そして、月が明るく照らすなか、由宇がやってきた。
千鶴を見るなり、彼も察したようだ。彼女の生命が、もうすぐ尽きようとしていることに。人の死を前に揺れる子供の恐怖と不安に満ちた心が、これまた心地よく伝わってくる。
(……ああ、何と素晴らしいんでしょう!)
力が、漲る。
自分でもわかるほど、活力に満ちている。
「……八九さん、そろそろ行きましょうか」
決意を込めた千鶴の声に、八九が頷き――。
とうとう、運命の瞬間が、じわりじわりと近づいてくるのを身をもって実感した。
千鶴たちから十歩ほど離れた場所を歩きながら、鼻歌を歌う。
陽気なようでいて、陰気な歌。
いつ覚えたのか、よく思い出せないそれを口ずさむうち、ふと、異変に気づいた。
どうやら、土地神が何かしら勘づいたようだ。
瞬時に視界に濃い霧のような白幕が引かれ、景色が切り替わった。