第二章:打算と妥協の果てにある、何か・其の三
《 第二章・打算と妥協の果てにある、何か・其の三 》
昔からある、奇妙な噂。
この病院には、一人の女の子の幽霊が棲んでいて、死期が近づくと様子を窺いにやってくるのだという。
そんな不思議な物語は、病院内に限らない。学校や公園など、ここら一帯を舞台に、いくつも似通った話があった。
(…でも、幽霊だなんて…)
子供騙しだと思う。
しかし、本当に幽霊がいるのなら、一度会って話がしてみたい。
幽霊の少女ならば、千鶴が一番知りたがっていることを知っているだろうから。
(……死ぬって、どんな感じなのかしら?)
そう遠くない未来、自分が死ぬとわかったときから、ずっと考えている。
死んでしまえば、病気の苦しみから逃れられる。楽になれる。その代わり、最愛の両親と離れ離れになってしまう。
(――親より先に死ぬなんて、これ以上の親不幸はないわね)
だから、千鶴は思う。
死んでも、きっと楽にはならないだろうと。
病に苦しんでいる今以上に、もっと辛い思いをするのだろうと。
親不幸な娘は、どこまでも苦しみ続けなくてはいけないから。
(…そうでなくては、公平ではないもの)
娘だけが楽になって、親だけが悲しみ、苦しむなんておかしい。死んだからといって、親子の絆が切れるわけではないのだ。これから先、両親は娘を救えなかった無念を抱えて生きることになる。死んだからといって、娘である自分がその苦しみの一端を担わないでいい法なんてない。
(……いっそのこと、忘れてくれればいいのに)
千鶴という病身の娘がいたという事実。
それが両親を苦しめるというのなら、いっそのこと、何もなかったことになればいい。そうすれば、誰も苦しんだり後悔する必要はなくなるだろうから。
(……でも、そうなったらなったで、私はどこに帰ればいいのかしら?)
墓標もなければ、入るべき墓もない。そうなったら、無縁仏にでもなってしまうのだろうか。
それはそれで寂しい話だ。でも――…そのほうが、救われる。全身全霊で娘を守り、愛してくれた両親の失意や無念を思えば。
ふと、窓の外を見る。
外の世界は、いつも明るいか暗いかのどちらかの表情しか見せない。
晴れ、もしくは、薄曇りの日は明るくて、それ以外の日は暗い。特に、雷雨の日なんかは夜みたいに真っ暗で、ごろごろと虎か何かの猛獣が唸り声をあげているような音がして、何とも恐ろしい。そのくせ、稲光は花火のように輝やいて見えて、とても綺麗だと思う。
「……今日は、空が変ね」
晴れているのに、何だか暗い。
目の前に薄いグレーのフィルムでも張られているみたいな感じだ。
思えば、今朝は体調があまり優れなかった。食事は、点滴が必要になるぎりぎりのところで調整している。そのせいだろうか。ひどく、胃の辺りが重くて、頭を見えない誰かに力いっぱいつかまれているような気がする。
そして――こういう日は、決まってある人物が見舞いにやってくる。
「おやおや、千鶴さん。今日はまた、顔色がよろしくないですねえ。ちゃんと食事はとっているのですか?」
真っ黒な長い髪を一本にまとめ、切れ長どころか細すぎて糸みたいな目をした、不気味な男。慇懃なようでいて、どこか人を見下したような口調の彼は、二週間前に東雲と共に現れ、頻繁に千鶴の病室を訪れるようになった。
――どうも、こんにちは。初めまして、私、八九と申します。
そう初対面で自己紹介した彼の第一印象は、気味が悪い、の一言に尽きた。
何が、と聞かれてもはっきりとはわからないが、とても嫌な感じのする男だった。
胡散くさい笑顔もそうだが、その口調も、声も、何もかもが禍々しい。
(…東雲さんも大概、他人を蔑んでいるけれど)
この八九という男は、その比ではない。
まるで、人間がサルを馬鹿にするみたいに――まったく別の種族を見ているような眼差しでこちらを見るのだ。それは、不快と感じるよりも、むしろ恐怖に近い感情を派生させる。
(……まるで、人間ではないみたいな…)
例えるなら、動物園に遊びに行っているときに、猛獣が一頭抜け出して、あの手この手でうまく人ごみに紛れこんでいるような――。
(…普通に考えて、そんなことあるはずがないけれど…)
明らかに人間でない者がいれば、周囲の人間がそれと気づくはずだ。しかし、誰も何も言わない。それはつまり、八九が正真正銘、人間だと証明しているのと同じだ。
それなのに――何故、こんなことを考えてしまうのだろうか。
彼が、人間の皮を被った化け物ではないのか、と。
「どうしたのですか、千鶴さん? そんなに真剣な眼差しで、こちらをじっと見つめて。ああ、もしかして、男前な私に見惚れていたりします? ふふ、いけませんねえ、婚約者のいる身でありながら、不貞を働いては」
「違います。そうではなくて」
千鶴は、怯えにも似た感情を抱えながらも、どうにか平静を装うことに成功した。
「…こうも頻繁に見舞いにこられては、気にするなというほうが無理でしょう。私に何か個人的に用があるのではありませんか?」
単刀直入に訊くと、彼はポリポリと頭を掻いて笑った。
「ふふ、敵いませんねえ。女性は勘が鋭いというのは、真実のようです。さて、どこからお話したものか」
手近にあった椅子を引き寄せる八九を見つめながら、千鶴が口を開いた。
「…まずは、東雲さんとの関係から、というのはどうでしょう?」
その提案に、八九がにやりと唇を歪めた。
「…おや、それはまた意味深な発言ですねえ。まあ、いいでしょう。ぶっちゃけ、貴女には協力してもらわなくてはいけませんからねえ。どちらにしろ、話すつもりでいたんですよ」
ちろりと真っ赤な舌先で唇を軽く湿らせてから、八九は背を丸めた。
そして、ベッドに片手をつき、上半身を突き出すようにして千鶴に顔を近づける。
「――この病院のどこかに、祠があるんですよ。忘れられた神が眠る、神秘の祠がね。ご存じありませんか?」
「祠、ですか? いいえ、知りませんし、聞いたことがありません。それがどうかしたんですか?」
この病院に入院して二年以上になるが、そんな話は知らないし、そんなものを見かけたこともない。
首を横に振る千鶴の様子に、八九はがっかりしたように吐息して、顔を離した。
「――いえね、実は私、その祠に用があるんですよ。もっと正確にいえば、そこにいる神様に絶対に会わなければいけない、というべきでしょうか」
「…神様に会いたい、ですか? 随分と信心深いんですね」
見た目と違って、と言いかけて、やめる。皮肉ってみたところで、何の得もないからだ。
八九は、千鶴の言葉にどこか嬉しそうに微笑み、
「ええ、信心なくしては神に会えませんからねえ。まあ、それで、東雲さんにいろいろとお話したところ、協力してやろうと言ってくれまして。差し当たって、その婚約者でもある千鶴さんにもお願いしてみようと思い立ったわけですよ、はい」
「…東雲さんが協力、ですか?」
意外な話に、ちょっとばかり驚く。
(…あの利己的な東雲さんが協力するなんて……)
これは、ただごとではない。
千鶴は、わずかに背筋を伸ばした。
「…無償で協力を買って出た、というわけではないのでしょう? 報酬は何ですか?」
歯に衣着せぬ鋭い質問に、八九が楽しげに肩を揺らした。
「ふふ、はははっ。本当に千鶴さんは聡明な女性ですねえ。感服しました。いいでしょう、教えて差し上げましょう」
八九の糸目が、すうっとかすかに開く。
「――彼は、神になりたいんだそうですよ。この病院に眠る神を殺し、その地位を得る。それが、彼の願いであり報酬なんですよねえ、これが」
「…神様になる? 本気ですか?」
とても、正気の沙汰とは思えない。
人間は、人間以外の何モノにもなれない。それは、常識だ。
「……東雲さんは、どうかしているわ」
その呟きに、八九が同意する。
「そうでしょうとも、人間如きが神になれるなどと、思い上がりも甚だしい。ですが、彼は本気でそれを願っているんですよ、困ったことに。ですが、まあ、話し合い次第では、それも可能かもしれませんけどねえ」
「? どういうことですか?」
八九は、わざとらしく周囲に視線を向けて、誰もいないことを確認してから告げた。
「…実は、私が探している神というのは、出会った者の願いを何でも一つだけ叶えてくれるといわれていまして。ええ、それも眉唾モノなんですが――もし、本当なら、面白いと思いませんか? 普通なら叶えられないような願いを、何でも叶えられるなんて」
「――願いを何でも…?」
「そう、何でも一つだけ。千鶴さんにもあるんじゃないですか? 叶えたいのに叶えられない願いって奴が」
低く囁く声は、まるで脳に沁み込むようにして響き渡る。
(……私の願い…)
ある。たった一つだけ。自分では叶えられない、途方もない願いが。
「――本当に何でも叶うんですか?」
半信半疑で訊ねる。
すると、八九は自信満々にこう言い放った。
「ええ、何でも、です! まあ、本当に神様がいれば、ですけどねえ。でも、願って損はないと思いますよ? どうせ、死ぬまで何もやることがないんでしょう? だったら、無意味かもしれない祠探しを手伝うのもまた、一興。いえ、婚約を了承してくれた東雲さんの恩義に報いるためにも、協力すべきです」
「――…手伝うのは構いませんけど…ただ、足手まといにならないかしら」
いくら暇だからといっても、自由にあちこち出歩けるほど健康ではないし、協力といっても何ができるわけでもない。
それでも――八九の言葉には妙な説得力があった。
(…そうよね、東雲さんには嫌々婚約してもらっているんだもの。それくらいしなくては、申し訳ないわよね)
せいぜい、邪魔にならないようにしなくてはいけないが――病状によっては、協力できない可能性もある。
迷うようにうつむいた千鶴の手の甲に、氷のように冷たい八九の手が触れた。その瞬間、電気のような鋭い痺れが走り、違和感が身体中を駆け抜けた。
「どうです、少し元気になったでしょう?」
八九が悪戯っぽい声で訊いてきた。
「……え、ええ。何だか、身体が少し軽いような気がします」
実際、病に苛まれて重く感じていた身体が、ふわりと羽のように軽くなった。まるで、発病前の健康な状態に戻ったように。
「――八九さん、何をしたんですか? 今、何かしたでしょう?」
心なしか、自分の声に張りが戻ってきているような気までしてきた。
そんな千鶴に微笑み、彼は言った。
「なあに、単純な話ですよ。千鶴さんの寿命を代償に、痛覚をなくしただけですからねえ」
「――…痛覚を…?」
予想外の答えに、思考が鈍る。
「それはつまり、どういうことですか?」
表情を強張らせる千鶴に対し、八九は残酷なくらい満面の笑みを浮かべてみせた。
「ああ、ですからね、千鶴さんの寿命が縮む代わりに、貴女の苦痛を消して差し上げたんですよ。等価交換、って奴ですかねえ」
「…等価交換?」
要するに、病による痛みを消す代わりに、千鶴の残り少ない生命力を使った、ということだろうか。
だが、そんな常識外れな魔法みたいなことができるなんて、到底信じられない。錯覚か暗示か、何か、そういうイカサマめいた何かが起きたとしか思えない。だったら、頬をつねってみれば、すぐに元に戻るはず。そう思って頬をつねってみたが、変化はない。身体は、本当に病気なのかどうか疑いたくなるくらいだ。もっとも、足に力が入らないので、車椅子生活は続きそうだが。
「……八九さんは、何者なんですか?」
訊く声が、彼に対する畏怖で震える。
その小さな問いかけに、彼は愉しげに笑った。
「東雲さんと同じことを訊くんですねえ。もっとも、彼の発した質問とは、ニュアンスが異なるようですが」
「…茶化さないでください。貴方、本当に人間なんですか? 私と東雲さんを利用して、何を企んでいるんですか?」
単刀直入な質問に、八九は気分を害するどころか、上機嫌になった。
「本当の企み、ですか? 面白いことを言いますねえ。まあ、一言で言えば、叶えたい願いって奴があるのですよ、この私にもね。故に、それを叶えてくれる神を探している、といったところでしょうか」
「――それでは、不充分です。私が本当に訊きたいのは、貴方の正体なんですから」
「正体、ときましたか。ふふ、いいでしょう。すでに、東雲さんにも明かしていますしね」
八九は勿体ぶるように間を置いて、
「――実は、私、神様なんですよ、こう見えて。とはいっても、まだまだ半人前でして。一人前になるためには、本物の神様のお墨付きをもらわなくてはいけないんですよねえ、これが。本当に面倒で敵いませんよ。神々の世界も、人間界同様、規則だの何だのあれこれうるさくて」
どうにかなりませんかねえ、と嘆く彼が真実を告げているのかどうか、判然としない。しかし、彼が神様だというのなら、今の状況について納得がいく。
神様だから、人間には不可能なことができるのだ、と。
あまりにも非現実的で信じがたいが――…嘘だと断言できる要素は、何もない。
「……八九さん。今の話が本当だとするなら……私はあと、どれだけ生きられますか?」
健康になったという表現は、正しくない。正確には、病気による痛みや疲労感が消えたにすぎないのだろう。その証拠に、手足にうまく力が入らず、自由に動けない。
八九は、ちょっと考える素振りをして、
「…そうですねえ。四、五日もてばいいほうですかね。最初から、あと一、二カ月ってトコでしたから、そんなもんでしょう。でもまあ、死期が近いほうが神に会える確率が増えますし、祠を見つけやすくなってよかったんじゃないですかねえ?」
「……そう、四、五日…。その間に、祠を見つければ、私の願いも叶うということなのね」
最初から、病気を治すなんてことは考えていない。未来なんて、自分にはないものだと思っていたし、今も、そう感じているから。
(…たとえ元気になったとしても、どの道、私は死んでしまうもの)
生きることで両親の心を救えるかもしれないが、きっと、東雲がそれを許さないだろう。
(……あの人は、私に死んでほしいと願っているから)
打算で婚約を承諾したことを、恨んでいるわけではない。自分に向けられる感情が殺意に似た何かであることもわかっている。故に、彼との未来にあるものが死だとわかっている以上、長生きしたいなんて気持ちは起きない。
(…違う、そうじゃないわ)
たぶん、自分は、生きることに疲れてしまっているのだ。だから、自分の未来を夢見ることができない。生に執着が持てない。それなら、いっそ、全部なくなってしまえばすっきりする。
両親や友達、親戚。病院のスタッフや、この病院で知り合った人たち。出会ったすべての人々の記憶から、藤坂千鶴という人間に関する記憶を消すことができるなら――何の未練もなく、千鶴は死ねる。何の後悔もなく、両親も笑って暮らせるようになる。
これで、何もかもが、うまくいく。
もっとも、本当に、願いを叶える神様なんてものがいるとしたらの話だが。
(……何にせよ、神様の話を聞いたことは東雲さんには秘密にしておかないと…)
真偽がどうあれ、東雲は、本音も目的も千鶴には伏せている。つまり、知られたくないということだ。それは、心のどこかに後ろめたい気持ちがあるからだろう。
誰にだって、知られたくないことの一つや二つあるものだ。秘密を持つのは、悪いことではない。むしろ、人間ならば、それくらいあって当然だ。もし、それがない人がいるとしたら、それは神仏の類か、もしくは、自分には秘密なんてないと勘違いしているだけだろう。
(…不思議なものね。もうすぐ死んでしまうと思ってたのに、新しい秘密ができちゃうだなんて)
簡素なベッドの上で、何もできずに死ぬ瞬間を待ち望むしかできなかったのに。
思いがけず、小さな楽しみを見つけてしまった気がする。しかし、それは同時に、破滅的な要素も含んでいることを、千鶴は敏感に感じ取っていた。
千鶴が、きゅっと表情を引き締め、八九を見据える。
「…八九さん。貴方が何を企んでいたとしても、それは私には関係ありません。貴方の言う通り、私にも願いがあります。結果的にそれが叶わなかったとしても、誰も責めたりはしません。でも、何もしないで諦めてしまえば、きっと、後悔するから――だから、祠探しを手伝います。神様に会って、私は……私は、何もかも変えてしまいたいから」
長く生きたいなんて、望んではいない。望む気もない。だから、願うのは、ただ一つ。自分の死で誰も悲しんだり後悔しない未来。千鶴の死がもたらすであろう、両親の涙を、深い悲しみをとめること。それだけだ。
(――そのためなら、私は何だってするわ)
そう、たとえ、死期を早めることになったとしても。
この八九という男が、悪魔の如き狡猾さと残忍さをもっていたとしても。
(……もう、私には失うものはないから)
想うのは、両親や家族、友人たち。その人たちさえ笑って暮らせるのなら、それだけでいい。
千鶴の強い決意を前に、八九は柔和な笑みを浮かべた。
「――…ふふ、いい目をしてますねえ。ならば、私も、そろそろ本格的に準備をしなくては」
そう言って、すうっと音もなく席を立つ。
「それでは、千鶴さん。また、明日」
恭しく頭を垂れてから、尻尾のような長い黒髪を揺らして八九が病室を出ていく。
それからしばらく経ってから、千鶴は再び窓の外を見やった。
「……本当に、おかしな人だわ」
いつも、八九が帰ったと思ったら、急に空が明るくなる。トンネルから外に飛び出したみたいに、眩しい光が窓から差し込んでくる。
「――…また、明日…」
これまで聞いたことのない八九の言葉に、千鶴は目を伏せた。
きっと、明日、何かが起こるのだろう。
八九にとって、大事な何かが。
千鶴にとっては、新しい何かが。
それがいいことなのか、どうか。
考えたところで、明確な答えは導き出せそうになかった。