第二章:打算と妥協の果てにある、何か・其の二
《 第二章・打算と妥協の果てにある、何か・其の二 》
「東雲さん、本当にいいんですか? 私、もうすぐ死ぬんですよ」
婚約すると告げたとき、彼女は伏し目がちにそう告げた。その声は小さく、そよ風にすら吹き飛ばされてしまいそうだった。
(――どこまでも、陰気な女だ)
その肌にも髪にも唇にも、生気が感じられない。
生きながら死んでいる、そんな印象が拭えない。
以前ならば、不快の一言に尽きるような女だが、今では好意すら感じる。
(……この女が死ねば、僕は神になれる!)
それまでの辛抱だ。
どうせ、長くはもたない。万が一、長く生きそうなら、薬でも盛って殺してしまえばいい。病院側としても早くいなくなってくれたほうが、面倒がなくていいだろう。
幸い、千鶴は我儘らしい我儘を言わない、物静かな女だった。
具合のいいときは、ベッドから少し身を起こし、読書をして過ごす。
ときどき、形ばかりとはいえ、見舞いにフルーツを差し入れてやったら、消え入りそうな儚い笑顔を浮かべて礼を述べる。
「…ありがとうございます、東雲さん」
そう言いながらも、与えたフルーツに手をつけない。もしかして、毒でも盛ってあると疑っているのだろうか。そう思ったが、聞けば、食事もろくにとっていないらしい。
(――どうせ死ぬとは言っても、食事がとれないほど悪いようには見えないが…)
別に、彼女が食事を拒否したところで、興味がない。むしろ、死期が早まるから、万々歳といったところだが――ときどき、こちらを見る彼女の視線が気になった。
同情、いや、哀憐の情の込められたその瞳に見つめられるたびに、ひどく落ち着かない気分にさせられる。
苛立ったように貧乏揺すりをしていると、彼女がふと思い出したように言った。
「……私、知ってるんです。東雲さんが私を嫌いなことくらい。それでも、婚約を了承してくれたこと、すごく感謝してます。これで、父も母も、少しは心の荷が下りたでしょう。ですから、東雲さん。言ってください。私をどうしたいのか」
「――どう、とは?」
ひやりとした。早く死ねばいいと祈り続けていることを見透かされたような気がして、心臓が冷えた。
彼女は、わずかに顔色を変えた東雲に優しく言った。
「…婚約したのは、何か、私にしてほしいことがあるからでしょう? もしくは、上司である私の父に頼みがあるとか。何でも言ってください。私にできることなら、どんなことでもしますから」
「――何でも、だと?」
もうすぐ死人になる女に、何ができるのか。
だいたい、上司だの昇進だの、そんなちっぽけなものに縛られていては神になどなれるはずがないではないか。
しかし――東雲のために千鶴ができることが、たった一つだけある。
「…早く死ね。お前にできるのは、それくらいだろう」
無情に放たれた言葉に、彼女は傷つくわけでなく、にっこりと笑顔を返して頷いた。
「そう言うと思いました。ですから、可能な限り食事は控えるようにしてるんです」
病に抗うには、体力と気力がモノをいう。食事を拒むということは、すなわち、身体的衰弱を意味し、身体が弱れば、自然と気力も失われていく。
要するに――彼女は、気づいていたのだ。
東雲が、自分の死を願っていることを。
(――この女、一体、どういうつもりだ…?)
いくら両親を安心させるためとはいえ、頭がどうかしているとしか思えない。自分の死を望むような男との婚約に異を唱えるどころか、その望みを叶えるべく食事を控えるだなんて、正気の沙汰ではない。ましてや、彼女は東雲のことを愛しているわけでもなければ、特別な思い入れがあるわけでもないのだ。
この婚約は、彼女にとっては、死後に残される両親の心を少しでも軽くするためだけのもの。そして、東雲にとっては、人生の転換期そのものにあたる。
(…この女が死ねば、証明できる)
自分が、この世界の誰よりも特別な存在だと。
選ばれし稀有な運命の持ち主だと。
つまり、この婚約は、東雲と千鶴。二人の打算と妥協の末に行われた約束にすぎない。
(…僕は、彼女が死ぬまでの、短期間だけ我慢すればいい)
死んでしまえば、それで終わり。
東雲は新たな存在へと生まれ変わり、彼女は死人として葬られる。そこでくだらない縁は消える。それなのに――彼女は、憐憫の情をこめた瞳でこちらを見つめてくる。
「――私は、長く生きるつもりはありません。お医者様にも、これ以上の延命治療はしないでほしいと伝えてあります。家族には申し訳ないけれど……わかるんです。私が生き長らえている事実そのものが、両親の足枷になっているのだと」
「……足枷?」
東雲にとっての足枷は、自分が人間であるが故に逃れられない運命。限られた時間、才能、人徳、運。それらに縛られ続ける不運そのもの。
しかし、彼女は睫毛を小さく震わせながら呟く。
「…私を生かすために、多額の治療費が支払われていることはご存じでしょう? それを捻出するために、家財を売り払い、家を手離し、今では母の実家に身を寄せて何とかやりくりしているんです。これ以上、私のせいで家族が苦しむのは見たくないんです。ですから――私は、早く死ななくちゃいけないんです」
その声には、怯えや恐怖といった感情はなく、潔いほどの清々しさがあった。
その姿は、何にも縛られることのない自由な風のようで――。
一瞬――そう、ほんの一瞬だけ、羨ましいと感じてしまった。
「……千鶴さん、会わせたい奴がいるんだが」
唐突にそう切り出したのは、一瞬でも目の前の幽霊みたいな女に心を揺るがされたからかもしれない。
突然、話題を変えた東雲を不自然に思いながらも、彼女は深く追及しようとはしない。こくりと頷き、話を促してくる。
「会わせたい人、ですか? ええ、構いませんよ」
どなたですか、と訊く彼女の問いに、東雲はわずかに怯んだ。
(――…誰、だと?)
確か、名前は八九とか言っていたが、それ以上の情報は何もない。ただ、東雲を神にするために現れた謎の男、それ以上でもそれ以下でもない。
(…いや、そもそも、あの男をこの女に引き合わせる必要なんてないはずだ)
そんなこと、考えずともわかっていたはずなのに――何故、会わせたいなどと言ってしまったのか。会わせたからといって、この女の死期が早まってくれるわけでもないのに…。
自分の言葉に首を傾げつつも、東雲は話を続けた。
「…八九という男だ。僕の知り合いで、ちょっと変わった奴なんだが」
「変わった人、ですか? ふふ。私からしてみれば、東雲さんも充分、変わった人だと思いますけど」
「僕はまともだ。おかしいのはお前のほうだろう」
言い返してやると、彼女はくすくすと楽しげに笑った。木の葉が小さく揺れるようなささやかな笑い声をあげて、
「あら、そういうことなら、みんな変ってことになりますね。だって、そうでしょう? 私は死にたがりで、東雲さんは死にかけの女と婚約して――その八九さんとおっしゃる方は、一体、どんなおかしな方なんでしょう? お会いするのが楽しみだわ」
「――この僕を、お前たち如きと一緒にするな。いいか、僕は、お前たち烏合の衆とは格が違うんだ。こうして普通に話せていること自体、光栄なことだと思うべきなんだ。それなのに、この僕を変人扱いするとは、どういうことだ?」
不快げに反論するが、彼女は楽しそうに目を細めるばかりで、こちらの文句を聞き流している。
そんな彼女の様子に吐息して、東雲は席を立った。
「…お帰りですか?」
訊く声に、どこか物寂しげな響きがあるのは、きっと気のせいだろう。
彼女は、いつも通り、どこか冷めた瞳で微笑む。
「さよなら、東雲さん。気をつけて帰ってくださいね」
「……ああ」
おざなりな声を返し、東雲は彼女に背を向ける。
ドアをくぐり、さりげなく彼女の様子を窺ってみると、彼女はこちらを見送ることなく、窓の外を見つめていた。
窓の向こうには、空が広がっているだけ。
少し開いた窓から吹き込む風は本当にわずかで、髪を揺らすことさえない。
それなのに、ふわりと甘く柔らかな風が頬を掠めた気がした。