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第二章:打算と妥協の果てにある、何か・其の一

      《 第二章・打算と妥協の果てにある、何か・其の一 》



 ――時間は、少し遡る。


 東雲悟という男は、人間不信と自己愛だけを持って生まれたような人間だった。

(…名声や権力なんてものは、所詮まやかしにすぎない)

 それらは、指の隙間から零れ落ちていく砂塵と同じだ。

 人間は、あまりにも無力すぎて、どんなに逃がさないように捕まえていても、気づけば大事なものを手放してしまっている。そして、再び手に入れようとしても、決して同じものはつかめない。

 それはつまり、人間が手に入れられるものは限られているということを証明している。

 だから、東雲は、最初から失うとわかっているものを求めたりはしない。

 絶対に、この手から零れ落ちないものだけをつかむと心に決めている。

(――僕にとって、それは何だ?)

 欲しいモノは、無数にある。

 一生をかけても使いきれないほどの金や豪邸、いい女。誰もが羨むほどの容姿や、他者の追随を許さない高性能な頭脳。この世界で得られそうなものといえば、その程度だ。しかし、そのどれも、ただでは手に入らない。

 それらを得るには、生まれついての家柄や才能、幸運が必要になる。そこに、努力なんて曖昧な要素は含まれない。必死になって努力したところで、秀才は天才の持つ天性の閃きを得ることはできないし、どんなに頑張ってみても、生まれついての大金持ちには敵わないからだ。

 よって――欲しいモノのために足掻くことは、馬鹿げている。

 努力すれば報われる?

 そんなのは、自分の限界を知らない愚か者の言うセリフだ。

(……僕が、真に望むモノは何だ?)

 両親は冴えない農民で、毎日、害虫の駆除や天候の変化に振り回され、あくせく働いて、わずかばかりの収入を得て喜んでいるくだらない人間だ。

 たった一人の兄は、そんな親を誇りだと言い張り、貧しい農家を継いだ大馬鹿野郎。

(……僕は、兄さんのように惨めな生きかたはしない)

 泥まみれになって、土と共に生きて死ぬなんて無意味な生き恥をさらしたくはない。

 そう、自分は、もっと素晴らしい人間のはずなのだ。

 あんな、土を弄るしか能のない両親とは違って。

 あんな、不細工な妻を娶り、泥臭く生きる低能な兄と違って。

 家族を疎めば疎むほど、自分は特別な人間でなくてはおかしいと思えてくる。

(…何故なら、僕は、知っているからだ!)

 生まれついて、持つ者と持たざる者がいることを知っている。

 運命は残酷だと知っている。

 神様が不公平だと知っている。 

 そう、何もかも知っているのだ、自分は。兄や両親と違って。

 まるで、神か悪魔のように。

 報われない世界の真実を知っている。

 そんな自分が、その他大勢の人間と同じレベルのはずがない。

 だから、他の誰かには達成不可能な、特別な使命を与えられているはずだ。

 それなのに――それが何なのか、見当がつかない。

(……僕は、何を得るために生きている?)

 子供の頃から、ずっと抱え続けてきた疑問。

 自分に与えられているはずの、素晴らしい未来。

 それを見つけさえすれば、何もかもがうまくいくはずだ。

 無能なくせに偉ぶった上司に嫌味を言われることもなければ、同僚の胸クソの悪い同情の視線にさらされることもない。

(…何もわかっていない、愚鈍な奴らめ!)

 自分は、会社に雇われているのではない。わざわざ、こちらが選んで働いてやっているというのに、あの低能すぎる猿どもときたら、何も理解していない。

 くだらない仕事、屈辱的な時間。退屈で無意味な日々。それから逃れるには、どうすればいいのか。そんなことを考えていたとき、転機が訪れた。

 上司から、縁談を持ち込まれたのだ。

 相手は、病身の娘。いつ死んでもおかしくない、顔色の悪い陰気な女。

 一目見て、まるで、死神のような女だと思った。

 肌は透けるように白く、蝋人形みたいで気味が悪い。腕も首も痩せていて、木の枝でもくっつけているみたいだ。唯一、唇に差した紅だけが忌々しいほど赤く輝いて、生気の失せた眼差しは見ているだけでこちらの寿命までも吸い取ってしまいそうだった。

 当然ながら、婚約を承諾する気はなかった。

 あんな女、自分には相応しくない。

 路傍の石以下の存在だ。馬にでも蹴られて死んでしまえ。

 そう思っていた。しかし――ある日、東雲は出会った。

 運命に。

 自分が得るべき、素晴らしい野望に。

「――永遠を手に入れたいと思ったことはありませんか?」

 暗い夜道。

 ひょろりと細長い、初見のはずの灰色のスーツを着た男が、すれ違いざま、耳元で囁いてきた。

 黒い髪は首を縛るロープのように長く伸びて、細い両目は狐のように狡猾な印象がある。

「何だ、貴様は」

 突然現れた胡散くさい男に戸惑いつつも訊ねた東雲に、男は三日月を切り取ったような笑みを浮かべてみせた。

「失礼、名乗るのが遅れました。私、八九と申します。これでも、神様だったりするんですよねえ、これが」

「――神だと? アホらしい。お前如きが神なら、僕は世界の創造主だ」

 小馬鹿にした東雲の視線をいなし、八九は楽しげに話を続けた。

「まあまあ、そうおっしゃらず。貴方は、考えたことはありませんか? 人間は、大事な何かを得るには、あまりにも無力すぎると。もしも、その身に眠る神の如き真の力に目覚めることさえできたなら、素晴らしい未来を勝ち取ることができるのに、と」

「! 貴様、何故、それを知っている?」

 それは、自分だけが知っているはずの世界の真理。

 特別な運命を託された東雲だけに与えられている、特別な知覚。

 そんな、唯一無二の存在であるはずの自分の心を、いとも簡単に読むとは――この男は、一体、何者なのか。

 敵意が瞳に浮かんだのを見た八九は、くすりと小さく笑った。

「知っていて当然ですとも。こう見えても私は、正真正銘、本物の神様なんですからねえ」

「くだらない冗談はいい。貴様は何なんだ?」

 詰め寄る東雲に気圧されたのか、八九は両手をあげて降伏のポーズを取った。

「ですから、私は、八九。神様なんですってば」

「――…貴様が神のはずはない。この僕ですら、そこまで名乗るほど特別ではないのだからな」

「ふふ、そうですとも。貴方は、ここで終わるような人間ではない。何故なら、選ばれた男なんですからねえ。神となるべき、素晴らしい人間。真の力に目覚めさえすれば、誰もが貴方を崇め、敬うことでしょう」

「そ、そうだ。僕は、成功者になるべくして生まれた、特別な人間なんだ!」

 目を閉じれば、その光景が容易に思い浮かぶ。

 偉ぶっていた連中が地面にへばりつき、媚びへつらう姿が。

 何もかもが、自分の思い通りに動く、素晴らしい世界が。

 恍惚と妄想に酔い始める東雲に、八九は猫撫で声で話しかける。

「貴方は、選ばれし者なのです。いずれ、森羅万象さえも支配し、世界そのものを手に入れることも夢ではないでしょう。ただし、それは、今ではありません。今の貴方には、それを得る資格がない。ああ、そんな怖い顔をしないでくださいよ。ですが、考えてもみてください。神の如き力を手に入れるには、人間は、あまりにも脆く矮小すぎる。そんなちっぽけな器で、死までの限られた時間のなかで、どれほどの力を得られるというのでしょうねえ?」

「……それは…」

 生命が有限である限り、いつか終わりがやってくる。

 肉体がある限り、いずれ死んでしまう。

 この手はあまりにも小さくて、弱々しい。

 これまで屈辱以外の何もつかめなかったのは、きっと、この手が悪いのだ。ちっぽけで無力すぎる人間の身体が、足枷になっているのだ。

 しかし、だからといって、どうすればいいというのか。

 迷うように手のひらを見つめる東雲に、八九はにたりと笑った。

「――永遠を手に入れるのです。そう、永遠を得るということは、すなわち、この世界の理から外れるということ。つまり、人間をやめて、神様になるってことなんですよ」

「か、神になる、だと? この僕が、神に…?」

 ぞくりとした。

 あまりにも甘美な響きに、身も心も震えた。

「――ええ、そうです。貴方は、神になるべくして生まれてきたのですからねえ」

 低い囁き声に、ぞくぞく、と快感が身体を駆け抜けていく。


 ――神!


 神になり、すべてを得てしまえば、失うことは考えなくてもいい。何故なら、失うという結果そのものが存在しないからだ。

 神は、万能。

 望みは、ことごとく叶えられ、二度と、失望や虚しさなんかに襲われることはない。

(――そうだ、僕は、神になるべき男だったのだ!)

 今、ようやく確信した。

 自分は、神になるべくして生まれ、その瞬間が目前まで迫っているのだと。

 この手に得られなかったもの――大事な何かが、今、目の前にぶらさがっている。

 それに手を伸ばさないなんて、男じゃない。

「――おい、八九とか言ったな。貴様は僕を神にするために来たのだろう? そう、そのはずだ。使者の分際で神を騙った罪は、大目に見てやる。その代わり、僕が神になるために死ぬほど働いてもらうぞ。どうせ、その程度の役割しか与えられてないんだろう、貴様如き小物には」

 都合のいい東雲の解釈や蔑みの言葉にも、八九は笑顔を崩さない。それどころか、頭を垂れて、恭しく一礼してみせた。

「そうですとも。私は、道に投げ捨てられたゴミ程度の存在。貴方様のために、身を粉にして働かせていただけるだけで、身に余る光栄というもの」

「そうだろう。常に、身の程をわきまえておくことだ。それで、僕が神に至るには、どうすればいいんだ?」

 偉そうに訊ねる東雲に、八九は思案顔になった。

「…そうですねえ、手っとり早く神になるには、なり変わるのが一番でしょうか。神喰い、という儀式を知ってますか? って、ああ、大丈夫です。知らなくても何ら恥じるようなことではありませんとも。ええ、人間ならば、知らなくて当然なのですから。つまり、神喰いとは、神の力の源を喰らい、神の座を奪うということ。力の源が何なのかは、神によって違いますが――ああ、幸い、この近場にも、喰い易そうな神が眠っていますねえ」

 そう言って、額に手をかざすようにして遠くを見つめる。

 その視線の先には、病院があった。

 あの、いけ好かない死に損ないの女がいる場所だ。

「――あそこに行けば、僕は神になれるのか?」

 あの、薬臭くて陰気な空間は気に食わない。どいつもこいつも、自分は弱者だということを隠しもせずに、青白い面を引っさげて、ゾンビのように徘徊している。

 あんな場所に、本当に神がいるというのか?

 とても、そんなふうには思えないが――。

 しかし、八九は自信に満ちた声で断言する。

「ええ、人間たちの集う場所には、自然と神がいるものです。人々の情、信仰心。それらを糧に、神は存在を許されるのですから」

「許されるだと? 違うだろう、むしろ、人間どもが神に生かしてもらっているというべきではないのか?」

 神は、万能。

 それこそ、人間の生命や寿命を操ることも可能なはず。

 だとすれば――。

 東雲の目に、邪悪な光が灯る。

「……神になれば、僕はすべての権利を得られる。誰を殺し、何を奪っても、僕を罰する者はいない」

 その呟きを耳にした八九の瞳にも、残忍な色が浮かぶ。

「そうですとも。人間など、自然発生するウジ虫のようなもの。誰かが律し、管理しなくてはいけません。そして、それを成すのは、神。それも、かなり強力な力を有した大神でなくてはいけません。ですが、なかなか、それに相応しい器をもった者はいないのですよ」

 探るような、挑発するような声音に、東雲は鼻を鳴らした。

「ふん、貴様の目は節穴か? この僕以外の誰が、その大役を成せるというんだ」

 見下し、何の迷いもなく吐き捨てた東雲に、八九はひっそりと笑んだ。

「ええ、わかっておりますとも。ですから、こうして、情報提供をしているのです。いいですか? あの病院のどこかに隠れ棲んでいる神の力。それを得るために、貴方の成すべきことは二つです」

 八九は、糸のように細い目をわずかに開けて、東雲を見つめた。ぞくりとするような無機質な漆黒の視線が突き刺さる。

「まずは、神の元へと通じる道標を得ること。そして、人間としての人生を捨てること。この二つの条件を満たさなくては、貴方は再び、冴えないヒトの道に転落してしまうことでしょう」

「人間をやめるというのは、まあ、理解できるが……道標、とはどういうことだ?」

 神の元へ行くのに、右に曲がれだの、あと何百メートル先だのと標識でもついているというのか。

 首を傾げる東雲の顔を覗き込むようにして、八九が顔を近づけた。そして、キツネよりも陰険な、悪巧みを企てる悪代官みたいな顔つきで囁く。

「…あの地に眠る神は、とても慈悲深く、死にゆく者の声を無視することはできないのですよ。特に、あの病院に住まう者に対しては、執念すら感じられるほどだそうで。ですから、その特性を利用し、死期の近い者に呼びかけてもらうのです。さすれば、その声を聞き届けた神がそれに応じ、うまくすれば、神の眠る祠へと通じる道を開くやもしれません。まあ、開かずとも、気配がどこにあるかさえわかれば、あとはどうとでもなるんですけどねえ」

「…死期の近い者……そんな知り合いは」

 いない、と言いかけて、思い出す。

「…いや、いるな」

 ちょうど、あの病院に入院している、婚約者候補の娘・藤坂千鶴。あの女の余命は、そう長くない。彼女の両親も、医者も、そう言っていた。

「ちょうどいい、あの女を利用しよう。どうせ、すぐ死ぬんだ。最後に、この僕の役に立てるなんて、何て幸運な女だろうな」

「……ふふ、そうですねえ。そうと決まれば、こちらも準備を始めなくては」

 八九は上機嫌に声を弾ませ、軽くステップを踏むようにして東雲から距離をとった。

 そして、今にも折れそうな細い腰を折り、深々と一礼する。

「――それでは、また、近いうちにお会いしましょう。さようなら、東雲さん。どうか、良い夢を」

 そう言って、八九は背を向けて鼻歌まじりに歩き出した。

 長い髪が悪魔の尻尾のように揺れ、暗い色のスーツが夜の闇に融けるようにして消えていく。

 残された東雲は、どす黒い野望と期待を胸に、にやつきながら帰路についた。

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