第一章:始まりと終わり・其の一
《 第一章・始まりと終わり・其の一 》
二人が出会ったのは、今から五十年ほど昔のこと。
舞台は、とある病院。彼女は二十歳を目前にして死を宣告された、悲運の女性。そして、当時十歳の由宇もまた、難病のために二十歳まで生きられるかどうかという病身を抱えていた。しかし、死の宣告をされても軽微な症状しか出ていなかったため、まったくといっていいほど実感がなかった。
自分が、長く生きられないかもしれないという事実。
そう遠くないうちに訪れるであろう、死への恐怖。
それらは何一つ、子供の由宇には理解できなかったし、想像すらできなかった。
そして始まった入院生活は、退屈の一言に尽きた。友達や先生、親戚も、最初のうちは頻繁に見舞いに来てくれたが、時間が経つにつれて、ほとんど顔を見せなくなった。毎日毎日、病院内だけしか自由に歩けず、楽しいことや目新しいことなんて何もない毎日。
いい加減、うんざりしてきたところに、ある人物と出会った。
名前も知らない、狐みたいな顔をした、どことなく胡散くさい男。
ひょろりと長い背をやや丸め、伸びる手足は蜘蛛のように細長い。糸の如く細い目は、こちらを見ているのか目を閉じているのかさえわからず、声は囁くように小さく、低い。黒に近い灰色のスーツで身を固め、長い尻尾みたいな黒髪を後ろで一つに束ねていた。
いつもなら――正常な判断のできる者なら、大人も子供も関係なく近づかない。そんな怪しげな人物だったが、退屈な入院生活に苛立っていた由宇は、うっかりとその男の話に耳を傾けてしまった。
男は、中庭に面したベンチに腰かけるなり、囁くように話しかけてきた。
「人生ってものは、楽しまなきゃ損でしょう。特に、生きる時間が限られた者なら、なおさらです。キミくらいの年頃ならば、学校に行き、友と遊び、学び、毎日が楽しく辛く、めまぐるしく流れていくもの。そして、通り過ぎていく時間の貴重さすら知らないままに、大人になり、死んでいく。それが、本来あるべき運命の姿だといえるでしょう。しかし、キミは違う。こんな箱庭のようなちっぽけな世界に閉じ込められ、独りぼっちで、ただでさえ短い時間をすり潰して死んでいく。そんなのは、不公平だと思いませんか? つまらないと思いませんか? もっと、楽しみたいと。思う存分生きたいと――そうは思いませんか?」
そう言った男の目は、わずかにきらめいて見えた。少し物騒なその光が、鬱屈していた由宇の心を刺激する。
そのわずかな心の隙を突くように、男が畳みかけてくる。
「今を変えたいと望むのなら――自由を手に入れたいと願うのなら、どうでしょう? 私の手伝いをしませんか? なあに、簡単なことです。とある場所へ私を連れて行ってほしい、ただ、それだけなのです」
「……とある場所って?」
胡散くさいと思いながらも、何だか面白そうだという気持ちのほうが勝ってしまい、由宇はちょっとわくわくしながら訊いた。
すると、男は薄い唇を歪め、
「…この病院の敷地内のどこかに、祠があるという話を聞いたことはありませんか? 私が探しているのは、その場所なのです」
「ホコラ? って、何?」
よくわからずに首を傾げる由宇に、男が空中に指を走らせて小さな建物のような絵を描く。
「…こんな形をした、木でできた小さな社、といったところでしょうか。そこには、忘れられた神様が棲んでいるという噂があるのですよ」
「神様…?」
本気か冗談か、男は勿体ぶるようなゆっくりとした口調で言う。
「……かつて、この地は神聖な場所だったのです。神の住まう、聖域。蒙昧な人間どもは、愚かにもそれを壊し、自らの居場所へとつくり変えた。まあ、祠は、信仰の痕跡、忘れ形見とでもいいますか。私は、その小さな祠に棲む神様に、用があるのですよ。そう、とても大事な用がね」
「神様神様って、おじさん、大人のくせにそんなの信じてるのかよ? 馬っ鹿じゃねーの?」
神様なんて、いない。
その姿を誰も見たことがないし、そんなものが本当にいるのなら、由宇が病気になるはずがない。そう言って母親が泣いている姿を何度も見たことがある。だから、きっと、そんなものはいないのだ。
「神様なんて、本当はいないんだよ。常識だろ、そんなの」
そう言い切る子供に、男は声をさらに低くして囁く。
「それが、いるのですよ。こう見えて、私もその神様の一人なのですからねえ」
「――はあ? 何だよ、それ。子供だからって、嘘つくなよ、おじさん」
小馬鹿にしたように由宇が言うと、男は薄く笑った。
「信じる信じないは、人間の都合。ですが、キミにとって悪い話ではないと思いますよ? 私と共に来れば、新しい未来が手に入るのですから。それとも、キミは、今の生活が気に入っているのですか? 死の瞬間まで、この狭苦しい箱庭のなかで、飼い馴らされた家畜のように毎日餌を与えられ、排泄物をぶちまけ、呼吸を繰り返すだけの日々を望むと?」
「――いちいち、嫌な言いかたするなあ。おじさん、友達いないだろ? 性格悪すぎるもん」
何となく不快感を覚えて文句を言うと、男は誠意の欠片も感じられない胡散くさい微笑を浮かべた。
「おやおや、性格が悪いとは――ふふ、それは褒め言葉ですよ。私にとっては、ね。さあ、どうします? 私の手伝いをしていただけますか?」
「…手伝いっていわれても――オレ、その祠っていうの、見たことないから案内とかできないし」
「大丈夫ですとも、人間ならば、誰しも見つけられる場所ですから」
「……そんなこと言われても」
躊躇するように呟く由宇だったが、男は薄く笑うばかり。まるで、肯定以外の答えはないと言わんばかりの笑顔に、由宇は反射的に拒絶しようと口を開いた。そのとき、
「そうそう、協力者は、キミだけではないのですよ。彼女にもお願いしました」
男が細い顎を動かせて、由宇の右斜め後ろからやってくる人物に視線を投げた。
由宇が振り返ってみると、そこには、一人の細身の女性がいた。
「――誰?」
車椅子に腰かけた彼女は、家族なのだろうか――一人の男性に車椅子を押してもらいながら、ゆっくりと近づいてきた。
「……こんにちは、八九さん」
「はい、こんにちは。千鶴さん」
男に挨拶する彼女の声は虫の羽音よりも頼りなくて、耳を澄まさなくては聞こえない。ただ、死を前にした青白い肌は、柔らかな陽光を浴びて白く輝き、澄みきった静かな瞳は由宇を捉えて離さない。
(……誰だろう、この人?)
おそらく、もう先は長くない。子供にすらわかる生命力の薄さのせいか、由宇の目には、その姿が、ひどく綺麗なものとして映った。
清廉潔白、純真無垢。ありとあらゆる人の欲を取り払ったような、そんな透明な空気を纏っていた。
しかし――その清浄さは、彼女が生きることに希望を持っていないからだと直感した。
死を前にしながら、臆することも、抵抗することもしない。彼女からは、強い諦観だけが伝わってきて、見ていると、何とも寂しく悲しい気持ちにさせられる。
「――…もしかして、その子が新しい協力者ですか?」
小さな声に、男――八九拾二郎は、探るような視線を由宇に送った。
「ええ、まあ、そうです。只今、絶賛説得中なのですが――いやはや、そう、うまくはいきませんねえ」
「…そう。ねえ、貴方。お名前は何て言うの?」
千鶴に訊かれて、由宇は咄嗟にうつむいた。何故だか、彼女と視線を合わせることに急に恥じらいを感じたのだ。
「――由宇。喜多村由宇」
ぼそぼそと、我ながら格好悪いくらいか細い声で名乗ったら、彼女は伏し目がちな瞳に、春の光みたいな柔らかな笑みを乗せた。
「そう、ユーくんね。こんにちは、ユーくん。私は、藤坂千鶴。貴方と同じ、ここの病院の患者よ」
「…そんなの、見たらわかるし」
見るからに重病人だとわかる顔色の悪さ、細い手足、小さな声。こんな弱々しい人間が、病院の外で生きていけるはずがない。
「――千鶴さんって、何歳?」
唐突な質問に、千鶴の車椅子を押していた、人相の悪い男がむっとする。
「女性に年齢を訊くのはマナー違反だろう。そんなことも知らないのか? これだから、子供は嫌いなんだ」
「! 何だよ、おっさん。ただ、年齢を聞いただけじゃないか!」
思いきり男を睨みつけてやるが、大人の彼には痛くも痒くもないらしかった。面倒くさそうに由宇を一瞥して、視線を八九に向ける。
「おい、八九、ちょっといいか?」
男の声に、八九は頷き、二人して少し離れた場所で立ち話を始めた。
その様子を半ばほっとしたように見やり、千鶴は由宇に小さく謝った。
「ごめんなさい。あの人、東雲悟さんっていうんだけど――ちょっと気難しくて」
「……あいつ、何か腹立つ。嫌いだ、ああいう偉そうな奴」
唇を尖らせて文句を垂れる由宇に微笑み、彼女は言う。
「――…ユーくんは、八九さんの話、聞いた? 神様がどうのっていう話」
「…うん。千鶴さんは、あいつ――八九っておじさんの手伝いをするの?」
「ええ。私自身がそうしたいというのもあるんだけど――東雲さんがそれを望んでいるから、協力しないとね」
千鶴の言いかたに、由宇は子供ながらに察した。
「…もしかして、あいつのこと、嫌いなのか?」
東雲をちらりと見ながら訊いてみる。すると、彼女はちょっと困ったような瞳で、
「……嫌いというか…ちょっとだけ苦手かしら。でも、親が決めた婚約者だから、どうしようもないのよ」
「婚約者って…千鶴さん、結婚するの?」
もうすぐ、死んでしまうかもしれないのに?
言葉にこそ出さなかったが、その疑問が表情に出ていたのだろう。千鶴が目を伏せ、そっと瞼を閉じた。
「…両親が考える私の幸せは、結婚して家庭を持つことだと思っているから――死ぬまでに祝言をって、そればかり。でも――本音を言うとね、私、残された時間くらい、独りになりたいの。誰にも気を遣わずに、毎日、空を見て、草花を眺めて、ときには、星空を見上げてみたり、夜風に吹かれてみたりして――…それだけで、いいの。静かに、穏やかに過ごせれば、それで」
「……ふうん。けど、そんなの、全然面白くない。退屈だよ」
由宇がぼやくと、彼女は楽しそうにくすくすと笑った。
「そうね。キミくらいの年頃なら、もっといろんなことをしたいわよね」
「そういう千鶴さんには、他にやりたいこと、ないの? たとえば、あのいけ好かない男との結婚をやめにするとか」
由宇の提案に、千鶴はちょっと驚いたような表情を浮かべた。
「…さすがに、それは思いつかなかったわね。でも、そんなことしたら、両親の顔を潰すことになっちゃうし、それに――この結婚は、私ができる唯一の親孝行だから、逃げられないわ」
「――…だからって、嫌いな奴と死ぬまで一緒にいるのか? たぶん、あいつ、千鶴さんが死んでも悲しまないと思う。オレ、わかるんだ。あいつ、オレの父さんに似てるから」
由宇の病気を知ったとき、母親はショックのあまり泣き続け、寝込むほどだったというのに、父親は、以前から付き合っている愛人と楽しげに旅行に行っていた。父親とは名ばかりのあの男の目は、千鶴の婚約者と同じで冷酷だった。
「…母さんは、まだ父さんのこと諦められないから、仕方ないけど――千鶴さんは、好きでもない奴と一緒にいちゃ駄目だ。そんなの、絶対に駄目だ。不幸になる」
子供ながらに必死に説得しようと試みる由宇に、千鶴は優しい眼差しを注いだ。
「――…ユーくんはいい子ね。わかったわ、一度、両親と話してみるわね」
「…うん、それがいいよ」
そう言いながらも、彼女は何も言わないだろうなと思った。
何故なら、彼女は生きることそのものにこだわりがなさそうだったから。
もう、何がどうなっても自分には関係ない。幸福も不幸も、生きている人間の得られる特権だから、と。
(――…何か、ムカつく…)
不幸を不幸と思わないまま、死んでいこうとする千鶴も。
そんな彼女を冷酷な目で見つめる、あの冷淡な男も。
何とも胡散くさい、八九という男も。
「……あのさ、千鶴さん。神様ってさ、本当にいると思う?」
自分でも馬鹿な質問だと思いつつ、訊いてみる。
千鶴は、少し考えて、
「…そうね、信じている人にとってはいるけど、そうじゃない人にとっては、いない。そういう曖昧なものじゃないかしら。ユーくんは、神様っていると思う?」
訊き返されて、由宇は躊躇いなく否定した。
「いるわけねーじゃん、そんなの。けどさ」
由宇の目は、東雲と楽しげに話している八九へと向けられた。
「…あのおじさん、自分は神様だって言ったんだ。そんなことあるはずないのに、平気で嘘をつくなんて、あいつ、絶対に悪い奴だよ。千鶴さん、あいつに協力するの、やめたほうがいいよ。絶対、後悔するから」
「――後悔なんて、難しい言葉を知っているのね」
お姉さんらしく褒めて、彼女は優しく微笑んだ。
「…大丈夫、後悔なんてしないわ。だって、私にはあとがないんですもの。後悔する時間自体ないの。まだ、子供のユーくんにはわからないかもしれないけれど――今の私に、怖いものなんて何もないのよ。もし、あるとすれば……」
さあっと彼女の微笑みを、そよ風が攫っていく。
残ったのは、憂いに翳る横顔と、空を見つめる透明な瞳だけ。
そこにあるのは、苦しみでもなければ悲哀でもない。
強いて言うなら、虚無。
たぶん、彼女は、自分の死すら興味がない。ただ、今、目に映るすべて――感じる何かだけが、彼女の心を小さく揺らす。しかし、だからといって、何かが変わるわけではない。
その瞳を見た瞬間、由宇にはわかった。
彼女の心には、誰も住んでいないのだ、と。
たとえば、由宇の心のなかには、常に最愛の母親が住んでいる。自分を大事に育ててくれて、何があろうとも味方でいてくれる優しい母の姿が。だから、早く病気を治して安心させたいと思う。しかし、彼女には、そんな相手はいないのだろう。だから、死を恐れないし、未練らしきものがまったく感じられない。もうすぐ死んでしまう事実。それだけを淡々と受け入れ、そして、誰にも惜しまれずに死んでいく自分の姿を想像している。そんなふうに見えた。千鶴がそういう女性だったからこそ、由宇は自分でも思わぬ言葉を発してしまったのだ。
「…あ、あのさ、千鶴さん。やっぱり、オレも一緒に行くよ。おじさんの祠探しって奴。千鶴さん一人じゃ、何か心配だしさ」
子供ながらに格好いいことを言ったものだと思う。
八九との祠探し。それが、近い未来において、千鶴と自分を不幸の連鎖に突き落とすのだと少しでも察することができていたなら、自分はどうしただろうか。
――いや、結局、彼女を生かすためには逃れられない運命だったから、それでも、由宇は行動しただろう。
だから、誰が悪いとか、そういうことは口に出さない。そもそも、他者を責める資格などないのだ。決めたのは、自分自身なのだから。
ただ、当時の由宇は、純粋に千鶴を心配し、か弱いお姫様を守る勇者みたいな気分で、八九と行動を共にすることにしたのだった。