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第三章:禍を呼ぶ者・其の二

       《 第三章・禍を呼ぶ者・其の二 》



「あーらら、困りましたねえ。ちょっと、髪の手入れをしていたら、うっかり手が滑ってしまいました。大丈夫ですかあ、そこのキミ?」

 しらじらしく指先に息を吹きかけながら、八九が言う。

 額を貫通した黒い物体は、巨大な獣の体毛に見えた。

 直径三センチほどで、長さは一メートル以上あるだろうか。それは、巨大な釘のように深々と地面に突き刺さり、血だまりのなかに沈む由宇を冷たく見下ろしている。

「さあ、これでどうなるんですかあ? 貴女の望み通りに、そこの子供を殺してあげましたけど」

『………どうなるか、じゃと?』

 土地神は、薄ら笑いを浮かべている八九に、そっと微笑みかけた。

 慈愛というよりは嘲笑に近い笑みに、八九の眉がぴくりと動く。

「…? 何ですかねえ、その笑顔は? 無性に腹が立つんですけど」

『……愚かよの、無知なる者よ』

「はあ? 無知ですって?」

 八九の表情に、初めて、わずかに緊張が走る。

「気に入りませんねえ、その顔。最高に惨たらしく殺してあげたくなります」

 ビリビリと殺気を放つ八九を見つめ、少女は上品に口元を隠しながら微笑んだ。

『……ふふ。主は、まだ気づかぬのか? 我を殺したとしても、神にはなれぬという事実に』

「――おやおや、この期に及んで何を言い出すかと思えば。そんな戯言で私をやり過ごそうなどとは考えていませんよねえ、お嬢さん?」

 からかうような八九を見据え、彼女は目つきを鋭くする。

『――…のう、八九よ。主は、今、何をした? 人を、殺したじゃろう? そこの無垢な子供を手にかけた。間違いはないかの?』

 視線を由宇の死体に向ける土地神につられて、八九もそちらを見やる。

「ええ、殺しましたとも。うだうだ悩むよりもさっさと死んだほうが楽だと思いましてねえ、お手伝いして差し上げたんですよ。それが何か?」

 少女の余裕たっぷりな様子を怪しみつつ、八九が様子を窺う。

 土地神の娘は、ゆっくりとした口調で告げる。残酷な真実を。

『――そうじゃ、主は、人を殺した。千人と一人の人間を。知っておるかの? 神もどきが神になるには、人間を千人、神を百体殺さねばならぬ。しかし、それは、多すぎても少なすぎても駄目なのじゃ。神とは、厳格なる存在。それ故に、わずかな誤差すら許されぬ。これがどういうことか、主にはわかるかの?』

 少女の言葉を脳内で反芻してみて、八九が顔色を変える。

 神になるためには、千人の人間を殺さなくてはいけない。だが、それは、多すぎても少なすぎても駄目だという。それは、つまり――。

「……っ、まさか、そんなことが」

 千鶴の死は、事故と呼べなくもない。しかし、由宇の死は――…八九自らが、直接手を下したと認めた。その行為は、結果的に、八九が神になるための儀式において、違反したということに他ならない。そして、違反者は、当然、神となる権利そのものを失ってしまうわけで……。

「…そ、そんな話、誰が信じるというのです? 私を騙そうとしても、無駄ですよ?」

 脅すように言うが、彼女の表情は変わらない。

『…神は、嘘などつかぬ。それくらい、常識であろうに』

「っっ! し、しかし、こんな馬鹿な話があっていいものですか! こんな子供を一人殺しただけで、私の――私の、これまでの苦労が水の泡になるだなんて!」

『――八九よ。主は、神となる資格を失った。それは事実じゃ。その証拠に、見てみるがいい。主は、力を失い、滅びようとしておる』

 その声に、八九が青ざめる。

「!!! ち、力が! わ、私が五百年もの間、溜め続けてきた、神の力が! 人魂の放つ、エネルギーが! き、き、消えて――!?」

 ガタガタと震える手のひらを見る。

 生気に溢れていたはずなのに、老人のように血色が悪くなり、しわだらけになっていく。

 長い黒髪は灰色へと変色し、掻きむしれば抜けていく。

「あ、あああああ」

 あまりの絶望と恐怖に、その場にのたうちまわる。

 その様子を見つめ、土地神は囁くように言った。

『――それが、人一人の生命の重みなのじゃ。悔いても遅い。嘆いても、願っても、戻っては来ぬ。そういうものなのじゃ』 

 その声を、八九は聞いていない。いや、聞けなかったといったほうが正しいだろうか。

 神になるためだけに生まれ、それ以外の目的が与えられなかったのだ。神になる資格を失ったその瞬間から、その存在は滅びの道へと強制連行される。

『――その宿命は、神も同じじゃ』

 使命を果たせない存在は、消えるのみ。

 土地神は、息絶えている千鶴の傍に歩み寄り、そっと、その肩に触れた。

 すると、まるで見えない何かに吊り上げられたかのように千鶴の遺体が浮き上がり、空中で停止した。

『――…娘よ、主に我の力を託そう。我は…もう、疲れたのじゃ。神としての重責から、逃れたいのじゃ。この地を守り続けたとて、我は、想い続けた人間の一人すら幸福にはできなんだ。じゃからの、娘。主に、神の座を託そうと思う。我の持ち得るすべてを、譲渡しよう。さすれば、我は、もう二度と叶わぬ願いに苦しむこともなくなるじゃろうて』

 少女の神々しい手が千鶴に触れる。

『――主は、もはや、人ではない。神なのじゃ。神は、死なぬ。次の神へと、その意志は受け継がれていくのじゃ』

 少女の全身が、ゆっくりと発光し始めた。

 そして、その輝きは、やがて景色を呑み込み、人の姿もわずかな物音すら消し去っていき――数秒も経たないうちに、元の光景へと戻った。ただし、そこに広がるのは、クチナシの花の咲く幻想的な風景ではなかった。

 忘れ去られたような廃屋と枯れた草花だけの世界。

 セピア色に塗り潰された、哀しい記憶の残骸。

 そこに、白い髪の女性がぽつりと立っている。

 その瞳はどこか眠たげで、まるで寝床から這い起きたばかりのような表情を浮かべている。

 彼女は、ゆっくりと――物憂げな仕草で周囲を見渡した。

 そして、ある場所で視線がとまり――その寝ぼけ眼に、はっきりとした光が宿る。

「……っっ」

 思わず息を呑んだ女の目に映るのは、見覚えのある少年の姿。

 重く閉ざされた瞼にかかる前髪は、赤い水でしっとりと濡れていて。

 ぐったりと倒れ込んだ身体は、ぴくりともしない。

 事情が呑み込めない彼女にも、すぐに察することができた。

 ――彼は、すでに死んでいる、と。

 そして、即座に理解した。

 ――私は、彼を守れなかったのだ、と。

 そう思った瞬間、身体中が切り刻まれるような耐え難い激痛に襲われた。

 身体を抱えるようにしてうずくまり、悲鳴を呑み込む。

(…っ、一体、何がどうなっているの…?)

 記憶を辿ってみるが、霧がかかったようになっていて、ぼんやりとしか思い出せない。

 はっきりと覚えているのは、少年と一緒に恐ろしい何かから逃げていたことだけ。

(――あのとき、私は…)

 確か、彼を助けようとして、小さな身体を抱き締めたのだ。この子だけは守らなければ、そう思って、必死に抱きしめた。

 その直後、ものすごい衝撃に襲われて、それから――。

(……あ…)

 ふと、身体の痛みが消える。

 それと同時に、全身から力が抜けた。

「………私…そうだわ、私は、あのとき…死んだのよ」

 何故、忘れていたのだろうか。

 死が訪れたときのことを、こんなにも強く記憶しているのに。

「…そして、ユーくんが八九さんに殺されて、私は神様になった…」

 それが、真実…?

 いや、違う。他に、もっと大事なことがある。

「……あの小さな神様は、ユーくんを利用したんだわ…」

 神様を名乗る少女は、由宇を殺したくなるように、それとなく八九を煽った。

 死、という言葉は、人々に不安と恐怖を与える悪神の前身である八九の心を昂らせる。その習性を利用して、土地神の少女は、八九の殺人衝動を掻き立てたのだ。

 死を拒絶する人間を殺す。八九の性格からして、それこそが快楽の一つなのだろうということは想像がついた。だからこそ、あえて、土地神は訊いたのだ。死を受け入れるかどうかを。それを拒んだことで、由宇は八九に殺されてしまった。

(もしも、あのとき、ユーくんが神様の要求を受け入れたとしても……きっと、結果は変わらなかったでしょうね)

 土地神は、土地を守るのが役目だ。そのためならば、手段を選ばない。あの手この手で、由宇を追い詰め、八九の殺人衝動を煽ったはずだ。

 もっとも、結果だけを見れば、これが最善だったといえなくもない。

 土地神は、その役目通りに、悪しき者から町を守ったのだ。一人の少年を犠牲にして。最小限の被害で、災厄を食い止めた。

 しかし――それは、千鶴にとっては最悪の結末だ。

 神様が、子供を犠牲にするなんて、あっていいはずがない。ましてや、千鶴が命がけで守った子供を、わざと殺させるだなんて――。

「…こんなこと、あっていいはずがないわ!」

 ふらりと立ち上がる。

 車椅子でしか移動できなかったのが嘘のように、身体が自由に動く。

 しかし、そんなことは喜びでもなければ奇跡でもない。

 ふらふらと夢遊病患者のような足取りで少年の亡骸に近づき、膝を折る。

「……ごめんね、ユーくん。こんなことなら、祠探しなんかしなければよかった」

 頬に触れてみると、まだほのかに温もりが残っていた。肌は柔らかくて、完全には血の気が失せていない。しかし――それは、見た目だけの話。心臓が動いていなければ、話すことも、笑い合うこともできない。

 そっと手を伸ばして、ぐったりとした身体を抱き上げる。

「――…私ね、ずっと見てたのよ。死んでからも、ユーくんの傍にいたから。貴方が、私のために泣いてくれたこと。怖いのを我慢して、八九さんに立ち向かってくれたこと。嬉しかったけど、すごく辛かったわ」

 ぎゅっと、冷えていく身体を抱きしめる。

「…本当は、八九さんが悪い人だって最初から気づいてたのに、私は、知らないフリをしていたの。ユーくん、言ってくれたのにね。祠探しなんかやめたほうがいいって。なのに、私、ユーくんを助けるどころか、大変なことに巻きこんでしまったわ」

 冷えた身体を抱える腕が震える。

 後悔の涙がぼろぼろ零れて、視界を奪う。

「…ごめんね。私、本当は、怖かったの。誰かの役に立つどころか、迷惑ばかりかけて死ぬことが――」

 由宇と初めて会ったとき、一人になりたいと言った。死ぬまでの時間を、一人きりで心穏やかに過ごせれば、それでいいのだと。

 それは、半分本当で、半分嘘だ。

「……私は、何をするにも誰かの手を借りなければ生きていけなかった。一人でできることなんて、数えるほどしかなくて、いつだって人の世話になってばかりで。それなのに、お世話になった人に返せるものが感謝の言葉だけだなんて、申し訳なくてたまらなかったの。だから――一度でいいから、私も誰かのために何かがしたかった。それだけだったのに……どうしてかしらね。私、他の誰かのためじゃなくて、ユーくんのために頑張りたいって思ったの。ユーくんには、私のぶんまで幸せになって、長生きしてほしいって心から願っていたのよ」

 初対面にもかかわらず、由宇は、千鶴を心配してくれた。一緒に祠を探してくれると言ってくれた。そんな優しい子供に未来がないなんて、信じたくなかった。病に苦しみながら死ぬだけの未来なんて、あまりにも不憫すぎるではないか。

(…ユーくんは、幸せになるべきよ)

 かつて胸に抱いていた、最初の願い。自分の存在をみんなの記憶から消すという願いは、由宇の輝かしい未来の前では無意味だった。彼のために何かができるのなら、どんなことでもしてやろう。そう思った。

(……でも、私にできることは限られていたわ)

 身体が自由に動かない身で、一体、どれだけのことをしてあげられるだろう。助けるどころか、足手まといになるのが関の山かもしれないと不安だった。

 だから、由宇を庇って死んだことは誇るべきことだと思っている。

 この身一つで――たったそれだけで、由宇を守れたのだ。ろくに歩くこともできない自分が、これまで迷惑しかかけてこなかった自分が、初めて、大事なものを自分の力だけで守ったのだ。

 これ以上の喜びはない。

 それなのに――……どうして、こんなことになったのか。

「…私は、死んだままでよかったのに。ユーくんが生きてさえいてくれれば、それでよかったのに」

 どうして、神様はこんな残酷なことをするのだろうか。

 必死に生きる少年を救うのではなく、死んだ娘を生き返らせるだなんて。

「……神様なんて、信じない…」

 八九も、土地神の少女も、自分勝手すぎる。

 たった一つ、生命を賭けた願いを聞き届けるどころか、残酷なことばかり行う。願いもしないことばかり、平然とやってのける。

「――…それでも、本当に神様なんてものが、この世界にいるというのなら――今の私に、そんな不思議な力があるというのなら」

 ばちり、と千鶴の周囲で火花が散った。

 それは、感情の起伏に伴って大きく派手になっていく。

「今すぐ、ユーくんを生き返らせて証明してちょうだいっ! 神様は、人間の味方だって! 一つくらい、奇跡を起こせるんだって! そうでないと、私は…私は…」

 由宇を犠牲にしてまで生き延びたところで、何があるというのだろうか。

 こんな寂しい場所で、独りきりで、何をすればいいのか。

「…私は、ユーくんにどう償えばいいの……?」

 ばちばちと、千鶴を包む火花が小さくなる。それに伴い、吐き出される千鶴の声が、小さく掠れて消える。

「…ねえ、ユーくん。私…どうしたらいい? 貴方のためにできることは、何もないの?」

 返事などないとわかっていながら問いかける。当然ながら、死者からの言葉は何もない。

 代わりに応えたのは、枯れたススキの穂のようにか細く惨めな声だった。

「――…悲劇のヒロインを気取ったところで何も変わりはしませんよ、千鶴さん」

「! 八九さん、貴方、生きて」

 由宇を抱いたまま、千鶴が警戒の眼差しで周囲を見やる。

 八九は、千鶴の慌てた様子に小さく苦笑して、

「ああ、ここですよ、ここ。残念ながら、動く力がありませんし、もうすぐ喋ることすらできなくなると思いますので、手短にお話しますけど、構いませんかねえ?」

 枯れ草の隙間から、骨と皮だけになった指先がちらちら見えた。

「…貴方と話すことなんかありません。ユーくんを殺したこと、許しませんから」

 千鶴の強い口調に、八九は吐息してから一方的に話を続けた。

「そうおっしゃらず、聞くだけ聞いてくださいよ。今の時点において、私と貴女の利害は一致してるんですからねえ」

「…利害?」

「ええ、そうです。貴女は、その子供を――由宇くんを、生き返らせたい。私も、それには大いに賛成なのですよ。彼が死んだおかげで、私は存在を消されかかっているわけですからねえ」

「――? 一体、どういうことですか?」

「それが、私もつい今しがた知ったばかりの事実なんですけどねえ。私のような神もどきが真の神になるには、千の人間と百体の神を殺す必要があるのです。しかし、その既定の数を越えて殺してしまうと、どうやら、神もどきは急激に力を失い、消えてしまうらしいんですよねえ、困ったことに」

「……だから、貴方も由宇くんを生き返らせたい、ということですか?」

 察しのいい千鶴に、彼は小さく笑ったようだった。

「ええ、まあ、そういうことです。それでですねえ、私は神もどきとはいえ、神に準ずる存在ですから、何となくわかるんですよ。彼を生き返らせる方法がね」

「! そんな方法があるんですか!?」

 疑いながらも、思わず、声を上擦らせて訊く。

 八九は、そんな千鶴に胡散くさいほど優しい声で答えた。

「ええ、あの卑怯な土地神が貴女に行ったことを思い出してみてください。彼女は、彼の魂を犠牲に、千鶴さんを神として蘇らせたでしょう? 本来、生きた人間が神になることは不可能なんですが、死者ならば話は別です。死んだ時点で人間をやめたことになりますから、幽霊だろうが何だろうが、条件さえ揃えば神になれちゃうわけなんですよねえ、これが。ということは、由宇くんが貴女にしたことの逆もまた可能なのではないでしょうか。つまり、貴女の神力と魂を使い、彼を神として生き返らせる、ということなんですけどねえ」

「そんなことが可能なんですか?」

「ええ、理論上は。ただ、今の貴女は神様ですから、死ぬことはありません。彼を生き返らせるには、魂と同等の対価が必要となるでしょうが――それがどれほどの規模で、どんな結果を招くか、なんてことはさすがの私にもわかりません。それでも、どうでしょう、千鶴さん。一つ、試してはみませんか? それで彼が救われるのだとすれば、それ以上の幸福はないのでしょう?」

 それは、まるで悪魔の囁きのように響いたが――同時に、天使の誘惑にも聞こえた。

「……何もしなければ、ユーくんはこのまま…死んだまま、だものね…」

 こくり、と唾を飲み込む。

 死者を生き返らせる。そのことへの罪悪感がないわけではない。生き返るかどうかもわからないし、生き返ったところで由宇がどのような反応をするかもわからない。それでも――千鶴の頭には、たった一つの想いしか浮かばなかった。

「……私は、ユーくんを助ける。私が生き返ったのは、きっと、そのためなのよ」

 自分の生きる意味を他者に求めるのは、迷惑かもしれない。

 だが、今の千鶴にとっては、由宇を守るという気持ち以上に大事なものは何もなかった。

「…八九さん。私、絶対にユーくんを生き返らせてみせます。ですが、これだけは覚えておいてください。――もしも、またユーくんにひどいことをしようとしたら、今度こそ許しませんから」

 迷いのない脅しに、八九は小さく笑う。

「…そんな心配は無用ですよ。彼が死んだら、私も消えちゃうんですからねえ。むしろ、立場的には、貴女と同じだと思いますよ? 彼に死なれたら困るわけですから、保護して差し上げたいくらいですよ、はい」

「――…そうですか。それなら、八九さん。もしも、私に何かあったときは、貴方がユーくんを守ってあげてくださいね」

 千鶴の思いがけないセリフに、虚をつかれたような八九の声が返ってくる。

「おや、どうしたのですか、急に。まるで、貴女一人、どこかに遠くにでも行ってしまうかのような口振りではありませんか」

「――…ユーくんを生き返らせるには、私の魂が必要なのでしょう? でも、人間ではなくなった私にとって魂の代わりになるものは、記憶や感情なんじゃないかって思うんです。だから、今の私がユーくんのために差し出せるのは、きっと、そういう類の何かなんです」

 由宇が生き返っても、記憶や感情を失った自分は、別人になっているだろう。何となく、そんな予感がして、千鶴は一度、唇を噛んだ。

「…私、神様のことは何もわからないんですけど――…胸の奥、いえ、頭の端のほうに、ちりちりと焼きついてるものがあるんです」

 それは、おそらく、前の神様の記憶。土地神として生きていた少女の想い。

「……きっと、神様になった時点で、その人にとって一番大事なものを失ってしまうんです。神様は公平でなくてはいけないから、特定の誰かを想うことも、特別扱いすることもできないんです。だから、あの女の子は、神様をやめたんです。どんなに願ってみても、大好きな人のために何もできないとわかってしまったから。でも――…私は、諦めたくない。もう一度、ユーくんが生きられるなら、試してみたい。それを今の私が見届けられなくても、想いはずっと私のなかに存在し続けていくはずですから」

「……うーん、忘れたと思っていても、意外と覚えているものですよ。人間の感情や記憶という奴は、本当にしつこいですからねえ」

「…それでも、今の私と違う私になってしまったら、ユーくんはやっぱり悲しむでしょう?」

「いやあ、それもどうでしょうねえ?」

 八九は、空とぼけたような口調で言う。

「生きてさえいればそれだけでいい、なんて言葉を人間はよく口にしますからね。手足が動かなくとも、どんな悪徳な人間であろうとも、それが自分にとって大事な相手ならば、誰しも寛容になるものですよ。愚かなほど単純に、ね」

「――生きてさえいれば、それだけで…」

 千鶴は、そっと目を閉じた。

「…そうかもしれませんね。どんな状況でも、生きていてくれれば……目の前にその人が居てくれさえすれば、それだけでいいと――そう思えてしまうのは、私にとってユーくんが大事だからなのでしょうね」

「…人間の価値観も感情も私には理解不能ですから、同意はしかねますよ。ですが、千鶴さん。とりあえず、早く彼を生き返らせてもらえると嬉しいのですがねえ」

 その声に、千鶴は目を開けた。

 そして、由宇を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がる。

 腕にかかる由宇の重みを感じながら、八九の倒れている場所へと向かう。

 さく、さく、と枯れ草を踏んで歩く。

 そのたびに、わずかに足の裏が痛むのは、何故だろうか。

 足元を見つめると、枯れ草に紛れて小さな花が咲いているのが見えた。

 見たこともない、小さな花。スミレに似た、しかし、どこか異質な花たちが、草間からこちらを見つめてくる。

 どこか、恨みがましく。

 少し悲しげに、寂しげに。

 花を踏まないように気をつけながら、八九の元へと辿り着いた千鶴は息を呑んだ。

「っっ」

 変わり果てた八九の姿を目の当たりにして、思わず顔を背ける。

 骨と皮だけになった哀れな男が、そこにいた。

 肌はどす黒く淀んだ色をしていて、骸骨のように痩せこけた顔から飛び出しているのは眼球だ。しかし、瞼は開いていない。光を拒んで、固く閉じられている。唯一、生気を感じるのは、右手の指先だけ。それも、じわじわと変色し始めている。

「おやまあ、そんな目で見ないでいただきたいものですねえ。いくら私が無神経とはいえ、ちょっとは傷ついちゃうんですよ?」

「……八九さん、貴方は、人間、だったのですか?」

 千鶴が訊く。

 八九の死に様は、ミイラに似ている。あまりにもリアルな、人間を模したような死にかたにぞっとする。

「…神もどきは、神様に近い人間、ということなのですか?」

 その問いに、彼は答えない。

「…さあ、どうでしょう。それより、早くしていただけませんかねえ? 私が死ねば、そう遠くないうちに、私の弟たちが貴女と彼を殺しに来るでしょう。正直なところ、新米の神様なんて、神もどきからすれば格好の獲物。たとえ、彼が生き返ったとしても、すぐに殺されちゃうかもしれませんよ?」

「……八九さん。その前に、一つだけ確認させてください。貴方は、何故、神様になりたいんですか?」

 神になったからといって、幸せになれるとは限らない。

 得るものよりも失うもののほうが多いかもしれない。

 それでも、神に執着するのは何故なのか。

 神になることを切望してやまないのは、どうしてなのか。

「…おかしなことを訊きますねえ。馬鹿ですか、貴女は?」

 千鶴の問いを、八九が嘲笑う。

「そんなもの、消えたくないからに決まってるじゃありませんか!」

 それ以外に何があるのか、と言いたげな八九の口ぶりに、千鶴は微笑んだ。

「……そうですね。それならば、私は貴方のことを信用します」

 生きるために手段を選ばないということは、存在を賭してでも由宇を守ってくれるということだ。由宇が死ねば、彼も死ぬことになってしまうのだから。

「…ユーくん」

 そっと少年の身体を横たえて、その傍に座り込む。

「……もし、私が私でなくなったとしても…ずっと傍にいてね」

 そっと、冷たい髪を撫でる。

 その背に、衝撃が走る。

 ドスッ、と。

 何かが背中を穿ち、身体を貫通して、空へと消えた。

「…さあ、千鶴さん。あとは、頼みましたよお……」

 八九の小さな声が聞こえた。

 一瞬、視界が明滅して、ゆっくりと身体が傾いていく。

 不思議なほど、傷の痛みがない。

 ただ、身体に開いた小さな穴から、きらきらとした光が零れ落ちていく。

「……ユーくん。お願いだから、目を開けて」

 体内から、血液ではない熱い何かが放出されていくのがわかる。

 感情? 記憶? それとも…。

「――…何でもいい。全部、あげるから。私は、ユーくん以外、何もいらないから。だから、だから…」

 溢れ出る光がとまらない。体内の熱のすべてが奪われていくのがわかる。

 身体に力が入らない。それでも、願い続けることだけはやめない。

「お願い、生き返って――っっ!」

 ぶわわっと熱と光が世界を支配する。

 光が眩しく世界を呑み込み、やがて視界が戻ったとき――周囲には、見たこともない白い花々が咲き誇っていた。

 気づけば、廃屋だったものは小さな東屋へと変わり、祠だったものは消え失せている。

「……これは、まあ…異様ですねえ」

 背の低い花々の上に寝転んだまま、八九が呟く。

 その姿は、痩せ衰えて死にかけていたのが嘘のように健康そのものに見える。

 わずかに開いた彼の目に映る世界は、モノクロ写真のように鮮やかさを失っている。空も草花も、白と黒だけで表現されていて、何とも味気ない。

(――こんな殺風景な神域は、見たことがありませんねえ)

 本来、神域は、神の性質によって変化し、色づくものだ。千鶴が神になった瞬間、神域がセピア色――暗褐色に変化したのも、その法則に乗っ取っている。しかし、ここには、それがない。白黒だけの世界で、しかも、見たこともない新種の花が咲き誇っているとは――まだ土地神としての力が未熟だからなのか、それとも、他に何か理由があるのか。何にせよ、これはこれで、面白い。

「…なるほど、神自身を生贄にして新たな神をつくるとこうなるわけですか。まさに、狂気の沙汰ですねえ。いやあ、実に興味深い事例です」

 くつくつと喉を鳴らして笑い、身体を起こす。

 その傍には、寄り添うようにして眠る少年と女性の姿があった。

 そのどちらも老人のように髪が白く染まり、心なしか輪郭が淡く発光している。

「…二体で一体の神とは、何とも珍しい。二人の存在が対になっている以上、どちらかが死ねば、片方も道連れになるという仕組みですか。つまりは、由宇くんを生かして千鶴さんだけを殺すという真似は不可能というわけですねえ。まったく、考えたものです」

 呟き、そっと自分の胸元に手を当ててみる。

 幸い、これまで溜め込んできた人魂も神の力も戻ってきている。

「……この状態で、あと一体、神を殺せば、私は神格を手に入れられる。これは喜ばしいことなんですが――はあっ」

 思わず吐息が漏れたのは、八九にとって二人の存在が重すぎるせいだ。

 このまま町を出て別の神を探しに行くにしても、彼らが他の神もどきや神々に襲われて殺されでもしたら、すべてがパアになる。かといって、この地の土地神として存在することになった彼らは、ここから離れられず、八九の旅に連れていくことはできない。それが何を意味するかといえば――。

「……厄病神になるどころか、この私が、土地神のお守をする羽目になるとは。まあ、消えるよりはマシですけどねえ――はあっ」

 しかしまあ、この二人が未熟で異例中の異例なだけ、望みは残っている。

 他の土地から、別の神が神域を奪いにやってくるかもしれないし、神の傍にいれば、何かしらの恩恵があるかもしれない。

「…とりあえず、しばらくは様子見といきますかねえ」

 これまでの過酷な五百年に比べれば、些細な障害だ。とにかく、自分が神になるまで、二人を守り抜きさえすればいいのだから。

 そんなふうに簡単に考えていた八九だったが――彼は、忘れていた。

 千鶴が危惧していたことを。

 そして、自分が由宇を殺し、間接的に千鶴を殺めた犯人であるという事実を。

 神の力を手に入れた二人が目覚めたとき、手痛いほど人生の苦悩を味わう羽目に陥ることを、このときの彼は知る由もなかった。

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