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第三章:禍を呼ぶ者・其の一

       《 第三章・禍を呼ぶ者・其の一 》



 どおん、と雷が落ちるような重い音が響いたかと思うと、暗い空に一筋の光が走る。

 その様は、まるで稲妻だった。

 どおん、どおん、と音がするたびに空に光のひび割れが生じる。それらは、やがて、巨大な空の破片となって地上に降り注いだ。

「う、うわあああっ!」

 そのうちの一つが、由宇たちの元へと落ちてくる。

 途方もなく高い空から降るそれらは、絶望そのものだった。

 もう駄目だと死を覚悟した瞬間、

「ユーくん!」

 突然、千鶴の細い腕が伸びてきて、由宇の身体を引き寄せた。そして、背を丸めてぎゅっと抱きしめる。

「っ、千鶴さんっ!?」

 ほのかに漂う、クチナシの花の匂い。

 優しい香りとは裏腹に、由宇を抱きしめる千鶴の腕の力は痛いほど強い。

 まるで、母親が子供を守ろうとするように。

 まるで、柔らかな果実を守る、殻のように。

 千鶴の身体は、由宇を守った。

『っっ、神もどきめが、我が神域を穢そうとは!』

 少女の怒りとも悲しみともつかない声が、響き渡る。

 耳を塞ぎたくなるような騒音が世界を覆い、悲鳴をこらえるような千鶴の小さな声が、掻き消される。

 そんななか、由宇は、車椅子から崩れ落ちながらも抱きしめることをやめない千鶴の温もりを感じていた。

 強烈に覚えているのは、視界に広がる暗闇と、頬や額に垂れた、生温かい血の臭い。

 それと――…死の足音。

「……う、うう」

 肺が圧迫されて、うまく呼吸ができない。

 耳に響くどくどくという鼓動の音が、うるさすぎる。それは、身体の奥からだけではなく、外からも響いてくる。

(……この音は、千鶴さんの…)

 自分のものではない、心臓の音。

 生命の鼓動。

 だが、その音は、あまりにも速すぎた。まるで、早送りしているみたいに。

「……ち、づる、さん…」

 腕のなかでもがいてみる。すると、あっさりと抱擁は解け、視界がゆっくりと開けていった。

「……な、何だよ、これ…?」

 薄光りのなか、それはそびえ立っていた。

 屋根の落ちかけた、古びた廃屋。木の柱は朽ち果て、壁は無残に腐り落ちている。家と呼ぶにはあまりにもお粗末な、建物。その周囲を覆い尽くすのは、純白の花々をつけた、無数の樹木。

 その花々の放つ芳香はむせ返るほど濃厚で、由宇と千鶴はその花々に囲まれていた。

「………ここ、どこだ…?」

 病院でもなければ、奇妙な祠のある場所とも違う。そこへ通じる森でもない。

 茫然とする由宇の傍で、小さな声が聞こえた。千鶴だ。

「……ユーくん、無事…?」

 その声に、はっと我に返る。

 見やれば、千鶴は満身創痍だった。

 服は恐ろしいほど真っ赤に染まり、白い頬や手まで深紅に濡れている。

「ち、千鶴さん! 大丈夫っ!?」

 見るからに大丈夫でないのは明らかだったが、それ以外の言葉が出てこなかった。

 千鶴は、ひどく狼狽している由宇に、笑いかけた。だが、それはあまりにも弱々しくて、何だか泣いているように見えた。

「…大丈夫。私は、大丈夫だから――ユーくんは、怪我してない?」

「し、してないよ! 千鶴さんが庇ってくれたから…」

 言った瞬間、由宇はぐっと唇を噛んだ。

(…そうだ。千鶴さんがこうなったのは、オレを庇ったからじゃないか!)

 由宇がもっと頼りになるような男だったなら、こんなことにはならなかった。由宇だけ無傷で、千鶴だけが血だらけになって苦しむなんて――どんな悪夢だ。

「………どうしたの、ユーくん」

 千鶴の声が聞こえた。

 由宇は、気遣う声にぎゅっと目を閉じた。すると、じわりと目の奥が熱く疼いて、泣きそうになった。

「……ユーくん、ごめんね。怖い目に遭わせてしまって」

 千鶴の手が動く。おそらく、由宇に向かって伸ばそうとしたのだろうが、わずかに指先が動いただけだった。

「…? …ああ、そうなのね。私、もうすぐ死ぬのね」

 どこかほっとしたような声に、由宇は目を開けた。

 見下ろした千鶴の表情は穏やかで、怪我や病による苦痛など感じていないかのようだった。

「――駄目だ、そんなの!」

 由宇が、責めるように叫ぶ。

「こんなことで――こんな、わけわかんないことで怪我して死ぬとか、そんなの、駄目だよ! 千鶴さんは、元気になるんだ! 病気を治して、ずっと生きるんだ!」

 それは、あまりにも子供っぽい願いだった。

 千鶴は、困ったように微笑んで、

「……そうね、でも、私も同じ気持ちよ。ユーくんは、元気になって、誰よりも幸せにならなきゃ駄目。だから、ここから逃げて。絶対に、生き延びて」

「な、何言ってんの? 千鶴さんを置いて逃げられるわけないよ!」

「私は、足手まといになるわ。私のせいでユーくんに何かあったら、私は自分を許せないの。だから――私のために、逃げて」

 声音は弱々しいのに、瞳に厳しい光を灯し、千鶴が言う。

「行くのよ、ユーくん」

「――…っ、い、嫌だっ! 今度は、オレが千鶴さんを助けるんだ!」

 由宇は有無を言わせずに、強引に千鶴の腕をつかんで、自らの首に回した。そして、ゆっくりと歩き出そうとして――倒れる。

「っっ」

 思った以上に、千鶴の身体が重い。どんなに痩せていても、相手は大人なのだ。子供一人で担いで歩くには、無理がある。

「…ユーくん、もう、いいから」

 千鶴の声に、由宇が歯を食いしばる。

「千鶴さんは、オレが、絶対に助けるんだ!」

 怒鳴って、震える膝や太腿を叱咤しつつ、一歩一歩、歩き出す。

 屋根も床も崩れ落ちた、今にも崩壊しそうな家屋へ向かって。

 何故、そんなところへ行こうとしたのか、自分でもわからない。ただ、あそこまで行けば、助かるような気がしたのだ。

「――…っ、はあ、はあ、はあっ」

 息が弾んで、途切れがちになる。

 足はとっくに馬鹿になっていて、動いているのが不思議なくらいだ。

 汗が目に入って痛い。全身が引き裂かれそうなほどの痛みに悲鳴を上げている。神経も筋肉も気力もとっくに限界を越えているのに、それでも千鶴を何とか助けたい一念だけで突き進む。

 そんな由宇の様子に、耳元で消え入りそうな千鶴の声が聞こえた。

「……ありがとう、ユーくん」

 くすぐったいような声に、一瞬、足がとまる。

 ありがとう。

 その感謝の言葉に、何故か、ぞっとした。まるで、それが最期の言葉のように思えたのだ。

「――あ」

 由宇が息を呑む。冷たい予感が、胸をよぎった。

(…あれ? 千鶴さん、息してない…?)

 まさかと思う。しかし、確かに、呼吸音が聞こえない。

(……千鶴さん、死んじゃった、のか…?)

 そう思った瞬間、由宇の手から力が抜ける。

 つかんでいた千鶴の腕がゆっくりとずり落ちて、身体が砂袋のように力なく地面に転がった。

「――…ち、づる、さん…?」

 茫然と、声をかける。しかし、彼女はうつぶせに倒れたまま、動かない。

「っっ」

 頭痛を誘発しそうなほど甘い花の香りが、由宇の思考を絡め取っていく。濃厚すぎる芳香に酔ったのだろうか。少し、足元がぐらついているような気がする。

「……ウソだ…こんなこと、あるはずがない! 何で、千鶴さんが死んじゃうんだよ!? オレが助けるって言ったのに! 何で、死んじゃうんだよ!?」

 ぼたぼたと、情けないくらい大粒の涙が視界を覆い尽くす。

「…オレのせいだ。オレがもっとしっかりしてれば、千鶴さんは死ななかったのに!」

 足から力が失われ、その場に座り込む。

「…千鶴さん、起きてよ! こんなの、ウソだって言ってよ!」

 縋りつき、必死に身体を揺さぶるが、反応はない。

「――…千鶴さんっ!」

 ぼたぼたと涙が落ちる。

 こんなことになるなら、祠探しなんかしなければよかった。

 神様になんか、最初から興味なかったのに。

 東雲と八九の二人から――胡散くさい奴らから、千鶴を守ってやろうと思っただけなのに。

 ぎゅっと奥歯を噛みしめて、いつまでも溢れ続ける涙を服の袖で拭っていると、不意に声が聞こえた。

「…おや、誰かと思えば、キミでしたか。まだ生きていたんですねえ。これまた、悪運の強い」

 白い花の咲く茂みを抜けてひょっこりと現れたのは、今、一番会いたくない忌々しい男。

「――八九っ!」

 涙を拭いながら、恨みを込めてその名前を呼ぶ。

 すると、八九は、おどけるように肩をすくめて陽気に笑った。

「おやおや、随分と嫌われたようですねえ。でも、まあ、それもあと少しの辛抱ですよ。私が土地神を殺してしまえば、念願成就するんですから。いやはや、キミは運がいい。新たに神が生まれる瞬間を見られるのですからねえ。とんだラッキーボーイですよ」

「……お前のせいで、千鶴さんが死んだ!」

 この男がおかしな話を持ち込みさえしなかったら、こんなことにはならなかった。

 そう責める由宇を不思議そうに見つめ、彼は言う。

「それは違いますよ。千鶴さんは、僕のおかげで早く死ねたんです。彼女は、感謝こそすれ、恨んでなどいませんよ、ええ、そうですとも」

「っ、何だよ、死ねたって! 千鶴さんは生きたがってたんだ! なのに、お前のせいで死んだ! お前に、殺されたんだ!」

「ふふ、私に殺されたとは、これまたおかしな言いがかりを。ならば訊きますが、キミは見たのですか? 私が彼女を殺すところを。それとも、彼女がそう言いましたか? 私に殺された、と」

「っ! それは――」

 ギリリと力いっぱい奥歯を噛みしめる。

 反論したいのに、できない。

 千鶴が死んだのは、空から落ちてきた謎の落下物のせいだ。それが事故なのか故意なのかはっきりせず、それどころか、どうしてそんな常識外れな出来事がおきたのかすらまともに理解できていない状況では、八九の責任を問えない。

 悔しげに八九を睨みつけていると、不意に別の声が割って入ってきた。

『――災厄を呼ぶ、八十九の禍。八九に関わる者は、みな、死ぬ。神も人も』

 少女の声は、すぐ傍から聞こえた。

「! お前、いつの間に…」

 おかっぱ頭の少女が、由宇の隣に立っている。

 その視線は八九ではなく、千鶴の遺体に注がれていた。

『…狙いは我であろうに、可哀想なことをする』

「可哀想ですか? わかりませんね、私には。そんな感情は、理解不可能です。何といっても、私は厄病神の前身ですからねえ。むしろ、人々が苦痛を受ければ受けるほど心が高揚し、活力がわいてきますよ。ふふ」

「――厄病神…?」

 耳に飛び込んできた単語に、由宇が眉を寄せる。

 すると、少女が落ち着いた声音で説明してくれた。

『正確には、まだ、神ではない。いわば、厄病神になる資格を持った者、ということじゃな』

「…何だよ、それ」

 神になる資格とか、厄病神とか。

 わけがわからない。

 すると、混乱している由宇に、八九が楽しげな声を送ってきた。

「要するにですねえ、私は試練を受けている最中なんですよ。厄病神になるためには、千の人間と百体の神を殺さなくてはいけないという面倒な決まりがありまして」

「――…? い、今、何を殺すって…?」

 とんでもないセリフが聞こえた気がして問うと、八九はきょとんとして、再度繰り返した。

「ですから、千の人間と百体の神ですってば。人間はともかく、神殺しはこちらもそれなりの覚悟が必要ですから、本当に大変でして」

「せ、千の人間って、千人も人を殺したのかよ、お前…?」

 ぞっとした。

 目の前の男は、顔色どころか表情も変えずに殺戮を告白した。つまり、殺人は彼にとっては息をするのと同じくらい自然なことで、罪悪感など微塵もないということになる。

 青ざめる由宇には目もくれず、八九は薄く笑う。

「というわけで、そこの土地神のお嬢さん? 私のために、おとなしく殺されていただけませんか?」

「なっ! お前、こいつも殺すのかよ!?」

 これ以上、目の前で誰かが死ぬところは見たくない。

 焦る由宇の姿に、少女は、そっと目を閉じ、ゆっくりとした口調で告げた。

『――我が死ねば、主はこの地を穢し、人々を殺め続けるのであろうな。ならば、素直に殺されてやるわけにはいかぬ』

「おやおや、ならば、この私と一戦交えると? ふふっ、九十九体もの貴女の同胞を殺してきた私と、そこの子供を庇いながら戦って勝てると、本気で思っているのですか? 見たところ、神使すらまともに使役できない状態ではありませんか。神花の一部も枯れたままのようですし――無謀もいいところですよねえ」

 八九の挑発に、少女は決意を込めた瞳を開いた。

『…我は、神じゃ。神は人を見捨てぬ!』

「くくっ、人間に見捨てられ、居場所を失った貴女が言うと、説得力があるんだかないんだかわかりませんねえ。でも、まあ、最後の一体ですからねえ。少しは楽しませてもらわないと、達成感がありませんし」

 八九の糸目が、わずかに開き、ぎらりと物騒に輝く。

「――さあ、殺し合いましょうか。私が勝った暁には、この土地に最高級の禍をプレゼントしてあげましょう。それが嫌なら、せいぜい足掻くことです。ふふ、ふふふっ」

『………これ以上、好きにはさせぬ。我は、この地を守る神じゃからの』

 少女の呟きに、八九が歪んだ微笑を浮かべる。

 まるで、からかんで楽しむみたいに。

 あるいは、蔑むように。

 その様子に、由宇の胸の奥に感じたことのない激痛が生まれた。

 怒り、悲しみ、苦しみ。そして、身を呈して守ってくれた千鶴への強い想いが、溢れてとまらない。

「――何で、笑ってられるんだよ? 人をいっぱい殺して、千鶴さんまで殺して、それで、神になるとかって……馬鹿じゃねーの?」

 言いながら、涙が零れる。熱い涙は、胸に込み上げる痛みをより強めてしまう。

 嗚咽しながらも必死の形相で睨みつけてくる少年に、八九は、残酷なほど軽薄な笑みを返した。

「おやおや、汚い面構えですねえ。涙と鼻水でぐちょぐちょになって――醜いったらありませんよ。本当に、人間というものは、存在そのものが汚物ですよねえ。くだらない言葉を撒き散らし、健気に生きる動植物を殺して食らい、いずれ、自らの血肉を腐らせて朽ち果てる。生き様も死に様も醜いとは、あまりにも見苦しすぎじゃないですか」

「――…黙れよ、お前」

「ふふ、黙れ、とはつれないですねえ。キミは、もうすぐ私に殺されるんですから、最後くらいは、命乞いをしてみたらどうです? もしかすると、気が変わって生き延びられるかもしれませんよ?」

 にたにたと、三日月の形をした唇から心にもない言葉が吐き出される。

 それを、涙を拭いながら由宇が睨む。

 その二人の様子を見た土地神の娘が、かすかに目をすがめた。どうやら、何かに気づいたようだ。

 白い少女の頬に、かすかな笑みが浮かぶのが見えた。

『――…のう、八九よ。主は、その子供を殺す、と言ったな。本気かの?』

「…んん? そうですねえ、言いましたねえ。人間なんて、数が多いだけのハエや蚊みたいなものですよ。生かしておいて、ぶんぶんと目の前を飛び回られたりしたら――ああ、考えただけでゾワゾワします」

 わざとらしくぶるりと身体を震わせる八九から視線を外し、土地神の少女は由宇を見た。その目は怖いぐらい澄んでいて、ひたすら静かだった。

『……すまぬが、人の子よ。一つ、我の願いを聞いてはくれんじゃろうか』

「――え?」

 少女の要求に、反射的に心臓が冷たくなる。

 神様から願いごとをしてくるだなんて、意外すぎる。

 八九は、余裕の証なのか、にまにましながらこちらの様子を窺っている。

「…願い、って――?」

 無意識に警戒心が生まれて、強張った顔で訊く。

 すると、彼女はどこか寂しそうに瞳を細めて、とんでもない提案をしてきた。

『…悪いのじゃが、小僧。この地に住まう多くの民を守るために、死んではくれまいか?』

「……え…?」

 予想外の言葉が、頭のなかで空回りしている。

 八九ですら、驚いたような表情を浮かべている。

「…い、今、何て?」

 由宇が確認するように問うと、彼女は冷静に、厳かに告げた。

『…主に、死んでほしいのじゃ。この土地を守るためにの』

「……土地を守るって――何で、オレが死なないといけないんだよ?」

 意味がわからない。あまりにも唐突で非常識な願いに戸惑うしかない。

 しかし、少女は、不安に揺れる由宇を見据えて言う。

『…詳しく話して聞かせたとて、おそらく、主には理解できぬ。じゃが、そう悪い話ではないぞ。主の尊い犠牲があれば、そこの娘を助けることができるのじゃからの』

 その言葉に、由宇が息を呑む。

「ほ、本当にっ!? ――で、でも、千鶴さんはもう」

 すでに、死んでしまっている。どんなに呼んでも、身体を揺さぶっても、何の反応もない。

 二度と、あの笑顔は見ることはできないし、声も聞けない。

 そう考えると、辛すぎて胸が引き裂かれそうになる。

 思わず涙ぐみそうになる由宇を見つめ、神様は淡々と話を続ける。

『…ヒトは、肉体が死んでも、魂が消えぬ限り、蘇ることは可能なのじゃ。もっとも、神の助力がなければ成し得ぬことじゃがの』

「…つまり、お前の力があれば千鶴さんは生き返るってことか?」

 半信半疑で訊くと、彼女はそっと頷いた。

『そうじゃ。ただし――それは、我の力だけでは成せぬ。主の魂の力がなくては、その娘は真の死を迎えることになるじゃろう。それだけではない。この地に住まう人々――主の家族や友人たちもみな、そこの悪しき者の手で死に絶えるやもしれぬ』

「……だから、オレにイケニエになれってことか?」

 少しずつ、少女の言い分が呑み込めてきたが――素直に従う気にはなれなかった。

 自分の命と、家族や友人、そして、千鶴の命を秤にかけろだなんて。

 ゲームじゃあるまいし、そんな陳腐な話があっていいはずがない。とんだ絵空事だ。

 もっとも、由宇が、ゲームの主人公ならば、即座に了承したかもしれない。

 しかし、由宇はそこまで献身的ではないし、馬鹿でもない。

(……オレが死ねば、みんなが助かるだって?)

 ましてや、死んだはずの千鶴が蘇るだなんて、誰が信じるというのか。

 そんなのは、あまりにも都合がよすぎる話で、どこまでも胡散くさい。

 しかし――…同時に、魅力的な話でもあった。

「…オレが死んだら、本当に、千鶴さんは生き返るのか?」

 念のため、訊いてみる。

 すると、彼女は、ゆっくりと頷いた。

『無論じゃ。この地は、流れる血と魂により、清められておるのじゃ。その娘から放たれた魂は、清浄そのもの。これならば――我よりも、よほど、この地に相応しかろうて』

 寂しげに呟く彼女の様子を訝しみながらも、八九が、はやし立てるように口を挟んでくる。

「あのー、そろそろ、何かするならしちゃってくれませんかねえ? 少々、待つのに飽きてきたんですけど。何もないなら、サクッと攻撃しちゃってもいいですかあ?」

 それを無視して、少女は問う。

 由宇の覚悟を試すように。

『…ヒトの子よ。あの娘のために、死ぬ覚悟はあるか?』

「――…千鶴さんのために…?」

 母のように身近にいたわけでもない、初対面に等しい女性。でも、由宇を守り、死んでしまった彼女。そのときの温もりや笑顔が、頭にこびりついて離れない。守ってくれた感謝の念よりも、死なせてしまった後悔のほうがずっと強く胸に残っている。

 千鶴のために、死ねるか?

 こういう場合、男なら、躊躇いもなく承諾するところかもしれない。しかし、由宇は迷った。

(…千鶴さんは、オレのせいで死んだんだ。だから、生き返ってくれるなら、オレはどうなってもいい。でも――)

 千鶴は優しいから――優しすぎるから、自分のせいで由宇が死んだとわかった瞬間、同じことをしようとするかもしれない。自分の生命と引き換えに、由宇を助けて…そして、また、由宇も同じ罪を繰り返す。

「――オレ、死ぬとかよくわかんないけどさ。それって、自分で決めていいことなのか?」

 死、という言葉からは、不幸な香りしかしてこない。恐怖、苦痛、悲しみ――悪いイメージばかりが付きまとう。もちろん、由宇自身も死ぬのは怖いが、由宇が死んだら、母親が嘆き悲しむだろう。それこそ、立ち直れないほどに。そちらのほうが、よほど辛い。

 しかし――由宇は、見てしまった。自分に向けられた、優しい微笑みを。穏やかな声を。

 それはとても美しくて、悲しくて――…思い出すだけで、心が痛む。

『…主は、あの娘を救いたいのじゃろう?』

 その言葉に、由宇は唇を噛みしめた。

「……救いたいよ。当たり前じゃんか、そんなの。けど、千鶴さんは言ったんだ。オレが無事でよかったって」

 死ぬことは、もちろん怖い。しかし、それ以上に、生き返ったあとの千鶴の反応が恐ろしい。

「…オレ、千鶴さんには死んでほしくないし、幸せになってほしいと思う。でも、それは、千鶴さんだって同じなんだ。あのとき、オレに生きていてほしいって、そう言ったんだ」

 だから、生き返らせたとしても、きっと彼女は喜ばない。それがわかっているから、安易に答えは出せない。

 何をするのが正しくて、何をしたら駄目なのか。

 どうすることが、千鶴にとって一番いいことなのか。

 迷う由宇に、土地神が声をかけようとした瞬間――黒く細長い槍のようなものが、由宇の視界に飛び込んできた。

 そして、それは――ずぶり、と。小さな音を立てて額に突き刺さり、頭を貫通した。

「……え…」

 それが何だったのかわからないままに、身体が倒れた。最後に見たのは、空と一人の少女の姿。こちらを見つめる瞳は、怖いくらいに澄んでいて、冷酷に映った。

 そして、痛みも恐怖もないままに――由宇は、あっさりと息を引き取った。

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